謙信が関東出兵の根拠とした
白井城しろいじょう
場所 群馬県渋川市白井624付近
旧国郡名 上野国 群馬郡
別名  
種別 平山城
築城時期 1430年頃(永享2年頃)
築城背景 長尾景仲(白井長尾家)が、居城として築城(推定)
名城 私の500名城
主な城主 長尾景仲、長尾景信、長尾忠景、長尾憲景、長尾政景、本多康重、松平康長、井伊直孝、西尾忠永、本多紀貞
天守 なし
主な遺構 土塁、堀、石垣
主な再建物  
交通 JR上越線・吾妻線 渋川駅 徒歩約35分
駐車場 城域の駐車スペース
徒歩・登山 駐車スペース〜徒歩1分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩1分

土塁に囲まれた白井城の本丸

本丸枡形虎口の石垣

本丸と二の丸の間の空堀跡

本丸枡形虎口(本丸側から)

本丸から望む吾妻川・渋川市街・榛名連山
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構成 上野国のほぼ中央、利根川と吾妻川の合流する要地に築かれた平山城。
「しろいじょう」と読む。

城域は吾妻川寄りの断崖上にあり、本丸から北に二の丸、三の丸、北郭、金比羅郭を並べ、本丸から南にも笹郭、南郭、新郭などを並べた梯郭式の縄張り。

本丸には天守相当の櫓があげられていたと推定される櫓台や石垣造りの枡形虎口があり、各曲輪は空堀と土塁で厳重に囲まれていた。
枡形の石垣は太田道灌によって築かれたといわれる。

城域の東には白井宿が広がり惣曲輪とされ、北遠構、東遠構と呼ばれた外堀によって囲まれていた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡となっており、本丸まで車でも入って行ける。
石垣造りの枡形虎口や2mほどの高さの土塁、曲輪間の空堀などが残っている。

二の丸や三の丸は畑地などとなっている。
略歴
1430年頃 白井長尾家の長尾景仲が築城し、居城に
1438年 永享の乱
1443年 長尾景仲、山内上杉家の家宰に
1454年 享徳の乱
1466年 長尾景仲、死没。子の長尾景信が城主に
1473年 長尾景信、死没。弟の長尾忠景が家督を継いで城主に
1476年 家督を継げなかった景信の嫡男、長尾景春が反乱。(長尾景春の乱)
1487年 長享の乱
1501年 長尾忠景、死没。子の長尾景英が城主に
1527年 長尾景英、死没。子の長尾景誠が城主に
1528年 長尾景誠、家臣に殺害される。養子となっていた総社長尾家出身の長尾憲景が家督を継ぎ城主に
1560年 長尾景虎(上杉謙信)、越山(関東出兵)して北条家に奪われていた厩橋城を攻略。その際、越後国厩橋城を結ぶ重要拠点として機能
長尾景虎(上杉謙信)、10万の大軍で北条氏康小田原城攻めを行うも不首尾。(小田原城攻め(上杉謙信)
1561年 長尾景虎(上杉謙信)、鎌倉において上杉憲政から関東管領を相続し、上杉政虎に改名
1567年 長尾憲景、武田晴信(信玄)配下の真田幸隆、真田信綱父子に攻められ越後国上杉政虎(謙信)の元に逃れる。これにより白井城は武田家の支配下に
1570年 上杉政虎(謙信)北条氏康武田信玄に対するために相越同盟を結ぶ。これにより真田幸隆が白井城から撤退。これにより長尾憲景が再び城主に
1573年 武田信玄が死没
1579年 上杉謙信が死没。御館の乱で長尾憲景は上杉景虎に味方するが敗北
長尾憲景、武田勝頼を頼る
1582年 天目山の戦で武田家が滅亡。長尾憲景、北条家を頼る
1583年 長尾憲景、死没。子の長尾政景が城主に
1590年 豊臣秀吉小田原城攻めを受けて降伏、開城
徳川家康の関東転封により、家臣の本多康重が城主に。(2万石)
1601年 本多康重、三河国岡崎(5万石)へ転封。替わって松平康長が城主に。(2万石)
松平康長、下総国古河(2万石)へ転封。替わって井伊直孝が城主に。(1万石)
(後略)