
| 「コザ市」 ◇戦前は人口7千人ほどの越来(ごえく)村。農村。 1945年4月、米軍は嘉手納に上陸し、字胡屋に野戦病院・物資集積所等建設。 米兵が「コザ」と呼ぶようになる。(胡屋の誤読、美里村古謝との混同?) ※「難民収容所」を開き、「キャンプ・コザ」と呼んだ。 戦火で旧村落は破壊され、T流入者Uが多い。 その後、米兵相手の飲食街が立ち並び、1956年「コザ市」に。 ※1974年、美里村と合併し、「沖縄市」となる ◇総面積の63%が基地 人口約6万8千人(内約54%が女性 /夜間人口は9万人にのぼる) 市経済の約80%を基地に依存(労働人口の約80%がサービス業に従事) (1970年当時) ◇1970年前後の外国人犯罪(ほぼアメリカ人) 年間千件の外国人犯罪(殺人・強盗・婦女暴行等凶悪なものが多い) 年間3千件の交通事故 →これら全てがMPによる処理(証拠隠滅)、非公開軍事裁判(上告ができない) →無罪・軽罰に処理されてしまう |
| ///////// コザ暴動 ///////// 1970年 9/18 糸満ロータリー付近、米兵(軍曹)の酔っ払い運転で、歩道を歩いていた女性(54歳)を圧殺。 →青年たち中心に、MPへの事故車引き渡しを拒否。ロープ・テントで、監視体制をつくる。 →事故対策協議会(地元青年団・人民党・社会党・教職員会など)発足、警察を通じて米軍に申し入れ。 ※司令官の謝罪・軍事裁判の公開・遺族への完全賠償を要求 →12/11「証拠不十分」により無罪 1970年 12/20 コザ市午前1時、軍雇用員の男性、米兵(教務兵)の運転する乗用車にはねられる。 MPは被害者を放置し、事故車を持ち去ろうとする。 →千人近い群衆、MPを囲む「どうせまた、無罪か!」 数人の投石に怯えたMPは数十発の威嚇射撃をする。 MPに挑み「ファイト・ミー(やるか!)」「たっくるせ!」 ピストルを発射しながら、MPは逃亡する。 →事故を起こした教務兵は袋だたきにされる。 MPカー・米軍トラック・黄ナンバーの乗用車を引きずり出し、次々と火をつける。 ※家屋に飛火しないよう、道路の中央に引きずり出してから、火を放っている。 家屋から略奪の被害届けは一件の報告もない。 →午前2時半、5千人を超えた群衆は、中之町交番・諸見交番にも、投石をはじめる。 胡屋十字路〜普天間〜北谷、ゲート通り〜嘉手納第二ゲート、次々と米兵車輌に放火。 →米兵2百人(カービン銃武装)・機動隊百人で、ゲート付近に阻止線をはる。 群衆はなだれ込み、ガードボックス・米人学校などに放火。 米兵2百人に沖縄人ガード50人を加え、ゲートから押し出される。 機動隊5百人が増援され、MPと群衆の間にわって入る。 →午前4時半、各所に機動隊・米軍(ガスマスク姿)の阻止線、上空のヘリからも催涙ガスをまく。 →夜明け頃、群衆はどこともなく引き上げ始める。 黄ナンバー75台炎上、19人逮捕、警官5人・沖縄人十数人・米兵十数人が負傷(警察把握)。 1971年 1/8 騒乱罪適用。10人(バーのボーイ・マネージャー5人、工員2人、無職3人)を逮捕 →騒乱罪では起訴できず。 |
| (関係図書) 『流動 74年?月号』 「コザ暴動・燃え尽くされた黄ナンバー」穂坂久仁雄,1974年 『流動 78年?月号』 「コザ暴動」布川徹郎,1978年 『新沖縄文学 50号』 「コザ暴動」宮城悦二郎,「コザ反米暴動」今郁義,1981年 『沖縄少数派』 「実録・コザ暴動」仲宗根勇,三一書房,1981年 『炎上』(小説) 伊佐千尋,潮出版社,1981年 『知られざる沖縄の米兵』 「コザ反米騒動」高嶺朝一,高文研,1984年 写真集『KOZA ひと・まち・こと』 沖縄市役所,1997年 『わたしたちの「沖縄問題」』 「コザ暴動の背景にあったもの」稲嶺しのぶ,ボーダーインク,1998年 『米国が見たコザ暴動』 沖縄市企画部平和文化振興課,沖縄市役所,1999年 『週刊金曜日 351号』 「コザ暴動から30年」目取真俊,2000年 |