歩兵第124聯隊「福岡聯隊」秘話

1 軍旗関連の推考 事務局長  上村清一郎
2 岡連隊長ガ島に死 工藤雷介(元・歩兵124連隊通信中隊・陸軍軍曹)
3 軍旗を腹にガ島撤退 福岡連隊史 杉江 勇 
4 軍旗に関する秘話 熊谷経男(元・歩兵124連隊第一大隊本部
5 ガ島撤退時の秘話 防衛研究員 近藤新治


124聯隊旗
第124聯隊は、ガダルカナル島からの撤退時も撤退した後も、この連隊旗に翻弄された。

軍旗関連の推
上村清一郎

 現代社会では、戦争当時の軍人の軍旗に対する考え(忠誠心)には理解が難しいことと思います。

 軍旗は、聯隊創設時、宮中において天皇陛下から聯隊ごとに親授されたものであり、その聯隊の命でもあるのです。よって、それを紛失したり敵に渡すことは、許されることでは無かったのです。また、部隊に万が一の場合は焼却する建前であり、これを奉焼(ほうしょう)と言い、奉焼した部隊長は責任をとって自決することが不文律とされていました。

 このような厳しい中で、
ガダルカナル島でも3ケ聯隊の軍旗が消滅しています。
  ● 17年8月 一木支隊第28聯隊・聯隊長が軍旗を焼いて自決。
  ● 17年10月第2師団第29聯隊・聯隊長が軍旗とともに突撃し聯隊長と軍旗の状況不明。
  ● そして、18年1月 第124聯隊の軍旗となります。

 また、西南戦争における小倉歩兵第十四聯隊の乃木少佐、また、戦況が悪化した大東亜戦争末期の満州をはじめ、南方のビアク島、サイパン島、硫黄島 レイテ島などに派遣されていた聯隊で奉焼しています。そして、軍旗の最後は、その部隊の玉砕を意味しています。
  
        〓軍旗の遭難と作戦中の奉焼

 軍旗を捧持し、兵隊の志気を鼓舞する効果はあったでしょうが、そこには大変な締め付けと忠誠心が要求されていたのです。中国戦線では、旗手だった父も1年間の任期が終わったときの感想を、「ほっとした」と軍隊手帳に記しています。それだけに、ガ島では連隊旗手でおられた小尾靖夫少尉のご苦労の数々は理解しているつもりです。


 それでは、124聯隊の軍旗にまつわる考察に入ります。

以前、第二次世界大戦戦史研究所の所長佐賀井喜彦氏から、ガダルカナル戦末期の歩兵第124聯隊の軍旗に関して問い合わせがあった。

 その内容は、「軍旗を小尾少尉が腹に巻いて帰還したと言われているが、調査していて、いろいろ分からない点が多い。小尾少尉に面会を申し込んだが断られたし、問い合わせにも応じてもらえない。そちらで分かっていることがあれば教えて欲しい。」ということだった。

 124聯隊の軍旗は、父・上村清少尉が初代旗手として、天皇より親授されたこともあって関心を持っていたことでした。なにぶん、素人の調査で十分とはいえないが、分かったことや疑問点を列記してみたいと思います。

 会報「つくし」に掲載された手記や戦記などを読むと、以下のような点が浮かび上がってきます。

推考1 ● 軍旗を埋めて撤退。工藤雷介軍曹の手記にその経緯が書かれている。

  手記、「昭和18年1月16日、アウステン山、べラバウル高地聯隊本部付近に、形見分けをし、そのあと埋めて撤退した。」と記載がある。

推考2 ● 誰が軍旗奪回の命令を出したのか。

  黒沢参謀は1月20日朝、岡聯隊長の一行に遭遇し、軍旗奪回命令を出したと記録している。
  一方、工藤雷介軍曹は1月17日、丸山道とマタニカウ河との交叉点に到着。二日間大休止したと記録し、聯隊長の別命で森口中尉と第十七軍指令部に行く途中で、第三十八師団伝令の曹長に会って命令書を見せてもらったとある。月日も17日から19日の間ではないだろうか。

