建武の中興の原動力となった楠公の堅城
千早城ちはやじょう
場所 大阪府南河内郡千早赤阪村千早1093付近
旧国郡名 河内国 河内郡
別名 楠木詰城、金剛山城、千早の詰城、千早のかくれ城
種別 山城
築城時期 1332年(元弘2年)
築城背景 楠木正成が、本城の上赤坂城の詰城として築城
名城 日本100名城  私の500名城
主な城主 楠木正成、楠木正行、楠木正儀、楠木正勝
天守 なし
主な遺構 空堀、竪堀
主な再建物 石垣
交通 南海高野線 千早口駅 約8km
駐車場 東麓などの有料駐車場
徒歩・登山 駐車場〜登25分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登25分

二の丸

城址碑
 
本丸の石垣(後世のもの)
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構成 河内国南東部、大和国との国境の金剛山の西にある標高673m、比高175mの山に築かれた山城。

山頂部の本丸から、北西に伸びる尾根を平削して二の丸、三の丸、四の丸などの曲輪を設けた連郭式の縄張りで、周囲は北谷、妙見谷、風呂谷などの深いに谷に囲まれた要害であった。
縄張図
または
現地
案内図
現状 国の史跡となっており、日本100名城にも選ばれているが、目立つような遺構はない、

西麓の大手側にバス停や有料駐車場があり、そこから500段以上の石段を25分ほど登ると四の丸に着き、そこから本丸までは割と平坦になる。

二の丸には千早神社が建てられており、城址碑も建てられている。

本丸には石垣があるが、後世のものと言われている。
略歴
1331年 後醍醐天皇の討幕計画に、赤坂の領主、楠木正成が呼応(元弘の乱)
  後醍醐天皇、笠置山にて幕府軍に敗北
  楠木正成、鎌倉幕府軍に攻められ下赤坂城を失う(赤坂城の戦)
1332年 楠木正成、下赤坂城を奪還し、千早城を詰城として築城
1333年 楠木正成、上赤坂城で幕府軍と戦闘となるが敗北、千早城に入城
千早城が幕府軍100万(20万説・10万説あり)に包囲されるが、楠木正成はさまざまな奇策を駆使し篭城を続ける
後醍醐天皇、配流地の壱岐から脱出し、全国に討幕の綸旨を発する
播磨国の赤松氏、伊予国の河野氏などがこれに呼応したことから、千早城を包囲していた守護の多くが帰国
新田義貞が手薄な鎌倉に攻め入り平定
鎌倉幕府が滅亡、後醍醐天皇が親政を開始(建武の新政)
  足利尊氏が新政から離脱、後醍醐天皇と対立
  楠木正成、新田義貞、畠山顕家らが足利尊氏と戦い勝利、尊氏は九州へ逃亡
1336年 足利尊氏、光厳上皇の院宣を得て京都へ侵攻
湊川の戦で足利尊氏が勝利、楠木正成が戦死、後醍醐天皇は比叡山へ逃亡
足利尊氏、光明天皇を擁立し、室町幕府を開府
(後略)