[ トップページ] [ Sのトップページ] [ 地質観察会]
[ 三宅島巡検総括] [ 三宅島巡検第1日] [ 三宅島巡検第2日] [ 三宅島巡検第3日]
三宅島巡検―2000年の噴火の跡を見る―
==三宅島巡検―2000年の噴火の跡を見る==
==三宅島巡検―2000年の噴火の跡を見る==


三宅島、―2000年の噴火の跡を見る― 平成18年3月18日(土)

 日曜地学の会埼玉支部主催、2006_1_18日曜地学ハイキング―巡検実施で観察した事項―
 講師:三宅高等学校:青谷知己先生
 第2日目(土)2006_3_18(土)港=(休憩・朝食)=島内見学(レンタカー)=民宿(学習会、懇親会)。
  
   三宅島巡検の様子を青谷先生の解説と現地の写真などを要約し、後学のために保存しておく。
     ――一部工事中です、何か(乱丁・誤謬)、気づかれたら、ご一報下さい――

 先ず三宅島巡検ルート図を見よう(三宅高等学校:青谷知己先生提供)。
   三宅島2006_3_18〜19の巡検ルート図―三宅高青谷知己先生提供

 巡検当日は多少風はあるものの、良い天気だ。期待していた三宅島でのご来光が仰げて、三宅島雄山山頂は朝日に輝き、噴煙も赤く輝いていた。
   三宅島坪田地区海岸からご来光を仰ぐ[2006_3_18_5時50分ごろ坪田地区にて撮影]。
   三宅島山頂からの噴煙(主に水蒸気か)の朝日による輝き[2006_3_18_5時50分ごろ坪田地区にて撮影]。

   0900都立三宅高校青谷知己先生の案内で巡検スタート。
    昨日は欠航していたし、今日もあやうい思ったが良い天気になった。昨日はガスが回っていたが、今日はガスなかなか状況として止まらないでしばらくこのまま行くと思うけれども、今日は東風になっているので良い。よってガスを避けながら風上、風上と回って行き巡検する。今日の予報ですと今東風だが、これから南風に変わり最終的に南西の風になるだろうが、最初東側に回って行くのでガスと交差するかも知れない。午後の南西の風になるまでそんなイメージで考えて貰いたい。
    今いる所は,民宿[おしどり]のある坪田地区で(21)は三宅島高校で、澗舅池があってアカコッコ館がある。ここは坪田地区で大きい三宅島の集落は3集落で西に阿古地区、北に神着地区がある。
    今回噴火が起きたが、地形をざっと見ると今回の噴火で2つ大きく地形が変わるところがあり、7〜8000年前に出来たカルデラの跡と言われるところがあって、今回の噴火以前は山頂まで行けたが中央の丸の部分が陥没したので今までは綺麗な砂漠を歩いて山頂まで行けたが今は行けない。直径が1.6km×深さが450mのカルデラである。天候が良いとカルデラの稜線が見えているが稜線のところがカルデラ壁である。ここからズトンと450m落ちている。450mだと東京タワーもすっぽり入ってしまう。三宅の2000年噴火から5年半が経ちあの時、降った火山灰は殆ど流されていて麓では見つからないが、直接的に表面を剥がすと見える。中腹より上に行くと20〜30cmの火山灰の層を見ることが出来る。
   一番厄介なのは火山ガスであるが、火山ガスは風下側に影響が出るが、西風と北東の風をナライと言うが常に西風と北東に風が吹く。冬場は特に西風が吹く。そうすると島の火山ガスのダメージを受けるのは東側ということになる。船のついた三池が火山ガスのダメージが一番大きいところである。もう一つは南西側のウスギ地区でここもダメージが大きいところでる。今、途中に段差あってもう一つ上がっているが、段差のところがカルデラの中腹である。北の段差のところが緑が残っていて、その上は殆ど枯れていることが解るが、中腹のカルデラ壁の上は壊滅している。草は殆どない状態で、葉竹は全部枯れて、春夏になると少し植物が生えてくるが火山ガスが入ってくると枯れるということを繰り返している。注意は中腹から上は危険区域に指定されていて一般は立ち入り禁止である。ガスが降りてくると、東側と南西部も高濃度地区といい居住者がいたが居住禁止区域になっている。居住者以外は許可がないと入ってはいけない規制がかかっていて、本当は2000年噴火を見るためには、そういうところに行かないと現物が見えないが、なかなか村役場に条例があるので正式ルートでは許可が出ない。極一部の人に許可が出て理科の教員で是非というと許可が出るのであるが、今大学の研究室で一寸見学にとかこういう団体で出来ますかと言われても許可が下りないが、前回東京支部の時も、目をつぶって入ってもらったが今回も一寸入って立ち止まる予定である。もちろん役場の人に言われたら速やかに退去する条件である程度入って皆さんに紹介する。今日ガスは向うであるので、ガスが来た場合は止める。その中ではあまり散らばったりしないで貰いたい。
    今日のおおよそのルートは反時計回りに回って行きたい。  
   まず、空港の脇を通って△帽圓。 
    ∩畭高濃度地区なので立ち入り出来ないが三宅の麓で一番被害が凄いところで、森が壊滅しているところであるから行ってみたい。空港は高濃度地区の境界にあるので今はないが、ターミナルビルを移設してなんとか5月から飛行機を飛ばそうと準備している。