  ※ 砥板名誉会長の手記に、1月19日軍旗捜索隊が出発した事が書かれている。

推考3 ● 誰が軍旗捜索に行ったのか。

  調査の結果、左記の方々が行かれたものと思われる。

 氏名    階級    所属         状況

 岡明之助 大佐   第百二十四聯隊長  戦死2月1日
 一色博 少佐     第三大隊長       戦死2月1日
 森口行雄 中尉   聯隊通信隊長     戦死2月1日
 熊谷啓次 中尉   第一機関銃少隊長  戦死2月1日
 今川清 中尉     不明           戦死2月1日
 今長谷 少尉     不明           不明
 小山田宗人 少尉  聯隊副官       戦死2月1日
 福永壽太郎 少尉  聯隊砲小隊長生還  (ビルマ戦死)
 小尾靖夫 少尉    聯隊旗手        生還
 黒木文雄 軍曹    第十中隊        戦死昭和18年1月23日福岡県糟屋郡出身
 村山    軍曹    不明           戦死月日不明
 小河章能 兵長    通信中隊        戦死2月1日
        以上12名。

            小尾、福永両少尉が生還

 ※ 資料及び各種ガ島戦記、西島・工藤・高崎・砥板各氏、伊藤正美氏の記録、陸士53期同期生の記録他

推考4 ● 聯隊本部が置かれていた、アウステン山べラバウル高地は、昭和18年1月20日の時点で米軍に完全に占領されていた。軍旗捜索隊12名の方々はべラバウル高地の軍旗の埋めた場所まで行くことが出来たのか。

 米軍資料で、1月23日にべラバウル高地に足の負傷で歩けず、部隊撤退に際し追求できず置き去りとなった本部付きのT少尉が、米軍に収容されて捕虜となっている(後日アメリカより帰国)。
 はたして捜索隊はべラバウル高地に侵入できたのだろうか。

推考5 ● 小尾少尉の手記にアウステン山べラバウル高地で、埋めた軍旗を掘り出したとの一言が記録にない。

  小尾少尉が2月7日軍旗を腹に巻いて帰還されたとあるが、あれだけの重量の軍旗でさらに水に濡れて重たくなったものを、衰弱した身体で行動が可能だったのだろうか。

推考6 ● 山本参謀の手記にあるように軍旗の一部だったのではないか。

推考7 ● 昭和20年終戦後、ビルマ(現ミャンマー)で軍旗は焼却されたが、それに参列した砥板さんによれば、軍旗は完全で奇麗だったと証言している。

 数日の脱出行で、水に濡れたり、形見分けでちぎれたりした軍旗ではなく、奉焼(ほうしょう)された軍旗は、再交付された軍旗だったのではなかろうか。

 他の部隊のことであるが、記録によると、戦時中、福岡県と佐賀県の県境、背振山に飛行機が墜落し、その飛行機に再交付の軍旗が乗っていたとの記録もあり、軍旗の再交付は行われていた事実がある。
 第124聯隊旗も、再交付された可能性が高いと思われる。

 現在も、お元気な小尾靖夫元少尉が真相を話されない理由として、いろいろな事が考えられるのですが、これにより、軍旗捜索隊12名の方々、特に未帰還の10名の方々の最期が判明しないことは残念である。

 勝手ながら、やや乱暴に推測させていただくと、軍旗捜索隊12名の方々はべラバウル高地の軍旗の埋めた場所まで到達することができず、、岡大佐以下は責任をとって自決された。しかし、旗手の小尾靖夫元少尉が最初から持っていた軍旗の一部を持って帰還し、撤退時の体裁を整えたと推測できるのです。



