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東大地震研究所一般公開と一般講義
==東大地震研究所==
==2008_07_30(木)東大地震研究所一般公開と一般講義==

 東大地震研究所一般公開と一般講義のメモ&写真の記録、要点を記録ておく。
2008_07_30東大地震研究所公開の展示から/主要メモと写真!!!。 
 東大地震研究所1号館2階にある三宅島溶岩樹形の展示を観察。
三宅島溶岩樹形の観察。[2008_7_30、13時11分撮影。]
溶岩樹形(三宅島、1983) Lave tree mould :溶岩樹形とは、立木の樹幹を溶岩が包み込み、そののままの形で固化したもの。包み込まれた樹幹は、熱によって消失し、空洞になっている。(空洞内部に樹脂の模様が残っていることもある)。
 この溶岩樹形は1983年10月3日、三宅島の噴火によって約400戸の家屋が埋没した阿古の溶岩流先端より採取された。一度出来上がった樹形が、その後の溶岩流によって運ばれたものと考えられる。とある。

 三浦半島小網代湾での過去の関東大津波の痕跡を見る―筆者は大変関心を持った―
 以下、島崎邦彦教授の解説と展示壁紙を参照したりし、またメモから備忘のため記しておく。
解説をされる島崎教授と関東周辺のプレート境界と三浦半島油壺・小網代湾のある位置図。[2008_7_30、10時47〜54分撮影。]
 関東平野が位置しているユーラシアプレートが沈み込んでいる(上図右参照)。関東大震災を起こした1923年大正関東地震は、フィリッピン海プレートと陸のプレートの境界で起きた地震だ。この地震の揺れや火災によって、死者10万人以上の大惨事となったが、津波でも多くの人命が失われたという。
 同じ場所で起こった一つ前の地震は、1703年元禄関東地震。この地震でも津波が起きた。
 こうした関東地域では、それ以前の地震履歴については未解明だという。
 そこで、三浦半島小網代湾を調査したという

三浦半島小網代湾コア採取した過去の津波情報の痕跡を調べているのだという。[2008_7_30、10時38分撮影。]
上の図、左は、展示のコア柱、中はその上部、右は下部の写真。

上のコア柱の上部(左)と(右)の津波の痕跡をズームアップして観察する。[2008_7_30、10時38分撮影。]
 元禄以前の関東地震を調べために、三浦半島の小網代湾の干潟で、調査を行なったという。
 その結果、大正と元禄関東地震の津波堆積物が見つかり、更に、その前の津波の堆積物が見つかったという。
 今のところ1293年地震が有力であるが、1433年の可能性も残っているという。
 東大地震研究所の史料。
 1433(永享五)年の地震 鎌倉で寺社の被害多く。利根川が逆流した。
 1293(永仁元)年の地震 建長寺転倒、死者数数千人から2万人。浦安津波の伝承があると言う。

 公開講義
 歴史を封じ込めた火山噴火:藤井敏嗣教授
 ヴェスビオ火山噴火によるポンペイの埋没。18世紀に発掘が行なわれるまで歴史の舞台から姿を消したポンペイの悲劇に身震した。

 ヴェスビオ火山
ヴェスビオ火山の鳥瞰図。[2008_7_30、15時19分講演中のPPより撮影。]
ヴェスビオ火山の鳥瞰図。[2008_7_30、15時18分講演中のPPより撮影。]
 発掘しているアウグストウスの館について―藤井教授の印象に残った講義から―。  
 ベウスビオ山の北側にソンマ・ベウスビオ山、ポンペイより近いところにあるソンマ遺跡と言っているが夏場は暑いのでトタン屋根をつけている。よってこの状態では内部を覗くことは出来ないがクレ−ン車をつけて重機を使って発掘している。丁度ソンマ山・ベスビオ山の裏の北側であるが外輪山の輪郭が見える場所である。  
 ここは今回始めて発掘した場所でなく、イタリアのムッソリーニが政権を握っていた時代1932年から36年にかけて一度部分的に試掘をした場所である。その時のスケッチがここである。これは8mの高さの柱である。石造りの柱があって立派な建物の跡と知られている。実際、再発掘したらこれと全く同じスケッチ道りの石造りベスビオ山の溶岩を削ったものであるがその上に大理石の飾りなどがついている柱である。それは非常に立派な柱である。1932〜36年当時はここの遺跡はこういう建物であった。二重に柱を持った立派な建物であるから田舎でこんな立派なものであるから、初代のローマ帝国のアウグストウスの別荘でないかと言われていた。32年の発掘のあとこの地域はアウグストウスの館であると思われていた。

