新発田家居城跡に築かれた近世平城
新発田城しばたじょう
場所 新潟県新発田市大手町6-4
旧国郡名 越後国 蒲原郡
別名 菖蒲城、舟形城、狐の尾引城
種別 平城
築城時期 ????年
築城背景 佐々木党の新発田家が築城し、居城とした(推定)
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 新発田綱貞、新発田長敦、新発田重家、溝口秀勝、溝口宣勝
天守 天守替わりの御三階櫓(非現存)
主な遺構 二の丸隅櫓(移築)、表門、石垣、堀、土塁
主な再建物 御三階櫓、巽櫓
交通 JR羽越本線 新発田駅 徒歩約25分
駐車場 新発田公園の無料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜徒歩5分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩5分

表門(現存)・巽櫓(再建)

表門(現存)

本丸に移築されている二の丸隅櫓(現存)
 

自衛隊敷地内のため見学不可の
御三階櫓(再建)
構成 越後国越後平野の北東部、加治川南岸の平地に築かれた平城。
土塁を掻き揚げた程度だったと推定される新発田家の居城跡に、近世城郭として甦った。

本丸を中心に、内堀を隔てて二の丸が取り囲み、それらの南側に三の丸を縦長に配した、瓢箪型の輪郭・梯郭複合式の縄張り。

本丸の西隅には、天守替わりの御三階櫓があげられ、その他、櫓10基、主要な門5基が建てられていた。

主郭の南西部には城下町が広がっていた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 新発田公園として整備されているが、本丸のほとんどと二の丸は陸上自衛隊駐屯地となっている。

公園内には本丸の表門や、本丸の鉄砲櫓あとに二の丸隅櫓が移築され残っている。

また、本丸の御三階櫓と巽櫓が再建されているが、御三階櫓は自衛隊敷地内のため、一般客の見学は不可となっている。
略歴
●新発田家
????年 越後国揚北衆の新発田家が築城
(中略)
1530年 上条の乱が起こると、城主、新発田綱貞は上条定憲に味方し、守護代の長尾為景に反抗
1548年頃 新発田綱貞、長尾景虎(上杉謙信)に従う
1561年 新発田綱貞が死没。子の新発田長敦が家督を相続し、城主に
1578年 上杉謙信死没
1580年 城主、新発田長敦が死没
弟で、五十公野の養子となっていた五十公野治長(新発田重家)が家督を相続し、城主に
御館の乱
戦後、新発田重家が恩賞に不満を持つ
1581年 新発田重家織田信長と、蘆名盛隆を通じ、上杉景勝に不満を持つ加地秀綱らとともに、反乱を起こす。(新発田重家の乱
1582年 新発田重家上杉景勝の命を受けた本庄繁長、色部長真らと対陣
本能寺の変で、織田信長が死没
1583年 新発田重家、八幡の戦で上杉景勝と激戦となるが、決着せず
1584年 新発田重家上杉景勝の家老、直江兼続に攻められるが勝利
1585年 新発田重家、新潟城、沼垂城を上杉勢に攻め落とされる
1586年 上杉景勝が、豊臣秀吉の臣下に
1587年 新発田重家豊臣秀吉の支援を受けた上杉景勝に新発田城を攻められ自害
●近世城郭
1598年 上杉景勝が会津へ転封となり、溝口秀勝が城主に。(6万石)
城の改築を開始
1600年 関ヶ原の戦で、城主、溝口秀勝は東軍につき、上杉景勝の煽動する一揆勢の鎮圧などで貢献
戦後は所領を安堵される。(初代、新発田藩主)
1610年 城主、溝口秀勝が死没
子の溝口宣勝が城主に
1615年 溝口秀勝、大坂夏の陣に参陣
1628年 溝口秀勝、死没
(後略)