信玄が上野経営の基盤とした堅城
箕輪城みのわじょう
場所 群馬県高崎市箕郷町東明屋570付近
旧国郡名 上野国 片岡郡
別名  
種別 平山城
築城時期 1512年(永正9年)
築城背景 在原業平の子孫で、関東管領上杉家の家臣、長野尚業が箕輪支配のために築城。
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 長野尚業、長野業正、長野業盛、武田家、滝川一益井伊直政
天守 なし
主な遺構 堀、土塁
主な再建物  
交通 JR信越本線 群馬八幡駅 徒歩約105分
駐車場 大手門跡(城の北西側)の無料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜登る7分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登7分

箕輪城遠望

御前曲輪

本丸と御前曲輪の間の空堀(だいぶ埋ってしまっている)

箕輪城の本丸
構成 上野国南部、榛名山の東南の丘陵に築かれた平山城。

丘陵の頂上部に御前曲輪があり、一段低く本丸が隣接している。
本丸の下の段に二の丸、そのほか馬出曲輪などを階段状に配した、梯郭式の縄張りで、城の西側を北から南へ流れる榛名白川が、天然の外堀として機能していた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡として整備されており、長野家時代の大手門跡(城の北西側)に駐車場があり、そこから軽いハイキング感覚で登ることができる。
略歴
1512年 上野国南部の武将、長野尚業が築城
1546年 河越夜戦で、箕輪城主長野業政の子、長野吉業が戦闘中の怪我が元で死没
関東管領の上杉憲政北条氏康に敗北し平井城に退く
1552年 上杉憲政北条氏康に攻められ上野国を脱出、越後国長尾景虎(上杉謙信)を頼る
その後も長野業正は箕輪城に残り、越後国長尾景虎の後ろ盾の元、北条家と対立
1557年 北条家、今川家と相甲駿三国同盟を結んだ武田信玄の嫡子、武田義信率いる1万3千の大軍に攻められるが、守りきる
1559年 武田信玄率いる1万2千に攻められるが、守りきる
1561年 越後国長尾景虎(上杉謙信)が関東に進出し、小田原城攻めを行う
その後、長尾景虎(上杉謙信)が関東管領職につく
城主長野業正が死没
1566年 武田信玄に攻められ落城。城主、長野業盛は自害。(箕輪城の戦
武田家の上野国経営の拠点となる
1570年 武田信玄の重臣、内藤昌豊が城代に
1575年 内藤昌豊長篠の戦で戦死。養子の内藤昌月が城代に
1582年 織田信長の武田攻め(天目山の戦)が始まると、北条氏邦、さらには信長家臣の滝川一益に攻められ落城
本能寺の変が起こると、北条家が滝川一益を攻め勝利(神流川の戦)したことから、北条家の配下となって内藤昌武が再び入城
1590年 豊臣秀吉小田原城攻めでは、北国衆の上杉景勝前田利家に攻められ、4月23日に落城
戦後、徳川家康が関東に移封されると、重臣の井伊直政が箕輪12万石を拝領し城主に
1598年 井伊直政高崎城を築城し居城としたため廃城