関東三強が激突した西上野の要衝
倉賀野城くらがのじょう
場所 群馬県高崎市倉賀野町5556
旧国郡名 上野国 片岡郡
別名 雁金城
種別 平城
築城時期 1400年頃(応永7年頃)
築城背景 倉賀野頼行が居城とすべく築城
名城  
主な城主 倉賀野行政、倉賀野為広、倉賀野尚行、倉賀野(金井)秀景
天守 なし
主な遺構 なし
主な再建物  
交通 JR高崎線 倉賀野駅 徒歩約12分
駐車場 なし
徒歩・登山 倉賀野駅〜徒歩12分〜乾櫓
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
× × × 歩12分

倉賀野城址

城址碑

城跡から見下ろす烏川
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構成 上野国南部の平地を流れる烏川が削った断崖上に築かれた平城。

城域は烏川に沿うように、東西800m、南北400mほどの規模で、崖に面した本丸を囲むように、北から西にかけて二の丸が、その北に三の丸が、本丸の東側にも曲輪が広がっていた。
縄張図
または
現地
案内図
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現状 城域はほぼ市街化されており、本丸の一部が雁児童公園となって城址碑や説明板が置かれているだけである。

遺構らしきものは残されていない。
略歴
1400年頃 倉賀野頼行が築城
(中略)
その後、倉賀野は関東管領、山内上杉家に仕える
1546年 城主、倉賀野行政、上杉憲政に従って参陣した河越夜戦で討ち死に
その後は、病弱の倉賀野為広を家臣団(倉賀野十六騎)が支える
1547年 信濃国佐久の志賀城が、武田晴信(信玄)に攻められると、倉賀野十六は上杉憲政に従って援軍に向かうも、武田勢に敗北(小田井原の戦)
信濃国佐久を平定した武田晴信(信玄)が、上野国西部に侵出してくる
1552年 上杉憲政北条氏康に攻められ居城、平井城を失い越後国長尾景虎(上杉謙信)の元に逃れる
その後、倉賀野為広も長尾景虎(上杉謙信)に従う
1559年頃 城主、倉賀野為広が病死。子の倉賀野尚行が城主に
家臣、金井秀景、武田信玄に寝返る
1560年 倉賀野尚行、関東へ出兵(越山)した長尾景虎(上杉謙信)に従い北条家攻めに参陣
1560年 長尾景虎(上杉謙信)上野国の要衝で、北条家に奪われていた厩橋城を攻め落とす
1561年 倉賀野尚行、長尾景虎(上杉謙信)小田原城攻めに参陣。
1565年 武田信玄に攻められ落城、倉賀野尚行は長尾景虎(上杉謙信)
1566年 上野国西部の要衝、箕輪城武田信玄に攻め落とされ、上野国西部は武田家の支配下に
倉賀野尚行、上杉勢の援助を受け倉賀野奪還を図るも挫折
1569年 長尾景虎(上杉謙信)北条氏康が同盟し(相越同盟)、共に武田信玄と敵対
武田信玄、倉賀野城防御のために根小屋城を築城
1571年 北条氏康の死没を受けて相越同盟が瓦解
信玄の家臣となっていた金井秀景が城主となり、倉賀野秀景を名乗る
1573年 武田信玄死没
1582年 天目山の戦で、武田家が滅亡
倉賀野秀景、上野国を拝領した信長の家臣、滝川一益に従う
本能寺の変織田信長が死没
倉賀野秀景、滝川一益に従い北条氏直と戦うが敗北。(神流川の戦
滝川一益上野国から撤退すると、倉賀野秀景は北条氏直に降る
1590年 豊臣秀吉小田原城攻めが始まると、倉賀野秀景は小田原城に籠城
倉賀野城が上杉景勝前田利家に攻められ降伏、開城。その後廃城
小田原城が降伏、開城
倉賀野秀景、死没