 西洋美術館におられる青柳先生と一緒に発掘を開始することになったのであるが、最初は我々は懐疑的であったがベスビオ山の周辺に当時の火砕流はどういう風に分布しているか或は火砕サージはどういう風に分布しているかを書いたものであるが、これはポンペイ、赤い斑模様で書いてあるのは火砕流と言われるものの分布である。少し濃い入りで書いてあるのは、50cm、100cmとかが火砕サージと呼ばれるものであるが、厚さはどういう分布をしているか。ここにあるソンマベスビオ山は今我々が掘ろうとしているが79年の火砕流に対して火砕サージの堆積物はたいしたことはない。数十cmしかないということは今まで。百数十年前の調査でも言われていた。そしたら、おかしいな?と、思っていたがイタリア人の最新の結果を見るとこの赤いものは79年の火砕流は狭いものでなくこれほど広がっている。それから火砕サージの扱いは、こんなもんでなく、ベスビオ山の火砕サージは3mもある・・・というイタリアの調査結果を知らされのである。  
ポンペイを埋めた軽石(紀元79年)。[2008_7_30、15時20分講演中のPPより撮影。]
 79年の火砕サージによってアグストウスの館は埋まったかもしれない。最初にお見せしたのはこのあたりであるが幾つかの部屋を分ける壁がある。立派な柱がある。ここには別の部屋がある。かなり立派な部屋であるし、壁も立派である。少なくともアグストウスの館かも知れない。もう一つの理由はここにある。これは完全に大理石で造られている。ポンペイで遺跡があちことにあるが良く見ると、柱は出来ると漆喰を塗ったり一見大理石風に見せかけている。ところがソンマの遺跡で見つけられる柱は完全に大理石である。従って非常に立派な館にあった柱といえる。火山から降った堆積物はどういうものであるかを調べる必要があるから発掘された高さ9m位あるが、どういう順番に溜まっていたかということを調べていくと一番先に遺跡を埋めたものがどういうものであったか調べる。これは遺跡の正面であるが、ほんの僅か降り積もった火山灰、降下軽石と書いてあるが、軽石と細粒の火山灰とはほんの僅かである。それよりも泥流の堆積物或は土石流の堆積物。最初の3m位の堆積物はほどんどが土石流の堆積物であるということが分かり遺跡が埋まったのはポンペイの町は上から降ってくる軽石と火砕流或は火砕サージによって埋まったがその遺跡は泥流によっても埋まったのであった。これは何時の時代か。その前に建物はどうなっていたかであるが、ここに建物のある部分がある。建物の壁が崩れたところがある。崩れたところを良く見るとその間に降り積もった火山灰がある。火山灰が積もってから壊れたのではなく家が壊れていたところに火山灰が積もった。その上に土石流が流れて来た。ということが解る。  
 つまり最初に火山灰が降って来たときには建物が崩壊していたということが解っている。ポンペイのようにヒトが住んでいたとことに噴火が起きたのではなくて少なくとも建物が一部が崩壊していたところに火山灰の堆積があった。これは何時の時代か示す必要がある。  
 ポンペイの噴火79年ベスビオ山は大きな噴火をした。最大の噴火は17世紀の大きな噴火で1631年であるが、472年にもかなり大きな噴火をしている。火山指数4であるから1/10の位の噴火である。回りの地層をいろいろ調べて見ると、ここに79年の地層があって、ここには白い軽石が、472年は茶色の軽石である。ずーと上の方に1631年の軽石がある。これをベスビオ山の周辺で調べて見ると、これを比較したものがこれである。  
ヴェスビオ火山の軽石等。[2008_7_30、15時20分講演中のPPより撮影。]