    三池浜であるが、森が豊かであったが見る影がない。ゆっくり出来ないので立ち止まるぐらいかもしれない。
    せ絢兄(93m)であるが37年噴火のスコリア丘である。ここで下車するが、灰長石を採取したいと伺ったが、ここも高濃度地区であるのでどうするかである。い嚢佑┐討澆茲Α
    タ声劼埋まったところである。ここは高濃度の境界であるので、歩いて見る。
    Δりぎりのところである。Л┃~昼食はこの辺。
   ~1983年、S58年の溶岩流で埋まったところであるがこれを見る。ここも初めて見ると驚くところである。天候を見ながら~昼食が終わったら阿帽圓たい。次に、時間があれば、~音間があれば行く。
   灰▲コッコ館―明日は雨上がそうであるから、貝(21)は明日の午前中に行く。

    0915出発。0920レンタカー品川400て98-28乗車=本日天気晴。
   0930△砲謄ナソというところ、噴火前はスギの植林地と前方にあまり高くない木が密集しているがツバキの木で後は若干シイ・タブノキがあるが、村の人はツバキの油を取りに来たような森であった。ここは三宅島でガスの被害が一番酷いところで、全ての高木層が死滅しているところである。その中にも森の中に若干緑がある。常緑樹のヒサカキの木はガスに強く点々と残っている。普通の太い木はガスが来ると葉っぱが落ちてしまうがその後、胴吹きと言って木の胴体から葉っぱを出して再生して行く。噴火して2年3年はそういう風景が見られたが、流石、毎年毎年繰り返すことにより太い木の生命力も駄目になり立ち枯れていったのが経過である。
   付近から三宅島雄山山頂方面を見る。豊かな原生林であった森林は今見る影もない。
[2006_3_18_9時33分ごろ△砲道1]。
   しかし壊滅している森林林床からは新たな再生が始まっていてほっとする。
左は最初に生えるというユノミネシダと右はオオバヤシャブシの幼木。

   前方に大きいダムがあるが 金曾沢ダムで砂防ダムであるが、噴火後直ぐ作られたダムである。これが無ければ空港は埋まっていたかな!思われ、この下に空港があるので、砂防ダムは自然破壊の表徴のような気がするけれどもこれが無かったらかなり空港のダメージが大きかったと思われる。
   付近から三宅島雄山山頂方面とスカイライインを見る。右の白いのは水源地の水槽。
[2006_3_18_9時38分ごろ△砲道1]。
   付近から海岸側に砂防ダムを見る。その下に都道があり三宅島空港があるが、度々の土石流を防いだ。
こらが無ければ、空港は大変なダメージを受けたという。
[2006_3_18_9時45分ごろ△砲道1]。
金曾沢とトンビ沢を見る。ここは2000年噴火の時一番初めに泥流が出たところである。ここは何mかの泥流で埋まっている。あすこの中腹にガードレールが見えるがそこは道路であるが寸断されていて通行出来ない。雨が降って溝が出来ている。細い溝が広がってガリーになっている。ガリーが広がるとまた横がガリーになる。初めの溝みたいなのもガリーである。一番上の稜線が山頂火口の稜線である。今△任△襪、ガードレールがこの道である。一番上が稜線の天辺であるが直線距離が1.8km〜2kmぐらいある。こういう酷い火山災害はなかなか見る場所がないので是非見て貰いたいと思う。右側の斜面も緑が点々としているが、あれもヒサカキである。ヒサカキはもともとあった。下から芽が出たものである。今砂防工事が始まっている。ガリーが何本もある。[~0930まで]。標高85m。右手の白い四角い建物は水道の水源である。三宅の水源は大路池という淡水湖であるが、6割は地下水から得ている。白い四角い建物の水道水源は生きているので深さ60mぐらいの井戸の水槽である。火山体はなかなか水の溜まる場所は無いけれども金曾沢もマール地形で周りは火口壁になっていて時代は古いが火口だったと思われる。このような火口であったところを水源開発をしている。ここはカルデラで無くマールで水蒸気爆発が起きた時の火口である。こういうのは麓に点々とある。
   三宅の水は美味しくない。CaやMgが多い硬水である。今回降った火山灰もCaが多い。
    スカイラインが外輪山である。外輪山というか火口壁である。
   今、ガスは右側に流れている。
   現在火口の穴の温度は150℃ある。赤っぽいのは赤色のスコリアがある。この辺に結構スコリア丘があってスコリア丘を削りこんで押し流している。
   噴火の一番最初は森の中を泥流が走って来たというそんな感じで始まった。溶岩の色は基本的に黒いが赤いのは高温で酸化されて火口の近くでは赤くなる。泥流なので非常に密度が高く重いので途中一番低いところに木があればなぎ倒して下る。
   層が見える。一番下あたりはオリジナルな火山灰の可能性があるが、上は何回も繰り返した泥流の堆積物である。後に本当の灰を探してみる。この辺の降灰は5~6cmで、ここの こんなに積もっているのは灰ではない。この辺のものはスコリアと言うか溶岩というか玄武岩質の赤いスコリアと言って良い。
   噴火後の植生は、オオバヤシャブシ(ハンノキ)(写真写す)とユノミネシダ(三重県原種)が生えた。ユノミネシダは三池地区に密生している。

