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土(文化座第34回本公演) 舞台

1964年2月21日(金)〜26日(木)、全6回、都市センターホール

【解説】
1963年に上演された作品の再演である。そちらの項目も参照のこと。

【役名】 住職/有志B
初演時と同じ役。

【備考】
・本公演終了後の3月4日(水)から26日(木)まで東海道・関東・信州巡演。
・上記地方巡演日程の詳細。(『劇団文化座五十年史 上演年表』〔1992年、劇団文化座〕より)
  3/4(水) 吉原市民会館
  3/5(木)、3/6(金) 浜松市民会館(計2回)
  3/7(土) 静岡市公会堂
  3/9(月)、3/10(火) 三島公会堂(計2回)
  3/11(水) 小田原市民会館
  3/16(月)、3/17(火) 高崎・群馬音楽センター(計2回)
  3/18(水)、3/19(木) 宇都宮・栃木会館(計2回)
  3/20(金) 群馬会館(計2回)
  3/21(土) 長野市民会館
  3/22(日) 諏訪・岡谷公会堂
  3/23(月) 松本市民会館
  3/24(火) 名古屋・名鉄ホール
  3/25(水) 津・三重県文化会館
  3/26(木) 四日市市民ホール


赤穂浪士 #39「似た俤」

1964年9月27日(日) 21:30〜22:15放映、NHK総合、NHK大河ドラマ、モノクロ作品

【ストーリー概略】
今晩は、昔の恋人さちによく似た女おとせ(幸田弘子)にあい、このおとせとずるずると沈みこんでいく小山田庄左衛門(山内明)をはじめ、柳沢出羽守(坂東三津五郎)の命を受けて、日本橋の内蔵助の隠家にあばれ込もうとする渋江伝蔵(植村謙二郎)ら柳沢家の隠密たち、その渋江たちを得意の居合抜きでけちらす浪士千馬三郎兵衛(伊吹総太郎)、それに大石らの動きを千坂兵部に知らせるかどうかで仲違いをし、険悪な関係におちいるお仙(淡島千景)と堀田隼人(林与一)らを描く。(朝日新聞名古屋版・朝刊)

【役名】 柳生家の隠し目付・渋江伝蔵の配下:浪人(四)
柳生家の隠し目付である渋江伝蔵が大石内蔵助親子の住まいと思われる家を突き止め、当主柳沢出羽守の指示とは悟られぬよう内蔵助を斬ろうとするシーンに登場。台本によると場所は「日本橋石町の大石の住居と近い街路」で、「頭巾で顔をかくした渋江伝蔵、ほかに渋江の腹心の浪人五人ほどが、道の前後にわかれて立っている」とある。ここで襲撃の段取り、すなわち二、三人が喧嘩をしたふりをして内蔵助の家に暴れ込み、出てきたところを渋江伝蔵が斬るという手筈を確認。そこに赤穂浪士の一人である千馬三郎兵衛がやって来て、一同に対し大方の素性は分かっていると言う。渋江配下の児玉三四郎と浪人の一人が刀を抜こうとしたところ、千馬の居合い抜きで児玉は袴の紐を、浪人(一)は片袖を、浪人(二)は髷を切られる。更にやって来たのが大石無人(内蔵助の遠戚)。無人は渋江と以前にも顔を会わせたことがあり、「柳沢の隠し目付と聞いたが、これは主人の言いつけではあるまい。柳沢様がこのような馬鹿なことを申しつけるとは考えられぬ」「さっさと引きあげることだ。おれもそろそろ、はずみとやらで喧嘩をしたくなってきたからな」と牽制。渋江はいきり立つ児玉や浪人たちを抑え、結局何もできないまま彼らを連れて表通りのほうへ急ぎ足に出て行く。このシーンでセリフのある浪人は(一)のみ、ト書きに個別の記載があるのは(一)と(二)のみだった。
なお台本の配役表によると浪人(一)〜(三)役は大久保正信、矢野昭、南治の各氏とすべて劇団文化座の座員であり(浪人(五)は空欄)、石橋さんの出演も劇団を通じてのものだった可能性が高い。退座は同年の8月31日付なので、文化座時代の最晩期の仕事だろう。

【備考】
・浪人は第40話には登場しない。第41話と第42話には、豪商中島五郎作の屋敷から運ばれる物がどこ宛てで中身が何なのか(実は討入道具を堀部安兵衛宅に運んでいた)を探り、そこにやってきた大石無人および大石三平と立ち回りをする「浪人十名」が登場している。第39話と同じく渋江伝蔵の配下の浪人なので引き続き石橋さんも登場していた可能性もないとは言い切れないが、台本の「浪人十名」の配役は空欄で詳細不明。
・サブタイトルが「似た“梯”」となっている資料もあるが、正しくは「似た“俤(おもかげ)”」。小山田庄左衛門が、昔の恋人の面影を持つ岡場所の女に出会うエピソードが描かれている。
・残念ながら作品の映像は現存していない。(全52話中、現存しているのは第47話「討入り」のみ。)
・大河ドラマで総集編が作られるようになったのは1965年の『太閤記』からで、本作に総集編は存在しない。ただし放映翌年に外務省の依頼を受け、中南米の日系移住者向けに2時間58分に再編集された16mmフィルムが作られたという。蜘蛛の陣十郎など架空の人物の出番を抑え、討入りを頂点にしたダイジェストになっている。1965年12月16日読売新聞朝刊に関連記事あり。