福岡連隊史 抜粋
杉江勇 著

162〜169頁まで引用させて頂きます
軍旗を腹にガ島撤退

 岡連隊の全滅を、からくも救ったのは、前防衛庁航空幕僚長・源田実空将だ。

 面子や意地もからんで、攻撃続行か撤退かを決めかねていた大本営で、ときの航空参謀・源田実が、「近くに飛行場のないガ島での空中戦に勝算なし」と断定した日に撤退が決まったからだ。昭和17年もまさに暮れようとする12月30日である。翌31日午後11時、宮中大広間の御前会議で、撤退は月のない1月30日から2月7日までの間に行なうと決定した。

  昭和18年1月15日、撤退の詔勅は、ガ島第17軍司令部に伝達された。

 だが、敗戦につぐ敗戦で、士気の衰えている現地部隊に、撤退をいますぐ明らかにすれば大混乱になる。大本営はそれを恐れた。その結果、ガ島の将兵をあざむく命令を出した。“撤退”は連隊長以上に知らせるにとどめて、あとの将兵には“転進して敵を撃つ”と伝えた。しかし、ガ島戦は最後の最後まで、岡連隊のうえに不幸をしわよせしてくる。

 撤退を知らなかったばかりに、さきに留守部隊を率いて参加した山崎正人副官も岡連隊長も戦死、第2大隊は全員玉砕する運命になる。山崎大尉は福岡商業卒業後、すぐ志願して入隊したほどの武人で、アウステン山でも、「皇軍二千六百年の歴史をけがすな」と兵を激励していたが、18年1月10日、すでに大本営が決めていた撤退を知らぬため、危険をおかして、単身で他部隊との連絡に行き、山中で敵に囲まれて35歳の生涯を敵弾に散った。

 撤退命令を知らなかったのは、山崎大尉だけではない。

 岡連隊長もそうだった。はじめ四千人で編成した威風堂々の岡連隊が、アウステン山に孤立したときは総員3百人に足らず、しかも、山はぐるりと敵に包囲されて、他部隊との連絡も途切れた。「舞鶴」「鎮台」を合言葉に、無線隊長・菅省吾中尉(現福岡市土手町)が、無線班と暗号兵を連れて、連絡のために脱出をはかったが、ついに果たさず、山崎大尉も戦死したあと、餓死者続出のいまとなっては、これ以上、ア山にこもるものは死を意味するだけとなった。岡連隊長が進退について心を砕いているとき、ようやく〇参謀が、大本営の命令をもってア山に着いた。

ところが、ここでまた、まことに奇怪な、これもいままでの、どのガ島戦史にも書かれなかった事件が発生する

 大本営の方針で撤退を“転進”といつわるのは決まっていたが、〇参謀は、はじめ岡連隊長にまで、「わが軍は、あくまでも攻撃を続行する。その足がかりとして、岡連隊はあくまでもア山を死守せよ」という“大本営命令”を伝えたといわれる。それが、どこからともなく、他部隊が兵器までも捨てて退いているとの情報が入り、岡連隊将兵は、「これはおかしい。あれは私物命令ではないか」と疑い、怒った。「〇参謀をぶった切れ」、では、なぜ〇参謀は岡連隊を全滅させるような奇怪な“私物命令”を出したのか。

  その話をあとで岡連隊旗手・小尾靖夫少尉が泣いて私に訴えました。

 「川口支隊長もおられず、いわば“孤児”になった岡連隊を犠牲にすることにより、〇参謀は、自分の師団を無事に撤退させようとしたのでしょう」さきに、敵中横断の中山将校斥候として名をとどろかせた中山博二氏は、福岡市本町の自宅で初めて世に明らかにする“恐るべき真相”を語るのだ。その後、小尾少尉が軍旗を守って脱出、引き揚げ船上で、ばったり〇参謀に出会うと、〇参謀は、「お前らは、死守命令に違反して逃げてきたのか」と面ば(罵)した。