   1010三池浜園地にて。
   の三池浜園地から周辺を見る。
   三池浜園地の様子を解説する青谷先生。右は2000年噴火当時写真で現状を比較された。
 三宅島の噴火は終わったように見られているが、まだ継続していると言える。
   家が殆ど壊れているが屋根から腐食して破壊している。青谷先生は噴火以前の三池地区の写真と現状を比較して解説された。噴火前は海岸沿いには防潮林があって黒松の立派な大木があった。
   ここはキャンプ場であったが今は見る影もない。後ろに立ち枯れがあるがもともと緑が鬱蒼とした森であった。これが年々枯れ切って行った。噴火の1年半後のこの場所、奥の葉っぱが付いる木が年々枯れていった。また、一年後になると立ち枯れた木も倒れていって草原のような光景になると思われる。今左斜面はユノミネシダであるが、右側のもくもくしたのはハチジョウススキである。そういうのが最初に生育してきてススキが進入してきてユノミネシダを駆逐していくものと思われる。ヒサカキは亜硫酸ガスに強いから生き残っている。ここも周りが断崖で囲まれておりマールである。海岸沿いにマグマが上がってきて地下水と接触し水蒸気爆発してこういう火口が出来たのである。実際にはこういう噴火もあると予想されていたが、実際にはマグマが上がってこないで噴火に至らなかったのである。

    <注:1010〜1015これもマールの跡である。下山途中、ユノミネシダとハチジョウススキが青緑である。>

    1020三七山を右手に通過。
    [三七山―この山は昭和37年8月の雄山中腹から海岸線に井たる噴火により隆起し、その上に火山灰が降り積って出来た山で、「三七山」と呼ばれる。
 この地の前方に見える美しい火口は、昭和15年7月の噴火によって一夜にして海中から吹き上げた山で。「ひょうたん山」と呼ばれる。  また、周囲の赤く焼けただれた溶岩腹は「赤場暁」と呼ばれ、こえら付近一帯は国立公園の特別保護地区に指定されている。東京都]とある。

