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自閉症と情緒発達:第1章、第2章

ほどき心理相談所

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目次

第1章 はじめに

自閉症は情緒の遅れ/情緒発達の要約 

第2章 情緒発達から見た自閉症

第1節 集中とこだわり

システィマティックな捉え方/自閉症のテレビドラマ/集中。視野が狭い/集中。固さとこだわり/自閉性の改善/細かいことを気にする/こうあるべきだというこだわり/目が合わない/活動の転換がうまくいかない/落ち着きのない自閉症の子/甘えがない。母がいて当然

第2節 くつろぎ性の情緒の欠乏と出来事への興味

くつろぎ性の情緒の欠乏/くつろぎ性の情緒の現れ/乏しい満足感/満足感の発達/くつろぎ性の情緒の量/情緒の豊かさは強さだけでない/本当の結果の意識/結果を意識して喜ぶ/出来事を楽しむ/人への興味/結果の理解/結果を喜ぶ/人の模倣/出来事への興味/指さしの理解/信号の理解/意識の広さの発達/裏読み/微細なコントロール/情報処理の効率化

第3節 愛着の深まり

愛着とは/緊急事態の終了後の安堵感/安堵感を活用した働きかけ/様々な愛着/愛着の育て方/不安の種類/人見知り/しがみつき/愛着の深まり/行動制止/接近と回避の葛藤/やりとりを楽しむ/一段落感からまとまり感へ/クレーン現象/役割交替/興味のレベル/人からの学習

第4節 思考と情緒

活動の抽出/全体を意識する/部分から全体像を描く/見立て遊び/人間を意志ある存在として見る/志向性/変化の受容/変化を楽しむ情緒/変化か固定的関係か/変化の理解と音楽/程度の理解/あいまいさの受容/多様性と多義性の理解/外見にとらわれる/自分とは独立した人の意図/理解の修正と補強/心の重層化

第5節 信頼と共感の発達

安心感と落ち着き/安心感は受容性を増す/安心感は積極性のもと/安心感は信頼感のもと/共感の発達/達成感/誉められて喜ぶ/自信の発達/感動を共有しようとする/情報交換を楽しむ/言葉の理解/価値観の内面化/オウム返し/ふと自分の世界に入る

第6節 発達の特異性

おとなしい・不機嫌になりやすい/オレ線型(キッカケのあるタイプ)/オレ線型(徐々に変化するタイプ)/情緒と落ち着き/テキパキとした対応性/主体性の理解/モノの比較と競争心/自己評価/対立と心の通い合い/役割意識と誇り/集団とルール意識/グループ意識と協力/感覚障害(知覚過敏)/身体的緊張/パニック/睡眠障害/高機能自閉症とアスペルガー症候群/自閉症の療育で大切なこと

第3章 情緒発達の評価ここをクリックしてください。

第4章 自閉症児への働きかけ ここをクリックしてください。

第5章 あとがき ここをクリックしてください。

第1章 はじめに

自閉症は情緒の遅れ

 自閉症の問題は、情緒発達の遅れにあると考えています。しかし、現在では自閉症は認知障害と考えられているために、情緒と言っても振り向いてくれる人はわずかです。私は、情緒のあり方によって認知のあり方がかなり影響されると考えています。ですから、子どもの情緒が育つように働きかけ、情緒が育ってくれば、自閉症と呼ばれる子どもたちの「自閉的な認知」も改善され、いわゆる自閉的な行動もよくなってきます。

 

 例えば、情緒が乏しい状態を考えてみてください。うれしいとか面白いとか嫌だとか悔しいとか感じない状態です。この状態では、何かしても何か見ても情緒的に感動しませんから、知覚したり経験したことが印象づけられないことになります。つまり情報が入力されても印象がないために記憶されることが少ないでしょうし、思い出すことも少ないことになります。学習がうまくいかないということです。

 

 そんな状態で何かを教えようとしてももちろん、何もかも印象が薄いですから、なかなか学習が進まないことになります。そういう子は、まず情緒を豊かにしながら、学習を進めることが大切となります。 

 

 ここでは、情緒が乏しい場合を考えましたが、もう少し情緒が発達すると、不快感が現れてきます。さらに、刺激に集中する快感も現れてきます。どの程度に情緒が発達しているかによって、認知や行動の仕方が変わってきます。ぼちぼちこの問題について考えていきます。

 

 私は、情緒発達の遅れを強調していますが、これは、決して親の育て方によって起こった情緒傷害と言っているのではありません。私は、子どもが生まれつきもっている脳の活性化の仕方に問題があると考えています。脳の何らかの障害によって、活性化の仕方に偏りが見られたり、活性化の仕方に発達の遅れが見られるのだと考えています。

情緒発達の要約

 乳児の情緒を簡単に見ると、

喜びは乏しいが泣きが強く現れる時期。新生児期です。

刺激に集中して喜びが表れる段階。1-2か月ごろ。

働きかけを期待して活発に喜ぶ段階。3-4か月ごろ。

期待した結果が現れてゆったりと喜びを表す段階。6-7か月ごろ。

目標に向かってがんばる時期。9-10か月ごろ。

目標を達成して達成感を感じ、誉められて喜ぶ時期、1-1歳半ごろ。

・・・・・

自閉症の子は、生後1-2か月ごろの情緒発達段階に留まっているか、その段階の情緒が色濃く現れる状態と考えられます。ですから、情緒発達を促すように働きかければ自閉性は改善されていきます。

第2章 情緒発達から見た自閉症

第1節 集中とこだわり

システィマティックな捉え方

情緒は泣いたり笑ったり怒ったりすることですが、自閉的な子の行動を理解するためには、バラバラにいろいろな情緒があるという見方ではなく、体系的に捉える必要があります。乳幼児期の情緒発達については研究が進んでいますが、情緒を体系的に捉え、認知や行動にどう影響を及ぼすかについて理解を深めるまでには至っていないと思います。そこで、私は1つの試みとして情緒を3つのグループに分けて考えたらいいのではないかと思っています。

 

1つは固い感じで表現される情緒で、精神の集中を促します。自閉症と言われる子らを見ていると、固い感じの喜び方や怒り方をします。また、活動も限られた刺激や活動に集中してしまいがちです。

 

もう1つは、活発に身体を動かしながら表現される情緒で、注意の転換を促します。注意の転換を促し過ぎて落ち着きがないといったことが現れてきます。

 

もう1つは、リラックスしながら現れる情緒で、心のゆとりを促進します。特に自閉的な子では、この最後の情緒が現れにくいのです。

 

自閉症の子は、3つの情緒で言うと、刺激や活動に集中し、心を固くする情緒が強く現れているといえます。その情緒は、気持ちの集中を助けます。刺激や活動で快感を感じると、そればかりに気持ちが集中してしまうわけです。1-2ヶ月の赤ちゃんが身体を緊張させながらメリーゴーランドの動きに夢中になるのは、そのような集中と緊張を高める情緒が現れていると言えます。

普通は、その後、活発さやゆったりさを促進する情緒が現れてくるので、特に問題は起こりません。いろいろな情緒が現れることで、心の働きがうまく調節されるようになるからです。しかし、自閉症と呼ばれる子は、集中と緊張を高める情緒が主に現れ続けるので、興味が広がらなかったり、融通が効かなかったりすることになります。ですから、活発さやゆったりさを促す情緒も発達させていけば自閉的な行動は緩和されていきます。

自閉症のテレビドラマから

自閉症の子と母親のテレビドラマが1-2年前(この文は、2005年に書かれました)にありました。なかなか子役の男の子の演技がうまく時々見ていました。その子は、普段は無表情のことが多く、オモチャ遊びを黙々とやっていました。ときどき何かうまくいかないことがあるとパニックを起こし、母親は苦労していました。世間の理解を得るのも大変でした。

私の感想としては、もっと情緒を育てるようにすればよかったのに、と思いました。ドラマの終わりごろには、多少にこにこする表情も見られ、身体を緩やかに揺らしたりしていましたが、働きかけとしては、子どもを喜ばせる働きかけはしていませんでした。いろいろ苦労して行動の仕方を教えていましたが、肝心の心が育っていないという感じでした。

もし私がその子と出会っていれば、くすぐったり、手をブラブラ揺らしたりして子どもを喜ばせたでしょう。そうして、次第にイクゾイクゾと迫りながら喜ばせ、こちらへの期待を育てたでしょう。さらに、身体を揺らしたり、身体のアッチコッチをくすぐって身体の動きを引き出し、活発に喜べるようにしたでしょう。さらに喜ばせながら身体の力を抜き、リラックスして楽しめるようにしたでしょう。そうすることでくつろいだ感じで人とつきあい、人から学ぶことが促進されたことでしょう。

情緒を育てる働きかけをしていなかったので、かなり苦労していましたし、子どもとの関係はそれほど楽しいというものではありませんでした。そのような苦労を避けるために、私は、子どもの情緒を豊かにする働きかけを提唱したいと思います。

 

 自閉症は、治らないとテレビドラマの専門家は、答えていました。自閉的な状態に焦点を合わせずに働きかけを行っていますから、少しずつ教えたことは憶えていき、できることも増えていきますが、「自閉性」はなかなか改善されないことになります。

 もちろん、いろいろなことを学習することで、情緒のコントロールがうまくいくようになる場合もありますし、周りの人が中心的課題と考えていなくても、生活するうちに嫌な事があったり、怒っても気持ちが落ち着いたり、喜んだり、休んだりとそれなりに情緒的な経験を繰り返していきますから、情緒が発達していくことも起こります。

 それでも、自閉症の本質が情緒の未発達と偏りにあるという立場からは、情緒に焦点を合わせた働きかけをした方がいいですよと、助言したいと思います。その方が親子の楽しい関係も築くことができます。苦労して学習ばかりやっているよりはいいでしょう。ただ、それでは子どもを楽しませていればそれでいいのかと思われる方もいるでしょうが、そうでもあり、そうでもないと言えます。情緒を3つのグループにわけましたが、その立場から言うと、自分の子がどういう楽しみ方をしているのかよく見て、どういう楽しみ方をした方がよいかを考えながら働きかけることが大切だからです。

集中。視野が狭い

自閉症の子は、集中を促進する情緒を感じやすいと以前に述べました。精神の集中と言えば、一般的には良いこととして考えられています。集中することで、物事を深く知ったり考えたりできます。また、何かやりとげることも集中することで容易となります。

 

しかし、これが大きな割合を占めてしまうとこまったことも起きてきます。集中と言えばいいのですが逆には視野が狭くなるということです。例えば、お母さんが子どもをブランコに連れていったとします。子どもがブランコの揺れを楽しむとき、普通であれば、楽しい思いを母親に伝えようとします。また、母親がうれしそうに見ていてくれればそれだけでも楽しくなります。このようにブランコに乗るという活動をしながらも回りの人に注意が向きます。しかし、注意が集中してしまうと、子どもはブランコの揺れ刺激にばかりに気持ちを集中させ、母親の方や他の人々のことを気にしなくなってしまいます。せっかく母親がいるのに母親のことを考えられないのです。これでは人との関係は深まりません。

 

また、たとえ楽しい刺激に集中してしまう場合でも、その活動をやめれば気持ちも落ち着いて母親と「楽しかったよ」と心の交流を行うことができます。しかし、集中を促す情緒だけが現れる状態では、楽しい活動が終わると、情緒が消えてしまいます。つまり無感動状態になってしまいます。ですから、遊びの後でも、人との心の交流は起きないということになります。

 

ですから、単に揺れ刺激やモノが回転するといった視覚刺激などで喜ぶ活動をさせていればいいかというとそうではないのです。活発に身体を動かしたり、ゆったりして満足して喜ぶといった楽しみ方も大切なのです。

集中。固さとこだわり

自閉症の子や人は、集中を促進する情緒を強く現します。集中を促進する情緒は、固さも促進する情緒です。つまり、特定の気に入った刺激に集中して喜ぶだけでなく、固くなって喜んでしまいます。両手を後ろの方に伸ばして喜んだり、手をヒラヒラさせて喜びます。もともと気持ちを集中させるためには、姿勢をしっかりと固定しなければなりません。身体が固定することで、1つの刺激に集中し続けることができるわけです。

このように身体を固定させる情緒ですが、精神も固定させます。集中するということは、気持ちを逸らさずに1つの刺激に対して精神を固定させるということでもあるからです。そのため融通の効かない心ができてしまいます。すると、特定の刺激でなければならないとこだわったり、変化を受け入れられない心になってしまいがちです。

注意や気持ちが柔軟に変化するためには、情緒を集中固定型から活性転換型か弛緩ゆとり型へ変化させる必要があります。つまり活発に身体を動かして遊べるようにしたり、ゆったりと楽しめるようになることが大切だということです。

自閉性の改善

 自閉症という言葉を本当は私はあまり使っていません。ただ、こういう文章を書くときは、「人に関心のない子」とか「一人遊びの多い子」「人によって慰められにくい子」といった表現を使っていると残念ながら、人が注目してくれません。そこで、やはり自分の主張もわかってもらいたい、そのためには少しでも多くの人に読んでもらいたいと思って、「自閉症」という言葉を使っています。

 基本的には、自閉症と言われる子の情緒を豊かにする働きかけをすることで、自閉性は改善されていくと考えています。自閉性が改善されることで、学習も進んでいきます。喜びの乏しい子は、くすぐりをしかけては休むという働きかけを繰り返すことで、笑いの多い子にしていくことが大切です。人が直接働きかけることが大切なのです。なにしろ人との関係を深めることが大切なのですから。

3歳児健診などで、お母さんに「お子さんと遊んでいますか」と聞くと「遊んでいます」という返答が返ってくることがあります。しかし、それでよかったとは思いません。なぜなら、公園に子どもを連れていって子どもが好きに遊ぶのを見守っているのを一緒に遊んでいるといわれる場合もあるからです。残念ながら、子どもが遊んでいるのを見守っているだけでは、一緒に遊んでいるとはいえないのです。子どもは一人遊びをしており、お母さんのことは意識していないからです。

できるだけ、人が生身の身体を使って働きかけで楽しめるようになることが大切なのです。

細かいことを気にする

自閉症の子は、特定の物事に集中してしまう傾向にあります。これは、精神の集中を促すような情緒が主に現れるからです。刺激に快感を感じると、喜んでその刺激に集中してしまいます。ですから、けっこう細かいことに気持ちを集中してしまい、普通だったら気づかないことや気にしないことにも、注意が向いてしまい気にするということが起きてきます。本棚の本が少しズレていたとか、玄関を入る時に足の位置が少し違ったとか、あるべきところに物がないとか、まわりの人にとってはささいなことと思われるようなことを気にして腹を立てたりします。

 

まわりの人にとってはささいなこと、細かいことと見えるのは、まわりの人には様々なことが見えるので、つまり、視野が広いので、1つのことは全体の中の一部としてしか見ないからです。しかし、視野が狭く1つのことに集中する場合、自閉的な子は、他のものを見ていなくて、それしか見ていないので、その細かいことが視野全体に広がっているように感じるわけです。たとえば、小さい物、例えばアリでもいいでしょう、そのアリを顕微鏡で見て、しかも他には何も見えないような世界となるわけです。そうなると巨大なアリが世界いっぱいにいるような感覚になります。これは気にしないわけにはいきませんね。

 

言葉で「アリなんて小さいから気にしないで」と言っても、感覚としては巨大に感じられますから恐怖感を感じてしまいます。ですから、言葉で慰めても根本的には慰めになりません。物事に集中してしまう心の状態を変えることが大切です。そのような心の状態を変えることができるのが、集中を促す情緒以外の情緒です。

 

活発に喜びを示すような情緒を引き出すことで、注意が転換しやすくなります。注意が容易に転換することで、様々なものを見ることができますし、1つのことにこだわらなくなります。

 

また、リラックスする喜びを引き出すことで、視野が広がり、同時にいろいろなものを見ることができるようになり、様々な物事のつながりがわかってきます。細かいことは細かいことと見ることができるようになります。

 

ですから、自閉的な子に対しては、活発に遊べるようにすることと「ああよかった」と満足感を感じて楽しめるようにしていくことが大切です。

こうあるべきだというこだわり

自閉症の子は、狭い範囲のことに集中しがちであり、しかも心の固さも表れるために柔軟に対処できないということがあります。こまかいことを気にして、自分の思いと違うと感じると不機嫌になってしまいます。不快表現が強く現れる子の場合、まわりから見て少しのズレが本人にとっては、視野いっぱいに拡大するような大きなズレと感じられます。例えば、本が1センチしかズレていなくても、他のものを見ず、そればかり拡大して見ますから、1 メートルもズレているかのように感じてしまうのではないかと思います。ですからパニックを起こしてしまいます。

 

しかも、「こうあるべきだ」という見方は、1回の経験で身につけてしまうことも多く見られます。例えば、初めていく病院で、ある道を歩いていったら、1回行っただけなのに、その病院にはこの道で行くものだと思いこんでしまうのです。次に行くときに、違う道を行こうとすると、行くべき道ではないと不安になりパニックを起こしてしまうことがあります。心の固さのために、心にゆとりがなく、コレもいいアレもいいと受け入れられないのです。

 

その反面、気にしないことは視野に入っておらず、いや視野に入っても意識もせず、どう変化しようと平気ということもあります。特定の限られたことに対して、こだわりを示すわけです。

 

やはり大切なことは、子どもを喜ばせてはゆったりさせることで感情を豊かにし、様々なことに興味を持てるようにすることです。そうすれば、特定なことへのこだわりも減ってきます。

目が合わない

自閉症の子は、目が合いにくいと言われています。まず、自分の遊びに集中してしまうので、そのときに人が声をかけてもなかなか振り向いてくれません。1つの活動に固く集中してしまうので、注意の転換が容易にできないのです。

何か活動していないときにも、自分の頭に浮かぶイメージや言葉に集中してしまって、現実にそばにいる人に注意を向けないことがあります。話をしても、自分の好きなことを喋り、会話が噛み合わないことが多いものです。

集中を促進する情緒しか現れていない子では、集中していないときには、ぼんやりとしてしまって、やはり目が合いにくいものです。どこか遠くを見ているような感じになってしまいます。

単に人に興味がないから目が合わないのではないのです。人がくすぐって遊んでも、緊張して喜んでしまい、人の方に注意を向けないようなことがあります。喜べば喜ぶほど注意が刺激の方に集中してしまい、人全体を把握することができなくなってしまうのです。

このような子に対しては、くすぐるにしても、イクゾイクゾと期待を引き出しながらくすぐって遊ぶようにした方がいいでしょう。そして、ある程度くすぐったら止めて様子を見るようにします。すると、もっとくすぐって欲しいという要求が現れるようになり、人に注意を向けるようになります。

さらに喜び方が身体を活発に動かすような活発な喜びを引き出すように働きかけた方がいいでしょう。手をバタバタさせたり、足をビンビンさせるといった活発に身体を動かして喜ぶ喜び方が現れてくると、注意の転換が容易になり、人の働きかけに対しても注意を向けやすくなります。

活動の転換がうまくいかない

自閉症の子は、注意の転換がスムーズに行きません。赤ちゃんで言うと、生後3-4か月の赤ちゃんはキョロキョロと首を回して周りを見るようになってきます。喜び方も活発になってきます。母親に抱っこしてもらえると期待して、手足をバタバタさせ、キャッキャッという声を出して活発に喜びます。「おはしゃぎ反応」と呼ばれる喜び方です。このような活発な喜び方ができるようになってくると、落ち着いたときにも、動きが現れやすくなり、キョロキョロと周りを見れるようになるのです。

 

1つのことに注意を集中してしまって、注意の転換が出来にくい自閉的な子は、生後3か月以前の情緒の発達段階に留まっているということです。言葉を話す自閉的な子であれ、情緒は生後3か月以前ということです。これを聞いて驚かれると思います。こんなに低いレベルなの、と驚くことと思いますが、実際そういうことなのです。しかし発達レベルが低いからと言って絶望する必要はありません。情緒の発達を促さなければいけないと思われたあなたは、まさに核心に向かっていることですから、その働きかけは、的を射たものとなり、かなり効果が現れるはたらきかけをすることになります。長年停滞していた情緒の発達が始まるということです。

