四条畷を西に見下ろす河内の山城
飯盛山城いいもりやまじょう
場所 大阪府大東市北条2377付近(登城口)
旧国郡名 河内国 讃良郡
別名 飯盛城
種別 山城
築城時期 南北朝時代?
築城背景  
名城 続日本100名城 私の500名城
主な城主 木沢長政、安見直政、三好長慶、畠山昭高、遊佐信教
天守  
主な遺構 石垣、土塁、土橋、堀切、竪堀
主な再建物  
交通 JR片町線 四条畷駅 徒歩約60分
駐車場 馬場跡の楠公寺の駐車場
徒歩・登山 駐車場〜徒歩3分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登7分

頂上の本丸

楠木正成の像

石垣

本丸から見下ろす大阪平野

馬場跡(楠公寺)

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構成 河内国北東部、大和国との国境の生駒山そばにある標高314mの飯盛山に築かれた山城。

南北に伸びる尾根を中心に築かれており、山頂部に本丸を置いて、その北にいくつかの腰曲輪、その北に二の丸、本丸の南の尾根には広大な千畳敷郭や南丸、馬場などを配した壮大な規模だった。

本丸や二の丸の要所には石垣が使われた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡となっており、石垣や土塁、土橋などの遺構が残る。

城跡からは大阪平野への眺望がよく、本丸には楠木正成像が建ち、麓からは1時間程度のハイキングとなる。

車の場合は、南東下の馬場跡に建つ楠公寺に停めさせてもらい、10分足らずの登りで本丸に到着する。
略歴
●飯盛山砦
南北朝時代 砦として築かれる
(中略)
●飯盛山城
1528年頃 河内国守護代の木沢長政が城主に
1529年頃 木沢長政、足利義維(堺公方)を担ぎ、畿内における主導権を握り管領職就任を狙う細川晴元に接近
1530年 木沢長政、細川晴元の命により京都を守備
木沢長政、細川晴元に敵対する細川高国に呼応した内藤彦七と戦う
1531年 大物崩れで細川高国が切腹
1532年 木沢長政、謀略により細川晴元とその有力家臣、三好元長を離間させる
三好元長に飯盛山城を攻められる(飯盛山城の戦)
細川晴元一向一揆を蜂起させ援軍として差し向けてくれたことから三好勢に勝利
細川晴元、勢いを増す一向一揆(天文の錯乱)が邪魔になり、一向宗と対立する法華宗と結ぶ
1534年 守護の畠山稙長が細川晴元へ対するために一向一揆(本願寺)と同盟したことから、木沢長政は遊佐長教と謀って稙長を守護から追う
木沢長政、遊佐長教、稙長の弟、畠山長経を守護に擁立
1535年 木沢長政、遊佐長教と謀って畠山長経を守護から追う
(中略)
1537年 細川晴元、幕政を掌握
1538年 木沢長政、尾州畠山家と総州畠山家の共同統治を実現させ、遊佐長教とともに守護家の実権を掌握
1541年 木沢長政、細川晴元と敵対
1542年 高屋城で長政派の家臣が粛清される
木沢長政、太平寺で幕府軍と戦い討ち死に(太平寺の戦)
安見直政が城主に
1551年 守護代、遊佐長教が暗殺されると、安見直政が守護代となり高屋城に入城
畿内で実力を伸ばす三好長慶に攻められ、主君の畠山高政と,、擁立していた将軍、足利義輝とともに近江国へ逃れる
1552年 将軍、足利義輝三好長慶と和睦し京都へ戻る。これに伴い安見直政も高屋城に戻る
1558年 安見直政、主君の畠山高政と対立
安見直政、三好長慶から高屋城を攻められ飯盛山城に篭るが包囲され、大和国へ逃亡
1560年 畠山高政から許され、安見直政が再び飯盛山城主に
これに怒った三好長慶と淀川畔で戦うが敗北、安見直政は堺へ逃亡
その後、三好長慶の居城に
1561年 三好長慶細川晴元を普門寺城に幽閉。
三好長慶の弟で岸和田城主の十河一存が急死
1562年 久米田の戦で、三好義賢(実休)が戦死すると、弟の安宅冬康も城を捨て本国の淡路国へ逃亡
三好長慶教興寺の戦畠山高政に勝利し巻き返しに成功し、京都へ戻る
1563年 三好長慶の嫡男、三好義興が病死。(家臣松永久秀に暗殺されたという説あり)
1564年 三好長慶死没
甥の三好義継(十河一存の子)が家督を相続
1568年 織田信長の上洛戦により、三好勢が畿内から追われる。(信長の上洛戦
信長から河内国半国守護に任じられた畠山昭高(高政の弟)が城主に
1569年 畠山昭高の兄で高屋城主の畠山高政が、重臣の遊佐信教に追放される
畠山昭高、畠山本家を相続
1571年 もうひとりの河内国半国守護、三好義継が松永久秀と結んで敵対
遊佐信教も三好勢に同調
1573年 織田信長と将軍足利義秋の対立が表面化すると、畠山高政は将軍に味方したことから後ろ盾を失い、遊佐信教に討たれる
飯盛山城は、若江城主の遊佐信教の支配下に
遊佐信教、三好義継らとともに織田信長に敵対
1574年 織田信長の家臣、佐久間信盛に攻められ、遊佐信教は高屋城で自害(高屋城の戦)
1576年 織田信長勢に攻められ落城、そのまま廃城