 1023ここは地図のせ絢兄h93mである。正面に火口が見えるのがひょうたん山h64mである。これは昭和15年の噴火のスコリア丘である。
   い里劼腓Δ燭鷸64mを眺望する。
   い里劼腓Δ燭鷸64mの噴火口をアップ眺望する。
   い里劼腓Δ燭鷸海2000年噴火時の様子[青谷先生のパネルにより解説を聞く]。
    昭和15年の噴火は海底で起きて及び左上部方向から割れ目噴火が起きて、ひょうたん山の左に塊があるがこれが昔の海岸線である。海岸線より沖合いで噴火が起きて陸地が出来ている。
   それから22年後、昭和37年にここが噴火した。私たちが立っているところが昭和37年の噴火のスコリアである。この場合の上の中腹から割れ目噴火が起きてほぼ同じ場所でスコリア丘が誕生した。溶岩流も出ている。鉱物採集で有名な灰長石はひょうたん山の昭和15年噴火の溶岩に含まれている。問題は高濃度地区の境界はひょうたん山の向うにあり高濃度地区の内部でるのであまり大ピらに行けない。灰長石を一番採れるのはひょうたん山の右奥斜面であり転がっている目立つので行かない。また跡で拾いに来て下さいと言いたいが溶岩中にぽつぽつある灰長石が風化してぽろっと落ちて転がっている状態で見つけることが出来る。前に転々とイタドリが生えている。緑色の木が全部オオバヤシャブシである。茶色がかったものはハチジョウススキである。灰長石は探検者でなければ明治7年の溶岩流のもので良いならば灰長石が沢山入っているのどうか、高校にも若干あるが30何個はどうも・・・。灰長石が一番大きいのは長径2~3cmで灰色である。今噴火以前の姿に戻っているのであるが噴火直後の景色を写真で紹介しよう。こういうことが起こりうるのである。
   7月14~15日の跡の景色であるが、この辺の降灰量はおよそ10cm。一面真っ白であった。非常に細かく粉砕されていてこれはスコリアであるが結晶は殆どない。オジリナルな結晶がなくて岩石の破片だらけである。雨が降るとモルタルのようにカチンカチンに固まってしまう。非常に石膏分(硫酸カルシュウム)が多いのである。そういう灰であった。これが1年半後どうなったかというと流されて海に行く。海底に溜まる。よってここの北東側の海が回復が遅れた場所である。今も噴火前の状態には戻っていない。この細かい灰が海底を埋めていった。波が立つと濁って海草がみんなやられてしまう。3年ぐらい経ったら今とほぼ近い地形になった。若干、下の方に名残の灰が不透水となって水が溜まっている。
   灰が降ったとき車は大丈夫であるが、エンジン室に入ると調子が悪くなる。一番ダメージを受けたのは噴石でこの辺で2~3cmの噴石が降った。特に下沢地区であったが車のフロントでなく後ろカラスを破壊した。車の後ろが弱いということが解った。
    このあと、あすこに東屋が見えるが、火の山峠Δ任△襪これから行く。
   三七山駐車場からこれから行く火の山峠周辺を見る。
 
    昔は数千年前のことで、三宅島自体が出来たのは10万年〜7万年前で過去の歴史が少しづつ解っているのは過去7000年までである。それ以前については解らない。過去7000年前の間でも過去2000年ぐらい前のことが完全に解っている訳ではない。三宅島にはヘビがいない。基本的に海を渡れないからであろうか。御蔵島にもいるし神津島はヘビ島と言われるくらいヘビがいる。三宅島は何故かいない。基本的に海を渡れないからであろうか。考えられるのは三宅島は過去大噴火を繰り返しているからであろう。両生類も15年前にカエルが入り大きいカエルが一杯いる。〜1037まで。

   1043〜1108ヅノで埋もれた椎取神社にて―
   椎取神社の案内板より―[・・・神社に向かって左側の溶岩原は、昭和15年7月の噴火で埋没するまでは自然が創りあげた島内唯一の自然良港があった。事代主命が三宅島に渡られたとき、上陸の第一歩はこの地とされる。・・・「三宅記」によれば・・・三宅島における神話発祥の地でもある。平成12年6月の火山活動に伴い発生した泥流によりこの地域一帯が埋没した。三宅村]とある。
   泥流で埋もれた椎取神社周辺の植生を見る。
上の写真は壊滅した原生林と新生のオオバヤシャブシのある森。
中左の写真は壊滅した原生林の袖部に生えているカジイチゴは花盛りであった。
中右の写真は見事なカジイチゴの花をアップで観察。
   2.5mは火砕流で埋まったと言う椎取神社と鳥居。
白い花が咲いているのはカジイチゴ 今ではキイチゴとも言われるがオレンジ色の実がなって誠に美味しい。胴体から葉っぱがでているがこれを胴吹きという。木の中心は生きていて上は枯れてしまったので横から葉っぱを出して生きながらえようとしている。今、実はこの道は嵩上げしたので噴火の時は私たちが歩いている地面より下に道があった。ここはもしかすると火山弾が落ちているかも知れない。ここは泥流が来て都道で堰止められたいたのであるが泥流中に火山弾を抱えて流れてきているかも知れない。[火山弾を拾う。周りはカジイチゴ。]
    桜島に埋没している名所があるが、ここは深さは2.5mぐらい神社・鳥居が埋まっている。 [当時の写真を見る]。
   2000年7月14日灰が降った直後状態で右側に鬱蒼とした森が広がっていた。あすこの社が見えるがこういう状態で泥流で堰止められていた。右奥に椎取沢という川がありそこから泥流が流れ下った。2年半後の状態も見る。それから3年半後になると森がこうなった。
   そこに木が生えているがオオバヤシャブシであるが当時は無かった。ここ2年半位でこうなったのである。原生林は壊滅しているけれどこのオオバヤシャブシの森も変わって行くであろう。三宅島の赤場暁もそうであるがこの森もどう変わっていくか教科書にのっているが森の遷移ということでススキが入ってオオバヤシャブシが入ってシイやタブの木が入ってくれば森は変わっていくであろう。
   シイやタブノキであったので、いずれこれに戻っていく。今はオオバヤシャブシが生育している。そういう森にもどるのに300年〜400年はかかるであろう。すきまに種が飛んできて草がはいている木もある。現在地点はイ任△襦

