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織田城 |
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戦国時代 |
朝倉氏一族の朝倉景綱が丹生郡織田に居を構える。 |
1573年 |
景綱は織田信長に降伏。朝倉氏滅亡。景綱は織田景綱に改名。朝倉遺臣が景綱のもとに集まる。 |
1574年 |
一向一揆が蜂起する。景綱は一向一揆に加担し、富田長秀を長泉寺城に滅ぼす。
織田信長の越前一向一揆討伐軍が侵攻してくる。景綱は再び信長方に付いたため、一向一揆が織田城を攻める。景綱は兵を残したまま城を脱出し、敦賀に逃亡する。城は一揆により落城し、破棄された。 |
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南主郭跡。
南主郭と北主郭がある。 |
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土塁
南主郭にあった土塁。
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郭跡。
南主郭に付属する郭の1つ。 |
織田景綱館跡 |
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織田妙見堂 |
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館があったといわれる織田町御館字。
館は東西90m、南北77mあった。 |
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御館字にある川。 |
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右大臣織田信長公供養塔。
織田町内妙見堂前に建てられている。近隣の篤志家が建てたらしい。 |
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織田城は丹生郡織田に居を構えた朝倉景綱の詰の城だった。麓の居館へは約2.5kmある。
景綱は朝倉義景、織田信長、一向一揆、信長とめまぐるしく所属を変えた。それは他の朝倉義景の家臣だった者と同じだ。しかし景綱が他の朝倉家臣と違うのは、一向一揆と抗争中城を捨て500名の兵を置き去りにしたことで、これはさすがにどうかという感じがする。城を捨てて敦賀に逃げた景綱は、その後行方知れずになったという。
また景綱は、近江より撤退中織田信長に刀根坂で敗れた義景が木の芽で反撃に出ようとするのを止め、信長が府中まで来た時降伏している。
現在城跡は藪で登山道も無い。道無き山を登った山頂は、詳しくは藪で判らなかったが、郭がいくつか確認できた。他に土塁や竪堀、畝状竪堀などがあるらしいが土塁以外判らなかった。麓の館跡にもそれと判るものは何も無い。
(参考. 織田町史) |
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城の種類 |
案内表示 |
地図表示 |
駐車場 |
道の状態 |
山城 (連郭式) |
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藪漕ぎ |
地図 |
城跡 こちらへ→ 館跡 こちらへ→ |
織田陣屋 こちらへ→
1850年大野藩は織田にある領地四千六百余石の統治のため陣屋を置いた。 |
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禅興寺門。
陣屋の門の遺構といわれる。廃藩置県のとき払い下げられた。 |
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陣屋跡地。
鎌坂地区の台地にあった。 |

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