鎌倉以来の豪族、益田氏の詰城
七尾城ななおじょう
場所 島根県益田市七尾町11-6付近(登城口)
旧国郡名 石見国 美濃郡
別名 益田城
種別 山城
築城時期 1200年頃(鎌倉時代)
築城背景 平氏討伐の戦功により石見五郡を源頼朝より拝領した益田氏が、平地の居館の詰城として築城
名城 私の500名城
主な城主 益田氏
天守  
主な遺構 堀、石垣、移築門(医光寺)、土塁、堀切
主な再建物  
交通 JR山口線 益田駅 徒歩約45分
駐車場 住吉神社そばの公園の駐車場
徒歩・登山 駐車場〜登る15分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登15分

本丸と土塁

本丸からの眺望

堀跡(現在は公園池)

三宅御土居(居館跡)の高い土塁
構成 石見国西部、益田川を北に見下ろす山塊に築かれた山城。

南北に伸びる尾根を利用した本丸とそれに続く二の段は標高120mほどの場所に置かれ、南側を畝状竪堀群で防御し、それら主郭から谷を隔てた北側の尾根に長の出丸が配され、やはり畝状竪堀群によって防御されていた。

また、主郭尾根の西に平行して走る尾根には、広い千畳敷、太鼓の段、既の段などの曲輪群が配された。

平時、城主が住む居館は土居と呼ばれ、上久々、大谷、三宅と時代により移ったが、全て麓の平地に築かれた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 麓の三宅御土居とともに国の史跡となっており、水堀跡、土塁、堀切などの遺構のほか、医光寺に城門が移築され残っている。

登山時間は15分ほどで、麓の住吉神社から登るのがわかりやすい。
略歴
1200年頃 益田兼高または益田兼時が築城
(中略)
  その後、周防国大内氏に従う
1527年 出雲国の尼子氏から攻められるが、城主、益田尹兼は毛利氏らと共闘の上、尼子氏を撃退
1544年 益田尹兼が隠居、子の益田藤兼が城主に
1551年 大内氏の家老、陶隆房(晴賢)が主君へ謀反を起こすと、婚姻関係にあったことなどから益田藤兼はこれに従う。(大寧寺の変)
  安芸国毛利元就との敵対を受け、益田藤兼は七尾城を大改修
1555年 陶晴賢厳島の戦毛利元就に討たれる
1556年 毛利氏の吉川元春やそれに従う吉見氏の侵攻を受ける
1557年 益田藤兼、毛利氏に降伏、本領を安堵される
  その後は、吉川元春に従う
1570年 益田藤兼が隠居、子の益田元祥が城主に
1578年 益田元祥、上月城の戦に参陣
1582年 益田元祥、吉川元春に従い、高松城救援へ赴く(備中高松城の水攻め
  本能寺の変
1585年 益田元祥、四国攻めに参陣
1586年 益田元祥、九州攻めに参陣し功を立てる
  吉川元春が陣中で病没
  益田元祥、豊臣姓を拝領
1590年 益田元祥、小田原城攻めに水軍を率いて参陣、下田城攻めなどで功を立てる
1592年 益田元祥、文禄の役では吉川広家に従い渡海
1597年 益田元祥、慶長の役でも吉川広家に従い渡海
1600年 関ヶ原の戦
  戦後毛利氏の大幅減封の際、益田元祥は徳川家康から直臣として誘われるが毛利氏からの恩を鑑み拒絶、長門国須佐へ大減封の上移る
  廃城