   1125〜1140Σ个了各修砲董2000年8月の噴火の火山灰記録が見える。
   先ず火の山峠の案内板を読む。
   [火の山峠=昭和15年7月及び昭和37年8月の大噴火は緑に覆われた原生林であったこの地を一夜にして焼き尽くし、真っ赤に燃え滾った溶岩は谷間を火の河と化して流れ、遠く海を埋めた。 
海辺に見える赤く焼けた美しい火口は、昭和15年7月の噴火により一夜にして海中から吹き上げた山で、その名を「ひょうたん山」と呼ぶ。また、この山の右手の小高い丘は隆起し、その上に火山灰が降り積もって出来た山で、その名を「三七山」と呼ぶ。これら付近一帯は国立公園の特別保護地区に指定されている。東京都]とある。
   続いて降下火山灰の解説を聞く。
   火の山峠から北東にひょうたん山方面を展望する。
   続いて火の山峠から右手南西にの雄山中腹からの巨大ガリーを見る。
   灰色の灰は時期として7月の14~15日の火山灰であり、その後に土壌が発達している。
   もう少し北側へ行くと火砕流堆積物が載かって来てオレンジ色をしている。ここで若干オレンジ色の火砕流堆積物のそれが見える。若干、色が変わっている。結構雨で流されるので上が無くなっているかも知れない。これらの見える場所は限られている。黒いのは昔の土壌でその上の灰色の層が2000年の火山灰である。今回の噴火である。山を作っている岩石が粉砕された粉の火山灰である。水蒸気爆発のものでる。
   この上の地層は5~6cmであるがこの色を覚えておこう。同じようなものがいろいろなところで出てくる。火砕流は北側と北西側・南西側に出た。紫色のものある。お釜の底を造っていたもので、マグマはそこまで上がってこないので熱だけが伝わってきて、8月18日のものは火山灰が飛び出すのであるが、それはマグマからである。
   火山灰は夏場であり南西の風が卓越してたのでこっちに来たが8月18日は火山灰は真っ直ぐに上がった。8月29日もこのへんから北部にかけて降灰し坪田のほうには無い。何度も火山灰が吹き降灰したか、この層にクラックがある。降って乾いて又降ったと繰り返したかをやっているようである。29日以降噴火の結果がキチンと取れていないので不明。29日に降ってその後、雨が降って流されてきて再度堆積したのかも知れない。14、15で葉っぱが落ちたので、こういう風に灰の中に挟まっている。これは何百年後は葉の化石となるのかも知れない。2500年前の地層にもツバキの葉が出てくる。よって同じ状況が起きたのかな!と思う。かなり湿った灰が降った。こうやってみると割れ目が入っているのがわかる。ひび割れである。どこかで乾いてまた積もったのであろう。
    1130あすこの道のある辺りは割れ目噴火の天辺である。昭和15年の時はこの辺に人家がありその一家は行方不明になってその家の屋根の下から発掘されたのだった。道路辺りから火口壁が出来ている。昭和37年は向うであった。手前はもともとの海岸線であった。山が押し出しているのだ。

   1205伊豆岬にて―ここには火山豆石が見られ、新島・神津島の火山灰が見られる。
   伊豆岬にての景観。
   左に三本岳というが無人島の大野原島(安山岩)が見える。釣りの世界では超有名である。
   中のちょこちょこした島は神津島(流紋岩―白い溶岩―30km離れている)である。右側が台丘になっているのが新島(流紋岩―白い溶岩である)。(尚、三宅島は黒い玄武岩である)。
   新島の左にぺったんこの島は式根島である。新島の右横に富士山型の三角形が利島である。もっと晴れて入れば、右横に大島が見えるが今日は厳しい。年に何回かは新島の後ろに富士山が見える。  地層を見ると、上から1m程の厚さに、白い軽石が点々と入っているが、新島・神津島から飛んできた西暦860年〜800年代[後日確認する]の火山灰である。その前後向うの島が連続して噴火しているがその時の灰だと確認されている。これは三宅島のほぼどこでもこういう層順で見られる1200年前の鍵層(流紋岩)の灰である。この白いのが新島・神津島の火山灰となる。