落ち着きのない自閉症の子

自閉症の子は、物事に集中してしまう傾向があると言いました。それとともに、固さも高まると述べました。しかし、自閉症と言われる子は、様々です。自分の好きなことに集中しがちで、人と噛み合わないところは共通していますが、落ち着きのない子もいますし、おとなしい子もいますし、かたくなに自分の遊びに打ち込んでいる子もいます。

 

集中を促進する情緒が強く現れますが、それに加えて活発さを促進する情緒も現れている子は、自分の好きなことに打ち込みながらも、落ち着きなく動きまわる行動を示します。でも、そういう落ち着きのない子は、注意を転換しやすいという面を持っています。換気扇の好きな子がいて、どこかの家に行けば、いつもどこに換気扇があるかを捜し、見つけては身体を振るわせたりピョンピョン飛んだりして喜びます。この子は、落ち着きのないタイプと言っていいかと思います。

 

でも、叱られると一応ごめんなさいと言ってみんなのところにもどります。切り替えがある程度できるということです。しかし、みんなの活動に溶け込めるかというとそうでなく、換気扇や扇風機や何かヒラヒラするものが頭から離れません。確かに注意の切り替えはある程度うまくいくのですが、やはり、自分の好きなことに気持ちが向いてしまうのです。そこが自閉的なところです。

 

しかし、この子がよかった点は、叱られてシュンとしたことでした。シュンとしたということは、リラックスしながら反省したということです。リラックスしながら快感を感じたり、不快感を感じることは、くつろぎの情緒の表れと考えています。もちろん、始めからこのような情緒が現れていたわけではありませんでした。何回も何回も叱られるうちにリラックスしながら悲しむようになったのです。それで自閉性が改善されていきました。

 

本当は、楽しく遊びながらリラックスした喜びが現れるようにするのですが、中には叱られてリラックスする情緒を示すようになり、融通性のあるつきあいができるようになっていく子もいます。

 

ともあれ、自閉症の子は、集中性の情緒が中心になって現れますが、他に活発さを促す情緒やリラックスを促す情緒の現れ方によって、様々なタイプになります。また、自閉性が減少して、自閉症とは言わないくらいになることもあるのです。

 

情緒に焦点を合わせたつきあいをしてみましょう。

甘えがない。母がいて当然

自閉症の子は、人への甘えがあまり見られません。親しい人がそばにいても自分の好きなことに打ち込んでいて関心を示さなかったり、何もしていなくてもぼんやりとした感じで身体をよりそう、といった甘えは見られません。

 

しばらく離れていて再開してもうれしそうにはしてくれません。ましてや、離れるときに離れることを悲しむことが現れません。もちろん自閉症と診断された子でも、楽しく遊んではリラックスできるようにしてゆったりと喜べるようになってくると、母親と離れるのを嫌がって、一緒にいたがるようになります。親しい人と一緒にいてゆったりとできるようになり、心地よさを感じることで、一緒にいてゆったりしたいと思うようになってきます。

 

ただ気をつけなければならないのは、ゆったりとしない子でも母親と一緒にいたがり、離れるのを嫌がることがあるということです。これはなぜかと言うと、母親と一緒にいてゆったりしたいということではなく、母親がそばにいるのが当然と考えていると思われるからです。本はこのように並べるのが当然と考えて、いつもそのように並んでいないと気にいらないのと同じように、母親はそばにいるものだと思い込んでそばにいなければ気に入らないと感じるわけです。このようにいつも自分の思った通りでないと気に入らないと感じる現象を同一性保持と言いますが、人に対しても現れることがあるのです。

 

母親と一緒にいると安心できる、ゆったりとできるという愛着から母親と一緒にいたがるのではなく、同一性保持で一緒にいたがる場合は、母親が離れようとすると嫌がりますが、案外自分からは平気で離れます。自分の興味に気がとられてしまうとあまり母親のことは考えなくなってしまうからです。

 

ですから、人といると心がなごむから一緒にいたいと思える、本当の愛着を育てるためには、ゆったりと楽しめるように働きかけることが大切です。単に喜ばせるだけでは愛着が育たない場合があります。

第2節 くつろぎ性の情緒の欠乏と出来事への興味

くつろぎ性の情緒の欠乏

自閉症の子の情緒発達は、生後2−3か月のレベルに留まっているというようなことを以前書きました。しかし、3−4か月頃に現れる活発な喜びを示す子もいますから、3−4か月のレベルに留まっている子もいると言えます。自閉的な子の特徴は、自分の好きな刺激や活動やイメージに固く集中してしまうということですが、さらに根本的には、人とのくつろいだ関係が持てないということです。くつろいだ関係の中から共感性も発達してきますから、くつろいだ関係が持てないことは重要なことです。くつろいだ関係が持てないのはなぜかというと、「くつろぎ感をもたらす情緒」が乏しいということです。この情緒は、生後6−7か月ころに現れます。ですから、この情緒が乏しいということは、情緒発達が生後6−7か月以前のレベルに留まっているということです。

要するに、自閉症の第一の問題は、「くつろぎ感をもたらす情緒」が乏しく、人とのくつろいだ関係が持てないということです。

そして第二の問題が、「特定のことに集中することを促す情緒」が強く現れる場合があるということです。

いままで「特定のことに集中することを促す情緒」が強く現れる場合の問題点について述べてきました。これからも述べていこうとは思いますが、中心的課題である「くつろぎ感をもたらす情緒」についても述べてみたいと思います。詳しく述べていくために、きちんと名称を決めて説明したいと思います。

「特定のことに集中することを促す情緒」を「集中性の情緒」と呼びます。

「活発な活動と注意の転換を促す情緒」を「高揚性の情緒」と呼びます。

「くつろぎ感をもたらす情緒」を「くつろぎ性の情緒」と呼びます。

自閉症を情緒発達の見地から規定すると、

自閉症の人とは、くろつぎ性の情緒が乏しく、人とのくつろいだ関係が持ちにくい人のことを言います。そして多くの自閉症の人は、集中性の情緒が強く現れて特異な行動を示したりします。

さて、くつろぎ性の情緒とは何かと言いますと、リラックスしながら喜んだり、不快を示す情緒のことです。生後6か月では、例えば「イナイイナイ・バー」といったアクセントのある働きかけに対して、「イナイイナイ」のところでジーと見つめ、「バー」でハハハと柔らかく笑います。ジーと見る緊張状態から解放されてリラックスしながらハハハと笑うわけです。生後7か月ごろには、何かを食べた後で、ハーと息を吐きながらにこりとしたりします。リラックスしながら満足感を示すわけです。

自閉症の子や人は、このような喜び方が現れにくいのです。

くつろぎ性の情緒の現れ

自閉症の子を理解するために、少し情緒の発達について説明しましょう。まず、「くつろぎ性の情緒」ですが、イナイイナイバーとあやされて、ジーと見てはハハハとやわらかく笑います。生後6か月ころに現れる反応です。イナイイナイ・バーを何回か行ううちに、イナイイナイの後にバーと来るなと期待するようになるものと思われます。そして期待通りのバーが現れることで、今までの緊張を解いてリラックスしながら笑うわけです。これは、バーという結果を意識して現れると考えられます。期待通りの結果を喜べるようになったと考えられます。つまり「コレがあれば、アレがある」と理解し、期待した通りに「コレ」の後に「アレ」が現れてやっぱりととらえて笑うわけです。ゆったりと喜べるようになります。このような喜び方ができるようになることで、人のやることを「前ぶれ+結果」というように見るようになります。イナイイナイバーの場合、「イナイイナイ」が前ぶれであり、「バー」が結果となるわけですが、このように人のやることを「前ぶれ+結果」として捉え楽しめるようになることで、人のやることに興味を持ち、人から学ぼうという気持ちへと発展していきます。

 

ですから、このような「くつろぎ性の情緒」が現れないと、人への興味がイマイチ育たないわけです。自閉症の子は、この「くつろぎ性の情緒」が乏しいために、人への興味が育ちにくいといえます。そんな子に対して、情緒を育てずに人のことを教えようとしても興味がわかずになかなか学んでくれないことになります。

 

そう、情緒を育てることが大切なのです。

乏しい満足感

自閉症の子は、期待通りの結果が得られて、ゆったりとして喜ぶことができません。つまり「満足感」が乏しいと言えます。自閉症の子や人は、「満足感」は乏しいのですが、「満足」はあります。ちなみに満足感は、満足とは違うと考えています。

 

 満足とは、何か欲しいものがあったり、期待していることがあって、それなりに欲しいものが得られるように努力したり、期待で緊張が高まったりしますが、その時、欲するものが得られたり、期待する結果が得られることで、そのための努力や緊張がなくなります。それを満足と言います。欲しい物がない状態での不快感や緊張感が欲しい物が得られることでなくなることを言います。ですから、普通は、緊張が下がり、ゆったりとした感じにはなります。ただ、自閉的な子は多くの場合、満足したらすぐに自分の好きな活動を始めるために、ゆったりすることが見られないものです。

 

 満足感とは、欲しい物が得られたり、期待する結果が得られて、努力や緊張がなくなるとともに喜びを感じることです。つまり、リラックスしながら、欲しい物が得られたり期待する結果が得られたことを喜ぶわけです。「ああ、よかったなー。」と感じながらゆったりすることです。このゆったり感があると、人とくつろいだ関係をつくることができますし、くつろいだやりとりや共感関係も育っていきます。自閉症の子や人は、「満足感」が乏しいために、親しい人とさえ、くつろいだ関係を築くことが難しいのです。

満足感の発達

自閉症の子は、期待した結果が得られても、それほどうれしそうではありません。前回、満足感が乏しいのであると言いました。乳児で「満足感」が明確に現れるのは、生後7か月ぐらいです。離乳食を口に入れた後、にこりとすることがあります。また、なんとかがんばってイスに手をかけてつかまり立ちをしたあと、ハーと息を吐きながら、微笑します。これも7か月以後のことです。立とうという目標が努力の末に達成されて、「よかった」と感じているようです。

 

それでは、それ以前は、満足感を示すことがないかと言いますと、ないのです。それ以前の赤ちゃんがおっぱいを飲んだとき、ゆったりとしてリラックスします。3か月以前では眠ったり、ぼんやりしたりします。顔もリラックスしますから、なごやんだ表情になります。ですから、一般にはおっぱいを飲んで満足感を感じているのだろうと解釈されます。確かにそれを否定することはできません。何しろ赤ちゃんの気持ちを聞くことはできませんから。しかし、快感を感じていると示す微笑などは見られません。ですから、私は、満足感といったくつろぎ性の情緒は、初期には現れていないと考えています。確かに、空腹感という不快感はなくなり、そしてリラックスしますが、快感は伴わないと考えています。

自閉症の子も、例えばおやつの時間に、必死でお菓子を欲しがったりします。そのために手を伸ばしたり、エーエーと声を出したりします。しかし、いざお菓子を食べ始めると無表情で食べ、しかも食べた後も、無表情でぼんやりした感じになるか、すぐに自分の遊びを始めてしまいます。他の子がなごやんだ感じでうれしそうに「おいしかったね」と友達と共感しあっていても、知らん顔です。

このように、自閉的な子は、トランポリンを飛んでキーキーと喜んだり、換気扇を見てうれしそうに身体を緊張させることはあっても、満足してゆったりと喜びを示すことは乏しいのです。

 

もちろん、そういった情緒を育てることが大切です。

くつろぎ性の情緒の量

自閉症の子は、期待した結果が得られて「ああ、よかったな」という感じで、くつろぎながら喜ぶことが乏しいと言えます。そのために、人とのくつろいだ関係を作ることが困難です。なにしろくつろぎ感を感じさせる「くつろぎ性の情緒」が乏しいからです。これは、理屈ではありません。「自分の望んでいたお菓子が食べられて、うれしいはずでしょ。喜びなさい。」と言われて、なるほどごもっともと喜べるものではありません。

また、中には「自分の望みがかなったのだから、必ず喜んでいるはずだ、かすかでも喜んでいるはずだ」と言う人もいるでしょう。このような人は、認知の後に情緒が現れると固く信じている人たちです。確かにかすかにでも感じているかもしれません。かすかにしか感じていないので、表情やしぐさとして表現されないのだろう、と言われるかもしれません。ここで、かすかにでも感じているかもしれないと認めても、やはり乏しいという表現は使っていいのではないかと思います。乏しい場合には、その情緒を豊かにしなければいけません。

情緒で大切なのは、ある情緒が単にあるかないかではなく、十分にあるかどうかと言うことです。次の段階へと情緒を発達させるほど十分に情緒が現れているかどうかということです。ある行動がたくさん現れることを促進するほど、情緒が現れているかどうかです。

 

自閉症に関しては、「くつろぎ性の情緒」が乏しいということが大問題であると考えています。全くないか乏しいという点が問題なのです。

ある面接で、お子さんと遊んだら喜びますか、と聞いたら「遊んだら喜びます。ですから、喜ぶ方は大丈夫です。喜んでも、人を求めないことが問題なのです。どうしたらいいのですか?」と言われたことがあります。そして実際にその子を見ると、人が抱っこして揺らしたりくすぐりはかすかにニコッとしました。しかし、たくさん遊んでもうれしそうではありませんし、無表情であることが多いのです。やはり、これでは不足なのです。もっとたくさん喜べるようにすることが大切です。たくさん喜べるようになることで、人と遊ぶと確かに面白い、だから、もっと遊びたいということになるのです。

情緒の豊かさは強さだけではない

 自閉症のお子さんは、情緒が豊かではありません。ですから、情緒が豊かになることが大切です。

 そう言うと、「うちの子は、情緒は十分すぎるぐらい強く現れています。」という方がおられます。そのようなお子さんを見ると、激しくパニックを起こす子だったりします。こんなに強く不快感情を表現するのだから、情緒は十分現れている、というわけです。まあ、確かに緊張性の不快感情の表出は十分以上に現れています。しかし、普段は無表情であることが多く、人にも関心を示しません。他の情緒がないのです。これでは、情緒は十分に現れているとは言えません。他の情緒、例えば「くつろぎ性の情緒」が現れてくることで、パニックを起こすような強い緊張性の不快感情の表出が緩和されて、不快なことがあってもおだやかな表現へと変化していきます。

 

そう情緒の育ちとは、単に特定の情緒が強く現れていればいいものではないということです。

 

 また、このような例もありました。その子は、パニックを起こすだけではありませんでした。紙をヒラヒラさせながら身体を緊張させて喜びを表していました。トランポリンを飛ぶときにも陶酔するかのようにうれしそうに飛びます。それでは、この子のように、喜びも怒りも強く現れていたらいいかと言うとそうではありません。やはり、ハハハと軽やかに笑う「くつろぎ性の喜び」やメソメソ涙を流す「くつろぎ性の不快感」が乏しいのです。そのために、人とゆったりとくつろいでつきあうことができず、一人遊びの世界に浸ってしまうのです。

 

 様々な情緒、例えば、「集中性の情緒」、「高揚性の情緒」、「くつろぎ性の情緒」がバランスよく現れることが大切です。そのような目で、子どもたちの情緒の現れ方を見、情緒を育てていただければと思います。

本当の結果の意識

自閉症の子は、期待した結果が現れても、くつろいだ感じで喜びを示すことが弱いと言えます。こうは言っても、似て非なる場面はよくあります。

 こんな場面があります。夏の暑い日、あるご家族がプールに出かけることになりました。その家族の自閉的な子は、水遊びが好きなので、もちろんプールに行くのは大好きです。暑いと感じながら、プールに向かって道を歩いていたら、プールが見えてきました。そのお子さんは、プールを遠くに見て、にこにこしました。さて、問題です。目的とするプール、期待していたプールが現れたという結果を喜んだのでしょうか。

 

 答えは、否です。子どもは、プールを見て水遊びができるという期待が膨らんで喜んだのです。しかも、「あー、よかった」というくつろいだ感じの喜びではなく、期待で気持ちが高揚する感じの喜びです。

 

 さらにこの子は、プールで水遊びをしているときは、はしゃいで喜びました。水遊びを欲し、水遊びができることを期待していて、水遊びができたわけですから、期待した結果が現れたことを喜んだと言えるでしょうか。これは、日本語の表現の問題も絡みますから、難しいのですが、結果を喜んだというよりは、水遊びで得られる刺激や活動で喜んでいると言っていいでしょう。ですから、その喜び方は、「ああ、よかった」という感じではなく、緊張や興奮を高める喜び方であったわけです。

 

 深く考えると難しいのですが、実現のために努力したり、期待のために緊張したり高揚したりする気持ちがゆるんで喜ぶことが、期待した結果が現れて喜ぶということです。リラックスした喜び方が大切ですから、子どもを喜ばせてはリラックスさせるという働きかけを続けることが大切です。

結果を意識して喜ぶ

自閉症の子は、結果を意識して喜ばないといったことを言いましたが、結果を理解していないのでしょうか。なかには、認知力というか理解力が低くて、結果を意識できない子もいますが、結果を意識しても、喜べない、というのが実情かと思います。もっとも、結果を喜ばないために「結果が現れた」という意識の仕方はできないかもしれません。お菓子が食べたくて強く要求していた子も、お菓子をもらえたときに、望みがかなったという意識を持つかどうかです。

 

例えば、こんな子がいました。パズルをはめるように言うと、やってくれます。パズルをはめようとまじめな顔で木片を滑らせます。そして、カタッと穴に入ると特にうれしそうでなく、どこかに行こうとします。その子には、穴にパズルを入れるという目標意識はあり、パズルを入れて終了という意識はあるかと思います。「入れた」という結果も意識していると言っていいかと思います。しかし、入れて「よかった」といった情緒は現れません。1つの場面で「結果を意識して喜ぶ」といった情緒が現れないからと言って別に問題であるわけではありません。でも、あらゆる場面でそれが現れなければやはり問題です。

 

 この子のように「何かをやった」「終了した」「結果が出た」という認知はありそうでも、それで喜ぶということがないことは他の子にも見られることです。つまり、認知があれば、必ず情緒が現れるわけではないのです。情緒がないために、またやろうという気にはならないようです。

 

 これが「やるものだ」と思い込んでしまえば、また決まりきったようにやることがあります。ですから、何かやらせるのであれば、情緒がなくても繰り返すことで可能となります。

 

 ここで言いたいのは、認知というか理解を伸ばすだけでは、興味を引き出せないか、機械的な行動が出るだけに終わりがちだということです。認知とともに情緒も伸ばすことが大切なのです。もっとも認知を育てることで情緒も育ちやすくなりますから、認知を育てることは大切です。

出来事を楽しむ

 自閉症の子は、期待した結果が現れて、力を抜きながら喜ぶことが苦手と言えます。本当言うと、このような喜び方ができれば、人とのやりとりを楽しめるようになります。

 

 赤ちゃんの場合を考えてみましょう。生後6か月頃、人のイナイイナイ・バーに対して、イナイイナイの時に、ジーと見て、バーのところで「やっぱり来たか」という感じてやわらかく笑います。このようなくつろぎ性の喜びは、イナイイナイのところで次にバーと来るなと緊張して予期し、バーのところで期待した結果が現れて緊張感が解放される形で現れます。前にも説明しましたが「イナイイナイ」が来たら次に「バー」が来ることがわかって楽しむようになるわけです。簡単に言うと「アレが来たら、コレが来る。面白い」ということになるでしょうか。

 

 これは、一連のつながりのある出来事を楽しめるようになったということです。人がアレをしたら次にコレが来て、楽しいとなりますから、人の動作を一連のつながりとして見て楽しみ、興味を持てるようになるということです。そのために人がやる単純な動作遊びを楽しむことになります。例えば、「オツムテンテン」という遊びがあります。何回かやれば、人が「オツム」と言って手を頭に持っていけば、次にテンテンと来るなと予期し、テンテンと来たら楽しく感じます。また、人が手を頬の方に持っていって、「ホッペ」と言ったら「ペチャペチャ」と頬を叩くのだと予期し、人がそのようにすると喜びます。