【関連書籍】
原作大佛次郎『赤穂浪士(上)(中)(下)』(1928〜29年、改造社) ※初出:『東京日日新聞(夕刊)』1927年5月14日〜1928年11月6日
原作では渋江伝蔵は柳生家隠し目付ではなく、小林平七(小林平八郎がモデル)と同じく吉良家の付人の一人という設定だった。内蔵助を斬るために浪人を連れて暴れ込もうとするシーンもない。

【台本】
早稲田大学演劇博物館(配役表に「石橋雅美」の印字あり)
配役表は本名の「石橋雅美」で印字されている。実際のクレジットも「石橋雅美」だったと思われる。


第7の男 #15「妖精は死の匂い」

フジテレビ、モノクロ作品 (※放映日時については備考欄参照)

【ストーリー概略】
フジテレビが秋のナイター明けに用意している新番組「第7の男」の撮影が、七日、東京・赤坂のプリンス・ホテルで始った。/映画でヒットした「〇〇七シリーズ」のテレビ版といったところで、自動車、飛行機、ヘリコプター、モーターボートなどを駆使して、胸のすくようなアクションをとねらっている。/主人公葵紳太郎は新聞・雑誌などに論説を寄稿するコラムニストで、汚職、密輸、産業スパイ、暴力団といった社会悪に体当りで挑戦する。東映の今井健二が起用された。また彼の秘書雨宮早智子になる三瀬滋子は、イギリス、中国、日本三カ国の血を受けた変りだね。(1964年7月9日朝日新聞・夕刊)
葵紳太郎事務所の下の部屋で絞殺されていた男・飯島は会社ゴロまがいのトップ屋だった。迎賓ホテル建築の入札に関して大越建設をゆすっていたらしい。ひょんなことで死体の発見者となった葵が事件を調べていくうち、飯島の友人で少し前に自殺した柴田という大学院生の存在が明らかになる。迎賓ホテルの設計コンクールに一席で入選したのは大越建設社長の息子だったが、その応募作は大学の同期だった柴田が設計し大越に売ったものだった。入選したと知って惜しくなった柴田が金をせびるようになったため、大越は黒崎興業の手を借り柴田を自殺に見せかけて殺害。彼らは更に、応募作の秘密をつかんだ飯島も始末したのだった。

【役名】 黒崎興業社長の配下:滋野(シゲノ)
黒崎興業は表向きは高級クラブを経営していますが、おそらくは裏社会の組織でしょう。大越建設のバックに付いており、飯島の死の秘密を探ろうとする葵紳太郎に対し、手を引けと何度も脅しをかけてきます。
滋野はチェーンを凶器として携帯しており、それを用いて飯島を絞殺したようです。殺しを「仕事」と表現し、実行するのにためらう素振りも見せない人物。しかし捕らえた女が葵の女秘書に助けられて逃げ出す所に出くわした時には「なかなか頭いいな…だけど女の子はあんまり出しゃばらねぇ方がいい。俺はあいにく女をいたぶるのは大嫌いなタチなんだ」と言い、黙って出口の方に視線をやって逃がしてやる粋なところもありました。黒崎に命じられて葵の命を狙った際には、得意のチェーンで首を絞めるだけでなく、間合いをはかりながら振り回し手首を搦め捕るという技も見せます。ただし殺害には失敗。黒崎に報告の電話をいれ、命じられてバーで待機していたところ、口封じのため仲間に殺されてしまいました。
なお石橋さんからお伺いした話によると、残り1シーンを残したところで急性虫垂炎により入院となってしまい、手術からわずか10日でラストの立ち回りを演じることとなり、大変な思いをした作品だったそうです。