 遺跡の中で最初に降り積もった軽石を持ってくると79年ポンペイの町を埋めた噴火の軽石はこういう白いものである。472年の噴火の時、出来た軽石は、灰色であった。この石を見たときに、ソンマの町を埋めたのは79年ではなくて、472年の噴火で埋めたものかも知れないと思うようになった。これは考古学者の致命的なことであった。79年に掘ると金銀財宝は出るかも知れない。これに対して5世紀の噴火であるとすると飛んでもない話である。従ってもっとちゃんと調べる必要があるので、化学分析もする。ブルーで書いたものは、ソンマ遺跡で見つかった軽石。×印は472年に見つかった軽石である。よって、79年の軽石と472年の軽石では明らかに違うということが解る。ソンマの軽石は79年の軽石と違って472年の軽石と良く似ているということは、どういう化学分析をしても472年とソンマのものは同じ噴火のものと解る。ほどんど確実であったが、最終的なものは遺跡の中に含まれる昔の炭がある。植物などの炭化したものを探してその中の炭素の同位体を測る。そうすると、少し変なものが入っていることもあるが、基本的には472年の年代に集中していて、79年の炭を示すものは何も無かった。  
 遺跡が埋まったのは472年の噴火であった。噴火の前はこの遺跡は廃墟になっていたのであった。噴火の後、軽石や火山灰が溜まった後に、泥流や土石流によって3年間位埋め立てられていた。472年以降も数回1631年まで、全体として9mのものが遺跡を埋めたのであった。その結果、復元した埋没した課程を絵にしたものであるが、破壊される前のアウグトウスの部屋?はこういう格好をしていたと思われるけれども、これが472年の噴火の前には柱だけは残っているような状態で噴火を迎えたのであった。ベスビオ山の火山灰が溜まりその後は火砕サージが少し近くまで寄ってきてはいるが完全にはこの遺跡までは到達していなかった。北側斜面に溜まった火山灰や軽石は雨に流されて土石流になってこの遺跡を埋め立てたのであった。ここに書いたように殆ど3年間で埋まってしまうこととなったのであった。最後は暫くは噴火の無い時期があったのでここに植物が生えた時期があって、それを含む土壌が形成されている。その後噴火が起こってこのあたりが埋まったのであった。最後は現在の状態で茶園によって利用されているのが遺跡の埋没のプロセスであった。79年の噴火によって埋まったと思われたのは実は5世紀の472年に埋まったことは考古学の誤算である。472年というのは西ローマ帝国が滅亡する数年前のローマ帝国の混乱の極みにあった。
 西洋美術館におられる青柳先生と一緒に発掘を開始することになったのであるが、最初は我々は懐疑的であったがベスビオ山の周辺に当時の火砕流はどういう風に分布しているか或は火砕サージはどういう風に分布しているかを書いたものであるが、これはポンペイ、赤い斑模様で書いてあるのは火砕流と言われるものの分布である。少し濃い入りで書いてあるのは、50cm、100cmとかが火砕サージと呼ばれるものであるが、厚さはどういう分布をしているか。ここにあるソンマベスビオ山は今我々が掘ろうとしているが79年の火砕流に対して火砕サージの堆積物はたいしたことはない。数十cmしかないということは今までの百数十年前の調査でも言われていた。そして、おかしいな?お思っていたがイタリア人の最新の結果を見るとこの赤いものは79年の火砕流は狭いものでなくこれほど広がっている。それから火砕サージの扱いは、こんなもんでなく、ベスビオ山の火砕サージは3mもある。というイタリアの調査結果を知らされのである。  
火山灰に埋もれていた壁画。[2008_7_30、15時23分講演中のPPより撮影。]
 79年の火砕サージによってアグストウスの館は埋まったかもしれない。最初にお見せしたのはこのあたりであるが幾つかの部屋を分ける壁がある。立派な柱がある。ここのは別の部屋がある。かなり立派な部屋であるし、壁も立派である。少なくともアグストウスの館かも知れない。もう一つの理由はここにある。これは完全に大理石で造られている。ポンペイで遺跡があちことにあるが良く見ると、柱は出来ると漆喰を塗ったり一見大理石風に見せかけている。ところがソンマの遺跡で見つけられる柱は完全に大理石である。従って非常に立派な館にあった柱といえる。われわれは火山から降った堆積物はどういうものであるかを調べる必要があるから発掘された高さ9m位あるが、どういう順番に溜まっていたかということを調べていくと一番先に遺跡を埋めたものがどういうものであったか。調べる。これは遺跡の正面であるが、ほんの僅か降り積もった火山灰、降下軽石と書いてあるが、軽石と細粒の火山灰とはほんの僅かである。それよりも泥流の堆積物或は土石流の堆積物。最初の3m位の堆積物はほどんどが土石流の堆積物であるということが分かり遺跡が埋まったのはポンペイの町は上から降ってくる軽石と火砕流あるいは火砕サージによって埋まったがその遺跡は泥流によって埋まったのであった。これは何時の時代か。その前に建物はどうなっていたかであるが、ここに建物のある部分がある。建物の壁が崩れたところがある。崩れたところを良く見るとその間に降り積もった火山灰がある。火山灰が積もってから壊れたのではなく家が壊れていたところに火山灰が積もった。その上に土石流が流れて来た。ということが解る。  