 

 このような楽しみ方ができるということは、単純な反復性の感覚刺激を楽しむことから、「起・結」というパターンのある働きかけを楽しむことへと興味が移ったということです。感覚刺激としてはたいした魅力もない人のやることに興味を持ち始めたということになります。そしてそのようなパターンのある働きかけを楽しめるようになると、そんな働きかけをしなくても、人が何かしたら次に何をするのだろうと興味を持って、人のやることを見るようになってきます。

 

 このような喜び方が乏しい自閉症の子では、人がこうしたら次にあれをするとわかっていて、予期通りになったとしても、面白いと思わないわけですから、人のやることにそれほど興味はわかない状態が続いてしまうということです。ですから、いろいろな喜び方ができるように働きかけることが大切なのです。

人への興味

 自閉症の子は、人のやることへの興味が乏しいわけですが、自分から人にしかけて楽しむということも弱いと言えます。

 

 再び、赤ちゃんに戻ってみましょう。人がコレをしたらアレをするとわかって、そのような出来事を楽しめるようになると、自分がしたことに人が応じてくれることを楽しめるようにもなってきます。それは生後9−10か月ぐらいのことです。例えば、そのくらいの赤ちゃんがイスに座っていてたまたま「アー」と声を出したとします。まわりの人がそれに対して「オー」と大げさに応じるとします。すると、赤ちゃんは自分の「アー」という声に対して、人が「オー」と応じてくれたのだとすぐわかります。「アレがあればコレがある」で楽しさを感じていれば、一連の出来事のつながりに対しては敏感になっていますから、すぐにわかるようになるわけです。そこでしきりに「アー、アー」と言うようになります。人が「オー」とか「アレー」と驚いて見せると、喜んでますます「アー、アー」といい続けることになります。

 

 無意図的にやった行為がすぐに、人の反応との関連を感じ取って意図的行動を取れるようになったということです。もう1つ例をあげてみましょう。お母さんが10か月の赤ちゃんを抱っこしていたときのことです。赤ちゃんが身体の向きを変えて他の方を見ようとしたとき、たまたま赤ちゃんの手がお母さんに当たってしまいました。少しおどけたお母さんでしたから「イテテ」と応じたわけです。すると、手が顔に当たったから「イテテ」と言ったのだとすぐにわかったらしく、赤ちゃんはお母さんの顔をバチバチ叩き始めたのです。お母さんが「イテテ、イテテ」と言うと、喜んでよけい叩いてきました。

 

 人に積極的に働きかけて楽しめるようになるのも、「アレがあればコレがある、楽しい」と思えるようになったからです。期待した結果が現れてくつろぎ性の喜びを感じるようになることでこのようなつきあいができてきます。自閉症の子どもはその情緒が弱いためにせっかくいろいろなことを理解していても、楽しんで人とのやりとりを求めないということになります。

結果の理解

 自閉症の子は、人のやることに興味を示しにくいのですが、それは、自分の好きなことに意識が集中してしまうことと、注意の転換が容易でないこと、また、予期したことがかなって面白いという意識が弱いことなどが要因として考えられます。

 

 予期したことがかなって面白いという意識について考えると、イナイイナイ・バーのように「イナイイナイ」と来たら次に「バー」が来るなと予期し、予期通りの「バー」が現れて、リラックスしながら笑うといったことが乏しいわけです。「アレがあればコレがある、楽しい」という気持ちになりにくいのです。それでは、そのような気持ちになるための条件は何か、ということについて少し考えてみましょう。

 

 まず、「予期刺激+本刺激」というセットを理解することが重要です。そして本刺激を結果として意識することです。一区切りついたという意識です。一区切りついたという理解があって、ひとまず心の構え・緊張を解除することができるわけです。力を抜くことになります。この理解が進むためには、まず、刺激そのものを喜ぶことが大切です。これは生後1−2か月頃現れます。あやされて喜んだり、メリーゴーランドが動くのを見て喜ぶといった現象があります。刺激を喜ぶようになると、次に刺激が来るなと期待して喜ぶようになります。抱っこしようとすると、前もってはしゃいで喜ぶ3−4か月の赤ちゃんが期待で喜ぶ姿を示しています。抱っこされて落ち着きます。期待がかなったわけですが、まだ、期待がかなった事を喜ぶまでは至りません。その後、6−7か月ころになって、イナイイナイ・バーなどで、期待がかなったことを喜ぶようになってくるのです。まず、刺激を意識し、次に刺激を期待し、さらに刺激を期待してその期待した結果を意識するという順序になります。

 

 ただ、結果の理解に関しては、自閉症の子も理解はしているだろうと思われます。理解はしていても楽しく感じないのです。これには情緒面の発達を考えなければなりません。

 

 まず、生後1−2か月頃、刺激を喜ぶようになると、喜びとともに緊張も高まります。母親のあやしかけを緊張を高めて喜んでは、横を向いて落ち着くというサイクルを繰り返します。

 

 生後3−4か月頃、母親の抱っこを期待して喜ぶようになるころには、手足をバタバタさせたり首を横に振ったりと緊張というよりは興奮した感じで喜びを示します。そして抱っこすると落ち着きおとなしくなります。期待で興奮しては落ち着くを繰り返すことになります。このように興奮と沈静を繰り返すことで、緊張や興奮から沈静さらに弛緩へと活動状態を変化させることが容易になってきます。そして、緊張したり、興奮した後に弛緩することが簡単にできるようになってくるのです。

 

 その結果、生後6−7か月頃、ジッと見ては笑う、緊張してはリラックスするという活動状態の変化が素早く切り替わるようになり、イナイイナイ・バーのような働きかけを緊張しては弛緩して楽しめるようになるわけです。生後6か月以前でももちろんイナテイイナイ・バーという働きかけに対して喜びます。しかし、喜び方が違います。緊張と弛緩を素早く交替させて喜ぶのでなく、緊張や興奮を続けながら喜び続けます。イナイイナイ・バーという遊びの構造に即した反応の変化を示すことができないのです。

 

 以上のように、イナイイナイ・バーのようなパターンを持った働きかけが喜べるようになるためには、働きかけを「予期刺激+本刺激」という構造を持つと理解し、本刺激を予期刺激の結果として意識できることが大切です。そして、情緒的緊張と弛緩が柔軟に素早く変化し、しかも、かなり弛緩できるようになることも大切なのです。このような条件がそろうことで、人のやることに面白さを感じ興味が深まるようになっていきます。

 

 そこで、自閉症の子に人のやることに対する興味を育てるためには、まず、刺激に対して喜べるようにすること、例えば、くすぐりで喜べるようにすることが大切です。できれば緊張して喜べるようにし、くすぐりを止めれば落ち着けるようにします。そして緊張と落ち着きのサイクルを作ります。次に、刺激を期待して喜べるようにします。例えば、「イクゾイクゾ」と迫りながらくすぐり、「イクゾイクゾ」と迫るときに興奮して喜べるようにします。興奮して喜んだ後に、手ブラブラなどでリラックスできるようにし、興奮とリラックスのサイクルが現れやすくしていきます。さらに「イクゾイクゾ」と迫りながら、最後に「ワッ」と急に迫ります。こうして、「ワッ」と迫られたことで笑えるようにします。くすぐられなくても、「イクゾイクゾ・ワッ」という迫り方で喜べるようにするわけです。もし、「ワッ」のところで緊張したり興奮してしまう場合には、日ごろの働きかけでリラックスしやすくしていきます。そして、「イナイイナイ・バー」の働きかけにも喜べるようにしていきます。

 

 このような働きかけを意識的に繰り返していくことで、自閉症の子も人のやることに面白さを感じて、自分の方から人に興味を示すようになり、人のやることを理解し人のやることから学ぶようになっていきます。

結果を喜ぶ

自閉症の子どもは、「アレがあると、コレがある。やっぱりコレがあった。面白い」と感じることが弱いようです。ただ中には、結果を喜ぶけれど緊張して喜ぶ子がいます。このような子は、何かあった後にこういう結果が現れて面白いと感じない子よりは、自閉的ではなく、人のやること、自分のやることに人が反応することを楽しむようになります。

 

 例えば、ある自閉症の子は、自分でボールを投げて、人がアレーと驚いて見せると、喜んでピョンピョン飛んでいました。そして、また、ボールを投げては人が驚くと喜ぶというのを繰り返していました。自分がやったことに対して、その結果として人が驚いたことを喜んだわけですから、結果を意識して喜んだことになります。しかし、「ああ、よかったな」とゆったりと喜べません。ですから、人とのゆったりとしたつきあいはなかなかできませんでした。ゆったりしないと、人の言葉をじっくり聞くことができませんし、人とのしみじみとした心の交流もできないことになります。さらに、人の反応を喜ぶといっても、その活動で夢中になって喜んでしまいますから、特定の人の反応だけに意識が集中してしまって、その他の様々な人の活動に興味を広げていくことができません。いつまでもいたずらをして喜び続けるといったことになってしまいます。

 

 自閉症の子といっても情緒のいろいろな発達段階の子がいるのです。全体的に情緒が乏しく、ぼんやりした感じの子、全体的に情緒は乏しいのだけど、不快感情の表出だけは強い子、情緒の乏しさを感じるけれど、特定の感覚刺激に身体を緊張させて喜びを示す子、そういう子はもちろん不快感情も強く現れます。また、人のくすぐりといった働きかけを期待し、走ったり飛んだりして活発に喜びを示す子、予期刺激の後で本刺激が現れて喜んだり、自分が何かして人が大げさに反応して喜ぶ子、ただし身体を緊張させたり、興奮させたりしてしか喜べない子、などなどです。結果を期待し、その結果が現れて、リラックスしながら喜ぶという子はなかなかいません。そのような喜び方ができる子は、すでに自閉性がかなり改善された子らです。

 

ゆったりと喜べることが大切なのです。

人の模倣

 自閉症の子は、人がアレをしたら次にコレをすることを楽しいなと思うことが乏しいために、人のやることに興味がわきません。ですから人のまねをすることも弱いと言えます。

 

 赤ちゃんの場合、生後9−10か月になれば、人のやる簡単な動作をまねるようになります。手を叩いたり、頭を叩いたり、イナイイナイ・バーをまねてやるようになります。それは、コレをしたらアレをする、を楽しみ興味を持つことから、人が何かしたら次にどうするんだろうと人のやることをよく見るようになるからです。人が新しいことをする場合でさえ、次に何かあるだろうという興味を持ちますから、人のやることをすぐに学ぶことができるのです。ですから、次々に学習が蓄積していきます。教えなくても学ぶという心構えができたということです。

 

 

 そしてさらに重要なことは、楽しんでも、くつろぎの喜び、リラックスした喜びが現れることで、人と同じ場にくつろいだ感じでい続けることができるということです。人のそばでくつろいだ感じで長い間、い続けることができることで、それだけ人のやることに持続して注意を向け続けられます。ですから、よけい人がやっていることがよくわかり、いろいろなことをたくさん学んでいけるのです。

 

 しかし、ぼんやりした子の場合、たとえ人がまねするように言い、まねしたとしてもうれしそうでなく、フラフラと人のそばを離れてしまいます。また、電車遊びやブロック遊びに集中してしまう子は、人がいっしょに遊ぼうとしても、自分の遊びが頭から離れませんから、まねするにしてもなおざりであったり、すぐに自分の遊びにもどろうとしたり、気もそぞろといった感じです。さらに、活発に喜ぶタイプの子であれば、まず、じっくりすわって人とつきあおうという気になりませんし、すわってもすぐに立ったり、何かまねてもすぐに緊張した喜びを示して、立ってしまいます。

 

 ですから、くつろいだ感じの喜び方ができるということは、人との長いつきあいができるためにも大切だということです。

 

 まねだけを考えるならば、何回も子どもの前で動作を繰り返せば、よほど身体的不自由がないかぎり、動作のイメージが次第に蓄積されてまねが現われてきます。しかし、人の動作に興味がない場合は、いつまでも繰り返し繰り返し教えていかなければ、覚えてくれないという難点があります。情緒を育てて、人の動作に興味を持ち、自分からどんどんまねができるようにすることが、楽しいですし、

効率がいいと言えます。

出来事への興味

 自閉症の子は、人と情報交換を楽しむことがないと言われています。必要なことや要求は伝えようとしたり、すべきだと思い込んだことを実現するために気持ちを伝えようとはします。「−ちょうだい」とか「−してちょうだい」「−が欲しい」「−でなければ嫌」といったことは言います。しかし、「こんなことがあったよ」「こんなことをしたよ」といったことを知らせようとしませんし、人がそれらを伝えようとしても、興味を示しません。情報交換を楽しむための基礎「出来事に関する情報」に対する興味が育っていないからです。

 

 出来事に対する興味は、今までも説明してきましたように、「アレがあれば、コレがあるに違いない、やはりコレがあった、面白い」または「アレがあれば何かあるに違いない、やはりあった、面白い」という形で現われてきます。「アレがあってコレがある」といった出来事のつながりに興味を持つことで、その面白さを伝えたいという気持ちも育ってきます。そういう出来事を聞くことを楽しむようになります。

 

 また、「アレがあれば何かあるに違いない、やはりあった、面白い」という興味が強まってくると、探求心も強まってきます。「コレがあるということは、前に何かあったに違いない」という見方も出てくるものと思われます。コトリという音が聞こえれば何かあるに違いないと興味を示し、何だろうと探索するようになります。不安で注意が集中してしまうというよりは、積極的な興味を示すようになるのです。これには、くつろぎ性の情緒によるくつろぎ感の深まりも大きく貢献しています。くつろぎ感が深まることで心のゆとりが十分現われ、少し奇異なこともゆとりを持って受け入れられるようになります。「こうでなければだめだ」といった固い気持ちであれば、少し違ったことも受け入れられなくなってしまいます。

 

 くつろぎ性の情緒を引き出すことで「出来事」に興味を持てるようにするだけでなく、ゆとりを以って物事を受け入れられるようになることが大切なのです。

指さしの理解

 自閉症の子は、1つのことに意識を集中してしまいがちです。ですから、まわりの状況を広く意識して、関連づけるという力も弱くなります。そして、まわりの状況を広く意識して、関連づけるという力が弱いと、人の示す「信号動作」の理解がうまくいきません。

 

 生後7−8か月ぐらいになると、赤ちゃんは、人が少し離れたところにあるオモチャを指さすと何を指し示しているかわかり、そのオモチャの方を見るようになります。これは、人が何かすると、何かある、次に何かあるという興味の持ち方をするようになったことと関係しています。「アレがあればコレがある、面白い」という興味の持ち方が、人の指さしの理解にも有効に働くものと考えられます。つまり、人が指さしをすれば、何かあるはずだと思い、さらに何があるのだろうと探索するようになります。「人が何かすれば、次に何かがある」という意識が、積極的に「次の何か」を求める意欲を引き出すのです。ですから、イチイチ指さしして、こちらを見てなどと催促しなくても、指さしの先も見てくれることになります。人が自分の行動の意味を説明しなくても、子どもの方からその意味を探るようになるということです。人の行動の「足りない部分」を自分から補おうとするようになるということです。

 

 ですから「アレがあればコレがあるはずだ。やっぱりコレがあった、面白い」と感じるようになることが、人の行動を理解していく上で非常に大切だと言えます。

 

 指さしの理解には、さらにもう1つの要素が働いています。それは、「意識の広がり」ということです。生後6−7か月頃から、人の働きかけの結果を意識して、リラックスしながら喜べるようになります。リラックスしながら喜ぶということは、喜んでいるわけですから、心(脳)は、活性状態にあることになります。そしてリラックスしているということは、一段落した形で落ち着いているということです。脳が活性しながら、かつ、落ち着いていることで、活性した気持ちで周りの状況に注意を向けられるということです。何か特定の活動をし始めて集中してしまうのではなく、ゆったりしながら周りや人の働きかけを意識できる状態にあるということになります。つまり、周りの状況に対して開かれた状態ということです。しかも、「コレがある、アレがある」と単に認知するだけでなく、活性化した状態で認知しますから、感動しやすい状態で認知するということです。物事を理解しても印象づけられながら理解するということで、理解や学習が心の中に定着しやすくなります。まわりの出来事を理解しねそれが定着しますから、理解がどんどん蓄積され、増加していくことになります。学習が促進されるということです。

 

 さて、リラックスしながら喜ぶことで、周りに生き生きとした関心を持ちながらかつ「広い範囲に注意を配分できる状態」となります。つまり、人のする指さしと示された物が離れていても、広い視野で関心を示せるので、指さしと物とを同時に意識できることになります。指さしと物とを同時に意識できることで、指さしと物とのつながりも容易に理解できるようになります。物事をバラバラにとらえるのでなく、統合してとらえられるようになるということです。指さしのように、ある動作で別なモノを現す場合、たいがいは、その動作と示されるモノとは、かけ離れています。つまり、何かを示す信号動作は、示されるモノとは一緒にないことが多いわけです。そうなると、信号動作の理解のためには、かけ離れたモノも結び付けて考えられるように意識の広がりが大切ということになります。

そのような「意識の広がり」を生み出すのが、「くつろぎ性の情緒」であると考えられます。くつろぎ性の情緒は、離れ離れに存在する要素をむすびつけて理解するために重要な情緒であると言えます。

 

信号の理解

自閉症の子は、集中性の情緒が強く現われたり、くつろぎ性の情緒が乏しいために、関心を持つ注意の範囲が狭くなります。そして、注意の範囲が狭いために、かけ離れた所にある2つ以上のモノを同時に意識し、結びつけることができにくくなります。人が示す「信号」は、たいがい離れたモノを示したり、そこにないモノを示したりしますから、信号を理解することが困難となります。

 

 例えば、前回説明しました「指さし」は、人の指さしと指さしが示す離れたモノを同時に意識できることで、指さしはそのモノを示しているのだと結びつけて考えられるようになります。しかし、「意識の広がり」がなければ、指さしを見て「指さししているな」と思ってもそれだけで終ってしまいます。モノを見せても、「モノがあるなあ」で終ってしまいます。先の指さしを思い続けなければ、今目前にあるモノと指さしとが結びつくのだということに思い至らないのです。

 

 しかも、指さしという行動をするからには何かあるに違いないという気持ちにもなりませんから、まわりの人が指さしを理解させようとしても、ポワンとした感じで終ってしまいがちです。逆に、自分の好きな思いに集中してしまっていますから、人が指さししても、見る気も起こりません。電車が好きな子であれば、人が「洗濯バサミを取って」と必死で指さしているのに、電車はどうのこうのと考えていて、指さしの方を見てくれなかったりします。

 

 言葉もモノを指し示す「信号」となります。私達は、例えば「デンシャ」という音声を聞けば、電車のイメージを思い浮かべることができますし、電車という漢字も思い浮かべたり、さらに山手線とか東海道本線だとか、自分が過去に乗った電車を思い出したりします。これは当たり前のように思いますが、複数の知的活動を同時にやっているということです。「デンシャ」という音声の処理や電車の視覚的イメージの処理、過去の経験の想起から、今の状況との関連づけの思考といった複数の活動を脳の中でやっており、しかもいくつかの記憶や知的作業を同時に意識しているということです。これは、意識の広がりがあるからできることなのです。心がゆったりとしながらも活性化された状態にあるからできることなのです。

 

 しかし、私達でも、何らかのプレッシャーを感じて緊張してしまうと、なかなかいろいろなイメージを思い浮かべることはできなくなり、狭い範囲のことに固執してしまいがちとなります。

 

 ましてや、「くつろぎ性の情緒」という意識を広げる役割を持つ情緒が乏しい自閉症の子にとっては、様々なイメージを思い浮かべ、適切なイメージを選び取るといった作業が困難になってしまいます。ですから、言葉を聞いても、適切なモノやイメージと結びつけられず、なかなか言葉が理解できないことになります。