   火山豆石のある層序を見る。下の写真は層序を拡大して見る。
   これは大島の温泉ホテル裏でも見られる。ここから下っていくと、古くなっていくわけだが、火山豆石が密集している層がある。八丁平豆石層と言われるもので、2500年前の八丁平カルデラの2500万年前に起きた噴火の堆積物と言われる豆石層である。これは何層にも豆石層があって、豆石の下の層は、泥流っぽい層があってそこに化石が一杯入ってくるのであるが、植物の茎みたいなものが入ってきて、これはさっき見た火の山峠のような現象が起きて葉っぱが沢山取り込まれたりして植物が挟まったのかな!と思う。
    その下はスコリア層があって八丁平スコリアと言われているもので2500万年前の山頂のカルデラを作ったときの噴出物と言われている。これより下っていくともっと古い時代の堆積物ということになる。
   八丁平スコリアと思われるもの。
 
    尚2000年噴火でも火山豆石が出来た。豆石は噴煙中の中で出来るもので、水が関与して雹が出来るように火山灰と水とが固まったものであろう。こまかい火山灰が吹き上がった時に水蒸気とともに出来るもとの思われる。また三宅は縄文期から弥生期まで遺跡が出て来る。スコリア丘は全体として1mぐらいまで積もったりもするので、かなりのダメージはあったかもしれない。[注、スコリアはマグマの飛沫(しぶき)である]。[この前東京のグループと来たときは、この海にイルカが泳いでいた]。
   〜1300まで。観察と昼食。
  


 [特記:2000まで夕食と風呂後、離れで勉強会(青谷先生)。2100懇親会。     翌日のこと。0700〜0730起床、船出港1430=2030竹芝の予定。]  [本日、午後予定] OK、А漾△茲辰騰Р爾療鬚良佑北斉行く。流紋岩の中に灰長石があるが割愛する。 ┨鼎ざ椋粛×、伊豆避難施設×、神社がありスダジイとタブの原生林があるが×。 今、車が潰されている小学校の跡1983年噴火(前回)跡で400個の住宅が埋まったところ。 展望台で雄山が見える、 院銑牡鵑譴譴亟兒,垢襦J火前は810mであったが今780mとなっている。

 

   1310阿古集落跡を遠望する。  
   1310阿古集落跡を遠望する。ここには「阿古集落跡」とある案内板がある。それによれば、
 [陽気で人なつこい阿古地区住民は、いち早く環境産業に着目し、自然の恵みを巧みに利用して島内唯一の温泉郷として隆盛を極めていた。
 昭和58年10月3日、大音響と共に二男山を吹き飛ばした噴火は膨大な量の溶岩を流出し、山谷を埋め尽くし、眼下一帯に広がる阿古集落を襲った。  19haにのぼる溶岩原の下には約400戸の民家が埋没しており、海岸線沿いに難をのがれた人家がわづかに往時を偲ばせている。  1300余名は冷静な判断と沈着な行動により全員無事避難という偉業を成し遂げたのである。  この避難行は奇跡の生還と称せられ後世に永く語りつがれることであろう。三宅村] とある。  
 「阿古集落跡」の案内盤から都道を歩きながら「溶岩で押し潰された車」を見に行く途中、
ハチジョウキブシの花芽がびっしり着いていた。
   1313出発
    1325〜1335阿古小学校跡と車を押し潰した溶岩流と押しつぶされたその車を見学する。
 「阿古集落跡」の案内盤から都道を歩きながら「溶岩で押し潰された車」を見に行く。
   1327この溶岩流が山の上から降りてきたのが左側の砂防ダムのあるところから降りてきた。最近泥流が出てくるので砂防ダムを作っちゃたので景観が台無しであるが、こちらから降りてきて流れ下り1時間半でここまで来ている。
    災害は着のみ着のまま、こういうことが起こると言う予想である。みな島の裏へ逃げたのであるが多くの人が溶岩が来る前に逃げおおせたが、50人ぐらい取り残されて阿古の漁港から船で逃げたと言う。この先に車が溶岩に潰された現場がある。

    1445阿古小学校跡前にて。
 阿古小学校の全景を見る。右手の校舎の間が溶岩で突き破られている。
 左は阿古小学校裏手の溶岩源の全景を見る。右は阿古小学校校舎間を突き破っているている黒色の溶岩にびっくり。
    緑に見えるとことろは土壌が流れて緑になったもので2000年噴火で泥が流れたものである。
   2000年噴火前はあすこは真っ黒だった。中に入れればガラスが溶けているところが見える。 焼爛れた机などが散乱しているけれども、ホンとはこれらをきちんと管理して見れるようにすれば良いといと思う。保存したのは賢明である。
    溶岩流本体は1100℃ぐらい。溶岩が冷えるのに何ヶ月かかかる。
    
 


