伊東と島津が取り合った日南の城
飫肥城おびじょう
場所 宮崎県日南市飫肥10-1-1付近
旧国郡名 日向国 那珂郡
別名 舞鶴城、飫肥院
種別 平山城
築城時期 南北朝時代
築城背景 日向国に進出した宇佐八幡宮の神官、土持家が築城
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 土持家、新納忠続、島津忠兼、伊東祐兵、伊東慶祐
天守 なし
主な遺構 石垣、空堀
主な再建物 櫓門、書院、城壁
交通 JR日南線 飫肥駅 徒歩約20分
駐車場 無料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜歩3分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩3分

大手門(復元)

空堀

犬馬場から本丸南の枡形虎口

本丸への石段

松尾丸の書院(復元)

旧本丸の枡形虎口
構成 日向国南部の要衝、飫肥に築かれた平山城。

広瀬川の支流、酒谷川の湾曲部に位置する城域は、東西750m、南北500mほどの広大な範囲におよび、本丸、松尾丸、西ノ丸、北ノ丸、松ノ丸、今城など大小13の曲輪が空堀で区切られ配された。

天守は築かれなかった。
縄張図
または
現地
案内図
現状 飫肥城址として整備されており、堀や石垣、枡形虎口などが残るほか、大手門や松尾丸の書院(御殿)、城壁などが考証により復元されている。

本丸や今城は日南小学校となっている。

大手門の南側には、最期の飫肥藩主、伊東祐帰の邸宅「豫章館」や藩校の振徳堂、明治の政治家、小村寿太郎の生家などがある。
略歴
南北朝時代 日向守護代の土持家が築城
(中略)
その後土持家は、薩摩国の島津家の家老に
1458年 島津一族の新納忠続が城主となり、南下を狙う伊東家に備える
1484年 日向国南部における勢力争いから敵対関係となった伊作島津家の島津久逸が、伊東家や大友家と結び飫肥城を攻撃、落城
1485年 島津本家の島津忠昌が飫肥城を攻めて奪還
新納忠続は志布志へ移され、豊州島津家の島津忠廉が城主に
1491年 島津忠廉が摂津国にて死没
(中略)
1538年 島津忠広が城主に 
1546年 島津忠広が隠居、北郷家から入って養子となっていた島津忠親が飫肥城主に
1568年 伊東義祐の攻勢を受け開城、子の伊東祐兵が城主に
1572年 伊東義祐、島津家の加久藤城を攻めるが、重臣5人を失うなどの大敗。(木崎原の戦
1578年 島津家の侵攻を受けた伊東義祐が、大友宗麟を頼って豊後国へ脱出。その前後に飫肥城は再び島津家の支配下に
1587年 豊臣秀吉九州攻めに参陣した伊東祐兵が、戦後飫肥城主に復帰
1600年 関ヶ原の戦の際伊東家は、密かに東軍に通じていたため、戦後も本領を安堵される
伊東祐兵、死没
子の伊東祐慶が城主に
1636年 伊東祐慶、死没
(中略)
1693年 新本丸が完成
  (後略)