意識の広さの発達

自閉症の子は、「意識が狭い」という話をしています。今回は、注意の広さの問題を発達的に見てみたいと思います。

 

 生後0か月。ぼんやりしていることが多く、精神的に不活発です。もちろん活発な感じのときもありますが。このころは見えたモノを見てしまい、「とらわれ状態」になりやすいです。積極的に何を見ようという意識は弱く、見たら他のモノを自由に見れなくなるという感じです。大きくなった自閉症の子であれば、ぼんやりしながらも、ときには何かをジーと見るような感じです。意識が狭いと言うよりははっきりしないと言った方がいいでしょう。

 

 生後1−2か月。積極的にモノや人を見るようになります。喜びを高めながら見続けることもあります。ただ喜びが高まると、身体の動きも見られるようになり、頭も動いて、ときどき横を見るといった現象が見られます。横を見て気持ちが落ち着いたら、また、人の方に顔を向け、喜びを高めます。

喜びがある程度のところで「集中」がしっかり現われ、さらに喜びが高まると「高揚性」が現われてきて、動きが出てきて、目がそれるわけです。すると「落ち着き」が現われます。落ち着きが現われても、ジーとモノを見つめる感じが多いと言えます。この段階は、積極的に好みのモノを見るようになるけれど、意識は狭く、他から声をかけられても、注意を転換することがうまくできません。大きくなった自閉症の子は、喜びながら水刺激やタイヤの回転など細やかに素早く変化する感覚刺激に魅了されてしまいます。またある特定の刺激に慣れてズーと注意を集中し続けることが見られます。人が誘っても、好きなことに集中し続けます。あることを知れば知るほど、慣れれば慣れるほど、そのことに魅了されてしまいます。

 

 生後3−4か月。活発に身体を動かしながら喜べるようになり、頭もよく動き、注意の転換も早くできます。意識は狭いけれど、アッチコッチと注意が転換するので、いろいろなモノを意識できるようになってきます。落ち着いているときにも、何か音がするとサッと注意を向けることもできますし、キョロキョロとまわりを見回すといったことも見られるようになります。自閉症の子では、自分の好きなことに集中しながらも、いろいろ活動を変えたり、人の働きかけにも注意を向けやすくなります。

 

 生後5か月頃になると、2つのモノを見比べるようになってきます。例えば、母親と別の女の人が目の前に現われると、母親を見たり、女の人を見たりするようになってきます。モノとモノとの結びつきが理解しやすくなってきます。

 

 生後6−7か月。やわらかい笑いが現われ、くつろいだ感じで人とまじわるようになってきます。意識が広がって、指さしの理解も早くできるようになります。2つの事柄を同時に意識できるほどに意識が広がってきたと言えます。

 

 生後9−10か月。このころになると、人が何かしても次に何があるかなと注意を向けるようになります。また、自分がバンとテーブルを叩いて、人が反応するに違いないという感じで、人に注意を向けます。1つの事と、まだない事を同時に意識できると言っていいでしょう。広い意識を持ちながら積極的にまわりに働きかけを始める時期と言っていいでしょう。大きくなった自閉症の子も、この段階だと、自分がいたずらをして人がどう応じるかを楽しむようになります。しかし、固い感じで喜ぶと、「満足感」が現われず、いつまでも同じいたずらを続けるといったことが見られます。人と楽しむのはいいけれど、いたずらが止まらなくて困るといったことが起こってきます。

 

 ただ、意識が狭く、人の言うことに興味を示さなくても、人が繰り返し教えたことは次第に覚えていきます。次第に情報処理が早くなり、キョロキョロ見るうちに物事の関連もわかってくるからです。

 

 しかし、やはり、情緒を育てて、自分からいろいろなことに興味を持てるようにすることが大切と考えられます。

裏読み

 自閉症の子は、教えられたことは字義通りに受け取ってしまい、融通や応用が効かないと言われています。ある本に書いてあった例では、赤信号で止まるんだよと教えられた子が、故障してずーと赤のままの信号機の前でいつまでも立ちつくしていた、という話があります。絵を描くときに、この鉛筆を使いなさい、とたまたま言われて、それ以降その鉛筆がなければ絵を描かなくなった、といった話もあります。

 

 これは、そのことに集中してしまって視野が狭くなり、他の可能性が考えられないせいでそうなったと考えられますし、固く考えてしまって、他の可能性を許容できないせいとも考えられます。そこで、自閉症の子は、融通や応用が効かないものだとあきらめてしまいがちですが、くつろぎ性の喜びを引き出して、活発だけれどもゆったりとできるようにしていけば、融通や応用が効くようになってきます。

 

 また、「アレがあればコレがあるだろう、やはりコレがあった、楽しい」という形で物事や出来事を楽しむようになることも重要です。以前にも書きましたが、このような形で人のやることやまわりの出来事に対して積極的な興味が出てくれば、「アレがあれば、何かがあるだろう」という形で「見えないもの」についても積極的に推論するようになると考えられます。これは、俗な表現を使えば、「先読み」や「裏読み」をするようになるということです。例えば、母親が台所に行けば「きっとおやつがあるに違いない」と先読みをしたり、母親が手を後ろに隠しながらやってきたら「手に何かを持っているに違いない」と裏読みすることが現われてきます。現実にないこともあるだろうと認め、そのことに興味を示すことで、見たまま聞いたままの現実をそのまま受け止めるという単純な心ではなく、見えない聞いていない裏の現実を興味をもって探る複雑な心が生まれてきます。現実を重層的に見れるようになるということです。

 

 にやにやしながら「このオモチャをあげようか」と友達が言ってきても、自閉症の子は、「あげる」という言葉や差し出されたオモチャにばかり集中してしまい、表情まで注意が向きません。意識の範囲が狭いために限られた情報しか受け取らないわけです。そして、裏の現実まで考えるという心の枠組みができていませんから、信じてしまいます。友達がからかっていることが理解できないわけです。

 

 しかし、くつろぎ性の情緒が十分に現われていて、意識も広く、かつ、「コレがあると何かあるに違いない」という裏読みができれば、だまされることは減ります。例えば、まず広い意識を持って、言葉と表情の両方の情報を受け取ります。言葉を理解するだけでなく、変な笑いにも気づくわけです。そして「にやにや」の裏に何かあるだろうと考えられます。簡単にはだまされないわけです。

 

 人との関係では、人は単発的に情報を発しているのではなく、様々な情報を同時に発しています。たくさんの情報を発していてもそれでも不足している場合や、それぞれの情報が矛盾している場合、など様々です。そのような情報を広く収集し、吟味して判断し、人に対応していくことが大切です。広く情報を集めて、裏読み、先読み、読みの変更、深読みが必要になります。これは、まさに情報処理、認知の問題ではありますが、情緒が深くかかわっていると「裏読み」していただきたいと思います。 

微細なコントロール

自閉症の子は、残念ながら、リラックスしながら喜ぶことが乏しいと言えます。そのために、喜んだり怒ったりしたときに緊張や興奮を高めるだけでなく、快不快のない落ち着いた精神状態であっても、身体が固かったり身体が動いてしまいます。たとえ、快不快がないときに脱力しても、何か刺激があるとすぐに緊張してしまうということもあります。そうなると、やわらかく、細やかに、人の働きかけに応じることができにくくなります。

 

 例えば、言葉を発するためには、微細な口のコントロールが必要です。唇や舌やアゴ、息の出し方を微妙に変化させられることで様々な音を出すことができます。赤ちゃんは、心地よいゆったりした状態で変化に富んだ声を出すようになります。いわゆるやわらかい声が出るようになります。日ごろ無意図的にやわらかい声を出せるようになることで、人の声を聞いてもまねができるようになります。人の声をまねることで、言葉のまねが現れてきます。

 

 しかし、緊張しやすい子の場合には、固い限られた声しか出せないために、人の声をまねできません。日ごろから様々な声を出していないために、人の声を聞いてもその声を聞いてもどうまねをしたらいいのかがわかりません。いわゆる動作的イメージが出来ていない状態となります。

 

 また、運動的に身体をコントロールする能力が優れていて、多少身体が固くても、人の声を聞いてまねが出来たり、脱力しているときになんとなく口を動かして、声のまねができるようになり、言葉が出てきたとしても、基本的には、固かったり落ち着かなかったりで、声や言葉が固い感じになってしまったり、早口で喋ってしまったりしてしまいます。つまり、高い声で喋ったり、抑えたような声で話したり、細やかな気分の変化がないために平板な感じで話したりということになってしまいます。

 

 声や言葉のまねがなく、自発的にもやわらかい声や言葉が出ない子は、くつろぎ性の喜びを引き出して、元気でありながらも身体がやわらかい状態にして、まず、人のそばでゆったりとしながら、やわらかい声が出るようにしていくことが大切です。普通、お風呂に入って気分よくゆったりできると、自然に鼻歌が出るように、人と一緒にいてくつろげるようにしていって、やわらかい声が出やすい状態にすることが大切です。人と一緒にいて、おとなしくしていても声が出なければ、やはり、何らかの緊張状態にあると考えた方がいいでしょう。ですから、黙っておとなしくしている子の場合には、少しくすぐって笑わせながらも、いろいろ身体を動かしてリラックスしていくといいのです。すると、自然にやわらかい声が出やすくなり、人の声を聞いてまねしたり、言葉を発したりもできるようになっていきます。

 

 ですから、くつろぎ性の情緒が現れるようにし、人のもとでくつろいでやわらかい声が出るようにしていくことが、言葉の発達のためには重要だということです。

情報処理の効率化

 自閉症の子と言っても、理解力に差があります。それほど情緒が発達しているわけではないのに理解力のある子もいます。確かに、情緒が発達することで物事や人への興味が増えて、知的能力が高まります。使う能力は高まります。しかし、知的能力は、情緒がそれほど発達していなくても発達する場合があります。

 

 生まれつき、情報処理能力がすぐれている子もいます。また、集中性の情緒が強く現われて、特定の分野について注意を集中して、その分野の情報に関する処理が早くなり、その分野に関しては知的能力を発揮する場合があります。特定の日付の曜日を即座に当てる人がいるそうですが、そのような驚くべき能力を発揮する場合があります。他の雑多なことに注意を向けない分、能力が伸びるわけです。

 

 また、集中力のある子であれば、言葉など教えていけば、次第に覚えていくことは可能かと思われます。しかも、言葉を使ううちに言葉に関する処理能力が高まり、流暢に言葉を使えるようになることもあります。

 

 集中性の情緒が強く、くつろぎ性の情緒が弱い場合には、視野が狭くなり興味が限定化してしまう傾向にあります。そのために複数の刺激に注意を向けられず、様々な情報を統合できないことになりますが、知的能力が高まり、情報処理が高速化し容易になれば、複数の情報を同時に処理できるようになり、次第に情報を統合できるようにもなります。

 

 狭い範囲に関する知的能力を伸ばすだけでよいならば、集中性の情緒があれば、知的能力を伸ばすことは可能かと思います。ただ、問題は、周りの人が伸ばして欲しいと思っていることに興味を持ってくれるかどうかです。

 

 特定の超能力を育てるのには役立ちませんが、やはり、一般的な知的能力を高めるためには、情緒を発達させることをお勧めします。なんと言っても情緒を育てなければ、人がどんな情緒を感じているのか理解ができません。自分が経験したことのない情緒を理解することは、困難です。例えば、自分が「くつろぎ感」を感じなければ、人が仲間と一緒にくつろいだつきあいをなかなか理解できないと思われます。類推することはある程度できるでしょうが。また、今まで説明してきましたように、くつろぎ性の情緒が現われてくると、出来事に対する興味が育ってきますし、これから説明していきますが、人のそばにいて人の話を聞くようになりますから、言葉の理解は伸びます。また、共感や誉められてうれしいという気持ちも育ってきますから、進んでいろいろなことを学ぶようになります。

 

 このように情緒が育つことで、人のやること、出来事に興味を持ったり、一緒にいてうれしい、誉められてうれしい、と感じるようになることで、どんどん自主的に学ぼうとすることになります。

 

 さらに、物事を柔軟に考えたり、広い視野にたって様々な要素を統合するためには、情緒が育つことが大切です。くつろぎ性の情緒によって、心にゆとりと柔軟さが現われてくれば、1つのことに2面性があることや1つのことが変化することを受け入れられるようになります。また、あいまいな状態も受け入れられるようになります。

第3節 愛着の深まり

愛着とは

 自閉症の子は、人への愛着が乏しいと言われています。実際にそういう傾向があります。母親と会っても、少しもうれしそうでなかったり、何か嫌なことがあっても、母親に助けを求めることがないことがあります。また、たとえ助けを求めても、そしていったん母親に抱かれても、すぐに降りて自分の遊びの方に行ってしまいます。母親としては、「ああ、よかった。お母さんと一緒でうれしい。」と思ってほしいと感じるところですが、あまり親密感を感じてくれないので悲しくなってしまいます。

 

 人への愛着を育てることが大切です。愛着とは、親しい人との心の絆だと言われています。しかし、心の絆と言われてもはっきりしません。その姿が明確にならない限り、愛着をうまく育てることはできません。

 

 愛着とは、親しい人と一緒にいて安心感を感じることだと思います。安心感を感じられるから、親しい人と一緒にいたいと思います。安心感と言うと、「この人は、私を裏切らない」とか「私の要求にきちんと応じてくれる」と認識することと考えられたりします。必ず守ってくれると理解することで信頼感が生まれ、安心感も生まれると考えられたりします。しかし、自閉症の子の親を見ていると、子の要求や信号にきちんと答えようとがんばっていらっしゃる人が多いようです。それでも愛着が育たないのです。

 

 残念ながら、認識や理解だけでは安心感は育たないのです。もちろん認識は重要なのですが、安心感は、感情です。感情を育てることが大切なのです。しかし、この感情を育てるということが、よく理解されていないと思われます。安心感とは、リラックスした心地よさを感じることが基礎にあります。その感情に危険がない、守られているといった認識が付け加わって「安心感」になると思われます。ですから、そういう認識を育てるとともに、リラックスした心地よさを感じられるようにすることが大切なのです。

 

 リラックスした心地よさを感じられるようにするためにはどうしたらいいかと言うと、「くつろぎ性の情緒」を引き出すことです。具体的には、「緊急事態の終了後の安堵感」とか「欲求が満たされた後の満足感」「目標を達成したときの満足感」があります。その実現のためには、「リラックス」できることと「喜ぶ」ということがあります。発達的に見ると、まず「刺激で喜ぶ」があり、つぎに「刺激を期待して喜ぶ」があり、さらに「期待がかなって落ち着く」があり、その上に「期待がかなってリラックスして喜べる」があります。

 

 働きかけとしては、喜びを引き出してはリラックスさせるを繰り返し、簡単に喜んだり、リラックスできるようにしていきます。そうして、「大いに期待を膨らませては、期待がかなったところで、リラックスできる状況」を作って繰り返し、その状況で、「くつろぎ性の喜び」が現われるようにしていくわけです。そうして、くつろぎ性の情緒が現われてきたら、親しい人のもとでくつろぎ性の情緒を感じられるようにしていきます。そうすると、子どもは親しい人と一緒にいて安心感を感じるようになり、親しい人と一緒にいたがるようになります。そして安心感を感じることはゆとりがあるということですから、いろいろなことをやろうとする積極性のもとになります。

緊急事態の終了後の安堵感

 自閉症の子は、くつろいで喜ぶことが弱いのですが、くつろいだ喜びの発達について少し考えてみましょう。

 

普通は、生後6−7か月頃から、「イナイイナイ・バー」といった弱弱強休のパターンのあやしかけに対して「ハハハ」とやわらかく笑う反応として現われます。ですから、「くつろぎ性の情緒」は、

生後6−7か月頃から現われると考えています。ただ、ある特殊な状況では、それ以前にも「くつろぎ性の情緒」が現われることがあります。それは生後4か月頃から現われる「緊急事態の終了後の安堵感」です。

 

例えば、生後4か月頃の赤ちゃんを床にすわらせます。もちろんこのころは自分の力ですわり続けることはできませんから、頭や背中を支えてあげなければなりません。まず、こちらの手で赤ちゃんを支えながらすわらせます。その後、手の支えをサッと取り去ります。すると、赤ちゃんは、アッと驚くような表情を示しながら後ろの方に倒れます。そして、床に背中をつけて倒れる前に、またこちらの手で赤ちゃんを受け止めます。すると、緊張感がほぐれた感じで「ハハハ」と柔らかく笑います。くつろぎ性の笑いと言えます。

 

また、生後4か月頃の赤ちゃんをたて抱きにします。そして、ヒョィッと勢いよく赤ちゃんを持ち上げます。すると、赤ちゃんは驚いたような表情を示し、身体を固くさせます。持ち上げた後すばやく赤ちゃんを下ろし、再びしっかり抱きとめます。すると、赤ちゃんは、力を抜いて「ハハハ」と笑います。

 

身体を倒す働きかけでは、手の支えがはずされ後ろに倒れるときが赤ちゃんにとって緊急事態となります。このときには、赤ちゃんは緊張します。そして、手で支えられて身体が安定するときが緊急事態の終了です。緊張事態が終了することで、身体が安定し、緊急な事態への対処は必要なくなります。そのために緊張が解けて、笑いが現われるものと思われます。

 

身体を持ち上げる働きかけでは、身体を持ち上げられたときが、赤ちゃんにとって緊急事態です。

2本の手で支えられているだけですし、急に空中に浮き上がった形になります。非常に不安定な状態になったと言えます。そのために身体を緊張させます。身体を下ろして抱きとめられると身体が安定します。緊急事態の終了です。このときに緊張が解けて、同時に笑いが現われるのです。

 

このような働きかけはめったにするものではありません。むしろ、しない方がいいでしょう。ですから、くつろぎ性の情緒が生後4か月頃に現われる可能性はあると言えます。ただ、現われやすくなるのは生後6か月頃ですから、そのころに「くつろぎ性の情緒」が現われると考えているのです。

 

このような緊急事態終了時の安堵感が現われるためには、緊張が高まってもすぐに弛緩できるという緊張のコントロールの発達が背景にあると考えられます。緊張が高まってすぐに弛緩できなければ、緊張状態が続いてとても安堵感を感じられないということです。そして、もっと適度な形で緊張してもすぐに弛緩できるようになることで、イナイイナイ・バーで、ジーと見てはハハハと笑うといった反応が現われることになるのです。

 

ですから、自閉症の子についても、まず、緊張がほぐれるようにすること、さらに緊張が高まってもすぐに緊張が取れるようにすること、といった働きかけが大切になります。

安堵感を活用した働きかけ

 自閉症の子は、くつろぎ性の情緒が乏しいので、働きかけをするときには、くつろぎ性の情緒を引き出すようにします。イナイイナイ・バーで喜べるようにしたり、目的地まで一生懸命走って着いてホッとできるようにしたりします。そのようにいろいろある中で、「緊急事態終了時の安堵感」を引き出すことは、これが発達的に見てもかなり初期に現われるくつろぎ性の喜びですから、やりやすいと考えられます。

 

例えば、子どもを平均台に乗せて、飛び降りるところを受け止めて抱っこをするとか、バランスを崩して倒れようとするところを抱きとめるとか、強い刺激でワッと脅かしてはトントンと軽く背中を叩くとか、抱っこでグルグルと振り回しては止めてゆったりさせる、などの働きかけが考えられます。

 

ただ、そういう状況を作ると、リラックスして喜びやすいというだけで、実際にその喜びが現われなければ、有効な働きかけをしたことになりません。例えば、平均台に乗せてから飛び降りるところを受け止めても、キャッキャッと興奮して喜んで、そのままはしゃいで走り出してしまったというのでは「くつろぎ性の喜びを引き出す働きかけ」をしたことにはならないのです。ここのところを気をつけていただきたいと思います。「くつろぎ性の情緒を引き出す目的の働きかけ」をしていれば、次第に「くつろぎ性の情緒」が現われてくるとは限りません。例えば、平均台を飛び降りる働きかけにしても、いつも興奮して喜んでいれば、高揚性の情緒を促進していることになります。

