柴田 勝家

柴田勝家像 柴田勝家越前主要拠点

柴田 勝義
佐久間 盛次  柴田妹 勝家
勝安 勝之 安政 盛政 勝敏 勝豊
勝政 佐久間盛政弟 養子 姉の子


1522年 柴田勝義の子として生まれる。ほかに26年、27年、30年説がある。
1548年 織田信長弟 信勝付きの家老となる。
1556年 稲生(いのう)の戦い。信長を廃し信勝を擁立しようとするが、信長に敗れる。信勝と共に信長に降参する。
1557年
   〜
1575年
信長に従い、各地を転戦する。殿軍を任される回数は一番多く、信長に一番の信頼を置かれていた。
1570年には近江の長光寺城で、有名な 「甕割り柴田」 の伝説を生む。
1573年 越前朝倉氏滅亡。近江浅井氏滅亡。
1575年 越前一向一揆討滅。
越前八郡四十九万石を与えられ、北国軍の指揮を任される。
北ノ庄城を築き始める。
1577年 手取川の戦い。上杉謙信軍に敗れる。
1580年 金沢御坊を攻略。佐久間盛政を入れる。
白山麓の山内衆のこもる鳥越城を攻略。これを最後に加賀での一向一揆は鎮圧される。
1581年 京都で開かれた馬揃えに参加。馬揃え途中、上杉景勝の越中侵攻の知らせがあり、前田不破金森らと共に帰国の上即時越中出陣を命ぜられる。
1582年 魚津城落城。
本能寺の変。
この頃お市と結婚。
清須会議。勝家は信長三男 信孝を推すが、嫡孫 三法師を推す羽柴秀吉に敗れる。
1583年 賤ヶ岳の戦い。秀吉に敗れる。
敗走途中に府中城に寄り、利家と最後の別れ。
北ノ庄落城。妻の お市 と共に自刃。

信長への反乱 このページのトップへ
織田信長の父 信秀は、嫡子の信長に那古屋城、次男の信勝に末盛城を与えた。勝家は信勝付きの家老として、信勝を補佐する。勝家の出自はあまり身分の高い家ではないらしく、その前から多くの戦に出ており、かなりの功をたてていたための抜擢らしい。
勝家は、信長をうつけと呼ばれていた時代から跡継ぎと認めず、信秀死後葬式で抹香を祭壇に投げつけた信長を廃し、威儀を正して式に臨んだ信勝を擁立することを企てる。
1556年織田家宿老 林秀貞美作守兄弟と謀って信長に反乱。稲生で勝家の千と林美作守の七百が信長勢七百と戦ったが敗れた。
惨敗した勝家は信長を見直し、頭を剃って信勝と共に降伏する。その後も信勝は信長に取って代わろうとした。勝家はこれを諌めたため次第に疎んじられるようになる。信勝に失望した勝家は信長と謀り、信長が病気を偽って見舞いにきた信勝をその場で殺してしまった。この後、勝家は信長に仕え、家臣中一番の信頼を置かれるようになる

甕割り柴田 このページのトップへ
1570年朝倉氏攻めに失敗した信長は、六角承禎への備えとして南近江の長光寺城へ勝家を入れた。六角が大軍をもって城を包囲し、水の手を絶った。勝家はわずかに残った水甕を槍の底でことごとく割ってしまい、、兵に決死の覚悟をさせて城を打って出た。六角の軍はこの勢いに押され退却したという。のち勝家を「甕割り柴田」と呼んだという。
この話は真偽が分からず、つくられたものといわれている。

長光寺城 一の丸跡
北ノ庄城下町建設このページのトップ
勝家は越前の北ノ庄に入ると、北ノ庄城を築きはじめた。しかし、城普請のための人数を制限して農地回復を優先したため、完成に4年もかかっている
領地経営としては農地回復のほか、刀さらえ、検地、楽市楽座、三国湊の保護を行なった。また城下を流れる足羽川に九十九橋(つくもばし)といわれる半分木製、半分石製の橋をかけ、九頭竜川には四十八隻の舟を使って舟橋をかけた。福井の柴田神社には九頭竜川舟橋に使った鉄鎖が残されている。

明治42年橋を架け替える時に橋げたで里程元標を造り橋に立てた。その後この西光寺に移された。写真右の石柱。 現在の九十九橋
九十九という名から長寿橋といわれている
北ノ庄城址に再現された半木半石の九十九橋。