 カッとなった小尾少尉は、持っていた歩兵第124連隊の軍旗を突きつけ、「軍旗に向かって、なにをいうのかッ」大かつ(喝)しざま軍刀のツカへ手をかけたが、周囲の者にとめられて斬れなかった。少尉は、この無念さを、剣道五段の中山中尉に打ち明け、岡連隊の恨みの一刀を〇参謀にあびせることを誓い合った。だが、二人とも〇参謀と巡り会う機会がなく、ようやく会ったのは、すでに戦い終わって帰国後だった。時勢の変化のため、恨みをはらす機会は、ついに失われてしまった。

 アウステン山での岡連隊長は、ともかく様子を見るために退いてみる決心をした。

 しかし、ガ島を撤退してしまうとは考え得ず、退いても友軍の様子を見て、もう一度、アウステン山に帰ってくるつもりの岡連隊長は、第二大隊を様子がわかるまでの守備に残した。また退く途中で敵と遭遇するのを恐れ、軍旗をアウステン山に埋めた。

 撤退は敵にこそ発見されなかったが、飢えとマラリアのため悲惨をきわめた。上田利一兵長(現福岡市中小路)は、傷をうけて第五十六野戦病院にいたが、病院とは名ばかり。患者は、野外のムシロの上にころがされ、薬も少ないので、直る見込みのある者から優先的に飲ませ、どうせ助からぬと思われる者には、はじめから投薬せず、見殺しにした。その病院も閉鎖を命ぜられ、患者もともに移動を開始した。

 だが、14日間もジャングルの中を退くには、どうしても患者を連れては歩けなくなった。ここの患者には、第一回総攻撃のとき、真ッ先に敵陣に突入して戦死した国生少佐の第一大隊が多かった。いよいよ険しい山道を登らねばなくなくなったとき、歩けぬ者30人は銃口をノドにあて、あるいは手りゅう弾を腹に抱いて、全員、自らの命を断った。「弾はあるか」「はい、あります」それが去ってゆく者と、自決する者との別れの言葉だった。別の退却部隊のなかからも自決者は相いついだ。
第12中隊長・尾藤大尉(静岡県出身)は、全身四カ所も負傷して行軍不能になり、「残念だが、ここで自決する。家族には戦死したと、はっきり伝えてほしい」と頼んで自決。安川宏軍曹(福岡県鞍手郡出身)もマラリアで倒れて、「戦友の足手まといにならぬ」と自決した。

 こうして、体一つで退却するのがやっとのとき、修猷館のラグビー選手だった第三機関小隊長・青柳惣三郎中尉(福岡市東中洲出身)は、部下とともに最後まで重い機関銃をかついで離さなかった。

 このころになって、岡連隊長は、ようやく、いまの退却が一時的なものではなく、ガ島からの撤退であることを知った。岡連隊長の驚きは、どんなであっただろう。「軍旗を山に埋めたままで、どうして連隊だけが島を去られようか。万難を排して軍旗を取り返さねば」、また雨が降っていた。

 川口少将が罷免されたときと同じに、前途の不吉を暗示するような灰色の雨だった。

 きびすをかえす岡連隊長に続いて一色博少佐、小尾少尉、今長谷少尉、小山田少尉、福永少尉(福岡県鞍手郡出身)、それに村上軍曹(同県筑紫郡春日町出身)ら十余人が一団となってアウステン山へ逆もどりした。

 また一行とは別に、まだア山を死守していた第二大隊にも撤退命令を伝えるため、陶山隆軍曹が伝令となって向かった。だが、すでにア山は九分どおり敵の手中にあり、陶山軍曹は、第二大隊の守備地まで行きつかず戦死、このため、さきに大隊長・鷹松少佐を失った岡連隊第二大隊は、最後までガ島撤退を知らずにア山を死守、万余の敵をうけて全員玉砕した。