 

さらに言うと、すぐに「くつろぎ性の情緒」が現われるのは難しいですから、くつろぎ性の情緒が現われやすくなるように働きかけをして、ついにはくつろぎ性の情緒が現われるようにしていくという作戦をとることになります。ですから、働きかけをしてくつろぎ性の情緒が現われず、別の興奮した喜びや緊張した喜びが現われてもよしとする場合があります。例えば、固い喜び方ばかりで活発に喜ぶことが弱い子の場合は、興奮して喜んでも、将来的にはくつろぎ性の喜びが表れやすくなる方向での働きかけをしていることになりますから、よしとします。ただ、興奮した喜びがよく現われるようになってきたら、次には、興奮した後で落ち着けるようにするように働きかけを変化させていくことが大切となります。いつまでも興奮した喜びを出し続けていると、それこそ落ち着きのない子になってしまいます。

 

ややこしいように聞こえますが、情緒の発達の筋道がよくわかっていれば、それほど難しくはありません。ですから、まずは、情緒の発達と関連させて自閉症の子の示す行動を説明しているのです。

様々な愛着

 自閉症の子は、母親や父親といった親しい人にも、愛着を示しにくいと言われていました。一方、自閉症の子にも、親への愛着があるとも言われています。ただ、愛着があると言う場合にも、どうも普通の愛着とは違うと言われています。親と離れたくないとか、離れて不快になるとか、分離不安と言われる現象は見られることがあります。親と再会してくっつくこともあります。しかし、どうも親との「よかったね」という感じの情緒的交流がないと言われています。

 

前回、書きましたが、愛着の基本は情緒的に見れば、安心感だと思われます。しかし、人との心の絆は安心感だけで決まるものではありません。いろいろな要素が含まれています。ですから、自閉症の子の愛着を理解するためには、愛着をいくつかに分類して考えた方がいいでしょう。

 

1つは、「反射的な愛着」です。人に抱っこされて、落ちそうになってしがみつくといった反射的に人を求める行動があります。不快な事態で泣くというのも、反射的な場合があります。子が泣くと親としてはなんとかしなければという気持ちになります。

 

 1つは、「生存欲求型の愛着」です。これは、お腹が空いたり、喉が渇いて大人を求める行動として現われます。親から厳しく扱われてもよけい親を求めるといった行動が現われたりしますが、見捨てられると食べていけないという気持ちからよけい親を求めるようになると考えられます。

 

 1つは、「刺激希求型の愛着」です。これは、接触刺激や揺れ刺激を求めて、人を求めるような愛着を言います。揺らしてくれる人を求めたり、触れられて気持ちいいと感じれば、抱っこを求めます。

 

 1つは、「当然視型の愛着」です。幼児期の子にとって親はいつも一緒にいる存在です。特に、保育園や幼稚園に行っていないときにはそうなります。すると、親がそばにいるのが当然と思います。

自閉症の子の場合、当然と考えるイメージに固執する傾向がありますから、親が離れようとすると、離れるのを嫌がります。しかし、一緒にいればいいわけですから、一緒にいてやりとりを楽しむということはないのです。また、一緒にいるということに注意が向かなければ、離れても平気です。何か興味のあるモノに引き付けられて、自分から離れていくのはいっこうに平気です。幼稚園に行くときは、母親から離れるのを嫌がるのに、スーパーでは、一人で自分の好きな商品の方に行ってしまったりします。このように親と離れたがらないという形で、愛着を示すのになぜかおかしいと思われます。

親と一緒にいるのが当然と考えて分離不安を起こしますから、親と一緒でないこともあるのだと知れば、分離不安を起こすこともなくなります。

 

 1つは、「安心感型の愛着」です。これは、母親と一緒にいて安心感を感じる、だから一緒にいたいと思う愛着です。安心感を感じる反面、親がいないと不安を感じます。安心感に基づく不安です。親と一緒にいて安心し、親とのやりとりを楽しみます。安心感が弱いときには、親を強く求めます。安心感が増えてくれば、次第に親から離れて、他の人とまじわれるようになってきます。

 

 私は、「安心感型の愛着」が重要と考えています。安心型の愛着が育つことで、親やまわりの人とくつろぎながらまじわれるようになるからです。そのためには「くつろぎ性の情緒」を引き出すことが必要となります。

愛着の育て方

 自閉症の子は、人への愛着が弱いのですが、情緒を育てていれば、愛着も育ってきます。楽しく遊んでは、ゆったりできるようにし、やわらかい笑いが出てくれば、親のもとでゆったりするようになり、親と一緒にいたいと思うようになってきます。働きかけについては、後に詳しく説明したいと思いますが、ひとつ例を書いてみたいと思います。

 

 当時4歳の自閉的な男の子がいました。落ち着きのない子で、ミニカーで遊んでいたり、水遊びをする以外では、走ったりキョロキョロしたりしていました。親とは遊ぼうとしませんし、抱っこされてゆったりすることもありません。こちらがくすぐると笑うのですが、ますます落ち着きがなくなるという状態でした。そこで、抱っこして身体の動きを止めてくすぐりました。すると笑うのですがもう止めてくれという感じでした。抱っことくすぐりで緊張を高めては、母親にすわっていてもらって、母親のもとに渡すという方法を取りました。ミニカーで遊んでいるところを抱きあげてくすぐります。そして母親の膝の上に乗せます。くすぐりで緊張を高め、母親の膝の上でホッとできるようにする作戦です。しかし、始めに抱っこしてくすぐり笑わせて、母親のもとにおろしても、彼は、ホッとすることもなく、サッと母親の膝から降りてしまい、またミニカーの方にもどってしまいます。しつこくならない程度に、様子を見てはまた抱き上げ、くすぐり母親のもとに下ろす、という働きかけを繰り返しました。

 

 週1回1時間ほど働きかけを行い、1か月が過ぎるころに、こちらがくすぐった後、ハーハーと息を弾ませるようになってきました。そして、多少母親の膝の上にすわっていられるようになってきました。それでも、10秒か20秒ほどすると、手で母親を押して降りようとします。もちろん無理せずに降ろしてあげます。さらに1か月すると、ハーと深く息を吐くようになり、しばし母親の膝の上に留まるようになりました。また、ミニカーをして遊んでいても、私が迫ると、うれしそうに母親の方に逃げていき、自分から母親に抱っこされるようになりました。母親に抱っこされているときに、私が絵本を読んだりすると聞くようになり、母親が読んでも聞くようになりました。

 

 そうこうするうちに家でも絵本を聞くようになり、言葉のまねも出てきました。落ち着きも増して、走り回ることはなくなってきました。手をブラブラ揺すると、肩の力も抜けてクタクタとした感じになり、ヘラヘラと柔らかく笑うようになってきました。すると、けっこう母親と一緒にいたがることが増え、母親の歌遊びや言葉をまねるようになってきました。いつも一緒にいますから、母親にとってもはたらきかけがしやすくなり、ちょっとくすぐって笑わせては手ブラブラでリラックスさせるという働きかけも日常的にできるようになってきました。

 

 この子の例は、くすぐりにと抱っこによって多少強く緊張を高めてはホッとさせるというやり方を行い、次第に母親のもとでゆったりできるようになった例です。

不安の種類

 自閉症の子は、親への愛着を示さない代わり、知らない人への不安も見られないことが多いものです。知らない人にでも、わけへだてなく挨拶して回るという子もいます。人には挨拶するものだと思い込んでしまっている子もいるのです。それはともかく、不安も愛着と同様に様々な要因の絡み合いによって現われますから、それらの要因について理解しておくことが大切です。

 

 不安は、主に3つの要因を考えたらいいでしょう。

 

 1つは、予期不安です。これは何か嫌な経験をした後、同じような状況でまた不快なことが起こるのではないかと警戒し、実際に嫌なことがあれば不快感を表現するというものです。自閉症の子の場合、強い音など音に対して不快を感じることが多いと言われています。ちょっとした音、人の声に対して耳をふさぐような行動を示します。かえって強い音の方は平気という子もいて、感覚が混乱しているなどと言われています。また、人に身体を触られることを嫌がる子もおり、皮膚防衛が強いとも言われています。服の肌ざわりを気にする子もおり、特定の服を着なかったり、裸でいることを好む子もいます。これらも、単なる感覚器官の問題というよりも、情緒的受け取りの問題として考えた方がいいと思っていますが、後で考えたいと思います。ともかく、ある感覚刺激によって不快になるとその状況に対して予期不安が起き易くなります。また、自分の思い通りにならず、強く制止されると、パニックを起こし、そのことが人や状況への予期不安を生み出すこともあります。

 

 もう1つは、認知的な要素が強い不安です。これは、くつろいだ感じで現われる安心感がなくても表現される不安です。簡単に説明すると、自分の頭にあるイメージと現実とが不一致の時に不快感を感じる不安です。記憶と現実との不一致と言ってもいいと思います。昔行ったことのある町に再訪する場合、どこにどんな建物があるという記憶が残っています。その記憶通りの町であれば、心地よさを感じます。あるべき物があれば情報の処理がスムーズに行って心地よいと感じると思われます。しかし、あると思っていた建物がないと「アレ?」という感じでなんとなく落ち着かない気分になります。これは、新たに新しい情報を処理しなければならないとか、予定していた行動を変更しなければならないといった理由が考えられます。

 

 記憶と現実が不一致であっても、いつも強く不快感を感じるものではありません。不快感を強く感じるためには、それを重要視していること、それは当然、他の場合があってはならないと固く思い込んでいること、他の可能性が考えられないこと、があります。例えば、ミニカーを並べて遊ぶのが好きで、好みの並べ方があるときには、ミニカーの並べ方が違っていると嫌だと感じてときにはパニックを起こします。他に楽しみがない場合には、その子にとってはとても重要となります。また、日頃、集中性の情緒を感じることが多い場合には、こうでなければならないと認知の仕方が固くなり違いを受け入れられなくなります。また、注意を集中してしまい他の可能性まで考えられないとそれしかないと思ってしまい、違いを許せないということになります。このように、重要視、固さ、視野の狭さが、記憶と現実との不一致によって起こる不快感の強さを決定します。

 

 自閉症の子の場合、集中性の情緒が強く現われるために、記憶と現実の不一致によって強く不快感を感じてしまいます。自閉症の子でなくても、いわゆる頑固な子とかまじめな子、完全癖のある子などは自分のイメージ通りでないことを許せない傾向があります。しかし、このような子も、自分が気にしていることに関しては、少しでもイメージ通りでないと不快になっても、他のことは全く気にしないということがあります。机の上だけはきれいなのに床やソファーの上は散らかっていても気にならないということが起こります。興味が狭いために起こる現象です。

 

 記憶と現実の不一致を基礎として、「安心感」が脅かされることで起こる不安もあります。これは、親しい人や親しい場で、安心感を感じるために、親しくない人や慣れない場所に対して安心できず不安を感じるというものです。9−10か月ぐらいの赤ちゃんが見知らぬ人に対して泣くことが現われてきます。いわゆる「人見知り」と言われる現象ですが、この「人見知り」現象も、安心感に基ずく不安と考えられます。ですから「人見知り」は、母親への愛着が育ってきた証拠であると考えられており、重要視されています。自閉症の子では赤ちゃんのときに人見知りがなかったという子がけっこういます。親しい人への愛着が育っていなかったと考えられます。

 

 ときどき「お母さんとわかってきたから、人見知りが現われて来たのね」などと言う人がいて困ってしまいます。単に母親とわかるだけでなく、母親に対して安心感を感じることが大切なのです。

人見知り

 自閉症の子が示す不安について考えています。昨日は、不安には、「予期不安」「記憶と現実の不一致による不安」「安心感に基ずく不安」があること、自閉症の子の場合、人見知りといった「安心感に基ずく不安」が乏しいという話をしました。

 

 ただ、人見知りと言っても、「記憶と現実の不一致による不安」によって起こる人見知りもあるので気をつけなければなりません。例えば、「我が家には、この人はいないはずだ」という思い込みによって、いてはいけないはずの人が訪問しに来て、泣き出すということがあります。と言うより、あるだろうと思います。親しい人への愛着がそれほど育っていないのに人見知りを示すことがあるからです。

 

 赤ちゃんの話ではありませんが、学校に通っている自閉症の子で、いつも学校でつきあっている先生に町で会って、「アレ?」といった表情を示すことがあります。先生は学校にいるもの、それが当然と考えてしまい、町にいるという別の可能性を受け入れられなければ変だと感じることになります。ですから、学校では仲良くつきあっている先生なのに、避けてしまったり、学校に帰れというように先生を押し返したりすることもあったりします。それとは、逆にいつも家にいないよその人が家にやって来て「変だ」と感じて不快になり泣くことは大いに考えられることです。

 

 ですから、生後半年以後の赤ちゃんを見る場合、人見知りをするからと言って、親しい人との愛着関係が育ってきたとは言えないということです。やはり、親しい人と一緒にいてくつろいだ感じでやりとりを楽しんでいるかどうかを見ることが大切です。

 

 さて、「安心感に基ずく不安」は、「記憶と現実の不一致による不安」を基礎としているために両者をきちんと識別することは困難です。赤ちゃんに見られる人見知りも、どちらの要因で起こった人見知りかを区別することは難しいと言えます。日頃の活動を見て、日頃も安心感が出ているか、安心感を求める行動が現われているかを見て、判断することが大切と思われます。簡単に言えば、赤ちゃん時代に人見知りが現われているからと言って、安心感に基ずく愛着関係が育っているかどうかは判断できないということです。

 

 ただ、2つの不安を区別するとしたら、「安心感に基ずく不安」は新しい事態でも起こると言えます。よく見知っている人に対して安心感を感じるために、まったくつきあいのなかった人に不安を感じるわけです。以前と違うという不安ではないのです。また、まったく新しい場所に対しても、慣れた場所で安心感を感じていれば、不安を感じるということが起こります。安心感が育っていない子では、たいがいは、他の不快な要素がなければ、新しい人や場所で不安を感じることはありません。もちろん新しい人や場ということで緊張感を示したり、探索行動を示すことはあります。

 

 ただ、「安心感に基ずく不安」は、新しい事態で起こりうるが、「記憶と現実の不一致による不安」は、新しい事態では現われないと言いましたが、我々が新しい事態と思うことが子にとっては新しい事態ではないと感じる場合もありますから、ややこしいと言えます。先にも述べましたように、家にまったく新しい人がやってきたら、我々は「新しい事態」考えます。そして普通は、幼い子もそう感じるようで、安心感が育っている子は人見知りをしますが、安心感が育っていない子は人見知りをしません。

 

 しかし、子どもによっては、新しい人の訪問を新しい事態とは受け取らず、慣れた家に知らない人といった組み合わせで、「過去とは違う」という理解の仕方をして不快を感じることはあります。ですから、まわりの人が新しい事態と考える状況で不安が現われても、安心感に基ずく不安とは言い切れないのです。子どもが「過去とは違う」と認識すれば、「記憶と現実の不一致による不安」が起こり得るからです。

 

 また、ややこしい話ですが、「安心感に基ずく不安」は、安心感はあるけれど十分でないときに現われます。安心感がたくさんになれば、不安感は現われなくなってきます。ですから、人見知りは、親しい人のもとで安心感を感じることで現われてきますが、さらに安心感が増え、いろいろな場面でも安心できるようになると消えていきます。

しがみつき

 自閉症の子の中には、母親にしがみつく子がいます。しがみついて母親から離れようとしない場合があります。母親から離れるととても不安がって、離れられないのです。母親は家事が十分にできないぐらいになったりします。兄弟がいる場合は、もっと大変で、小さい子も甘えてきますし、抱っこを卒業した大きい子でさえ、再び甘えてくることもあります。そうなると母親に何人もの子がしがみつくことになり、母親の気持ちも不安定になってしまいます。

 

 この場合、2つの可能性が考えられます。1つは、当然視による愛着が強い場合、もう1つは安心感が出てきているけれど、まだ弱い場合です。

 

 当然視による愛着は、母親は一緒にいるべきものという思い込みによって起こります。心にゆとりがないとこの思い込みはよけい固い思い込みになり、少しの違いも許せないことになります。ですから、新しく保育園に入るとか、自分の好きなようにできずに不機嫌になったときに現われたりします。

 

 安心感に基ずく愛着の場合は、母親と一緒にいて安心できるようになり、母親以外の人や母親がいない状況に不安を強く感じることでしがみつきが現われてきます。

 

 普通は、子どもが抱っこを求めてきたら満足できるまで抱っこしてあげなさい、と助言されます。しかし、子どもが母親にしがみついてすぐに満足してくれるのであれば、それでもいいのでしょうが、何ヶ月も抱っこし続けても満足してくれない場合もありますので、抱っこの求めに応じればいいというだけではよくありません。

 

 どちらの場合のしがみつきであれ、情緒を発達させる積極的な働きかけをした方がいいでしょう。当然視によるしがみつきの場合、集中性の情緒による固執や不機嫌さがありますから、抱っこして多少とも落ち着いたところで少しずつくすぐり、笑いを引き出していきます。笑いが出てきたら、身体のアッチコッチをくすぐって動きながら笑えるようにしていきます。活発な笑いがでてくれば、母親への固執は減ります。また、笑わせることで不機嫌な気分が解消されていけば、どうしても母親でなければダメという強い気持ちも減ってくるでしょう。

 

 安心感に基ずくしがみつきの場合は、安心感を増やすことが大切です。安心感は、くつろぎ性の情緒によって生まれてきます。つまり、リラックスしながら心地よさを感じることです。ですから、やはり多少とも機嫌がいいときにくすぐりによって笑わせます。そして、手ブラブラなどでリラックスさせてあげます。そうして、うれしそうにリラックスできるようになれば、母親にしがみついていなくても安心していられるようになり、母親から離れられるようになります。

愛着の深まり

 自閉症の子は、くつろぎ性の情緒が現われるようにし、安心感を増やし愛着を深めることが大切です。愛着が深まることで、人と交わりたいという気持ちが増えて、人からいろいろなことを学んでいきやすくなります。

 

 くつろぎ性の情緒は、緊張が高まったり、興奮が高まった後に心地よくゆったりすることで、現われてきます。そのような経験を何回も繰り返し、かつ心地よいゆったりさをじっくり味わううちに深まっていきます。幸福感が高まっていると同時にゆったりしている状態を味わうことが大切です。そのためには、人と一緒にいる機会を増やすことが大切です。人が一緒だと抱きしめたり、トントンと叩いたり、歌を聞かせたり、子どもがゆったりといい心地でいられることを援助できるために、人と一緒にいることでくつろいだ気分を深めることができるからです。

 

 

 自閉症の子は、喜ぶと緊張が高まったり、興奮したりしがちです。そのために喜ぶと何かに夢中になってしまったり、落ち着きなく走り回ってしまったりします。「ああ、よかった」「ああ、面白かった」とリラックスすることが難しいのです。そのために人とのしみじみとした関係が作りにくくなります。

 

 喜んでリラックスできるためには、まずは、いろいろな場面でリラックスできるようにすることが大切です。赤ちゃんの場合は、人とのやりとりの中で緊張しては落ち着く、興奮しては落ち着くを繰り返して、次第に緊張してはリラックスするという方向へ自然と進展していきます。特にリラックスさせる働きかけをしなくても、抱っこしたり、働きかけを止めることで落ち着きが得られ、さらに落ち着きを繰り返すうちにリラックスもできるようになっていくのです。日常的なつきあいの中でリラックスできるようになり、さらに喜びながらもリラックスできるようになります。

 

緊張→→→落ち着き

興奮→→→落ち着き

緊張→→→快感+リラックス

 

 自閉的な子の場合は、自然には、リラックスしながら喜ぶことが現われにくいのです。つまり、楽しく遊ぶだけではリラックスして喜ぶことが現われにくいものです。しかし自閉症の子でもときには、よく遊んでいると自然にくつろぎ性の喜びが現われるようになり、そのまま人への愛着を深め、自閉性が解消されていく子もいます。よく遊ぶだけでよくなっていく子がいるのです。しかし、多くの場合は、単に子どもを喜ばせるだけではだめで、リラックスもさせながら喜ぶ活動をしていくことが大切です。