    13:55メガネ岩を見る―1643年の溶岩流を見る。海岸に出た溶岩が丸く抜けたり切れているがもともとは繋がっていた。
 [錆ケ浜の北端の岬で絶好の釣場となっており、10数mに及ぶ切り立った断崖に海食のためメガネ状の穴が開いた。しかし現在は地震等で一方が崩れ、片方だけが残っている。  この付近は奇岩が多く沖合いに見える岩礁は大野原島で通称三本嶽と呼ばれている。三本嶽には世界的珍重のカンムリウミススメ(国天然記念物)が生息している。  このメガネ岩から眺めた三本嶽の落日は美しく島内随一されている。三宅村]とある。
  
   [続いてトイレ休憩]。
 続いてトイレ休憩所脇の溶岩をそばで見る。

 この溶岩流は山の方を見ると真ん中に囲まれところに丘が見えるがここから出ている溶岩である。そこの丸っこい塊の温泉施設の三角屋根の上にこんもりした森があるがあすこから出てきた溶岩である。あすこに1643年の火口がある。
   1416雄山林道へ左折。
 雄山林道を登っていくと14時22分過、南方に御蔵島が見えで1983年溶岩と思われるのが左手に見えてきた。

   1630展望台にて。標高505m。
   御蔵島が見える。御蔵島は6000年前の噴火と言われ、5500年間噴火していないので周りに海食崖が発達している。三宅島は噴火を繰り返しているのでぺたんこなので、裾野が広がっているのである。
 雄山の展望台にて地点から展望する。

    ここから雄山が見えるが煙が出ているところがカルデラ壁のスカイラインである。その裏側に巨大火口がある。手前の斜面になんとなくジグザク型が見えるが、かっての登山道である。一番最後の部分の駐車場の先は落こっちゃっている。一番正面右辺りに火口観測高感度カメラがおいてあったが落こっちゃっている。今観測中断している。火山ガスの測定器もあすこにあり東工大がやっているがお金がかかるということで観測は中断している。手前に人工物のY字型した泥流を流すため構築したものである。右手前に青いサイロが見えるが牧場の名残である。今白く見えているところの一帯は緑の牧場であったが今回の噴火でこの辺は30cmぐらいの降灰があった。稜線辺りは1m20cmの降灰が積もったのでこういう景色になったのである。ここは外側の外輪山の中であるが一進一退で斜面については春先は一寸緑になるが直ぐ枯れてしまう。あすこの青いサイロの先に牛舎が見えるがあの牛舎の屋根の上には噴石が沢山落ちた。最大1mのものあった。8月18日の時はまだ牛がいたが、噴石の直撃で16頭死んだ。それで慌てて牛を下ろした。8月18日の噴火で出た火山弾がこの辺に一帯に降り注いでいる。牧場だと最大径50cmであるがこの辺では3~5cmの火山弾がある。紡錘形の火山弾でなく[カリフラワー状火山弾]といっているが正にカリフラワーのような中からポケと膨れたような形をして[緻密な重い火山弾]として見つけることが出来る。さあ見つけてみよう!。1442[カリフラワー状火山弾採取]
 雄山の展望台にてカリフラワー状火山弾採取した。
 雄山の展望台から南方には三本嶽が遠望された。
      1450下山。


   続いて1457、最初は灰で始まっているが後から荒いものが落ちてくる。これは麓でも同じことが言える。さっきのカリフラワー状火山弾はこの層順から出てくる。8_18からでその上に8_29の火砕流堆積物がある。この火砕流堆積物は壁に対してT型で横から当たっていると確認された。最初は細かいやつで中途から火山弾となる。
 気象庁地震火山部火山課の火山観測装置も置かれている。
    橙色は1712年に出来た山である。噴火口になっていたので噴火口周りのスコリアは高温で酸化されてしまう。その前に黒いのを被ぶっているのは1983年の割れ目噴火で吹き上がったものがこちらへ東へ東へ降り注いだのでスコリアの山を覆っている。
    もともとあすこは凹んでいたが水は溜まることは無かったが2000年の噴火以降に火山灰が流されてきて水を貯める構造が出来た。(もともとは赤いスコリアで山になっていたが黒いスコリアが飛んできて覆った―割れ目噴火口に近いから―赤いのは高温にさらされるかどうかのの問題―スコリアは発砲してガス抜けしている)
   尚、斜面にカメラが付いているのが遠望された。
   (火山弾はもともとお餅みたいに粘り気がある状態で飛んで来て千切れたものである―真っ赤な溶岩が出て飛沫になりスコリアになる―赤い溶岩が見えたわけではないが地下深い溶岩だまりから何かの爆発力で出てきたのであろう)。
   1457牧場にてまず火山弾が落ちた家屋の天井を見る。 
 この辺は村営牧場の跡であるが、
廃屋の牧場事務所(左)と屋根を噴石が突き抜けた径40cm位の穴(右)がありびっくり!。
    1525〜1530神津島700年前の鍵層を見る。またガリーの砂防工事を写真新撮影。
    こういうところでも新島・神津島の白い火山灰[鍵層]が見つかるという地層である。この新島・神津島の白い火山灰が出てくるのでここは1200年前と確定するのである。(この辺三宅島の山を造ったスコリアが挟まれている)。しかし、点々と白いのが挟まれているので、どっちかが新島でどっちかが神津島であろう。
 こういうところでも新島・神津島の白い火山灰[鍵層]が見つかるという地層である。
   1532左側のガリーを見る。上側の砂防工事をやらない限りと都道は危険に曝されるので、ガリーの砂防工事が施工中であった(写真撮影)。ここはもともとガリーは無かったが2000年噴火以降に出来たガリーである。  
 ガリーは砂防工事が施工中であった。
   1544富賀神社へ下って行く。

