西摂津平野の北部を睥睨した
池田城いけだじょう
場所 大阪府池田市城山町3
旧国郡名 摂津国 豊嶋郡
別名 池田城
種別 平山城
築城時期 1334年頃(建武元年頃)
築城背景 摂津国中央の国人領主、池田氏が居城とすべく築城
名城 私の500名城
主な城主 池田信正、池田長正、池田勝正、池田知正、荒木村重
天守 なし
主な遺構 空堀
主な再建物 模擬天守、模擬門、模擬塀、復元土塁
交通 阪急宝塚線 池田駅 徒歩約10分
駐車場 五月山体育館そばの有料駐車場など
徒歩・登山 駐車場〜徒歩4分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
歩4分

池田城の模擬天守

東門(模擬)

模擬橋から見下ろす空堀

模擬塀
構成 西摂津平野の北部、五月山などのある丘陵の手前、標高50mの小山に築かれた平山城。

山頂部の本丸には土塁を廻らせ、2本の空堀を隔てた東側に広大な二の丸を設けた、連郭式の縄張り。

廃城時期も1580年(天正8年)と早く、天守は築かれなかった。
縄張図
または
現地
案内図
現状 本丸は池田城跡公園となっており、整備されている。

広い本丸の西南隅には、望楼型の2重2階の模擬天守が建てられているほか、井戸や建物の礎石、排水溝などが発掘され、保存されている。
土塁の一部も復元されているが、かなり低くわかり辛い。

また、東西南北の城門や、漆喰塀なども模擬建造物であり、遺構としては本丸東の空堀跡(散策路になっている)が残る程度。

二の丸は市街地となっており、体育館や駐車場、住宅などが建ち並ぶ。
略歴
1334年頃 国人領主、池田氏の居城として築城される
(中略)
1548年 城主、池田信正が、主君細川晴元の命により自害
子の池田長正が城主に
その後、池田長正は、これまで敵対してきた三好長慶に降伏
1563年 池田長正が死没。一族の池田勝正が家督を相続し、城主となるが、長正の実子、池田知正との間に家督争いが起こる
1564年 三好長慶が死没
城主池田勝正は三好三人衆と結んで、敵対し始めた松永久秀と対立
1568年 池田勝正、上洛してきた織田信長に、三好勢とともに抵抗するが敗北して降伏。(信長の上洛戦
池田勝正織田信長からその能力を買われ、伊丹親興和田惟政とともに、摂津国の三守護のひとり(筆頭格)に任命され、6万石を拝領
1569年 本國寺の変で、 城主池田勝正明智光秀細川藤孝(幽斎)らとともに戦い、三好三人衆に勝利。足利義昭を守りきる
1570年 池田勝正織田信長に従い越前国朝倉義景攻めに向かうが、浅井長政の裏切りにあい、金ヶ崎の退き口では、羽柴(豊臣)秀吉とともに殿軍(しんがり)をつとめる。
池田勝正荒木村重や池田知正に攻められ池田城から追われる
池田知正が城主に。(ただし、池田家の実権は荒木村重が掌握)
1571年 池田知正、荒木村重摂津国守護、和田惟政や茨木佐渡守を討ち取る
1573年 荒木村重、上洛途上の織田信長を、逢坂に出迎え臣従
荒木村重摂津国茨木城主となる
将軍、足利義昭織田信長が対立すると、池田知正は足利義昭に味方
一方、荒木村重は信長方につく
槙島の戦で将軍、足利義昭織田信長に敗北
1574年 荒木村重から攻められ、池田知正は摂津国から追われる
荒木村重伊丹親興を攻め降して摂津国を平定。信長より摂津国一国を拝領
荒木村重、伊丹城を有岡城と改名、居城とし大改築
荒木村重、織田家の摂津方面軍の司令官となる
1576年 荒木村重、信長の本願寺攻め(石山合戦)に参陣するが、援軍の毛利水軍に大敗し、信長の怒りをかう
1578年 荒木村重、信長の命令で、石山本願寺の顕如と和睦交渉を行うが失敗。さらに、配下の中川清秀の家中の者が、顕如から切望され百石の兵糧を渡してしまう
また、その頃播磨国で苦戦していた羽柴(豊臣)秀吉の援助を命じられるも、躊躇したような行動をとる
信長に村重謀反の報が届き、明智光秀や配下の高山右近、さらには信長の祐筆松井友閑が説得にあたるが変心せず。荒木村重、そのまま有岡城に籠城(有岡城の戦)
荒木村重、説得にきた秀吉の軍師黒田官兵衛も幽閉する
1579年 荒木村重、単身で有岡城を抜け出し尼崎城(大物城)に入り、自ら毛利の援軍を迎えに行く決意をするが城を囲まれ脱出できなくなり不首尾に終わる
当主のいなくなった有岡城は混乱し、敵の入城を手引きする裏切り者が現れ有岡城が落城
荒木村重有岡城落城後も、支城の尼崎城と花隈城にて抵抗
織田信長から、「降伏するなら有岡城の人々は助ける」と言い渡されるがこれを拒否。激怒した織田信長は、城内にいた村重の一族や家臣700名近くを処刑
1580年 織田信長の命により廃城