 

 リラックスできるようにするには、赤ちゃん体操のように子どもを床に寝かせ、足の曲げ伸ばしをして力を抜かせるやり方や手をブラブラと小刻みに揺すって肩の力を抜く方法、身体を丸めながらトントンと叩いてゆったりさせる方法、くすぐりで緊張を高めてはくすぐりをやめてホッとさせてリラックスさせる方法などがあります。

行動制止

 自閉症の子も、リラックスしながら喜べるようになると、人のもとで安心できるようになり、親しい人と一緒にいたいと思うようになります。それが「安心感に基ずく愛着」です。昨日も説明しましたが、愛着は少し現われればそれでいいかというとそうではありません。安心感を増して、愛着を深めていくことが大切です。そうすることで、親しい人から少し離れていても、安心していられるようになり、安心しながらモノで遊んだり、他の人とも交われるようになるのです。

 

 人見知りといった安心感に基ずく不安は、安心感が少し現われて来た時点で現われるようになり、安心感が増えるとともに減少していきます。さて、赤ちゃんでは、母親への安心感が現われてきてそれとともに人見知りも現われてくるのが生後6か月から10か月頃のことです。ちょうどこのころ、自閉性と関係する現象が現われてきます。それは、「制止」とも「行動制止」とも呼ばれる現象です。もっとわかりやすい言葉を使うと、「用心深さ」「警戒心」ということでしょうか。

 

 人見知りと言えば、見知らぬ人に不安を感じて泣くことですが、泣くまでには至らない行動が警戒です。程度の弱い不安を感じて、警戒したり用心深くなったりします。例えば、10か月ごろの赤ちゃんが部屋でお母さんと一緒にいるとします。すると大概、お母さんと一緒にいるということで、安心しながら、オモチャをいじくって遊びます。ゆったりした表情でやわらかい声を出したりもします。このとき遠くから知らない人の姿が見えたとします。すると、とたんに表情は固くなり、声も出なくなります。オモチャでは遊び続けても、なんとなく気軽に遊んでいるという感じではなくなってきます。固まった感じになり、行動が抑制されるために「行動制止」と呼ばれているのです。

 

 こんな例もあります。やはり10か月ごろの赤ちゃんが部屋でお母さんと一緒にいる場面です。その赤ちゃんは、少し離れた所に別のオモチャを見つけて、取りに行こうと這い這いを始めました。このとき見知らぬ人が入ってきました。すると赤ちゃんは這うのを止め、今まで遊んでいたオモチャを取り再びいじくり始めました。見知らぬ人は母親と話を始めました。赤ちゃんはオモチャをいじりながらおとなしくしています。見知らぬ人は母親との話を終わり、外へ出ていきました。すると赤ちゃんは、いじっていたオモチャを捨て、取ろうとしていたおもちゃの方に行き、にこやかな感じで遊び始めました。

 

 見知らぬ人がいる間は、欲しいオモチャを我慢していたのですね。その様子を示さずにおとなしくしていたのです。普段なら起こるような行動が制止されてしまうのです。このような行動が注目されるのは、このような行動が、内気な行動、恥ずかしがりやの行動へと発展していくのではないかと見られるからです。

 

 ここで注目していただきたいのは、不安が強ければ泣きという固いけれど活発な情緒表現が現われ、不安がそれほどでなければ、行動制止という固まる反応が現われるということです。不安の違いは、程度の違いと言っていいかと思いますが、現われる反応は、活発な反応と固い反応というように質的に異なります。

 

 赤ちゃんの場合、知らない人がいて固まってもすぐに回復します。また、人とのやりとりを続けて、安心感が深まってくると、固まる反応自体あまり現われなくなってきます。安心感というリラックスが警戒という緊張より勢いが強ければ、リラックスした状態がいつも現れるようになります。

 

 しかし、自閉症の子のようにくつろぎ性の情緒が乏しい場合、安心感が深まらず、精神や身体を固くさせる制止が出やすくなってしまいます。そして制止が頻繁に現われていると、固くなる反応が現われやすくなり、いろいろな刺激に対して固くなったり、何かやろうとしても固くなるということが起こり得るのではないかと思います。固い上体が続くようになり、せっかく現われていたくつろぎ性の情緒が抑制されて現われなくなってしまうと思われます。

 

 せっかくくつろぎ性の情緒が少し現われてきても、自閉的に固くなってしまう可能性があるということです。

接近と回避の葛藤

 自閉症の子は、人に接近したいという気持ちがある反面人を避けたいという気持ちがあるとも言われることもあります。確かにそれとはっきりわかるような行動を示す子がいることはいます。

 

 5歳ぐらいの男の子だったのですが、今まで遊んだこともあり、どうも遊びたい感じなのですが、身体を固くしています。視線は、無理に横を向いているという感じで、こちらを見ません。しかし、チラッと見たり周辺視をしている感じなのです。そして、少し接近してきたかと思うと後ろにさがっていきます。近付こうとしては離れることを繰り返します。何回か繰り返した後、勢いをつけてこちらに走ってきました。勢いをつけないとやってこれないようです。一緒に遊びたいけれど、なんとなく避けたいという気持ちもあるようです。ですから、くっつこうとしては、いやくっつきたくないと思って離れる、ことを繰り返したわけです。

 

 別の男の子ですが、やはり同じくらいの年頃。その子の場合は、私と楽しく遊んでいたのです。よく笑っていました。しかし、母親が部屋に入ってくるとワーと泣いて母親の方に走っていきました。そして母親のそばで顔をゆがめた感じでイスにすわっていました。これをどう解釈するかです。簡単に言うとその母親は厳しくしつけをする母親だったのです。それで子どもがフラフラ歩くのを好まず、いつも母親のそばでイスにすわるようにしつけていたのです。せっかく私と遊びたいという気持ちがあるのに、すわらなければならないという思いの間で葛藤を起こし、顔をゆがませていたのです。

 

 しかし、自閉症でない人も接近と回避の葛藤はあります。普通に現われる心理なのです。ただ、自閉症の場合は、固くなってしまって葛藤が見えにくくなってしまうという面があるかと思います。昨日説明したようにくつろぎ性の情緒が不十分な場合、行動制止という警戒心が強くなり、感情表現が抑制されてしまうことが起こる場合もあるのではないかと思われます。せっかくくつろぎ性の情緒が現われたのにある程度の不安で抑制的な行動が現われるようになり、くつろいだ感じも現われなくなってしまったと考えられます。

 

 あくまで私の考えですが、自閉症は、くつろぎ性情緒が現われる前の段階にとどまっていて、ぼんやりしたり、刺激に固く集中してしまったり、落ち着きのない状態になっている場合と、くつろぎ性の情緒が現われることもあったのに不十分なために、制止が前面に出るようになり、固い反応が現われる場合があると思われます。

 

 ですから、くつろぎ性の情緒が少し現われてきたらそれでよしとせず、さらにくつろぎ性の情緒がたくさん現われるように楽しいやりとりを続けることが大切だということです。

やりとりを楽しむ

 自閉症の子も、喜ばせてはリラックスさせるという働きかけを繰り返していけば、次第に喜びながらもリラックスできるようになっていき、次第に、イナイイナイ・バーなどのあやしかけに対して軽やかに笑えるようになってきます。次に現われる行動を期待し、期待した行動が現われてリラックスしながら喜べるようになっていきます。そうすると、人と一緒にいてくつろいだ気分になります。すると、くつろいだ気分が親しい人と結びつくようになり、親しい人といるだけでくつろいだ気分になれるようになります。そうするとさらに、くつろいだ気分になりたいために親しい人と一緒にいたがるようになります。

 

 くつろいだ気分とは、やわらかく、かつ、心地よく活性化された状態です。単におとなしい状態ではありません。そういう状態でこそ、人とのこまやかなやりとりが成立しやすくなります。やわらかく感じやすい状態であり、気軽に心も身体も動きやすい状態ですから、人のすることにも即応することができます。人の働きかけに反応が現われやすくなります。

 

 やりとりとしては、人の「弱弱強休」というパターンのあやしかけや手遊びなどを楽しめるということがあります。イナイイナイ・バーやオツム・テンテン、ブルブル・バーといった単純な「弱弱強休」のパターンの働きかけを喜びます。間をあけてやっていると、間があくときにもっとやってという感じで声を出すようになります。子どもが声を出したら、またあやしかけをしてあげます。

 

 さらに、自分が声を出したり、身体を動かすのに人が応じると喜びます。そのため盛んに声を出したり、身体を動かしたりして、人の反応を引き出そうとします。

 

 また、大人のやる簡単な動作をまねるということも現われてきます。大人のやることに興味が増えて、大人の動作イメージがたくさん頭に入るためにその動きを自分の身体で再現するようになるわけです。

 

 このようなやりとりを楽しめるようになるのは、「ある出来事が起こると次に何があるか予想し、その予想が当たって喜ぶ」ようになるからです。そしてリラックスして喜べることで、心も身体もやわらかくなり、人のやることに応じやすくなりますし、ゆったりすることでやりとりも持続するということです。

 

 ですから、自閉症の子とのやりとりを発展させるためにも、子どもが「ある出来事が起こると次に何があるか予想し、その予想が当たって喜ぶ」しかも「リラックスしながら喜ぶ」というようになることが大切なのです。

一段落感からまとまり感へ

 自閉症の子が人とのやりとりを楽しむようになるためには、「ある出来事が起こると次に何があるか予想し、その予想が当たって喜ぶ」ことと「リラックスして喜ぶ」ことが大切です。

 

 以前には、赤ちゃんがリラックスしながら喜べるようになると、「アレがあればコレがある」「人がアレをすれば、次にコレをする」「自分がアレをすれば、人がコレをする」を楽しめるようになると表現しました。そしてさらに「アレがあれば、何かある」と興味を持つようになると言いました。ないことに対して関連することがあるのではと探るようになることも述べました。

 

 リラックスした喜びは、「ああ、よかった」「ああ、面白かった」という喜び方であり、満足感の現われであるとも説明しました。この満足感が安心感となり、人との愛着の基礎になるとも述べました。さてこのリラックスした喜びは、一段落感も引き起こすと思われます。イナイイナイときてバーが現われると、喜ぶわけですが、ここで力を抜くことで一区切りがあったと感じるわけです。リラックスすることが休憩・節目の役割を果たすのです。期待したことが現われた、ああよかった、と一区切りがあったと感じて喜ぶわけです。

 

 このように活動に区切りを感じるということは重要なことです。区切りを感じることで、活動をまとまりのあるものとして見ることができるようになるからです。つまり「イナイイナイ・バー」の前と後ろに区切りがあることで、「イナイイナイ・バー」を1つのまとまりある活動と見ることができるのです。同様に「オツムテンテン」もまとまりがある活動、「自分が声を出したら人がアレッと驚く」こともまとまりのある活動となります。特定の活動をまとまりがあるとして見ることは、その活動を1つの単位として見るということです。だらだらと節目なく出来事が続くという見方をするのでなく、節目のあるまとりった活動が現われては消えるという見方をするようになったということです。

 

 いろいろ関連する出来事を単位として見ることで、その部分が浮き上がって見えるようになります。いろいろなことが雑然と起こっているように見える世の中で、いろいろなことが関連しあい、まとまりをつくりながら起こっているとわかるようになるのです。そのように見ることで、様々な物事や出来事の関連性を理解しやすくなります。これは、単なる認知の問題だけでなく、一段落を楽しむという情緒の問題でもあるのです。この情緒が現われてくれば、苦労して物事の関連性やまとまりを教えなくても子どもは自分から理解していくことになります。自分から学んでいけるということです。

クレーン現象

 自閉症の子は、自分が人と同じような役割を持った存在であると意識することが困難です。人を1つのまとまりある存在、一人の人間と言う単位として見ることができないのです。そのために自分も一人の人間という単位として見ることができません。

 

 このような例としてよく引き合いに出されるのがクレーン現象です。これは、何か欲しいときに人の手を引っ張って取らせようとする行動を言います。例えば、冷蔵庫の中のミルクが欲しい場合に、自閉的な子は、大人の手を持って冷蔵庫を開けさせ、ミルクを取らせます。このように自閉的な子は、相手の手しか意識していないことになります。普通であれば、ミルクが欲しいと思っても「この人」に取ってもらうと意識して、相手の顔を見て「取って」と要求することになります。しかし、自閉症の子は、ミルクを取ってくれる「手」しか意識していないために、「手」しか相手にしないと考えられます。

 

 このような現象は、意識を過度に集中させるために視野が狭くなり、全体を見れないためと説明できます。人を統合した存在として見れず、部分部分バラバラな存在としてしか見れないからです。

 

 さらに出来事に関する興味が育っていないので、興味を持ってまわりの出来事を見ないという問題があります。興味がないためにまわりの出来事に関する情報量が圧倒的に少ないのです。情報量が少ないために物事を関連づけて考えることが困難となります。

 

 そしてさらに、物事をお互いが関連し合う「まとまり」として見ることができないために、人間のやることをまとまりとして見ることができません。オモチャを渡してくれるときに人が笑ったとしても、渡す行為が笑いとどう結びつくのか理解ができません。指さしして知らせようとするとき、知らせようとする声や表情と関連させてとらえられませんから、「知らせる意志」と知らせる行為である指さしが関連しているとわかりません。これらのことはもちろん、苦労して教え続ければ学んでいけることではありますが、「まとまり感」を感じるように興味を示す子の学習の早さにはかないません。

 

 関連しあう物事を「まとまりのあるもの」として考えられるようになるためには、くつろぎ性の喜びによる一段落感が大切なのです。

役割交替

 自閉症の子は、関連しあう物事を「まとまりのあるもの」としてとらえることが苦手です。そのために、まとまりがあるはずの人の気持ちや人の行動を理解することが困難になるのではないかと思われます。

 

 普通であれば、生後10か月か11か月で、すでに人のやることや人とのやりとりをまとまりのあるものとして意識しているように思われます。生後11か月の男の赤ちゃんですが、大人がブロックを積むと、その子もブロックに手を伸ばします。時にはブロックを上に乗せようともします。しかし、うまく行かずブロックが崩れてしまいます。すると、大人がおどけた感じでため息のように「あーあ」と言うと赤ちゃんも「あーあ」とリラックスした声を出してしばしブロックを眺めます。大人が再びブロックを積むとまた手を伸ばしてブロックが崩れます。そうするとまた、「あーあ」と言って一休みします。

 

 力を抜いて一休みするということは、今まで続きで起きていた出来事が一応終了したと感じたことを示していると思われます。区切りを感じることで、その活動が「まとまりあるもの」として理解できるようになると思われます。まとまりがあるというのは、始めと終わりがあるということです。ですから、「まとまり」を感じることで、その活動が終ってもまた始めに戻ることができると意識できると思います。つまり、大人がブロックを積み始めると、「ブロック積み−崩し」という活動がまた始まったと赤ちゃんは、思うことになります。そしてその活動は大人が積み、自分が崩すという内容を持った活動だと理解していると思います。そのために大人が積む間待っていられるのです。ある程度積まれると、次は自分の番だとわかると思います。

 

 特定の活動を独立した「まとまり」として意識できるようになると、その「まとまり」は、それだけ取り出して別のところで再現できることになります。

 

 この「まとまり感」があるなと感じさせるのが、生後11か月(早い子では10か月とも言われる)

ごろに現われる「役割交替」です。どういうことかと言いますと、このころ大人がイナイイナイ・バーをすると、それを見ていて、次には自分でイナイイナイ・バーと動作をします。これはいわゆる遅延模倣と言われる模倣のはしりです。大人と赤ちゃんが向かい合って、同時にイナイイナイ・バーとやれば、同時模倣ということになります。同時模倣は、早くから現われます。

 

 さて、「イナイイナイ・バー」を1つのまとまりとして感じているので、イナイイナイ・バーをひとつの独立した単位として覚えられるようになります。独立した単位ですから、大人がやるだけでなく、自分も単独でできるということになります。つまり、大人がイナイイナイ・バーをし終わったら、ひとつの「まとまり」が終ったと感じ、新たに自分がイナイイナイ・バーをすることになるのです。そしてさらに大人も自分も同じことをしているという意識を持つようになっていくものと思われます。

大人も自分も同じこと(1つの活動単位)をしているという意識は、さらに大人も自分も「同じまとまり行動をしている」という意味で同じだという意識へとつながっていくのではないかと思われます。

「まとまり感」を感じることが自我や他我を理解することへと通じているのです。

 

 もちろん、まとまり感がなくても、自閉症の子に「イナイイナイ・バー」を交替してやるように教えればできるようになるでしょう。しかし、まとまり感がないと、Aの次はB、その次はCという単なる活動の連鎖としてしかとらえられないのではないかと思われます。まとまり感があることで、独立した「イナイイナイ・バー」に取り組む自分、それに取り組む大人という意識が生じるのではないかと思われます。

 

 ですから、「イナイイナイ・バー」などの出来事を一段落したとリラックスしながら楽しめるようになることは非常に大切ということになります。

興味のレベル

自閉症の子は、食べ物とか、感覚刺激や小さいモノ、モノの配列などに興味を示します。しかし、人のやっていることにはなかなか興味を示してくれません。

 

 食べ物という生存レベル、味覚レベルの興味はあります。食べ物は空腹という不快感を解消するために必要です。ただ残念なことに自閉症の子は、食べ物を食べて、「ああ、おいしかった」という満足感までは十分現われません。そのために楽しくくつろいだ気分にまでにはなれないのです。

 

 また、こまかく反復して変化する感覚刺激にけっこう強い興味を示します。例えば、タイヤや換気扇、扇風機などの回転やキラキラ光り流れる水などに興味を示します。注意の範囲が狭いために、狭い注意集中でも変化がわかる刺激だと、情報処理が容易にできるわけです。思うように機能を使うことで「うまく行けている」という意味の快感を感じます。その快感を感じることでますます、その機能を使おうとするようになります。そのような快感を、機能がうまく働くことで感じ、かつ、その快感を感じることで機能の使用が高まるところから、「機能的快」と呼んでいます。この場合の機能とは、感覚刺激を処理する機能、感覚刺激受容の機能や知覚機能のことです。

 

 自閉症の子は、知的障害の子もそういう傾向がありますが、小さく完結した絵や記号、マーク、写真をジーと見つめることがあります。例えば、アンパンマンの小さな絵だとか、車の写真だとか、ミニチュアカーなどにジッと興味を示すことがあります。これも、狭い注意で全体を把握でき、いつも同じモノが見れるためにその情報処理が容易となり、快感を感じやすくなるのではないかと思われます。

 

 モノを規則的に並べることにも興味を持ちます。これも、規則的な配列は単純なために情報処理が簡単で快感を感じやすいのではないかと思われます。時には、机や柱の縁(直線)に興味を示すこともあります。

 

 テレビのCMに興味を示す子もいます。これは興味を引く映像と音楽が短時間にしかも何回も流されるからではないかと思われます。

 

 また、ピョンビョンと喜んで跳ぶこともあります。単純な身体運動から得られる反復刺激に快感を感じるのではないかと思います。活発な動きを楽しむのであれば、高揚性の快感と言えます。

 

 ちなみに、集中性の快感も高揚性の快感も、快感を感じることで機能が高まりますから、機能的快と考えています。くつろぎ性の快感は、それを感じることで使っていた機能を低下させそれまでの活動を停止します。それを充足的快と呼んでいます。

 

             │−−集中性の快感

    │−−機能的快−−│−−高揚性の快感

快感−−│

     │−−充足的快−−くつろぎ性の快感

 

 自閉症の子の場合、機能的快感と単なる休息が主に現われます。ですから、充足的快感が現われるようにすることが大切です。

人からの学習

 自閉症の子は、人への興味があまり育っていないので、人から学ぶことがなかなかうまくいきません。もちろん、感覚刺激への興味に付随して人間に興味を持つことはあります。

 

