宇喜多攻めの拠点として三村元親が沼地に築いた
庭瀬城にわせじょう
場所 岡山市北区庭瀬828付近
旧国郡名 備中国 賀夜郡
別名 芝場城(こうげじょう)、庭瀬陣屋
種別 平城
築城時期 1559年?(永禄2年?)
築城背景 備前国侵出拠点として、備中松山城主の三村元親が築城(または修築)した撫川城の二の丸であった
江戸時代になってからは庭瀬陣屋が置かれた
名城 私の500名城
主な城主 三村元親、井上有景、戸川達安、板倉重高、板倉勝喜
天守 なし
主な遺構 石垣、堀
主な再建物  
交通 JR山陽本線 庭瀬駅 徒歩約7分
駐車場 専用の無料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜歩1分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩1分

庭瀬城跡

本丸に建つ清山神社

堀(本丸北)

堀(本丸北東) 
構成 備中国の東端、備前国との境に位置する庭瀬の沼地に築かれた平城。

西側に隣接する撫川城の二の丸であったが、のちに庭瀬陣屋が置かれたことから別の城という扱いになっている。

本丸は周囲を堀に囲まれ、というよりは大きな池の中に小さな本丸が置かれていた。

江戸時代には本丸の南に藩主の屋敷(庭瀬屋敷)が置かれ、本丸の北と東は侍屋敷が広がり、足守川やその支流から取り込んだ水堀を巡らせており、港(庭瀬港)も築かれていた。

さらにその北を東西に庭瀬往還(鴨方往還)(岡山城下〜備中の西端の笠岡)が通り、その両側は陣屋町となっていた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 周囲は住宅地となっており、本丸跡には清山神社が建てられている。

周囲の池は一部が埋め立てられているようだが、残されている。

すぐ西には古城の撫川城も残されている。
略歴
1559年? 備中松山城主の三村元親が撫川城を築城(当城はその二の丸)
三村元親、1万の兵で備前国に侵攻するが、明善寺合戦において5千の宇喜多直家勢に敗北
1574年 主君の毛利家が、仇敵の宇喜多と結んだことから三村元親は毛利家を離反、織田家や浦上家と結ぶ
1575年 毛利家から攻められた三村元親が自害(三村家滅亡)(備中兵乱)
その後は毛利家の支配下となり、井上有景が城主に
1582年 羽柴(豊臣)秀吉備中高松城の水攻めの直前、羽柴勢に攻められ落城(推定)
これにより、一旦廃城
1602年 宇喜多家の重臣であった戸川達安が、撫川城の二の丸に陣屋を置く(初代庭瀬藩主)(2万9千石)
1627年 戸川達安が死没、子の戸川正安が藩主に(2万2千石)
1669年 戸川正安が死没、子の戸川安宣が藩主に(2万1千石)
1674年 戸川安宣が死没、子の戸川安風が藩主に(2万石)
1679年 戸川安風が死没、子がなかったため無嗣断絶に
  弟の戸川逹富が名跡を継承し5千石の交代寄合として、撫川城の南側に戸川撫川知行所を置く(以後庭瀬藩と隣接する交代寄合として明治まで存続)
1683年 久世重之が藩主に(5万石)
1685年 久世重之、丹波国亀山藩に転封
1693年 松平信通が藩主に(3万石)
1697年 松平信通、出羽国上山藩に転封
1699年 板倉重高が藩主に(2万石)
(後略)