 いま第二大隊で生き残っている者は、ア山死守前に負傷して、後送された者がごくわずかにいるだけだ。

 生存者の一人、第二大隊第八中隊長・松田専次氏(現福岡市東浜町)は、「自分は第一回総攻撃のあとで谷に落ちて負傷した。後送されるとき、飛行場に日章旗を立てずに去るのは、いかにも心残りだと口惜しがったものだ。後送された自分が生き、残った戦友のほとんどが死んでしまった」と、人の世の定めをしみじみと思うのである。第一大隊の敗残者の多くは、撤退途中で自決して果て、第二大隊全員いまはなし。
岡連隊は、ますます数を減じていった。一方、軍旗を取り戻しにいった岡連隊長らは、アウステン山までたどりついて軍旗を掘りおこし、小尾少尉がしっかりと腹に巻いて、ふたたび敵中突破の脱山に移った。

 だが、一行が焼けるノドを川の水でうるおしているとき、背後にしのびよった敵から、機関銃の一斉射撃をあびた。距離30メートル、避けるひまもなく、バタバタと水中に撃ち倒された。岡連隊長も水煙をあげて川へ没した。生き残ったのは小尾、福永少尉のみ、一度死んだふりをして川辺に伏せ、敵の油断をみすまし川に飛び込んで逃げた。

 小尾少尉は、ただ一人、岡連隊の待つ方向へと進んだ。ともすれば、くずれてしまいそうになる。そのたびに軍服の上から腹を押える。軍旗の手ざわりがじーんと胸に響いてくる。ああ、これあればこそ生き抜かねばならぬ。数百千の戦友の血で染めた軍旗。「オレは一人ではない、みんなとともにいるのだ」小尾少尉は、ただそれだけの意識にささえられて歩き続けた。事実、岡連隊の将兵は、軍旗を待ちに待っていた。

 軍旗を持たずに退く岡連隊を見た軍司令部は、〇参謀の私物命令を知らぬだけに激怒した。

 「貴様たちは、なんたるザマだ。軍旗がなければ、一兵もこれ以上、撤退することはならんぞッ」岡連隊だけが、いつまでも途中のポネギ河付近で、とり残された。横をつぎつぎに他部隊の将兵が退いてゆく。「オレたちはどうなるんだ。軍旗はまだか。岡連隊長殿は・・・」将兵は、くる日もくる日も、不安といらだちのうちに過ごした。そして17日め、幽鬼のようによろめいてくる一人の男を見た。「あッ、あれは小尾少尉じゃあないか」「そうだッ、少尉殿だ。」夢中で駆ける兵に、少尉はありったけの力をふりしぼって、軍服の胸をさっと開きざま叫んだ。

 「歩兵第百二十四連隊の軍旗はここにあるぞッ」「軍旗が・・・・ああ、軍旗が・・・・」将兵は、みな手を合わせて軍旗を拝んだ。軍旗を中心に、撤退集結地カミンボの海岸への行軍がなおも続く。

 有田定上等兵(現福岡県糸島郡前原町)がカッケで倒れたのを、「そこにおれば敵にやられる。どうせ死ぬならオレが殺してやろか」小川新軍曹(現糸島郡志摩町)が、そういって有田上等兵のグビにツナをつけて引っばった。グビがしまって苦しいので、有田上等兵は歯をくいしばりながら歩いた。「クビにツナをつけてでも、と、たとえによくいうが、本当にやったのはオレたちだろう」いま、ニ入して笑いあえるのも、平和の日なればこそだ。また安部田一樹上等兵(福岡市千代町出身)は、ポキギ河付近で傷のため動けなくなり、さきに無人島から半数脱出した組の木村守曹長は、安部田上等兵を寝かせたマクラもとに部下をならべ、「ささげえ、銃ッ」と上等兵への最後の別れをしてカミンポ海岸までひいた。