 人間のやることそのものに興味を持つためには、「アレがあったらコレがあるに違いない。やはり、コレがあった。面白い。」とリラックスしながら喜べるようになることが重要です。そして「アレがあればコレがある」を楽しめるようになると、感覚刺激として人を楽しむことから、人の様々なパターンを持つ活動を楽しめるようになります。このことが、人の動作(様々なあやしかけ、食事を与える動作、オモチャを紹介する動作など)を楽しむようになっていきます。このことによって、「人のやることを良く見て覚えなさい。」という教育的な働きかけをそれほどしなくても、子どもは自分から人のやることを学んでいくことになります。「教えた覚えはないのに、こんな言葉を知っている」とか、「よく人のやること見ているわね。」などと感心するようなことが起こるわけです。

 

 子どもは自分から人のやることや言うことに興味を持つわけですから、常に人から学習している状態になります。それこそ、起きている間中学んでいるとも言えます。そうしていれば、人の生活や文化に関する情報量はどんどん増加し、理解や知識が増え、知恵も育ってくることになります。

 

 さらに「アレがあればコレがある」を楽しむことで、「コレ」がはっきりわからない場合でも、「アレがあれば、それに関連する何かがあるはずだ」と人の行動に積極的な探求的興味を示すようになります。つまり、人の行動を見て、「見えないもの、欠けた部分」を探求するような積極的興味を示すようになります。今まで説明してきましたが、「指さし」があれば、指さしが示す何かがあるだろうとしてさぐったり、言葉があれば、その言葉が示す何かがあるだろうと、積極的に言葉と状況を結びつけることができるようになります。くつろいだ喜びが現われて、ゆったりとして視野が広くなっていたり、柔軟に注意の方向を転換できることで、ますます、指示動作、指示言葉とモノを結びつける活動が容易となり、「やはりアレを示しているのだ」とホッと喜べるようになることで、学習したことが脳に印象づけられやすくなります。

 

 つまり「アレがあればコレがある」を楽しめるようになることで、大人の教育的活動も積極的に受け入れ、学習していけるようになるということです。

 

 「アレがあればコレがある」を楽しめるようになるためには、楽しんだり、リラックスしたりが容易にできるようになり、さらにリラックスしながら楽しめるようになることが大切なのです。

第4節 思考と情緒

活動の抽出

 自閉症の子は、状況をさっと判断し、状況に合った行動をとることが困難です。様々な理由がありますが、ひとつは、人が意識しているようには、話題とする活動を「独立した活動」として対象化できないという問題があります。「独立した活動として対象化できる」ということは、その活動について考えられるということです。少し離れて活動を見て、どうしたらいいか考えられるのです。そうすると、この活動とあの活動を組み合わせればいいといった思考もできるようになります。

 

 「コレをすればアレがある」といった形で特定の動作や動作の組み合わせを楽しむようになれば、物や単純な刺激そのものに対する意識(つまり、それを1つの単位として頭に描けること)だけでなく、動作に対する意識も出てきます。ですから、言葉はわからなくても、「指さし」を単独の動作として意識します。また、モノを叩いて「バンバンやっているね」と言われると、「モノを叩く動作」を独立した動作としてイメージし、それを繰り返して喜ぶことが現われてきます。

 

 「どうぞ」と言ってモノを示されて受け取り、「ちょうだい」と言われてモノを人に渡す、というやりとりで、受け取る・渡すという一連の動作が意識されれば、そのやりとりは素早く学習されることになります。

 

 ちょうど、生後10か月から11か月にかけてモノのやりとりが出来るようになります。その以前から「どうぞ」と言われなくても、赤ちゃんは手元に差し出されたモノを受け取ります。生後3−4か月では、モノを握らされるという感じですが、生後5か月以後では積極的につかもうとします。そして生後10か月から11か月ごろになると、しつこく「ちょうだい」と言って手を出していると、初めはなんだろうという感じで大人の手を見つめますが、そのうち手に乗せればいいのかという感じで乗せて

くれるようになります。そうして大人の喜ぶ顔を見て、「ちょうだい」と手を差し出されたら、渡せばいいのだとすぐに理解します。その後、「ちょうだい」と言われて渡し、「どうぞ」と言われて受け取るというように大人主導のやりとりを楽しみながらやるようになります。

 

 このように動作を楽しむことで「動作のまとまり」がわかり、動作のまとまりに対する理解が進むことになります。

 

 自閉症の子も動作をそれだけ取り出して繰り返せば、動作を意識して、動作を学習していきます。そして、自分が必要とすることを実現するための動作(例えば、チョウダイといった動作)は、必要を感じていますから、覚えやすいものです。しかし、動作自体に対する積極的な興味はありませんから、動作に関する知識は乏しく「食べる、歩く、走る」といった動作語をどんどん覚えるというわけにはいきません。

 

 動作に関する言葉を覚えるためには、必要と感じなくても、面白いと感じて一連の動作に対する興味を育てることが大切です。そのためには、やはり、「アレがあって、コレがある」という出来事をリラックスしながら喜べるようになることが大切と言えます。

全体を意識する

 自閉症の子は、注意が過度に集中しやすく、視野が狭くなるので、モノや状況の全体像を理解することが苦手となります。絵本を読んでもらうときにも、特定の部分の模様ばかり見ていたり、人と話しをするときに、ポケットのマークばかり見ていたりします。話も全体を聞かずに、ある言葉だけ聞いて間違って理解してしまうこともあります。「外は暑いので、中で遊びましょう。」と言われても、「外」という言葉にとらわれて外に出てしまうといったことがあります。

 

 普通の場合、くつろぎ性の喜びによって心がゆったりとし視野を広くすることができます。すると、多くの要素に同時に注意を向けることができるので、モノや状況の全体像を把握できるようになります。また、動作に興味を持ち、まとまり感(互いに関連し合っているという感じ)を持つことで全体をシステム(目的にそって部分部分が互いに関連し合いながら動いている様子)として見れるようになってきます。

 

 意識がゆったりすることで、大人が指さしするのを見て、単に指だけに注意を限定するのでなく、大人や指さされたモノを含めて全体を意識できるようになります。そのために、「指さしは、何かを指し示す」だけでなく、「大人が指さしをして、何かを指し示している」、しかも「目の方向や声の出し方、姿勢などもモノを指し示すことと関連している」、さらに「いろいろなモノがあるけれど特定もモノを指し示している」、「面白いモノだよとと示そうとしている」といった様々な把握の仕方ができるようになります。

 

 そして、それらをさらに同時に意識できることで、多様な要素や判断を統合的に理解しやすくなります。もちろん、物事の統合的全体的理解は、情緒がそれほど介在しなくても情報処理能力が増すことで次第に可能になることです。しかし、教え込まなくても自分から興味を示し、理解力をどんどん伸ばしていくためには、情緒が育っていた方がいいと言えます。特に「期待がかなってハハハハハとリラックスして笑う」というくつろぎ性の情緒が重要だと言えます。「アレがあって、コレがある」と予期通りになって喜ぶことから、人の動作を全体的に把握し、理解できてよかったという感じで楽しめるからです。そのためにますます何か意味がありそうなことに興味を持つようになるのです。

部分から全体像を描く

 自閉症の子は、状況の全体像をつかむのが苦手ですから、部分を見て全体を推し量ることも困難となります。そう、全体像が出来ていないのに、部分から全体像を描くことはそもそも無理な話です。

 

 例えば、スプーンを見て、「母親が料理を作る姿や、テーブルに料理を運んで配置する姿、母親に食べさせてもらうなり、母親と一緒に食べるなりする場面など」食事に関わる全体像が思い浮かぶことで、母親への要求やテーブルにすわって待つなどの行為ができてきます。しかし、スプーンを見て、プリンしか思い浮かばなければ、自分で冷蔵庫を開けてプリンを取り出すとか、母親の手を取って冷蔵庫からプリンを出させるだけの行為になってしまいます。

 

 全体像がわかっていれば、部分から全体を描くことが容易にできます。単に全体像が見える場合だけでなく、見えない全体像も作り上げることができるようになります。例えば、子どもの目の前にあるモノを指さしする場合、子どもは指とモノを同時に見ることができます。ですから、指さしを見て、「指さし+モノ」という全体像を描き、指されているモノを容易に見つけることができます。

 

 ところが、1歳を過ぎるころになると、大人が自分の背後にあるものを指さしても、後ろを振り向いて指さされたモノを見つけることができます。初め、目の前にはモノがないわけですから、指さしから「指さし+モノ」という全体像を頭に描いても、指されているモノは依然として見えないことになります。欠けた部分ということです。ですから、欠けた部分がどこかにあるということで、指さしの方向である背後を振り向いて見つけるということになります。

 

 実を言いますと、1歳ぐらいになると、床に開いている穴を見つけて指を差し込んだり、ゴミを詰め込んだりするようになります。これが、将来パズルをやる基礎になるわけです。何か欠けたものを見て欠けた部分を埋めようとする行為と部分から全体像を描くという知的行為を結びつけるのは無理があるかもしれません。まあ、こんなことがあるというぐらいに考えてください。

 

 部分から全体像を描けることは大切なことです。こだわりの強い自閉症の子では、切ったリンゴはリンゴではないと受け入れてくれない場合があります。部分だけでは、受け入れられないわけです。少しでも破れた絵本は、絵本じゃないと認めない子もいます。ただ、これらは、部分から全体像を描くという知的活動の問題と、全体は全部そろっていないとだめという許容性の問題が含まれているので単純ではありませんが。いずれにしても、くつろぎ性の喜びを感じ、視野が広がることで全体が見えてきますし、ゆとりが現われることで許容性も出てくるので、働きかけとしては同じになりますが。

見立て遊び

 自閉症の子は、見立て遊びに興味を示さないと言われています。中には、黙々とままごと遊びをする子もいて、必ずしも見立て遊びをしないわけではありません。ただ、人と一緒に見立て遊びをする姿はなかなか見られません。

 

 見立て遊びは、部分から全体像を描くという知的な行為が重要な役割を果たす活動と言えます。そもそも人の動作に対して面白みを感じ、興味をもって人の活動を観察することが大切です。そのような活動への興味が活動の全体を理解するのに役立ちます。さらに、部分的な行為や1つのモノがあるだけで全体像を描けることも重要なのです。

 

 例えば、1歳ごろの子は、スプーンと皿と人形があるだけで、人形に食べ物を与える見立て遊びをします。食べ物もない、テーブルもない、口も動かさない、という不完全な状況にも関わらず、赤ちゃんに食べさせるという全体像を思い浮かべているのです。

 

 もっと大きい子は、葉っぱを皿に見立てて、砂を葉っぱに乗せて食べるまねをします。平たいという部分だけ見て皿という全体を頭に描いたり、砂が粒粒であるという部分だけしか似ていないにもかかわらず、ごはんという全体を頭に描き、さらに皿とご飯だけで、食事場面全体を思い浮かべているのです。台所という部屋もない、テーブルもない、調味料もない、炊飯器もない、などいつもならあるはずのものがなくても、一部のモノがあるだけで、全体がそろっているかのように想定できるということです。

 

 言葉の理解の場合には、部分から全体像を描く力はさらに重要と言えます。「ケンちゃんが、砂場で転んだ。」という言葉を聞くだけで、転んだ様子を思い描いたり、転んで泣いたのでしはないか、母親が心配しているのではないかといった様々な状況を思い描きます。そうすることで、分かり合えることが増えるわけです。

 

 「ケンちゃんがケガをした」と言われて、ケガしたことしか思い描けなければ、ときには困ることがおきます。薬を持ってきてというつもりで「ケガをした」と言ったのかもしれません。ケガから薬を塗っている状況を想定できないと、薬のことは思いつきません。すると人からは、気がきかない人だとか、応用力のきかない人だと思われてしまいます。

 

 なんだか、認知の問題を説明しているように思われるかもしれませんが、基本は、ゆったりとした喜びが大切なのです。

人間を意志ある存在として見る

 自閉症の子は、人には心が存在することや、心の働きがあることを理解できないと言われています。いわゆる「心の理論」が自閉症の子にはないという問題です。

 

 私は、生後7−8か月の赤ちゃんは、「つもり」と「行為」の二重性をある程度理解しているのではないかと思われます。そのころの赤ちゃんは、大人が自分を見ていなくても、自分の世話をしてくれると感じていると思われます。離乳食を食べるときのことです。大人がお皿の食べ物をスプーンでかきまぜるために下を向いています。目の前で赤ちゃんイスにすわっている赤ちゃんは、食事を期待しながら待っています。このとき、赤ちゃんは、大人がスプーンで何かをかき混ぜて遊んでいるとは思わないでしょう。大人が食事の準備の「つもり」でやっているとぼんやりとながらも思っていると思われます。

 

 それ以前の赤ちゃんでは、人が赤ちゃんの顔を見ていないと世話をしてくれていると思わないようで、自分の顔を見るように不満げに騒いだりします。「世話をするつもり」と「実際に相手をしてくれている」ことが、融合しているということです。「行為」=「つもり」なのです。

 

 生後7−8か月以後の赤ちゃんは、違うようです。テーブルを置いたり、食べ物を取りに台所に行ったり、冷蔵庫を開けたり、テーブルをふいたり、そして皿に食べ物を乗せたり、皿の食べ物をかき混ぜたり、大人は食事の準備のためにいろいろなことをします。それを見ている赤ちゃんは、様々な行動をバラバラなことをしているとして見るのでなく、食事の用意という大きな目標のために行われていると毎日の経験の中から学んでいっていると思われます。つまり、目に見える様々な異なる行動を見ると同時に、どういう「つもり」でやっているのかを感じていると思われるのです。

 

 「抱っこするつもり」で接近してくる、とか、「ジュースをくれるつもり」でコップを出したり冷蔵庫からジュースを出したり、注いだりする、というように「つもり」と「行動」を同時に意識しているのではないかと思います。これらは、様々な行動をまとまった行動として統合すると同時にそれらの行動の目的を意識することで可能になると思います。

 

 「アレがある。そしてコレがある」で面白いと思い、人の行動に興味を持ち、かつ、まとまり感を感じ、また、自分に関連して人の行動を目的のあるものとしてとらえることで、どういう「つもり」で行動しているのかがわかるようになり、人を「意志」を持った存在としてとらえるようになっていきます。

 

 集中性の情緒が強く現われて、視野が狭くなり、かつ、個々の記憶を「コレはコレ」と固くしか保持できなければ、多くの活動を関連させて意識し、かつ、同時にいくつもの要素を意識することが困難となります。

 

 一方、くつろぎ性の情緒が現われてくれば、「行為」の背後にある「つもり」まで見れるようになり、そのことが将来、人間を意志ある存在として見る基礎になると思われます。

志向性

自閉症の子は、何かに向かってがんばるという気持ちが弱いようです。

 

 赤ちゃんが、目的をもってがんばるようになるのは、生後9−10か月のころと思われます。生後

6−7か月ごろに「アレが起こった、後にコレが現われる」ことを面白いと感じて「くつろぎ性の喜び」を示すようになります。「イナイイナイ」ときたら次に「バー」がくると予期し、「バー」が実際に現われて、緊張がほどけて笑いが現われます。こうして「バー」を「イナイイナイ」の結果として意識するようになります。

 

 そして、人とのやりとりの中で人がアレ(起)をしてコレ(結)が現われることを面白いと思う経験を楽しみます。さらに、自分が何かする(起)ことで人が反応する(結)ことを喜ぶようになります。自分の行動に対する結果(人の反応)を喜ぶということです。そして、次第に意図的に結果を引き起こそうとするようになります。人にちょっかいをかけて、人が応じるのを楽しむのです。こうなると、結果を引き起こすことを目的として、ちょっかいをかけると言えるようになります。

 

  人が何かする(起:予期刺激)→→予期した結果が現われる(結:結果を意識する)→喜ぶ

 

  自分が何かする(起)→→→結果が現われる(結)→→喜ぶ

 

  結果を引き起こそうとする(起:目的意識)→→結果を得る(結)→→喜ぶ

 

 自分が望む結果を引き起こすための行為は、結果を引き起こすことを目的とした行為となるのです。そうなると、次第に目的を引き起こすためにがんばるようになります。目的に対するがんばりということです。

 

 例えば、生後10か月ぐらいの赤ちゃんに母親がオイデオイデと誘うと、まだしっかり這うことができなくてもがんばって母親の方に向かいます。そして母親のところまで来て、うれしそうにハーと息を吐いて、母親の膝にもたれかかります。母親の元に行くという目標を達成したので、うれしそうに努力を解除するものと思われます。このハーとうれしそうにリラックスする表現も、「くつろぎ性の喜び」と考えられます。

 

 もちろん、目的意識が育っていない生後半年以前の赤ちゃんや自閉症の子も、何かを得ようとがんばることはあります。5か月の赤ちゃんで言えば、目の前のモノを取ろうとがんばります。自閉症の子も、ジュースが欲しくてがんばるということはあります。しかし、目的意識がない場合は、その目的を達成したとしても、達成してよかったという成就感は見られません。5か月の赤ちゃんは、モノを取ったらそのまま見つめたり口に入れたりして遊び始めます。目的を達成したという区切りはなく、次の行動が次々と現われてきます。ジュースを手に入れた自閉症の子もさっそく飲み始めます。

 

 ですから、ものごとを明確にするために、「成就感を伴った目標へのがんばり」と「成就感を伴わない目標へのがんばり」があるというように区別した方がいいかもしれません。生後半年以前の赤ちゃんや自閉症の子は、「成就感を伴わない目標へのがんばり」はあるけれど、「成就感を伴った目標へのがんばり」はないか乏しいということになります。

 

 そして、目標を感じて成就感を感じた方が「−できてよかった」と感じるわけですから、「目標」を対象として考えやすくなります。「オモチャを手に入れてよかったね」と大人と語り合えるようにもなります。そのために、「オモチャを手に入れるためにがんばろう」と自分でも思い、人とも語り合えるようになります。

 

 そのように「目標」を意識化してそのためにがんばるとか、がんばることはいいことだと考えられるようになれば、本当に必要だから、とか、しなければ落ち着かないことをしようとがんばるだけでなく、みんなのためになることを「目標」としたり、自分は面白くないけれど勉強ができることを「目標」としたりすることもできるようになります。

 

 ですから、生後9−10か月のころの「成就感を伴う目標意識」の現われは、いろいろなことに目標を見い出せるようになるために大切と考えられます。

変化の受容

 自閉症の子は、変化を受け入れられない性向があります。いったんこうだと思い込んだら、いつまでもそうでなければならないと固くとらえてしまうからです。精神の緊張と集中を促がす情緒のために、融通の効かない固い認知となってしまうからです。このような変化を認められない気持ちの持ち方を同一性保持と言います。

 

 このような気持ちは、変化の多い世界では大変です。学校に行く道はいつも同じでなければならないとか、いつも特定の飾りを持っていかなければならないとか、いつも同じ服を着なければいけない、いつも同じ本の置き方をしなければいけない、などは多少自分で調節ができます。服が汚くなっても同じ服しか着ないということで洗濯が大変といった問題はありますが、それでもなんとか着せたり、同じ状態を保てばいいわけです。

 

 学校に行くいつもの道が道路工事で通れなくなるとパニックを起こすことがあります。服にはボタンが全部ついていないといけないという思いがあって、他の子の服のボタンがはずれていると、意地でもボタンをつけようとすることもあります。いつも学ぶ教室が変更すると、受け入れられなくなったりすることがあります。大変困る問題となります。

 

 このような変化を嫌う気持ちの根源は、集中性の情緒が過度に現われている点にありますから、この問題を解決するには、リラックスしながら喜べるようにすることが大切です。くつろいだ感じで楽しめるようになれば、同一であることへのこだわりは減ってきます。苦労して、いろいろな場合があるのだとわからせようとするよりも、ケラケラと笑わせた方がいいと言えます。

 

