徳川家康生誕の地
岡崎城おかざきじょう
場所 愛知県岡崎市康生町563付近
旧国郡名 三河国 額田郡
別名 龍城
種別 平山城
築城時期 1452年(享徳元年)
築城背景 三河国守護、仁木氏の守護代であった西郷頼嗣が居城とすべく築城。
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 西郷頼嗣、松平清康、松平広忠、今川家、徳川家康松平信康田中吉政、本多康重
天守 層塔型3重3階天守(2重の井戸櫓、1重の附櫓を付属した複合連結式)(非現存)
主な遺構 石垣、堀、井戸
主な再建物 天守、東隅櫓、石垣、大手門
交通 名鉄名古屋本線 岡崎公園前駅 徒歩約10分
駐車場 岡崎公園の有料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜徒歩5分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩5分

再建天守

徳川家康が産湯を使ったと言われる井戸

天守からの眺め
(赤い電車は乙川を渡る名鉄線)

内堀

持仏堂曲輪の東隅櫓(再建)

大手門(再建)
構成 東海道沿い、矢作川と菅生川の合流地点に位置する龍頭山に築かれた平山城。

3重3階の天守のあった本丸を取り囲むように、持仏堂曲輪、二の丸、三の丸、東曲輪、備前曲輪、浄瑠璃曲輪、坂谷曲輪などから構成された、輪郭式の縄張りだった。

城域の南には矢作川が、西にはその支流の菅生川が流れていたが、防備の手薄な北側には6重の外堀を巡らせた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 岡崎公園となっており、本丸には3重3階の望楼型複合連結式天守が再建されている。

遺構としては、石垣や、南側の水堀の一部、北側に空堀の一部(清海堀)などが残るほか、家康が産湯を使ったとされる井戸も残されている。

本丸北の持仏堂曲輪には、東隅櫓と長い城壁が再建(平成10年)されているほか、二の丸には大手門が再建されている。

二の丸の北を東西に走る国道1号線側に、有料駐車場が完備されている。
略歴
1452年 三河国守護、仁木家の守護代であった西郷頼嗣が築城
(中略)
1524年 松平清康が西郷家を攻め降す
1530年 松平清康、旧岡崎城を破却し、現在の地に新たに築城
1535年 松平清康、死没。子の松平広忠が城主に
1542年 松平広忠の嫡男、松平元信(徳川家康)誕生
第一次小豆坂の戦。(織田家が今川家・松平家連合軍に勝利)
1548年 第二次小豆坂の戦。(今川家・松平家連合軍が、織田家に勝利)
1549年 松平広忠が暗殺され、駿府の今川家の人質となっていた松平元信(徳川家康)が、松平家の当主に
今川家が城代として入る
1560年 今川義元桶狭間の戦織田信長に討たれたのをきっかけに、松平元康(徳川家康)が岡崎城に入城
1562年 松平元康(徳川家康)織田信長と清洲同盟を締結
1570年 徳川家康が岡崎城を松平信康に譲り、浜松城を居城に
1573年 三方ヶ原の戦
1579年 城主、松平信康が切腹。(信康事件
その後、石川数正が城代に
1585年 石川数正が徳川家を出奔。本多作佐衛門(重次)が城代に
1586年 豊臣秀吉が、実母の大政所を家康の岡崎城に送り込み、家康が大坂へ伺候すると、城代の本多作佐衛門(重次)が大政所の宿所の周囲に薪を積みいつでも焼き殺せるように仕組む
徳川家康浜松城から駿府城に居城を移す
1590年 豊臣秀吉小田原城攻め後の徳川家康の関東移封により、田中吉政が入城
1592年 田中吉政、総延長5kmに及ぶ総堀を普請
1600年 田中吉政関ヶ原の戦の戦功により筑後国柳川32万石に転封
1601年 本多康重が城主に
(中略)
1617年 天守完成 
  (後略)