 海岸で駆逐艦を待っていると、2日後に安部田上等兵が、ふらふらになりながらも、ツエにすがったどり着いたではないか。「安部田ッ、お前きたのか。よく生きていてくれたなあ。 「曹長殿ッ」ニ人は抱き合って泣いた。昭和18年2月1日夜、第三水雷戦隊の駆逐艦20隻がカミンポ沖に姿を現わした。ついに撤退の日だ。昭和17年8月7日、ガ島飛行場設営隊が、この島に上陸して以来、半年にわたる激戦に、ガ島を死体で理めた二万余将兵の恨みを残して。

 しかも、まだうめき声をあげている生存者までも収容し切れずに撤退するのだ。

 撤退人員、陸軍9千8百人、海軍8百30人。うち、ガ島の捨て石にされようとした岡連隊はわずかに2百余人。10人のうち9人以上が戦死してしまったのである。こうして駆逐艦は、心身ともに傷っいた将兵を乗せてガ島を離れた。人間を一人でも多く積むために、小銃や機関銃が、あとからあとから海へ投げ捨てられた。
「さらば、戦友たち」だれかが、暗いガ島にむかって挙手の礼をした。その手は、いつまでも下げられず、ガ島は次第に小さくなり、やがてヤミに消えた。あれほどまでに岡連隊を苦しめ、銃でうちのめし、飢えでなぶり殺しにしたガ島は、いま岡連隊の目の前から消えたのだ!

 「幾軍団たお(斃)れ くちたるガ島には 赤きヤシの木生ひ につらむか」
       中山博二中尉の手帳につづられた悲歌。

 地中のヤシの根までにも、血の色が染み通ったかとさえ思われるガ島。そこから脱出した実感が、駆逐艦内で、夢にまで見たにぎり飯を手にしたとき、はじめて耐えがたい痛みのようになって全身にひろがった。将も兵もむさぼり食い、泥のように眠った。だが、同じ時、ガ島には撤退に間にあわなかったばかりに“悪魔の島”を、なおもさまよい歩いている兵がいたのだ。戦傷のため、撤退軍と同一行動がとれぬまま、ガ島に見捨てられた将兵は、最後の駆逐艦が島を去るとき、まだかすかながら息のあった者まで含めると、岡連隊と他部隊とを合わせて4百人に達したといわれる。彼らは不自由な体で丘の土をかきむしり、木にしがみつきながら駆速艦を見送らねばならなかった。だが、救助隊としても、ぐずぐずしていると将兵を満載した多くの艦が爆沈される。「大の虫を救うためには小の虫を殺すのもやむをえん」撤退方針はこれで貫かれた。

 戦傷者は天をのろいながら、狂い死にのようにして息絶えていった。

 安増伊吉軍曹(現福岡市飯倉)は、アウステン山死守で全滅した第二大隊に属していた。

 胸を撃たれて倒れ、意識不明になっているところを、米兵に蹴起こされた。「貴様らッ、早くオレを撃ちやがれッ」ここを撃つのだと胸をゆび指して叫んだが、その場で捕えられてニュージーランドの病院へ送られ、昭和21年2月、ふたたび踏めぬと覚悟していた福岡市万行寺前町の母ヨネさんのもとに帰った。

 戦死の公報があってから3年目の“生きていた英霊”だった。

 一方、ガ島撤退軍は、サイゴンのツドム飛行場で慰霊祭を行なったが、岡連隊三千余の遺骨がない?仕方なく慰霊祭に使った位はい(牌)と、ガ島出陣前にパラオに残しておいた将兵の衣服を集めて焼き、この灰に爪や髪をつけて白木の箱にすこしずっ分けて収めた。俗名書きし位牌の灰の乏しきを故山に帰る英霊とする遺骨の世話には、また中山中尉があたった。一握りの灰が故山へ帰る。五体満足に生み、育て、病気の時は、「神様、どうぞわたくしを、この子の身代わりにして下さいまし」と一筋に祈った母親の手元へ帰ってゆく。母親は、そのあまりの軽さに涙するであろうに・・・・。