イタリアの最新調査の結果。[2008_7_30、15時28分講演中のPPより撮影。]
 つまり最初に火山灰が降って来たときには建物が崩壊していたということが解っている。ポンペイのように人(ヒト)が住んでいたとことに噴火が起きたのではなくて少なくとも建物が一部が崩壊していたところに火山灰の堆積があった。これは何時の時代か示す必要がある。  
 ポンペイの噴火79年ベスビオ山は大きな噴火をした。最大の噴火は17世紀の大きな噴火で1631年であるが、472年にもかなり大きな噴火をしている。火山指数4であるから1/10の位の噴火である。回りの地層をいろいろ調べて見ると、ここに79年の地層があって、ここには白い軽石が、472年は茶色の軽石である。ずーと上の方に1631年の軽石がある。これをベスビオ山の周辺で調べて見ると、これを比較したものがこれである。  
 遺跡の中で最初に降り積もった軽石を持ってくると79年ポンペイの町を埋めた噴火の軽石はこういう白いものである。472年の噴火の時、出来た軽石は、灰色であった。この石を見たときに、ソンマの町を埋めたのは79年ではなくて、472年の噴火で埋めたものかも知れないと我々は思うようになった。これは考古学者の致命的なことであった。79年に掘ると金銀財宝は出るかも知れない。これに対して5世紀の噴火であるとすると飛んでもない話である。従ってもっとちゃんと調べる必要があるので、化学分析もする。ブルーで書いたものは、ソンマ遺跡で見つかった軽石。×印は472年に見つかった軽石である。よって、79年の軽石と472年の軽石では明らかに違うということが解る。ソンマの軽石は79年の軽石と違って472年の軽石と良く似ているということは、どういう化学分析をしても472年とソンマのものは同じ噴火のものと解る。ほどんど確実であったが、最終的なものは遺跡の中に含まれる昔の炭がある。植物などの炭化したものを探してその中の炭素の同位体を測る。そうすると、少し変なものが入っていることもあるが、基本的には472年の年代に集中して79年を炭を示すものは無かった。  
 遺跡が埋まったのは472年の噴火であった。噴火の前はこの遺跡は廃墟になっていたのであった。噴火の後、軽石や火山灰が溜まった後に、泥流や土石流によって3年間位埋め立てられていた。472年以降も数回1631年まで、全体として9mのものが遺跡を埋めたのであった。その結果、復元した埋没した課程を絵にしたものであるが、破壊される前のアウグトウスの部屋?はこういう格好をしていたと思われるけれども、これが472年の噴火の前には柱だけは残っているような状態で噴火を迎えたのであった。ベスビオ山の火山灰が溜まりその後は火砕サージが少し近くまで寄ってきてはいるが完全にはこの遺跡までは到達していなかった。北側斜面に溜まった火山灰や軽石は雨に流されて土石流になってこの遺跡を埋め立てたのであった。ここに書いたように殆ど3年間で埋まってしまうこととなったのであった。最後は暫くは噴火の無い時期があったのでここに植物が生えた時期があって土壌が形成されている。その後噴火が起こってこのあたりが埋まったのであった。最後は現在の状態で茶園によって利用されているのが遺跡の埋没のプロセスであった。79年の噴火によって埋まったと思われたのは実は5世紀の472年に埋まったことは考古学の誤算である。472年というのは西ローマ帝国が滅亡する数年前のローマ帝国の混乱の極みにあった時期であった。
それでは考古学の成果は無かったかというと実はそうでもなかった。実は掘って見るといろいろのものがある。  

