松永弾正が天守をあげた大和の山城
信貴山城しぎさんじょう
場所 奈良県生駒郡平群町信貴山1308(登城口)
旧国郡名 大和国 平群郡
別名 信貴城、磯城
種別 山城
築城時期 1536年(天文5年)
築城背景 管領、畠山家の重臣で飯盛山城主の木沢長政が、それまでの砦を改修し築城
名城 私の500名城
主な城主 木沢長政、松永久秀
天守 4重天守(詳細不明・非現存)
主な遺構 堀切、土塁、切岸
主な再建物  
交通 近鉄生駒線 信貴山下駅 約4km
駐車場 朝護孫寺の有料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜登5分〜朝護孫子寺〜登20分〜本丸〜降5分〜松永屋敷
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登25分

二の丸にある城址碑

本丸からの眺望(手前のピークが雌嶽)

北側斜面にある松永屋敷

松永屋敷
構成 河内と大和を隔てる生駒山系の、標高433mの信貴山に築かれた中世山城。

規模は東西550m、南北700mに及ぶ大規模なもので、信貴山の2つのピークのひとつ、雄嶽山頂に本丸を置き、その段下に二の丸、三の丸を配して主郭とした。

本丸には、伊丹城や楽田城に次ぐ高櫓(4重天守)があげられ、麓からもその荘厳な姿が望めた。

また、西、北、東、北西、北東へ下る尾根には、110以上の曲輪を平削して設け、北尾根の大きな曲輪群には城主の屋敷が建てられた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡となっており、本丸には朝護孫子寺の空鉢護法堂が建てられている。
二の丸には城址碑がある。
これら主郭には、遺構らしいものはほとんどなく、二の丸の虎口にわずかに石積みが存在するが、後世のものかもしれない。

北へ向かう尾根の途中に、松永屋敷と呼ばれる曲輪群があり、ここに城主の木沢長政や松永久秀の屋敷が建てられていた。空堀や切岸などの遺構が残る。
略歴
1536年 木沢長政が築城し居城に
1542年 木沢長政が太平寺の戦で討ち死に
1559年 三好長慶大和国平定を命ぜられた松永久秀が城主に
1560年 松永久秀筒井城主の筒井(藤慶)順慶を追い大和国を平定
本丸に4重櫓が建てられる
1562年 松永久秀大和国の支配強化のために多聞山城へ居城を移す
1564年 松永久秀の主家、三好長慶が死没
1565年 松永久秀、三好三人衆らに将軍足利義輝(13代将軍)を急襲させ殺害。(永禄の変
  その後松永久秀は三好三人衆と対立
  松永久秀、上芝の戦で三好三人衆に敗北し堺に逃れる。これにより信貴山城は三好家の支配下に
  松永久秀、堺の会合衆の斡旋を要請し、三好三人衆との和睦に成功
1567年 松永久秀、東大寺の戦で三好三人衆に勝利。その際大仏殿が炎上
1568年 松永久秀足利義栄を14代将軍につかせることに成功
上洛してきた織田信長が、畿内の三好勢を四国へ逃亡させる。(信長の上洛戦)
松永久秀、信長に降り、大和国河内国半国を安堵される
1571年 松永久秀甲斐国武田信玄と連絡をとり、織田信長に反旗を翻す
1573年 武田信玄の死により、松永久秀織田信長に降伏
1575年 松永久秀大和国の支配権を織田信長からはく奪される
1577年 松永久秀、再び織田信長に反抗し信貴山城に籠るが、織田信忠勢に城を囲まれ自害。(爆薬を使って、信長が欲しがっていた名茶器「平蜘蛛」とともに爆死)(信貴山城の戦
廃城