 昭和18年9月6日、三千余の英霊は、博多駅に無言の凱旋をする。

 白マスクをした出迎え将兵の肩から、白布でつるされた白木の箱がえんえんと続き、“ひとだま”のようにヤミに浮かびながら、深夜の東中洲をゆくのだ。長い長い列は、ガ島の激戦を知らぬ者にも、戦いの悲惨さをまざまざと見せつけずにはおかなかった。沿道にならんだ在郷軍人も、国防婦人会員も、声もなくうなだれた。遺骨は市内大工町徳栄寺にひとまず安置、10月5日、西部第46部隊練兵場で岡部隊・原隊合同告別式が行なわれた。

 祭主は可西部隊長。ガ島生き残りの松田専次大尉(中尉から昇進)が、岡連隊長に代わって、歩兵第124連隊長になった宮本薫大佐からの弔辞を代読した。

 「しかれども、屍を馬革に包み、骨を戦野に埋めて困難に殉ずるは、これ武人の本懐にして・・」松田大尉の声がしめり、やがて絶句した。絶句の空白をおおうように、すすり泣きがおこり、次々 におえつ(鳴咽)を伝えて会場にひろまった。海軍機関学校の制服を着た、長男の忍君の手をひいてぬかずく岡連隊長サダ未亡人。

  白木の箱の前の、黒い小さな喪服。その対照の一点に、ならべられた遺骨のすべての悲しみが集まりただようのだった。

 深まる秋の風が、練兵場を吹きぬけていった。




軍旗について
第一大隊本部  熊谷経男

 昭和17年5月頃より、大本営は西南太平洋方面の前進基地としてガダルカナル島に飛行場を建設するため、海軍陸戦隊1ケ大隊非戦斗員設営隊二千名で隠密裡に建設工事が進められ、完成と同時に米軍の察知するところとなり新鋭武器にて装備した海兵隊2万名の大部隊上陸により、飛行場を占領し、吾が陸戦隊並びに設営隊員は全滅した。
この飛行場奪回作戦がガ島戦のはじまりであった。8月中旬、一木支隊が上陸奪回作戦を行ったが利あらず全滅した。続いて吾が川口支隊、ついでジャバから第二師団、スマトラから第三十八師団と投入されその兵力約3万2千名、飛行場奪回の夢ならず2万数千の兵力を失った。これがガダルカナルの戦斗であった。

 当時パラオ島に待機訓練中の川口師団に一木支隊急援の命令が下された。

 制海制空権のない南海の孤島ガダルカナル、正確な作戦地図さえなかったと聞いた。9月2日、タサワロング海岸に上陸することが出来た。昼なお暗いジャングを切りひらいて前進し、飛行場奪回の為9月12日第一回総攻撃を、10月24日第二回総攻撃を敢行したが、共に失敗アウステン山陣地の死守命令により、これが攻防戦にはいった。このころは食糧弾薬共につき果てて、ただ銃剣一本に6ケ月余の戦いであった。

 昭和18年1月中旬頃は全山敵の包囲するところとなり、連隊長はこのままでは全滅のほかに途ないと、次期作戦を企図して海岸地帯タサワロングに集結を命ぜられた。連隊長は、軍旗を奉持して敵中を行動することは敵に軍旗を奪取される恐れがあると、一時土中に埋めて飛行場奪回後に取りに行くように決意され、アウステンの一角に軍旗を埋めて司令部の位置までたどりつかれたのである。「つくし6号31頁、黒沢参謀手記の通りであるので再読願いたい」。

 連隊長は軍旗を奉持していないことで強い叱責を受けられ、直に取り返してくるよう師団命令により歩行出来得る将校下士官20数名にて、再び敵中を軍旗奪還のため引き返されたのである。このとき第一大隊長石堂少佐に連隊長代理を命ぜられ、決死の軍旗奉還作戦であった。もうこのころは一人で堂々と進軍出来る将兵はいなかった。

