遠山三人衆の明知遠山家の居城
明知城あけちじょう
場所 岐阜県恵那市明智町1553-81(登城口)
旧国郡名 美濃国 恵那郡
別名 白鷹城
種別 山城
築城時期 1247年(宝治元年)
築城背景 岩村城主、遠山景朝の子で、分家として明知を領した遠山景重の居城として築城された。
名城 私の500名城
主な城主 遠山景重、遠山景行、遠山一行、遠山利景、田丸直昌、遠山方景
天守 なし
主な遺構 石垣、土塁、空堀
主な再建物  
交通 明知鉄道 明知駅 徒歩約20分
駐車場 東側麓の無料駐車スペース
徒歩・登山 駐車スペース〜登る7分〜本丸
<個人評価>
総合 遺構 再建整備 知名度 アクセス
登7分

明知城の本丸

城の東にある貯水池(飲料用)

搦め手砦

明智光秀霊廟、龍護寺

城の南西、千畳敷砦にある
明智光秀が産湯に使った井戸

千畳敷砦から明智市街を望む
 
構成 美濃国東部、山麓の西に明智川が流れる標高528mの山を中心に築かれた山城。

山頂部の本丸を中心に、東に二の丸、その南に東丸や出丸、本丸の西に三の丸を配した、梯郭式の縄張り。
本丸は、高さ5間(約9m)の土塁に囲まれていた。

23に及ぶ土盛の砦が、ほぼ原形のまま残されている。
縄張図
または
現地
案内図
現状 城跡として整備されており、空堀や土塁、石垣が残っている。
龍護寺側からと搦め手口からの登城が可能。軽いハイキング感覚で登ることができる。

城域南西の千畳敷公園は明知城の砦跡で、明智光秀が産湯に使ったといわれる井戸が残されている。(異説あり)

また、城域北西の龍護寺は明知遠山氏の菩提寺で、明智光秀の霊廟ともなっている。
略歴
1247年 岩村城主、遠山景朝の子、遠山景重が築城
(中略)
1565年頃 織田信長に従う
1567年 織田信長美濃国を攻略
1570年 美濃国東部へ侵出してきた武田信玄に攻められ、城主、遠山景行が自害、景行の嫡男、遠山景玄も討ち死に。(上村の戦)
景玄嫡男の遠山一行が幼くして家督を継ぐが、万勝寺に入っていた景玄の弟、遠山利景が還俗して城主の遠山一行を補佐するように
1571年 岩村城遠山景任が病死
妻で織田家から嫁いできていた於つやの方が、岩村城主(女性城主)に
1572年 武田信玄上洛戦では、美濃方面を担当した秋山信友に攻められた岩村城が落城
秋山信友は、岩村城の於つやの方と結婚
武田信玄病没
1574年 武田勝頼に攻められ落城
城主、遠山一行と叔父の遠山利景は、徳川家康を頼って三河国へ逃亡
1575年 長篠の戦で武田軍が大敗したため、再び織田信長の支配下に
遠山一行が再び城主に
1582年 天目山の戦で武田家が滅亡
本能寺の変
1583年 東美濃を制圧した森長可の圧迫を受け、城主、遠山一行と遠山利景は再び徳川家康を頼る
1584年 小牧・長久手の戦森長可が戦死
これを見た徳川家康は、遠山利景に命じ明知城を攻め落とさせる
徳川家康羽柴(豊臣)秀吉が和睦。これにより東美濃は森長可の跡を継いだ森忠政に返還され、一族の森左近が明知城代に
1600年 森忠政が信濃国川中島へ加増の上、転封(17万5千石)
替わって岩村城となった田丸直昌(4万石)の支配下となり、原土佐守が明知城代に
関ヶ原の戦で田丸直昌は西軍についたため、再び徳川家康が遠山利景に命じ明知城を攻め落とさせる
そのまま遠山利景が城主に。(6700石)
1612年 遠山利景が死没。子の遠山方景が城主に
1615年 一国一城令により廃城