信長死後このページのトップへ
魚津城の落城直後に本能寺での信長の死を知った勝家ら北国衆は、本拠地の防衛の不安からそれぞれの領地へ戻った。越中には上杉景勝が、能登には遊佐三宅らの畠山家臣ら旧勢力と石動山がそれぞれ侵入してきた。勝家は明智光秀を討つため柴田勝豊らを出陣させるが、出陣のわずか三日前山崎の合戦で明智は羽柴秀吉に討ち取られてしまう。
信長の後継者を決める清洲会議では、山崎の戦いで明智光秀を討って信長のかたきをうった秀吉の発言権が高く、信長三男 信孝を推す勝家らは嫡孫を推す秀吉に押し切られる。中央を抑えられた勝家は、これ以後秀吉との立場が逆転していき、がまんできなくなった翌年秀吉と賤ヶ岳で戦い敗れる。 

玄蕃尾城主郭と物見台 賤ヶ嶽古戦場

北ノ庄城炎上このページのトップへ
1583年賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れた勝家は、敗走途中に前田利家のいる府中城に寄る。戦わずに敵前逃亡した利家に対し勝家は、自分はこれまでだから、これからは義理は忘れて秀吉に味方し、前田の家を守るようにと声をかけたという。利家は秀吉に降伏し、北ノ庄攻めの先鋒を務めた。
秀吉は足羽山(愛宕山)に本陣を定め北ノ庄城を攻める。最後を覚悟した勝家は城に残った者たちと別れの宴を開く。そしてお市とその娘たちを逃がそうとしたがお市は残り、三人の娘たちだけが秀吉の元に送られた。お市は自分が生き残っては今度は秀吉に嫁がされることになるのが嫌で、また勝家に殉じて自ら命を絶った。勝家は二百の部下と天守閣にこもったが、ついに城に火をかけ自刃した。この時勝家は天守閣を包囲している秀吉の兵に、わしの切腹の様を後々の手本とせよ、と言って腹を切った。九重の天守はこのとき焼失してしまった。勝家とお市の墓が西光寺にある。
辞世
    夏の世の 夢路はかなき跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす 
                                    (柴田勝家)
    さらぬだに うち寝るほどの夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな
                                        (お市)

このとき勝家に人質として預けられていた利家の三女 麻阿が侍女に助けられ脱出してきた。お市の娘たちと同じく勝家に助けられたといわれている。

勝家とお市の墓(西光寺)
また丸岡城主勝景と勝家実子の孫次郎が合祠されている。
勝家愛用の梅(西光寺)
勝家が生前愛用したという。
お市の方碑(自性寺)
天魔ヶ池付近(足羽山)
秀吉はこの付近に北ノ庄城攻めの本陣を置いたという。
天魔ヶ池(足羽山)
かつて織田信長も一向一揆を討伐する際に陣を置いたという。



盛政このページのトップへ
「鬼玄蕃」と呼ばれる猛勇
1555年 尾張で生まれる。勝家の甥。
柴田勝家の北国軍に参加。勝家の武将として加賀平定に戦功があった。
1580年 尾山御坊を落とし、加賀国を与えられる。尾山御坊を修築し尾山城とする。
1582年 本能寺の変。魚津城から尾山に戻る。能登畠山旧臣に攻められた前田利家の能登へ救援、これを撃退。
1583年 賤ヶ岳の戦い。中川清秀隊を撃ち降すも進退をあやまり、柴田方敗退の原因となる。落ち延びるが捕らえられ、宇治槙島城で切られる。

勝豊このページのトップへ
15??年 尾張で生まれる。勝家の姉と吉田次兵衛の子。
1575年 柴田勝家の代官として越前豊原城に入る。
1576年 丸岡城築城。
1582年 清洲会議後長浜城に入る。冬、秀吉軍に攻められ長浜落城。勝豊は秀吉に降伏。
1583年 勝家に出陣を命じられるが、秀吉に懐柔され上洛。賤ヶ岳の戦い前に病死。

勝安このページのトップへ
1557.年 尾張で生まれる。佐久間盛政らの弟。
1577年 柴田勝家の代官として越前村岡山城に入る。
1580年 勝山城築城。
1582年 山崎の合戦を聞いた勝家により勝豊らと出陣。
1583年 賤ヶ岳の戦いで討死。




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