 私達は大隊長と共に懸命の力をふりしぼり、戦友相抱き転んでは倒れ、倒れては転んでタサワロングの陣地について軍旗奉還にいかれた連隊長一行の帰還を待った。「つくし6号33頁、山本参謀手記34頁、小尾少尉の手記を再読頂きたい。私共が見聞きした真実の手記である」。2月上旬、私達は連隊長のお帰りを待つと共に歩哨線を張り、警戒の任についた。その歩哨線に意識喪失者の様な姿で小尾少尉が発見された。「小尾少尉殿、岡部隊の兵隊叫と数名がかけより、抱きとめると意識を失われられた。かつぎあげて石堂大隊長のもとに走一「大隊長殿。小尾少尉殿です」「オーツ、小尾帰ったか」大隊長は飛び出してこられ、小尾少抱きかかえられ「小尾しっかりしろ」と2、3度ほほを打たれた。

 正気をとりもどされた少尉は「唯今帰りました軍旗はここに」と、腹部を指さされた。

 軍旗紋章は雑嚢に入れて、カヅラで身体にぐるぐきでしっかりとゆわいつけられていた。大隊長は涙ながらに軍旗を取りあげられ、舎に奉掲された。居並ぶ将兵は共に号泣しなふし拝み、小尾少尉の労に感激した。2月6日、タサワロングより10数粁の地点「マルボボ」に新しく敵の上陸の報に接し、歩行出来得る者は直に之が攻撃に当たり、身体的行攻撃不能の者は現在地に残り、追跡して来る敵を撃退せよとの軍命令であった。私達は日暮れを待ってマルボボに向かって一前進をした。約4、5粁位前進した頃、突然先頭より行軍停止命令が伝達された。そして、各部隊は準備された舟艇に乗船、今夜間海軍駆隊艦の迎えが来る予定で有るので駆隊艦で転進するとの命令であった。従って各兵員は武器その他一切を捨て、飯盒のみを持参して全員が乗船した。

 暗夜の海上に待機すること数時間、水平線の彼方に点滅する合図と共に幸運にも海軍駆隊艦に収容され、2月7日友軍機の飛ぶブウゲンビル島に上陸した。ここでガダルカナルの最後の撤退であることを知らされた。ここで特に力説したいのは小尾少尉が生命を賭して奉還された軍旗の存在である。軍旗が還ったことにより、歩124連隊生存者2百数十名は最後の撤退命令を受け撤退出来たのであった。

 小尾少尉は生命の大恩人である。この事実を見聞した戦友が未だ数十名は、県内におられることを特記したい。

 5月15日ラバウル出帆、6月15五日仏印の西責に上陸した。昭和18年9月5日、印度インパール・コヒマ戦に投入され、ビルマ経由チンドイン河を渡河、アラカン山脈を越えてコヒマ陣地に突入した。この戦いも制空権のない戦いであり、吾れに利あらず敗退白骨街道とも呼ばれ惨情であった。終戦の8月15日、現在はイラワジ河畔最終の決戦陣地の死守命令で、日夜の攻防戦中であった。終戦の悲報を知ったのは8月17日頃だったと思う。天を拝し地に伏して号泣して命を聞いた。

 軍旗は昭和20年8月24日、ビルマの一民家の庭先で軍命令により、連隊長以下本部関係その他の将兵居並ぶ中にて奉焼(ほうしょう)されたと云う。奉掲された軍旗に点火され、最後に音をたてて焼け落ちたとき、大号泣の嵐がビルマの山野にコダマしたと云う。

 私達は収容所を点々 し、指定され英軍の強制労働を強いられ、一日二合の白米を与えられ指定労働に従事させられた。何時かは妻子や父母、同胞の待つ祖国の夢をみながら耐え忍んだ。昭和22年3月22日宇品港に上陸、23日復員許可により故郷に帰った。


アウステン山 アウステン山の壕
アウステン山南方斜面(米軍の砲撃で木々は倒木した) アウステン山の斜面に作られた壕