   1547叡紂∩阿粒い魯謄ぅ屮襯汽鵐慣架遒任△襦2同砲阿販匹見える。
   侵食された海岸には2500年前のパン皮状の火山弾が良く見える。〜1607まで。
 2500年前のパン皮状の火山弾が良く見える侵食された海岸。
 2500年前のパン皮状の火山弾を観察。
 2500年前のパン皮状の火山弾を観察する参加者。

    1615何鯨挫咫衆じ店眷仕拊篭茲龍界である。
 左は新澪池を覗き込む。右は水蒸気爆発で吹っ飛んできたという溶岩は道路擁壁として利用されていた。
  かつて、火口湖で新澪池と言うのがあった。これは一番底は海水と繋がっていた。その後前回の噴火の割れ目噴火の時にマグマの水蒸気爆発し、その池を吹き飛ばして現在に至っているという。右手にマグマの水蒸気爆発で飛来したと言う石が点々とし、それが石積み擁壁となって利用されている(写真)。この上の上がると、良く見える。左の奥にとんがっているのが割れ目噴火の一番先端でスコリア丘であるが今、波で掬われている。展望台から新澪池を覗き込む。新澪池は左の火口から途切れているが、それが向うへ続いていて楕円形の池を作っていた。割れ目噴火で向うに1つ火口がある。左側にも火口があるが、そこに噴火口が開いてこの池を造った。前回の1983年のこと。割れ目噴火起こしたのはこの列で起きている。さっき車で降りてきたところに電柱があったが、さっきあすこを降りてきたのである。さっきの七島展望台の左位が割れ目噴火の先端であすこから割れだして海岸まで割れが達した。その中に火口10何個作っている。したがって一番下がここ新澪池とこことあすこの海岸である。
   タフリングはあの山の沖合いに出来たがまもなくの台風で無くなった。向うの火口壁には溶岩の岩脈が見えるのとのことで(溶岩の通り道が壁の中に見えるということで)学者らが良く来る。尚これは1763年の噴火口に水が溜まっていたものであった。水面の高さはかなり低く底の地面ぐらいのイメージである。今の底はもともとの高さと変わらないかも知れない。1763年の噴火孔に水が溜まったものであったが、当時そこにはトイレがあって噴火後のそれが残っていたから高さは変わってはいないと思う。〜1623まで。
    1635レンタル置き場。1640民宿着。


    2006_3_18、20時〜21半まで、夜の勉強。

2000年噴火について。
火砕流は2000_8_29と学者は言っているが実際は8_20から起こっている。8_18カリフラワー状火山弾が落ちてくる時こすれあって+と−に電化し壊れると言われるがどうか。
 この時15000mまで噴煙が上がったが熱があったことによるという。
 三宅高校では2000_8_18:59避難せよ!が出た。―2000_8_29までのビデオを見る。 〜0842まで。
 SO2は低温度でH2S(硫化水素)は熱があった場合発生する。これは5ppmでピーピーと検知する。池の水は硫酸イオンとCaイオンが多いがpH3位。
 2116私たちは何を支援すべきか?
[回答]必要なのは情報である。島民は十分支援されたto と考えられる。元気な島民は自立すべきあろう。問題は現在も島に帰っていない人はどうすべきか?である。ガス面ではどうすべきか。ある面ではしんどい。
 島の産業として、アシタバは種子をまいたところ。キヌサヤエンドウはこれから。観葉植物。アカメイモ(サトイモ)もこれから。漁業は駄目。土建が潤っている。観光しかないであろう。
 引退した人のガイドが始まっている。
~2125終了。


[メモ補足事項1]



―工事中、写真追加します、ご期待下さい―



(この項 了)

[ トップページ] [ Sのトップページ] [ 地質観察会]
[ 三宅島巡検総括] [ 三宅島巡検第1日] [ 三宅島巡検第2日] [ 三宅島巡検第3日]