相模平野の真ん中、岡崎家の居城
岡崎城(相模)おかざきじょう
場所 神奈川県平塚市岡崎5504(付近)〜伊勢原市岡崎
旧国郡名 相模国 大住郡
別名  
種別 平山城
築城時期 ????年(鎌倉時代?)
築城背景 鎌倉幕府の開府に貢献した三浦義明の弟、四郎(悪四郎)義実が居城とすべく築城
名城  
主な城主 岡崎義実、三浦時高、三浦道寸、北条家
天守 なし
主な遺構 土塁、空堀、堀切
主な再建物  
交通 小田急線 伊勢原駅 徒歩約20分
駐車場 近くになし
徒歩・登山 城東の馬渡交差点〜登る10分〜無量寺曲輪
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
× 登10分

南方から望む岡崎城主郭

大手の七曲坂から見下ろす谷戸

本丸跡から望む
相模平野と高麗山(湘南平)

本丸の北から西へ廻らされた堀跡
構成 相模平野の北西部の台地の先端に築かれた、梯郭式の平山城。
築城当時は、南西約700mにある台地が主郭であった。(古岡崎城)

戦国時代の本丸であった無量寺曲輪は小さなピークのひとつに置かれ、南側の一段下がった腰曲輪には櫓台があったといわれる。

本丸は広い堀で囲まれ、東側の下には戸張郭や野陣台郭が、北側には詰の曲輪であった北郭が配された。

さらに本丸の西側の段下には台郭、二郭、三郭などが広がっていた。

主郭部の南側は断崖となっており、城域の南東部には西海地土腐(どぶ)と呼ばれた泥沼や湿地が広がっていた。
縄張図
または
現地
案内図
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現状 無量寺曲輪には無量寺があり、北から西へ廻る堀は土塁を隔てて続いている。
ただし堀自体は畑になっている。堀跡の北側の台郭も畑である。本丸南の腰曲輪は墓地となっている。

戸張郭はほとんど住宅地となっている。野陣台郭は畑が多い。
北郭(詰の曲輪)は、手前が通信施設、奥は雑木林となっている。
本丸と西側の曲輪群を隔てる場所に大堀切が存在するが、深い雑木林と化しており上から望むことができなかった。

西へ続く曲輪は住宅地や造成地、畑、雑木林などとなっている。

二郭手前の土塁下に、岡崎四郎義実の墓地がある。
略歴
1300年頃 三浦(岡崎)義実が築城し居城に。岡崎姓を名乗る
(中略)
1455年頃 三浦介である三浦時高が城を奪い、支配下に
1462年 三浦時高に実子がなかったことから、扇谷上杉持朝の次男、高救(三浦道寸)を養子として三浦介を継がせる
1486年 扇谷上杉家当主、上杉定正が、家宰である太田道灌を殺害したことから、三浦道寸と父、三浦(上杉)高救が養祖父、三浦時高から追放され、西相模の大森家を頼る。
(三浦時高に実子である三浦高教が生まれたため不和となり追放された、という説もある)
1494年 三浦道寸が大森家の援助を受け、新井城の養父、三浦時高とその子、三浦高教を攻め滅ぼし、三浦家を相続
その後三浦道寸は、家督と新井城を子の三浦義意に譲り、岡崎城を居城に
1495年 北条早雲小田原城を手に入れ居城に
その後北条早雲と対立するが、要害だったことから約17年間守りきる
1512年 北条早雲が攻め落とし、支配下に
三浦道寸は三浦の住吉城、のちに新井城へ逃げ込む
1516年 新井城が陥落、三浦道寸は討ち死に。北条早雲相模国を平定
(後略)