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「徐福」

(『歴史読本スペシャル不思議人物日本史架空伝承事典』、新人物往来社、1991年11月 、200-203頁)

 徐福渡来伝説は中国の歴史書『史記』が書き記す

司馬遷の『史記』秦始皇本紀の二十八年(前二十九)の条によれば、徐福らは始皇帝に、海上に三神山〔蓬莱・方丈・瀛洲)があり、仙人が住んでいるので、童男童女を供に、不老不死の妙薬を求めに行きたいと上書した。始皇帝は二十年(前二二一)に中国を統一し、あらゆる願望を満たしており、最後の望みは、自分を不老不死の身にすることだけであつた。そこで、徐福を遣わし、童男童女数千人をつけ、巨額の背高川をかけた。ところが九年後、徐福は薬を得ずに戻ってきた。そして、薬は見つけたが、大きな鮫に邪魔されてたどりつくことができない、と偽りの報告をしたという。

『史記』准南・衡山列伝になると、偽りの報告の内容が変わる。海神に不老長寿の薬を見せてはもらうが、始皇帝の礼が薄いと言って取ることを許されなかったというのである。始皇帝は薬を得んがため、良家の男女三千人、五穀の種子、各種の職人を徐福に託した。そして再度海した徐福は、平原広沢を得て王となり、二度と帰って来なかったという。

 これが徐福伝説の始まりである。『史記』は中国でも最も古い歴史書の一つで、文学的価値も高い。古く日本でも漢学を志す者にとって、必読の書であったから、ここに徐福の記事があることは、日本に伝説が広がる上で、大きな役割を果たしたと言えよう

 

 中国で千百年近くたって徐福の日本渡来が定説化

  唐の時代に入り、徐福は詩の中で歌われるようになった。

 李白は、秦の始皇帝の不死薬を求める姿を「古風」という詩に描き批判し、そのなかで徐福を歌った。李白は、蓬莱や不死薬というのは、結局は空想の世界のことであって、妄誕に他ならないと詠んだ。次いで白楽天は、「海漫漫」という諷諭詩の中で、徐福を登場させた。彼は、仙人になれると信じて不死の薬を求めさせた秦の始皇帝の愚かしさを歌い、初て徐福ら一行の結末を、船の中で童男童女らが老いてしまったとした。

 徐福の渡海から千二百年近くが経ち、五代の後周になって、初めて徐福の日本渡来を記した書物が現れた。釈義楚の『義楚六帖』である。この書には、顕徳五年(九五八)日本僧弘順大師に聞くところによると、徐福は日本に来て富士山を蓬莱山として永住し、子孫は秦氏を名乗ったとある。こうした伝承の生まれた背景には、日本の遣隋使・遣唐使・留学僧などの存在や、中国からもたびたび日本へ渡来する者があったりと往来がさかんになっていたこともあろう。

 宋代、欧陽修は「日本刀歌」という詩のなかで徐福の日本渡来の文化史的意義を初めて述べた。

 こうして徐福の日本渡来説が定説となっていくと、次には日本のどこにきたのかということになる。弘安二年(一二七九)宋僧の無学禅師は紀州熊野をその地とした。どうやらその頃、すでに熊野には徐市廟があったらしい。

 しかし元の時代になっても、『十八史略の正史には、『史記』と同じような記述があるだけでそのような記述は見当たらない。

 

 平安中期の『宇津保物語』に徐福が初めて登場する

中国の歴史書に徐福は登場するから日本に来たのであれば、『古事記』や『日本書紀』にもあらわれるはずだが、六国史のなかにも徐福は登場しない。

 日本文学のなかに徐福があらわれるのは平安時代、『宇津保物語』(平安中期の成立)が初めてである。のちの『源氏物語』も同様であるが、徐福という名はあらわれず、白楽天の「海漫漫」の詩を踏まえた表現をしている。「海漫漫」を収めた『白氏文集』が日本へ伝来したのは、承和五年(八三八)からというから、すでに日本の貴族社会には十分染みとおっていたのだろう。

 鎌倉時代に入って、『平家物語』のなかにも徐福が記されている。南北朝時代になって『神皇正統記』『太平記』などにも徐福が登場するが、総じて言えることは日本文学のなかの徐福像は、『史記』はもちろんであるが、それ以上に白楽天の「海漫漫」という詩の影響が大きいということである。

 南北朝時代、絶海中津は洪武九年(一三七六)明の太祖に謁見し、太祖に熊野の徐福の古詞のことを聞かれ、詩を賦した。太祖もそれに次韻したというから、すでにこの時代、徐福が日本にたどり着いたという伝承が日中両国で広まっていたことが分かる。

 時代を経るに従い、徐福の漂着先が熊野・熱田・富士・八丈島と次々と出てきた。また、来住先は一ヵ所でなく、各地を歴行したのではないかという説も出てきた。

 

徐福の生まれた村が発見され、実在説が急上昇

  数年前までは、徐福という人物そのものが実在したのか否かさえ、明らかにされておらず、一種の民間伝承として扱われていた。

 ところが、一九八二年、中国江蘇省連雲港市?贛楡県で、かつて徐福村と呼ばれていた徐阜(福と同音)という地名が発見され、その土地が徐福の故郷であることが判明した。徐福実在に結びつく、初の遺跡発見である。次いで八七年、徐家の家譜が発見され、そのなかに「徐市(徐福の異名)」が記されていたのである。そうして徐福の実在は、かなり信用できるものとなってきた。

 一九八八年、徐福祠堂は再建され、入口には徐福像が置かれた。この村では、九〇年の秋に盛大な徐福祭をおこなったという。伝説が、今また息を吹き返している。

 では、実際徐福は日本へ来たのだろうか。徐福は日本で農耕・捕鯨などの技術を伝えたり、逸書をもたらしたとか、神武天皇となったという説や、暴虐な政治から逃れるために、安楽な土地に移民したのだという説がある。また、徐福であるか否かは別として、日中の地理的歴史的関係から、可能性はあるといわれる。そうしたなかで、単なる伝説だという立場も根強い。もし事実であるならば現在のような各地にある曖昧模糊とした遺跡ではなく、明瞭な徐福渡来を裏付けるものがあるはずではないだろうか。

 

 徐福伝説をわれわれはどう理解してゆくべきか

  徐福の生きた時代、日本は縄文時代から弥生時代への転換期、大陸の先進文化がこの時期多く入ったことは否めない事実である。『史記』に記された徐福の求仙渡海事件は史実と考えられる。問題はその後の徐福の行き先である。

 後日談のなかで、日本渡来説が生まれたのは九〇〇年前半頃のようである。この説は日本から中国へ伝えられたようだが、日本の書物に日本渡来が記されるのがそれから三百五十年以上も経っていることから、日本渡来説を唱えたのは平安朝の由貫族社会ではなく、修験者などによるのではないかと思われる。『義楚六帖』の記述からも修験者の世界から渡来説が出たことはうかがえる。

 この伝説が史実か否か、明確な判断を下すことはできないが、大切なことは、この徐福伝説によって、われわれ日中両国の古代からの往来と、その往来によって伝説そのものができたという事実が知られることである。各地の伝承は、その土地の民衆の力による。古くからの土地の言い伝え、それが徐福と結び付き、人びとはそれを聞き、心に刻みつけていったことだろう。すると今度は逆に、そのなかから人びとの現実を動かしていく力が、少しずつあらわれてくるのである。徐福伝説はこうした目に見えぬ力によって伝わり、広がっていったのかもしれない。なんともスケールの大きな、夢のある話である。

 


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