雑賀衆や根来衆に対して秀吉が再築城した
岸和田城きしわだじょう
場所 大阪府岸和田市岸城町
旧国郡名 和泉国 泉南郡
別名 千亀利城、猪伏山縢城
種別 平城
築城時期 1334年(建武元年)
築城背景 楠木正成の甥、和田高家が築城したのが始まり。
名城 続日本100名城 私の500名城
主な城主 和田家、信濃家、細川家、松浦家、十河一存、安宅冬康、細川刑部、寺田家、中村一氏、小出秀政、松平康重
天守 5重5階天守(非現存)
主な遺構 石垣、堀
主な再建物 3重3階模擬天守、多聞櫓、隅櫓、城門
交通 南海本線 蛸地蔵駅 徒歩約6分
駐車場 市役所の有料駐車場など
徒歩・登山 駐車場〜徒歩3分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩3分

岸和田城の模擬天守

本丸の城門(再建)

本丸隅櫓(再建)と多聞櫓(再建)

本丸隅櫓(再建)と内堀

二の丸の堀と二の丸跡の心技館

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構成 和泉国の中央、大坂湾に面した平地に築かれた平城。

5重5階の天守がそびえる本丸を中心にした輪郭式の縄張で、各曲輪は高石垣

本丸を取り囲む内堀を隔てて、二の丸や二の曲輪が取り囲んでいた。
本丸から二の丸へは土橋があって、二の丸には二の丸御殿や伏見城から移築された伏見櫓があげられた。

二の丸とは別に二の曲輪と呼ばれた曲輪には、侍屋敷や軍事施設、さらには茶屋や菜園が置かれた。

さらにその外をめぐる二の丸堀の周辺にも広大な曲輪があって三の曲輪を形成、紀州街道が東西に貫いていた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 千亀利公園となっており、3重3階の模擬天守や城門、多聞櫓、隅櫓などが再建されている。
二の丸跡には、武道場である心技館が建てられている。
略歴
●古岸和田城
1334年 楠木正成の甥、和田高家が、現在の場所から東に500mほど離れた場所に築城
(中略)
●岸和田城
のちに、信濃泰義が現在の場所に移す
1408年 和泉国半国の守護、細川頼長が城主に
(中略)
1558年 畿内を平定した三好長慶の弟、三好義賢(実休)、十河一存、安宅冬康らが入城し、大改修
1560年 三好義賢(実休)、高屋城主に
これにともない、弟の十河一存が岸和田城主に
1561年 十河一存が急死、弟の安宅冬康が城主に
1562年 久米田の戦で、三好義賢(実休)が戦死すると、安宅冬康も城を捨て本国の淡路国へ逃亡
畠山高政の家臣、細川刑部が城主に
教興寺の戦で、三好長慶畠山高政に勝利し巻き返しに成功
松浦肥前守が城主に
1568年 織田信長の上洛戦により、三好勢が畿内から追われる。(信長の上洛戦
1575年 松浦肥前守の元家臣で、信長に臣従した寺田又右衛門、寺田安太夫の兄弟が城主に
1582年 本能寺の変
1583年 羽柴(豊臣)秀吉の家臣、中村一氏が城主に(3万石)
1584年 小牧・長久手の戦に参陣していた中村一氏の留守をつき、雑賀衆・根来衆ら3万の大軍に攻められる。(岸和田合戦)
1585年 雑賀衆・根来衆らの平定のため、羽柴(豊臣)秀吉が入城
その後紀伊国を平定
小出秀政が城主に(3万石)
1595年 小出秀政、天守の建築を開始
1614年 松平康重が城主に。(3万石)(初代岸和田藩主)
(後略)