元荒川沿いの沼の中の浮城
岩付城いわつきじょう
場所 埼玉県さいたま市岩槻区太田
旧国郡名 武蔵国 埼玉郡
別名 岩槻城、白鶴城、浮城
種別 平城
築城時期 1478年(文明10年/享徳27年)
築城背景 古河公方足利成氏についていた、忍城主成田正等が、武蔵国方面への備えに築城。
名城 私の500名城
主な城主 成田正等、成田顕泰、渋江楽王、太田資正、北条氏房、高力清長、大岡家
天守 不明
主な遺構 移築門(黒門、裏門)、土塁、堀
主な再建物  
交通 東武野田線 岩槻駅 徒歩約20分
駐車場 岩槻城址公園の無料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜徒歩5分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩5分

移築された黒門

新曲輪から見た
城沼と鍛冶曲輪にかかる八ツ橋

鍛冶曲輪の空堀
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構成 武蔵国東部の平地、元荒川の南岸の湿地帯に築かれた平城。

湿地帯に囲まれた沼の中の島々を曲輪として利用しており、本丸を中心に、東に二の丸、竹沢曲輪、本丸の南から西にかけて広い三の丸、本丸の北にも竹束曲輪、御茶屋曲輪、天神曲輪などの腰曲輪が配された梯郭式の縄張り。
大手は三の丸の南側に開かれた。

また、主郭部の北西には新正寺曲輪という独立した曲輪が配された。

さらに、主郭部の南東に新曲輪や鍛冶曲輪が増設されたが、北条家支配時代のものと言われる。

これらの曲輪郡の南西部一帯は城下町となっており、大溝と呼ばれる水堀を廻らせていた。主郭部の北側も元荒川が天然の外堀として機能していたことから、総曲輪(惣構え)の縄張りであった。
縄張図
または
現地
案内図
現状 本丸などの主郭部は市街化されており遺構はない。
新曲輪や鍛冶曲輪は岩槻城址公園となっており、曲輪や城沼、空堀跡が残っている。
新曲輪には、黒門や裏門が移築されて残されているが、どの部分の城門だったかは判明していない。
略歴
1478年 忍城主成田正等が築城
1482年 城主、成田正等が死没。子の成田顕泰が城主に
1500年頃 渋江楽王が城主に
1524年 北条家に寝返った太田資頼が攻め落とす
扇谷上杉家の援軍に駆けつけた武田家に攻め落とされ、太田資頼は再び扇谷上杉家につく
1525年 北条氏綱が攻め落とし、味方にした渋江三郎を城代に
1530年 太田資頼が城代の渋江三郎を討ち、再び攻め落とし居城に
1545年 河越夜戦の結果、武蔵国の大部分が北条家の支配下に
1547年 資頼の弟で、資頼との仲違いにより出奔していた太田資正が岩槻城を攻め落とす
太田資正の兄、太田資頼が死没。これにより太田資正が太田家当主に
1548年 北条家に攻められ降伏。北条家に帰順
1560年頃 太田資正が北条家に対立、越後国上杉政虎(謙信)につく
1561年 上杉政虎(謙信)に従い、小田原城攻めに従軍
1563年 属城、武蔵松山城を北条家に攻略される
1564年 城主、太田資正の子、太田氏資が資頼の留守中に北条家に寝返り、父、太田資正を追放
1567年 太田氏資が死没したことから、北条家の直轄に
1580年 北条氏直の弟、北条源五郎が城主に
1585年 源五郎の早世により、弟の北条氏房が城主に
1590年 豊臣秀吉小田原城攻めでは、北条氏房の家老、伊達房実が2千の兵とともに籠城するが、5月22日に浅野長政勢に攻め落とされる
戦後、徳川家康が関東に移封となり、家臣の高力清長が城主に。(2万石)
その後、徳川譜代が次々に城主を務める
(後略)