【備考】
・クレジットは本名の「石橋雅美」だった。
・『第7の男』は1964年10月27日(火)〜1965年1月19日(火)の20:00〜20:56にフジテレビで放映された。1週1話なので「全13話」となる。本作のフィルムは失われたとされていたが、2009年8月にCSファミリー劇場が「約半世紀ぶりに発見された『無法松の一生』『戦国群盗伝』『第7の男』のネガフィルムをHD化し、10月から順次放映していく」と発表したpdf)。(ネガフィルム発見の経緯そのものについては、ファミリー劇場からも、親会社で3作品の制作会社である東北新社からも発表されていないようだ。)『第7の男』がファミリー劇場で放映されたのは2010年10月から翌2011年1月にかけて。驚いたことに、46年前の本放送時とは異なり「全15話」構成で、当時の第4話目(1964年11月17日放映)が第14話の扱いになっているという違いもあった。
ここで当時の新聞テレビ欄やテレビ情報誌を再確認してみた。確かに第13話(1965年1月19日)が「最終回」だという説明は見られない(※)。特番等で何週か空いてから第14話と第15話が放映された可能性や、放映の時間や曜日が変更した可能性も探ってみたが、調査した範囲内でそういった事実は確認できなかった。何らかの事情で急遽放映枠が打ち切られ、お蔵入りしていたのではないかと思われる。(※その後の調査で、朝日新聞大阪版のテレビ欄には「終回」、同じく名古屋版には「最終回」の記載があることが判明した。東京版および西部版には記載なし。朝日新聞記事データベース・聞蔵IIにより確認。)
ちなみに1965年1月26日、2月2日の同枠は、前年に放映された「一千万人の劇場」シリーズの再放送で、2月9日からは新しくホームドラマ『刺身とビフテキ』が始まっている。1月21日日本経済新聞夕刊のコラム「タワー」には(直接『第7の男』が言及されているわけではないが)、2月9日から『刺身とビフテキ』が放送開始されることを述べたうえで、不況でスポンサーが視聴率にシビアになり、アクションものよりも無難なホームドラマが好まれる傾向にあるという現状も書かれていた。
『第7の男』が再放送も含めて地上波で放送されたことがあるのかについては不明。ひょっとしたら第15話が日の目を見たのは2011年1月のファミリー劇場での放映が初めてだったのかもしれないが、詳しいことはわからない。なお、当時のテレビ情報誌『週刊TVガイド』には、1964年12月8日(第7週目)の放映予定として「妖精は死の匂い」のサブタイトルが掲げられている。(各新聞のテレビ欄を見ると実際には「後を見るな」が放映されたようだ。)また雑誌『テレビドラマ』(ソノレコード)1965年2・3月合併号に掲載の「月間局別放映テレビドラマ一覧(昭和39年12月1日〜31日)*」にも、12月8日の放映として「妖精は死の匂い」のサブタイトルがあった。本来「妖精は死の匂い」は第7話としてこの日に放映される予定があったとも考えられるため、当出演データは1964年の欄に掲載しておく。(*この一覧は1965年2・3月合併号のみの掲載で、実際の放映を元に作ったリストなのか、予定を元に作ったリストなのかは不明。なお12月1日はサブタイトル記載なし。15日は「後を見るな」、22日は「湖上に架ける橋」、29日は「夜の罠」と、『週刊TVガイド』の予定表に一致している。)
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・以下、ファミリー劇場で放映された時の全15話のサブタイトルと、当時の新聞テレビ欄で確認した本放送の年月日である。ファミリー劇場において話数(放映順)が何に基づいているのかは特に記されていなかった。映り込んでいる一般人の服装等から各回の撮影時期を予想してみたが、制作順での放送というわけでもないようだ。(大雑把に、#1〜#5および#14は夏、#6〜#9は秋、#10〜#13は冬に撮影したと予想。#15の撮影時期は、滋野が街中を逃げるシーンから判断すると初秋か。台本の末尾には脱稿日と思われる日付が1964.8.10と印刷されていた。)
  #1「切り札の7(セブン)」(1964/10/27)
  #2「黒い炎」(1964/11/3)
  #3「恋と紙幣(かね)と銃弾と」(1964/11/10)
  #4「香港から来た女」(本放送時放映なし?)※1964/11/17には「誘惑の指輪」が放映された。
  #5「背骨(バックボーン)にパンチ」(1964/11/24)
  #6「危険な恋人」(1964/12/1)
  #7「後を見るな」(1964/12/8)※『週刊TVガイド』(1964年12月11日号)の放映予定では「妖精は死の匂い」だった。
  #8「泥棒作戦」(1964/12/15)※『週刊TVガイド』(1964年12月18日号)の放映予定では「後を見るな」だった。(『週刊TVガイド』に「泥棒作戦」の放映予定が書かれた号はない。)
  #9「湖上にかける橋」(1964/12/22)
  #10「夜の罠」(1964/12/29)
  #11「赤い醜聞(スキャンダル)」(1965/1/5)※『週刊TVガイド』(1965年1月1日8日新年合併号)では“「赤いスキャンダル」または「踊り出したジョーカー」を放送”とされていた。
  #12「踊り出したジョーカー」(1965/1/12)
  #13「バラの棺(ひつぎ)に香水を」(1965/1/19)※『週刊TVガイド』(1965年1月22日号)でのサブタイトルは「棺桶に香水を」だった。台本に表記されているサブタイトルも「棺桶に香水を」である。
  #14「誘惑の指輪」(1964/11/17)※本放送時は第4話として放映されていた。
  #15「妖精は死の匂い」(本放送時放映なし?)

【台本】
個人所蔵(配役表空欄)
表紙に書かれている話数は「第 話」と数字が空欄になっている。


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