府中城
福井県 越前市


城の種類 ・・・ 平城
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越前市役所
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武生駅
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現在 ・・・ 越前市役所
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越府(府中)城址碑

時代 出来事 城主
1575年 府中十万石を前田利家と佐々成政と不破光治とで分割し、利家が朝倉氏の府中奉行所だったこの場所に府中城を築く。 前田利家
1581年 前田利家が能登一国を与えられ七尾に移り、府中城には利家長男 前田利長が入る。 前田利長
1583年 賎ヶ岳で敗れた柴田勝家を追い越前に侵入した羽柴秀吉に、前田利家親子は府中城にて降伏。
1584年以後 前田利長が加賀・能登に移った後は丹羽長秀・木村定光・堀秀冶らが入る。 丹羽長秀
木村定光
堀秀冶
1600年 結城(松平)秀康が越前六十八万石太守として北ノ庄城に入る。 結城氏
1601年 松平家家老 本多富正が府中に入る。以後明治維新まで本多家の統治が続く。 本田氏
1874年 跡地に進脩小学校(武生東小学校)が建てられる。1956年移転。
1882年 跡地に本田富正を祀る藤垣神社が建てられる。1932年移転。

本田富正公顕彰碑。(市役所前)

入府400年を記念して2001年に建てられた。
府中本多家の初代富正の治績を称した碑。
正覚寺の山門。

この山門は本多氏時代の府中城表門を移したものといわれる。
府中城が取り壊される時に移築された。
竜泉寺山門。

この山門は本多氏時代の府中城勘定奉行所の門を移したものといわれる。
竜泉寺には本多家の墓所がある。


越前府中城はもともと朝倉氏の府中奉行所があった場所に築かれた。
織田信長の越前攻略後、前田利家佐々成政不破光治とともに府中十万石を与えられ、彼ら三人は府中三人衆と呼ばれた。
領地は均等に三万三千石与えられ、利家は府中の朝倉氏の奉行所跡に城を築いた。現在そこは市役所が建てられ、越府城址跡の碑がある。
利家は賎ヶ岳の戦いで柴田勝家側につき羽柴秀吉に敵対した。
しかし秀吉と利家は兼ねてより親しく付き合いがあり、賎ヶ岳では攻めよせる秀吉軍を目前にして戦場放棄。勝家をも置き去りにして府中城に戻っていた。
賎ヶ岳での勝利後勝家を追って越前に入った秀吉は、前田利家を降伏させるため府中城を訪れた。
この時秀吉は、友を訪ねてきた様に気さくに単身で城に入り、利家の妻まつに湯づけを求めたという。
当然敵対の責任を取らされ、殺されると思っていた利家は秀吉に降伏し、北ノ庄城を攻める先鋒となり、勝家とを攻め滅ぼした。
利家は勝家を親父殿と呼んで慕っており、また市は主君信長の妹だけに、城を攻める利家の心情は相当つらいものがあっただろう。
ちなみに三代藩主前田利常の母親は、この府中近くの土豪の娘で、まつの侍女をしていて利家の側室になったらしい。
関ヶ原の戦い後結城秀康の家老本田富正が三万九千石を与えられ武生に入ってからは、陣屋風の居館が建てられ「お茶屋」と呼ばれた。
城郭は造られなかったが、堀や土塁などの防御施設があったようで、城といえるような造りだった。
そのため一国一城令後は、幕府の視察があった時視察使が泊まる旅館には、”旅館の者は巡察使から本多氏の居館について尋ねられた時には「お茶屋のことは良くわかりません」と答えるように”というお達しがあったという。
                                                         (参考. 福井県の歴史散歩
                                                              たけふ歴史探訪、掲示板)


                    宝円寺         こちらへ→   古城町
前田利家両親の供養塔。

父 利昌の法体石像(画像右)と母 竹野氏の宝篋印塔(画像左)。
利家によって納められ、宝円寺墓地内の祠に安置されている。
曹洞宗 宝円寺。

前田利家は府中城主時代に宝円寺の大透圭徐に帰依し、信長軍に焼き払われた宝円寺を再興した。その後、利家が能登に移ると七尾の町に(現 長齢寺)、金沢に移ると金沢の町に宝円寺を建立した。

松の念持仏厨子。

前田利家の妻の松の念持仏として大宝寺に伝えられていた文殊菩薩坐像を安置している。毎年5月25・26日には奉賛会によって祭礼が行われている。
                    竜泉寺         こちらへ→     市役所前
本多家墓所。

竜泉寺は本多家の菩提寺で、初代富正から10代副元までの墓が並ぶ。
本多家3代長員公墓所。

本多家の江戸屋敷はかの吉良上野介の屋敷の隣だった。
本多家の3代目長員(ながかず)の時に赤穂事件が起こる。
討ち入りの時、かねてからこのことあり、とみていた本多家では、提灯を吉良家との塀の上に掲げ、討ち入りを助けた。
これを感謝した義士の一人堀部武庸が屋敷を訪ねてきて、記念の品を送ったという。

武生の名の由来碑。

見知乃久知の碑。
「崔馬楽」の1首の中に武生の名が初めて出ている。
武生騒動。

10代本多副元(すけもと)の時に版籍奉還があり、本多家は陪臣のため華族に列せられなかった。しかし、府中の住民らが明治政府に副元を華族に列するように直訴し、その罪で住民が死罪に処せられるという騒動があった。これを武生騒動という。そののち副元は男爵に列することができた。