城下町よりも低地に築かれた穴城
小諸城こもろじょう
場所 長野県小諸市古城丁315
旧国郡名 信濃国 佐久郡
別名 穴城、酔月城、白鶴城
種別 平山城
築城時期 1554年(天文23年)
築城背景 武田晴信(信玄)信濃国東部支配のために、山本勘助に命じて築かせたと言われる。
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 下曽根信恒(覚雲斎)(城代)、滝川一益大道寺政繁(城代)、松平康国、松平康勝、仙石秀久、仙石忠政
天守 3重天守(非現存)
主な遺構 大手門(移築・復元)、三之門、天守台、石垣、空堀
主な再建物  
交通 JR小海線(八ヶ岳高原線)・しなの鉄道 小諸駅 徒歩約10分
駐車場 小諸懐古園の有料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜徒歩4分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩4分

三の門(現存)

大手門(移築・復元)

本丸の天守台

白鶴橋から見下ろす南谷
構成 信濃国東部、佐久郡の西端、信濃川が作った河岸段丘の上に築かれた平山城。
平山城ではあるが、城下町から見ると低地に城域があることから、穴城の異名もある。

城域の西は、信濃川が削り取った断崖となっており、高所に本丸を置き、北から西に廻らせた帯曲輪に防備させた。帯曲輪は厩が建てられ馬場もあった。

本丸の東側、空堀を隔てた曲輪はさらに塀で東西に区切り、北側の曲輪が北の丸、南側の曲輪が南の丸であった。
さらにその東に二の丸、馬出、三の丸を連続して並べた連郭式の縄張りだった。

本丸は石垣造りで、北西隅の天守台には詳細は不明だが3重の天守があげられた。

それら主郭の南側は4重の空堀で、北側は5重の空堀で守られていた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 小諸懐古園として整備されている。

本丸には石垣の天守台や虎口が残り、懐古神社が建てられている。
北の丸は市営の弓道場となっており、二の丸の入り口に建てられた三の門が現存しており、門の上部には徳川家康の筆による、「懐古園」と書かれた有名な扁額が架かっている。
しなの鉄道の線路を挟んだ反対側に大手門公園があり、一時民間に払い下げられていた大手門が移築・復元されている。
略歴
1554年 武田晴信(信玄)の命により、山本勘助が築城
下曽根信恒が城代に
1561年 第四次川中島の戦
1572年 武田信玄上洛戦を開始
武田信玄、病没
1582年 天目山の戦で、武田家が滅亡
織田家の重臣で、上野国一国と信濃国の小県郡と佐久郡を拝領した滝川一益の支配下に
本能寺の変織田信長が討ち死にしたことから撤退した滝川一益に替わって、北条家の支配下となり、大道寺政繁が城代に
1583年 天正壬午の乱後、信濃国を得た徳川家の支配下に入り、依田(松平)康国が城主に
1590年 豊臣秀吉小田原城攻めの際の上野国石倉城攻めで、松平康国が戦死
弟の松平康勝が城主に
徳川家康の関東移封にともない、松平康勝は上野国藤岡城主に。(3万石)
豊臣秀吉家臣、仙石秀久が城主に。(5万石)(初代小諸藩主)
1600年 関ヶ原の戦で、城主、仙石秀久は東軍につく
1614年 仙石秀久、江戸から小諸への帰国途上、武蔵国鴻巣で死没
子の仙石忠政が城主に。(5万石)
1622年 仙石忠政、信濃国上田に転封し上田城主に。(6万石)
(後略)