中国に覇を唱えた尼子家の広大な堅城
月山富田城がっさんとだじょう
場所 島根県安来市広瀬町富田
旧国郡名 出雲国 能義郡
別名 月山城
種別 山城
築城時期 1185年頃(文治元年頃)
築城背景 平(藤原)景清が築城(伝承)
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 佐々木家、尼子経久、尼子晴久、尼子義久、吉川広家堀尾吉晴
天守 なし
主な遺構 石垣、堀切
主な再建物 再建石垣
交通 JR山陰本線 安来駅 約13km
駐車場 道の駅広瀬富田城の駐車場
徒歩・登山 道の駅広瀬富田城〜千畳平まで10分ほど登る〜山中御殿まで徒歩10分〜本丸まで10分ほど登る
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登30分

山中御殿越しに望む主郭部(月山)

大手、菅谷口の石垣

広大な山中御殿の曲輪

二の丸の石垣(三の丸から)

二の丸の石垣(本丸側から)

二の丸から望む富田市街
構成 出雲国東部、富田川を見下ろす標高191.5mの月山に築かれた広大な山城。

中腹には、城主の館などが置かれた広大な山中御殿(曲輪)があり、さらには、花ノ壇、奥書院、太鼓壇、千畳平などの広い曲輪を並べた。

山中御殿から七曲りと呼ばれる山道を登った山頂部が主郭部で、広大な本丸を初め、この城の主郭である石垣造りの二の丸と三の丸を置いた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡として整備されており、軽いハイキング感覚で城内を巡ることができる。

主郭ではないにも関わらず千畳平や花ノ壇などの曲輪は広く、奥書院(曲輪)には山中鹿之介の銅像がある。
山中御殿(曲輪)は大変広大で、井戸跡や再建された石垣がある。

七曲りを10分ほど登ると三の丸の三段の石垣が見えてくる。その向こうには二の丸が置かれ、この二つの石垣による曲輪が月山富田城の主郭であることがわかる。

二の丸の先には広大な本丸があるが石垣造りではない。大国主命を祀る勝日高守神社がある。
略歴
1185年頃 平(藤原)景清が築城。(伝承)
1221年 承久の乱の戦功により出雲国隠岐国の守護となった佐々木義清が居城とする。(推定)
(中略)
1391年 出雲国隠岐国の守護となった京極高詮の甥、尼子持久が出雲国守護代となり、城主に。
1467年頃 家督を相続した尼子清久が城主に。
1478年 家督を相続した尼子経久が城主に。
その後、尼子経久が独立志向を強めたことから幕府や守護と敵対。
1484年 尼子経久、月山富田城を包囲され守護代職を剥奪される。
1500年 尼子経久、守護代に復職。
1511年 尼子経久、中国6国や山城の守護、大内義興の上洛戦に従軍。
1517年 尼子経久、大内家に敵対。
その後、尼子経久は勢力を拡大し、最終的には出雲国隠岐国のほか、伯耆国因幡国石見国安芸国備後国備中国備前国美作国播磨国の11ヶ国の支配者に。
1537年 家督を相続した尼子詮久(晴久)が城主に。
尼子詮久(晴久)、大内家の勢力下にあった石見銀山を奪回。
1539年 尼子詮久(晴久)、赤松晴政の播磨国を攻略。
尼子詮久(晴久)播磨国三木城の別所就治を攻めるが失敗。
安芸国方面で毛利元就の勢力が増大。
1540年 尼子詮久(晴久)、安芸方面攻略の糸口をつかむため、毛利元就の吉田郡山城を強引に攻めるが失敗。(吉田郡山城の戦
これにより、安芸国の同朋、武田家が滅亡。
また、味方していた地元の国人衆の離反も相次ぐ。
1541年 尼子経久が死没。
1542年 尼子詮久(晴久)将軍足利義晴から一字を賜り、尼子晴久と改名。
尼子晴久大内義隆毛利元就に月山富田城を攻められるが、勝利。(月山富田城の戦(第一次)
1543年 尼子晴久、大内家に奪われていた石見国に侵攻し、再び石見銀山を奪回。
1544年 尼子晴久因幡国の山名久通を攻め配下に組み込む。
その後、山名祐豊に攻められた山名久通が敗北したことから、因幡国から撤退。
1548年 尼子晴久美作国東部の三浦家を配下に組み込む。
毛利元就安芸国備後国方面を攻略される。
1551年 尼子晴久備前国の浦上家や松田家を配下に組み込む。
大内義隆が、家臣の陶晴賢の反乱により討たれる。
尼子晴久美作国に出陣し、浦上宗景に勝利。
その後、出雲国伯耆国隠岐国美作国因幡国備前国備中国備後国、計8ヶ国の守護職を拝領し、尼子家の最盛期を迎える。
1554年 尼子晴久、離反しつつあった一族の尼子国久、尼子誠久を謀殺。(新宮党の変)
これにより、出雲国の全てが尼子家の直轄領となったが、総合的な戦力は低下。
1555年 陶晴賢を討った毛利元就の勢力下となった石見国をめぐり、抗争が激化。
1556年 陶晴賢がおさえていた石見銀山を、毛利元就の二男吉川元春が確保。
1558年 尼子晴久、忍原崩れで毛利元就らに勝利し、石見銀山を勢力下に。
1561年 尼子晴久急死。
家督を相続した尼子義久が城主に。
1562年 毛利元就に石見銀山を奪われる。
1566年 毛利元就に攻められ降伏、開城。尼子家が滅亡。
第二次月山富田城の戦
毛利家家臣、福原貞俊が城代に。
1569年 山中鹿之介らに擁立された尼子勝久が、月山富田城奪還を試みるが敗退。
1581年 羽柴(豊臣)秀吉鳥取城兵糧攻めが始まると、毛利輝元が月山富田城に入城。
1582年 羽柴(豊臣)秀吉備中高松城を水攻め。(備中高松城の水攻め
本能寺の変
羽柴(豊臣)秀吉と毛利家が和睦。
中国大返し
1591年 出雲国伯耆国の一部と隠岐国を拝領した吉川広家が城主に。
1592年 吉川広家文禄の役(第一次朝鮮出兵)に参陣。
1595年 吉川広家、毛利家当主毛利輝元の補佐役の筆頭に。
1597年 吉川広家慶長の役(第二次朝鮮出兵)に参陣。
1600年 吉川広家関ヶ原の戦の直前は不参戦を主張し、主戦派の安国寺恵瓊と対立するが、毛利本家の毛利輝元が参陣を決意。
吉川広家、関ヶ原の南宮山、毛利秀元安国寺恵瓊の前方に陣取り、戦いには参加せず。(事前に東軍の黒田長政を介して東軍に内応していたため)
戦後、内応するなら毛利本家は領地を安堵するとの約束が反故にされ、中国10ヶ国は一旦没収、広家に周防国長門国を与えると沙汰されたことから、吉川広家徳川家康に必至に嘆願し認められ、周防国長門国、計29万石は毛利本家に与えられた。
毛利輝元は2国を分国し、吉川広家はその内周防国の岩国3万石を与えられる。
出雲国隠岐国を拝領した堀尾吉晴が城主に。(24万石)
1608年 堀尾吉晴松江城を築城開始。
1611年 堀尾吉晴死没。
堀尾忠晴により廃城。