高梁川を見下ろす山城の2重天守
備中松山城びっちゅうまつやまじょう
場所 岡山県高梁市内山下
旧国郡名 備中国 上房郡
別名 高梁城
種別 山城
築城時期 1240年(仁治元年)
築城背景 備中国有漢郷の地頭、秋葉重信が、台ヶ城の出城(砦)として築城。
名城 日本100名城  私の500名城  現存12天守
主な城主 秋葉氏、高橋氏、高氏、秋葉氏、上野氏、庄氏、三村家親、三村元親、毛利氏、池田長幸、水谷氏、安藤氏、石川氏、板倉氏
天守 複合式望楼型2重2階
天守に付櫓を付属(現存)
主な遺構 天守、櫓、塀、石垣、土塁
主な再建物 櫓、塀、門
交通 JR伯備線 高梁駅 徒歩約50分
駐車場 山腹のふいご峠の無料駐車場
(12月第3週から2月末日を除く土曜日・日曜日・祝祭日は、城見橋公園の無料駐車場から有料のシャトルバスで登る)
徒歩・登山 ふいご峠(シャトルバスの降り場)〜登る20分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登20分

左から六の平櫓(再建)、
五の平櫓(再建)、2重2階天守(現存)

付櫓あのある2重2階天守
(現存)

天守の窓から見る本丸二重櫓(現存)

大手門跡 

三の丸

三の平櫓東土塀(現存)
構成 備中国の中央を流れる高梁川を見下ろす、標高480mの臥牛山一帯に築かれた山城。
城域は、臥牛山の主峰、大松山(470m)と天神の丸(480m)、そして小松山(430m)に分けることができる。
近世の備中松山城とは、小松山を中心とした一帯と山麓の根小屋周辺から構成される城域の総称で、5つの曲輪を尾根上に直線状に配した連郭式の縄張り。

小松山の頂上部の本丸には、付櫓を付属した2重2階の天守や4棟の平櫓、2棟の多聞櫓があげられた。
本丸下の二の丸には櫓門と平櫓が、その下の三の丸にも平櫓が、大手曲輪にも櫓門と平櫓が、搦め手曲輪には2棟の平櫓があげられた。

城域には9ヶ所の門と3ヶ所の番所を設け、各曲輪は総石垣造りとなっていた。
縄張図
または
現地
案内図
現状 本丸を中心に整備されており、ふいご峠の駐車場から20分ほど登ると主郭部に着く。

本丸の2重2階天守、2階櫓、三の平櫓東土塀、石垣などが遺構である。
天守部の標高は、現存12天守の中で最も高い。

そのほか、本丸の南御門、東御門、腕木御門、路地門、五の平櫓、六の平櫓などが再建されており、険しい山上であることを忘れさせるような名城である。
略歴
1240年 秋葉重信が、台ヶ城の出城(砦)として築城。
(中略)
1331年 高橋氏の居城に。
1355年 再び秋葉氏の居城に。
(中略)
1505年 守護代、上野頼久が城主に。
1533年 庄為資に攻められ、上野氏が滅亡。
庄為資が城主に。
1536年 出雲国尼子晴久備中国をほぼ平定。
1541年 尼子晴久毛利元就の吉田郡山城を攻め切れず。(吉田郡山城の戦
これにより、三村家親が尼子氏から離反し毛利氏に寝返る。
1551年 三村家親、鶴首城主となり備中国を支配。
三村氏と敵対した庄高資が、尼子家から吉田義辰を備中松山城代として迎え入れる。
1561年 三村家親、備中松山城を攻め落とし備中国を平定、備中松山城を居城に。
1566年 三村家親、宇喜多氏に狙撃され戦死。
子の三村元親が城主に。
1574年 主君の毛利氏が、仇である宇喜多氏と結んだことから毛利氏から離反、織田信長と結ぶ。
毛利氏の小早川隆景に攻められ落城。三村元親は自害。(備中兵乱)
(中略)
1600年 関ヶ原の戦
小堀政次、小堀政一父子が備中国国奉行となり備中松山城番に。
1606年 大改修。
1617年 池田長幸が城主に。(6万5千石)
これにより備中松山藩が成立。
(後略)