那珂川を見下ろす北関東の要害
烏山城からすやまじょう
場所 栃木県那須烏山市城山
旧国郡名 下野国 那須郡
別名 臥牛城
種別 山城
築城時期 1417年(応永25年)
築城背景 那須与一の子孫、那須(沢村)資重が居城とすべく築城。(異説あり)
名城 私の500名城
主な城主 那須(沢村)資重、那須資持、那須資晴織田信雄、成田氏長、成田長忠
天守 なし
主な遺構 石垣、土塁、堀切
主な再建物  
交通 JR烏山線 烏山駅 徒歩約40分
駐車場 周辺になし(烏山市役所に断って利用させてもらうなど)
徒歩・登山 烏山市役所〜徒歩5分〜登城口〜登る20分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登20分

筑紫山(左側)と烏山城(右側)

常盤曲輪の石垣

主郭への入り口の堀切にかかる
車橋跡

筑紫山から望む那珂川と烏山市街
 
構成 下野国東部、蛇行する那珂川を東に見下ろす、標高202mの八高山(通称、城山)に築かれた山城。

城域は東西約370m、南北約510mの広大なもので、一部に石垣を積んだ山頂の本丸、南側の段下の二の丸(常盤曲輪)などが主郭で、さらに東山麓の石垣積みの三の丸などから構成された梯郭式の縄張り。

山上には、本丸、二の丸のほかにも、西城、北城、中城、古本丸、厩曲輪、若狭曲輪などの曲輪が空堀や土塁により区切られ点在していた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 登城口はふたつあり、三の丸跡の寿亀神社側からの登城が近道。
市役所そばの八雲神社脇からも登城できるが、こちらは南側のピーク、筑紫山経由になるので注意が必要。

主郭と三の丸跡に石垣の一部が残っているが、震災の影響で一部が崩壊してしまった。
堀切は比較的良好に残るが、土塁はわずかに確認できる程度。
各曲輪は杉の木などが乱立するなど、整備状態は良くない。
略歴
1417年 那須本家の兄、那須資之から沢村を攻められた、那須(沢村)資重が築城に居城に。
(中略)
1467年 城主、那須資持が死没。
子の那須資実が城主に。
その後、那須資房が城主に。
1514年 本家でのお家騒動の結果、子の那須政資に本家を相続させることに成功。
1551年 資房の孫で、森田家の養子となっていた森田(那須)資胤が家督を相続し城主に。
1552年 城主、那須資胤、北条家と結ぶ。
1560年 常陸国佐竹義重や大関高増と敵対関係となり、攻撃を受けるように。
1566年 那須資胤、連合軍(大関高増、宇都宮広綱、佐竹家家臣、東義堅ら)と戦う。(治武内山の戦)
1567年 那須資胤、佐竹義重の家臣の長倉義当と戦う。(下境大崖山の戦)
1568年 那須資胤、隠居を条件に大関高増と和睦。
1572年 武茂、茂木の割譲を条件に佐竹義重と和睦。
1578年 宇都宮家、結城家、江戸家、大掾家と結び北条家へ敵対。
1582年 佐竹家に領内の興野片里坂攻められる。
那須資晴、佐竹方の武茂城を攻めるが落とせず。
1583年 那須資胤が死没し、那須資晴が、名実ともに当主に。
那須資晴、佐竹家、宇都宮家連合軍に攻められ、川原表で戦となるが、大関家と芦野家の援軍を受け撃退。(烏山川原表の戦)
1590年 那須資晴豊臣秀吉小田原城攻めに参陣せず、戦後、領地を没収される。
転封を拒み失脚した織田信雄が、佐竹家預かりとなり、2ヶ月間、烏山城主に。(2万石)
成田氏長が城主に。
(後略)