初代ローマ皇帝アウグストウスの館?。[2008_7_30、15時27分講演中のPPより撮影。]

ぺプロフォス像(下記、注のホームページより転用)とディオニソス像(公開講義資料7頁より引用)。
 注: ぺプロフォス像とディオニソス像へ

 最初に出てきたのは女性の大理石像ペプロファロス(108cm)が姿を現した。クリ−ニングするとこうなる。そんなに大きくは無いが1m位。非常に綺麗な大理石の像であった。それからディオニソス(145cm)という像。ギリシャ神話ではディオニソス。ローマ神話ではバッカスと言われる神様の像である。夫々壊れていたが。これを復元したものがこれである。愛知万博にこれと先ほどの女性像が展示された。これはローマ帝国の最盛期の時代に皇帝の工房で造られてのではないか。と思われているが、問題はこのようなものが5世紀後半にどうしてあったか。ローマ帝国でキリスト教が承認されたのは3世紀のことであるから、偶像崇拝というものは禁止されていたのにこういうものがあるのはということか。ということなどのいろいろな問題が残っている。が、ローマ帝国の再抽出のいろいろの資料が得られる可能性がある。  
 いま一つ。土石流で埋まっていたが取り除いた後に像の一部が見えている。壁画があった。この部分を拡大したのがこれであるが、女神の体をしている。綺麗な像である。アウグトウスの館というのは5世紀の噴火だということが解った。ローマ時代の最後の歴史の情報が出て来るがビスビオ山が噴火したのは79年と472年だけではなく青銅器文明を支えた3400年(或は3780年前)の噴火がある。(先程の炭素年代表で暦年補正するので、資料の3780年が寧ろ正しい)  
 この噴火でイタリアの青銅器文明が破壊された。ベスビオ山はここにある。先程の79年のマリオ火山はここにあるが3780前のアゼリーノでアゼリーノ噴火というのがあるが黄色で書いてあるが軽石を撒き散らしたが山頂部から20km離れたところにモウラというところがあるが、1m位の軽石が降り積もった。火砕サージは北西の方向に山の周辺で数m位堆積物がある。今モウラの周辺であると1m位の火砕サージの堆積物がある。  
 その当時、西暦文明が栄えつつあったが、最初の火山灰が降った後、その人たちは一斉に下に向って逃げだした。モウラの遺跡で発掘された例である。足元が残っている。2人一緒に走って逃げている跡である。火砕サージの下には犠牲者が埋もれていた。先程お見せした表に黒い線が一杯走っているが、今発掘されて青銅器文明の遺跡である。これだけいろいろな人たちが住んでいたが、この一回の噴火で、完全に埋まってしまった。おそらくこの後1000年近く人は住んでいなかったといわれている。このように火山噴火は時として文明を破壊してしまう。  
 筆者注 以上は、イタリアのイベントであるが、日本にも同様なイベントがあった。後日アップすることとしたい。

 発掘された巨大地震と津波の痕跡:佐竹健治教授
 日本列島は4枚のプレート境界に位置しているので、海溝型地震M8クラスの巨大地震が繰り返し発生している。
 将来の地震の発生を予測して、被害を軽減するためには、過去に発生した地震や津波について調べる必要がある。
以上、写真や細部、工事中です

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以下、工事中です

 


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