 また、集中性の情緒によってこだわりが強まるだけでなく、物事の理解の仕方が普通とは違ってきます。「物事をパッと固定的に記憶してしまう」ことが得意になったりします。固定的に記憶してしまうために融通が効かない面があるわけですが、変化する情景でさえ、一瞬の固定した状態として記憶してしまうために、絵を緻密に描くことがうまくなったりします。そのような記憶の仕方を繰り返すことで「瞬時記憶」が鍛えられる場合もあります。

変化を楽しむ情緒

 自閉症の子は、いったんこうだと記憶したことを気軽に変更することができません。物事を固定化して覚えてしまうからです。このような記憶の仕方は、緊張を伴う集中性の情緒によって促進されると考えられます。

 

 活発な動きを引き出す高揚性の情緒の場合は、注意をアッチコッチに変化させますから、多くのモノや状況に関する情報を入手することが出来ます。その結果、多くのモノや状況を関連づけて見ることができるようになります。バラバラな認知がつながるようになり、多面的な見方が出来るようになります。モノの変化についても、何段階もの局面がある変化として見ることができるようになります。

 

 人がくすぐるとき、手をアッチコッチに動かしても、それに応じてくすぐりを防ぐことができます。人の変化を受け入れ、その変化に応じられるのです。固い感じの自閉症の子では、こちらがアッチコッチとくすぐるところを変化させてくすぐっても、身を固くしてくすぐられてしまいます。くすぐられるという1つの行為として理解していると言えます。

 

 くつろいだ状態を作り出すくつろぎ性の情緒は、視野を広げる働きがあり、同時にいろいろな要素を意識できますから、全体を意識しかつ部分部分の関連もわかるという理解の仕方になります。ゆったりとしたゆとりのある状態になるために、変化や異質な要素も受け入れられます。こうでなければいけないというこだわりがある子や、少しのイメージの違いによって不機嫌になるような自閉症の子も、手をブラブラさせたり、足まげをしてリラックスしては笑わせていると、あまりこだわらなくなってきます。それまで、人の誘いに乗らなかった子も、人の誘いを受け入れるようになり、すわらせようとするとすわり、一緒にすわって遊べるようになってきます。

 

 くつろぎ性の情緒は、もともと変化を楽しむ情緒です。「イナイイナイ」ときたら次に「バー」と来るのをリラックスしながら喜びます。時間的変化を受け入れて楽しむ要素が初めからあるのです。変化を容易に受け入れる素地が「くつろぎ性の情緒」には備わっていると言えます。

変化か固定的関係か

 自閉症の子は、物事を変化する存在として見るりも、固定したものとして見るようになります。

 

 例えば、算数の数式で考えて見ましょう。さて、2+3=5 を見て、皆さんはどう解釈しますか。あまりにも見慣れているのであたりまえのことと思われるかもしれません。この数式に対して、2つ見方ができます。この数式を見て、「変化」を現わしているという見方と、「固定化した関係」を現しているという見方ができます。自閉症の子は、「固定化した関係」として見ることが多いのではないかと思われます。

 

 この数式を「変化」を現わしているという見方で見ると、2と3が合わせられることで5へと変化すると考えられます。このときの計算するイメージは次のようになるでしょう。例えば、2で○○とイメージし、3で○○○とイメージします。そして、○を頭の中で移動(変化)させて、一緒にし、○○○○○というイメージを作り、5になるとわかるのです。つまり、1つのイメージを変化させて答えを出すことができます。1つの画面の中の○を動かして答えを得るということです。

 

 次に、2と3があれば、5があると、固定的関係として捉える理解の仕方があります。2+3=とくればいつも5である、という理解の仕方です。2は、 ○○。3は○○○。そして=の右側は○○○○○であり、5である。といういくつかの固定した関係をイモづる式に移行させていくような計算の仕方で答えを出すようになります。

 

 「2は○○」「3は○○○」「2+3は○○○○○」、「○○○○○は5」といういくつかの固定的な認知をずらせていくような思考を行っているのではないかと思います。そして最終的には、

2+3=5と固定的に覚えてしまうということになります。変化しない画面がいくつもあると考えていいかと思います。そのうち、数式と答えを固定したまま覚えてしまいます。

 しかし、文章題は、自閉症の子を混乱させるものです。例えば、「花子さんは、リンゴを2個、波男君は、リンゴを3個持っています。合わせていくつでしょう。」という問題は、問題の意図さえわかれば簡単なものです。「計算をさせたい」という意図さえわかれば、花子も波男も重要でないとわかり、2個と3個だけに注目して式を作ることができます。問題の字面だけでなく、「意図」も読み取れれば、必要な部分だけ抽出できるし、必要な部分だけ抽出できれば、数式化も簡単になります。

 

 しかし、自閉症の子は、物事を多面的に捉えることが苦手ですから、問題文を読んでも字面にとらわれてしまい、その背後にある意図を読み取ることができません。ですから、「花子って誰」「波男って誰」となったり花だとか波といった言葉にとらわれたりします。余分なものばかり気になって、何が何だかわからなくなってしまうと思われます。

 

 さらに重要なことは、文章題には変化の認知が重要になるということです。文章を読むということは、時系列的な情報の取り入れになります。ですから、その問題から数式を作る場合でも、時の流れとともに変化する見方が必要となります。2個と3個が合わせると、その2個の数字はどう変化するかという、変化を許容する理解の仕方が必要になるのです。つまり数式も変化を表していると理解することが大切となります。

 

 数式の理解の仕方にまでなりますと、単に結果を意識して喜ぶようになるだけで、解決はしません。しかし、「結果を意識して喜ぶ」ことでやりとりを楽しみ、人から学ぶことを繰り返していれば、人の意図をうまく読めるようになり、さらには、文章や文章問題の意図も読めるようになり、必要な部分と不必要な部分を選り分け、意図にそった答えの出し方がわかってきます。

 

 風が吹けば桶屋が儲かる式ですが、文章題ができるようになるためにも、情緒が大切なのです。

変化の理解と音楽

 自閉症の子は、変化を理解することが難しいという話をしているのですが、それにしても、音楽が好きな自閉症の子もいます。このような子は、どう考えたらいいのでしょうか。

 

 私自身は、音楽が得意な自閉症の子とはあまりつきあいがありませんので、これから書くことはかなりの部分、推測に基づくものです。

 

 音楽は、時間的な芸術と言われています。時間が経つにつれて音が変化していくからです。一方絵画や写真は、空間的な芸術です。絵画や写真は、一目見て理解できます。特にある程度小さい絵や写真ですと、パッと見て全体がわかってしまいます。固定的な認知によって、わかるものです。

 

 よく自閉症の子は、視覚的刺激の処理が得意で、聴覚的刺激の処理は苦手などと言われます。本当にそうかは疑問があります。むしろ、絵や写真など瞬時に情報を取り込みことができるので理解しやすいのではないでしょうか。一方、話し言葉の方は、時間的に経過を追うことが必要になりますし、言葉の方が抽象的ですから、理解は困難と言えましょう。ですから、自閉症の子が得意な能力を考える場合は、聴覚とか視覚の問題ではなく、具体的かつ固定的か変化的かつ抽象的かの問題だと思えます。もし、視覚的な刺激処理が優位であれば、ダンスとか体操も見て学ぶわけですから、歌よりも得意であっていいわけですが、そのような話しは聞いていません。ドナ・ウィリアムズは3歳のときにバレーのレッスンを受けましたが、「絶え間ない声とともに、手が伸びてくる。指導しようとする手、干渉しようとする手、手、手。わたしはひたすら自分の足元を見つめている。」(自閉症だったわたしへ。河野万里子訳。新潮文庫。1993.p.47- 48)という状態でした。部分的知覚がよく現されていると思われます。

 

 ついでにドナ・ウィリアムズの感じ方を見ると、「わたしには、家の中は色彩の洪水のように見え、物も人もすごいスピードで流れるように動いており、はっきりと輪郭をつかむことができないほどだった。」(同p.99)ドナが8歳ぐらいの話しです。物事を固定的にとらえようとしても、物事は固定し確定する前にどんどん変化してしまい、目の前を流れるように見えたということでしょう。固定しようとするから逆に変化が速く感じられたということではないかと思います。

 

 さて、音楽ですが、これには2つの受け取り方があると思います。1つは、音が時間とともに変化していくという見方です。バイオリンの音がドからミに変化するというような見方です。もう1つは、細切れの時間ごとに別な音が現われる、しかも別な音同士は関係が固定されている、という見方です。

(ドナは「物の速度をゆるめ、世界をスローダウンさせるやり方で気に入っていたのは、素早いまばたきを繰り返すこと・・」「素早くまばたきをすると、人は皆、古いコマ送りの映画のように動くだけになる。」同p.119.つまり、人の動きを、なめらかな変化としてみるよりは、固定した写真が次々とめくられていくものと見たかったようです。音楽も同様に細かく区切られた時間に別な音が存在するというように見ていたかもしれません。音楽の知覚の仕方については書いてありません。)

 

 楽譜を見れば、音が空間的に固定されていることがわかります。自閉的な人が音楽を演奏する場合は、正確に再現するそうですが、固定したパターンとして捉え、変化(変異)を許さない気持ちが現われていると考えていいかもしれません。

 

 音楽のように変化するものでさえ、無数の固定した音の集まりとして見ているかもしれないということです。これも、物事を固定したものとして見ようとする固い心の働きによるものではないかと思われます。

程度の理解

 自閉症の子は、「コレはコレ」と固定的に物事を把握しがちです。そのために中途半端やどっちつかずが認められません。白なのか黒なのか明確でないと落ち着きません。灰色とか黒っぽいといった位置づけがはっきりしないのは理解が難しくなります。

 

 ですから、「ある程度」とか「適度な程度」というあいまいで流動的な概念を受け入れ、かつ、理解することが困難になります。このことで印象に残っている文がありますので書いてみます。「僕はもう色々な言葉を使っているが、言葉の程度や限度を知っていない」例えば、どの程度がんばれば「努力」というのかわからないというのです。この文章は、ある少年が小学校の卒業文集で書いたものです。その少年とは、2000年5月愛知県豊川市で主婦殺人を行った少年(当時17)のことです。(藤井誠二:人を殺してみたかった。双葉社、2003)。少年は「人を殺す経験をしてみたかった」と言って注目を浴びました。精神鑑定で、アスペルガー症候群と診断されました。取調べという状況ではアスペルガー的な応答をしていたものと思われます。つまりくつろぎ性の情緒が乏しく、人への共感的態度が見られなかったということです。ただ、犯罪を犯す以前にも、小学校の授業で喋り出すと止まらなかったとか、高校に入ってからも、友達から変わり者と見られていました。他の人とくつろぎながらつきあうことが難しかったようです。

 

 特定のことに熱中し過ぎたり、あることには全く興味を示さなかったり、あることはやり過ぎたり、と適度にバランスよくやることに困難な面があるのが自閉症の子です。「適度な程度」が受け入れられるためには、徐々に変化することとか、どっちつかずのあいまいな状態を受け入れることが必要となるでしょう。しかし、物事を固く捉えてしまうので、どちらも難しいと言えます。ですから、「ある程度」を受け入れて理解することも困難と言えます。

(もちろん、適度な程度がわからないからといって、犯罪を犯しやすいということはありません。)

 

「ある程度」がわかるためには、大量の情報を確かにその通りと「実感」として取り入れ、様々な要素を比較検討できるようになることが大切です。そのためには、子どもが、ゆったりとすること、人のやること言うことに興味を持つこと、そして、納得したときに確かにそうだという形で、満足感を感じることが大切です。つまり、生後6か月ごろに現われる「くつろぎ性の喜び」が重要だということです。

あいまいさの受容

 自閉症の子は、あいまいな状態を受け入れることが困難です。自閉症の子は、明快な状態を好みます。その方が理解がしやすいからです。確定することで、どっちつかずの不安定さを避けることができます。

 

 ところで、「あいまい」には、ぼんやりとしてはっきりしない場合とそのモノははっきりしているけれどどっちに属しているのかわからない場合があります。例えば、「掃除を適当にやっていいよ。」と言われると、どのようにやっていいのかはっきりしないので、よくわかりません。普通は、きちんとはっきりと言う方が面倒ですから、私たちは日常的にこの種のぼんやりとした言葉を平気でたくさん使っているものです。例えば、「きちんと」「しっかりと」「ちゃんと」「ほどほどに」「少しくらい」などです。

「背筋を伸ばし、顔を起こしてすわりなさい」などと言うより、「きちんとすわりなさい」のがよくわかる感じです。この場合の「きちんと」は姿勢を表していますが、どちらかと言うと「しっかりとした気持ちで」といった気持ちの方からすわり方を説明しています。「ほどほどに勉強をする」というのも、ゆったりした気持ちで勉強しなさいという感じです。「8割ぐらいで勉強しなさい」では感じが出てきません。普通は、なんとなくわかることで満足できるものですが、自閉的な子では、はっきりわからないと落ち着きません。

 

 ですから、はっきりしない刺激に対しては、落ち着かなくてイライラするか、関心を示さないかのどちらかになります。ここが不思議なところです。明確でない刺激は、嫌だからイライラするか、嫌だから無視するか、嫌だから固まってしまうか、というように様々な反応がありえます。時には、あいまいな刺激の方が強い刺激よりも不快に感じることがあります。たとえば、スーと軽く腕をなでるような働きかけに対して、よけいくすぐったがります。感じてしまうのです。しかし、ぎゅっと握られるとかえって受け入れてしまうということがあります。大きな音の雷鳴には反応を示さないのに、ささやき声には耳を傾けるということもあります。雷鳴に対しては固まってしまうのかもしれません。反応しないことで避けているのかもしれません。それにしても、大きい刺激のほうが小さい刺激よりも感じやすく反応も大きくなるという我々の考え方と違う反応を示すわけです。

 

 ただ、このような反応は、別に異常な反応ということではありません。イライラして余裕のない人にも見られることです。人がはっきりしないことを言うとよけいイライラしてしまいます。ショッキングなことでも、はっきり言ってもらった方がいいと感じます。

 

 刺激自体は、明確なのに何を表現しているのかわかりにくいパターンがあります。顔の表情です。目とか眉毛とか口とかそれぞれは明確であるのに、それらの微妙な変化によって様々な表情が作られます。喜んでいる顔とか悲しい顔とか怒っている顔など、目や口などの形の変化で、違ったカテゴリの表情が表されるわけですから、自閉症の子には、理解が困難と言えます。自分自身の情緒が乏しいために人の情緒が理解できないという要因も加わって、表情を読みとることが難しいと言えます。

 

 「それ取って」の「それ」も、「それ」という音声刺激自体は明確ですが、何を指し示しているかとなるとあやふやな場合があります。そのような言葉も理解が難しいと言えます。

 

 自閉症の子も、人の言うことややることに興味を持ち、情報が増えてくれば、あいまいな表現もそれなりにわかってきます。しかし、やはり情緒が育つこと、特に、くつろぎ性の情緒が現れることで人への興味を持つことの方がより多く学ぶことになることは皆さんも承知していただけることでしょう。

多様性と多義性の理解

 自閉症の子は、1つのモノにいろいろな面があるとか、1つの言葉にいろいろな意味があるということを理解することが苦手です。集中性の情緒によって、意識の範囲が狭くなり、様々な情報を統合して把握することが困難だからです。

 

 例えば、「リンゴ」と言っても、いろいろな形や色があります。リンゴもナイフで切られると変形しますし、赤いリンゴも皮をむかれてしまうと赤ではなくなってしまいます。リンゴとは、丸くて赤いものという思い込みが強いと、変形したり色が違うリンゴはリンゴでないと受け入れられないことがあるのです。しかし、リンゴの皮をむいたり、切ったりする場面を経験していけば、いろいろな形や色のリンゴがあるのだと受け入れられるようになってきます。

 

 所属を示す言葉がついている場合では、同じ言葉なのに前につく言葉によって示すモノが変わってしまいますが、そのことを受け入れられない場合もあります。例えば、自閉症の男の子に、図鑑で「ヒマワリの根っこ」の写真を見ながら「根っこ」について説明していたときのことです。「根っこ」がわかったかなと思って隣のチューリップの写真を見て、「チューリップの根っこはどこ?」と聞いたら、ひまわりの根っこを指さすのです。根っこと言えば、初めに説明した「ヒマワリの根っこ」のことだと思ってしまったのかもしれません。根っこにも、いろいろな根っこがあるのだと多様性を受け入れられればいいわけですが、それが難しい場合があるのです。

 

 比ゆ的表現も自閉症の子は、苦手です。あるモノを何かの比ゆとして使う場合、そのモノが持つ多くの性質の中から何を使っているのかがわからないといけないからです。例えば、「リンゴぐらいの雹(ひょう)」「リンゴみたいなほっぺ」「リンゴぐらいの酸っぱさ」といった表現では、リンゴが持つ異なる性質の1つを取り上げているわけです。例えば、雹の場合、大きさを問題にしています。ほっぺの場合は、赤色であることを問題にしています。酸っぱさの場合は、酸っぱいという味を問題にしています。ですから、これらの表現が理解できるためには、リンゴが持つ様々な性質を理解しなければなりません。その上で文脈から、どの性質を問題にしているのか判断しなければなりません。モノの多様性を理解していないと、比ゆ表現も理解できないことになります。

 

 さらに文章の中に現れる「これ、それ、あれ、この、その、あの」といった指示代名詞の理解も難しいと言えるでしょう。同じ形であっても、指し示す内容がは様々ですから、理解は難しくなります。モノが目の前にある場合には、まだ理解しやすいと言えますが、文章の中に出てくる場合には、言葉がいっぱいある中に埋もれていますから、様々な可能性を考えてその中で選ばなければなりません。それが難しいといえます。

 

 「アレがあれば、コレがある、面白い」と感じて人に興味を持つことと、ゆったりして多くの情報を同時に処理できるようになることが大切です。

外見にとらわれる

 自閉症の子は、人の意図や伝えたい内容にあまり興味を示さないために、物理的な刺激の方に注意を向けてしまう傾向にあります。

 

 これは、自閉症の子の話ではないのですが、5歳ぐらいの発達の遅れた女の子の話です。まだ、言葉がなくて、水遊びだとか、音楽とか言葉以前の遊びをしている子でした。ある時、母親と先生が外で立ち話をしていたときのことです。女の子は、つまらなさそうに待っていました。その時、空に向かって指さしをしたのです。大人はなぜ指さしをするのかわかりませんでした。何しているんだろうね、と話していて少しすると、空のはるか高いところを飛行機が飛んでいるのがポツンと小さく見えました。音もかすかにブーンという感じで聞こえました。大人が音や点のような飛行機に気づく前から女の子は気づいていたのです。大人は「よくわかったね。」と感心したものでした。

 

 同じ世界に住んでいるようですが、大人の受け止める世界と子どもの受け止める世界がまるで違うのです。割と単純な感覚刺激で満たされていると女の子は感じていたことでしょう。大人は、人の言葉や人の意図が重要な世界に住んでいたのです。ですから、大人にとってはかすかな飛行機の音は、重要ではありません。そのために、飛行機の音がかすかに聞こえたくらいでは注意を引かないわけです。しかし、女の子にとっては興味を引くや不安を引き起こす刺激だったわけで、かすかではあっても注意を引いたのです。

 

 同じようなことが自閉的な子にも言えます。理解できることや関心のあることが違います。子どもは自分の関心のあることに注意を向けます。当然と言えば、当然なことです。教室で、先生の話よりも、黒板の汚れの方が気になったりします。カーテンが風で揺れればその方が気になります。こちらが話していても、話の内容より、服のボタンがきちっとはまっているかどうかが気になります。

 

 このように、人の話よりも物理的刺激の方が気になってしまいますから、人の言うことや学習に集中させるために、気になる刺激を減らすようにした方がいいと言われます。確かにそれも1つの手段ですが、大切なことは、人のやることに面白みを感じ、人の話に興味や関心を持てるようにすることです。そのためには、たくさん遊んで人の働きかけで喜べるようにすることです。そして、ハハハとくつろぎ性の喜びが表れるまでにつきあうことが大切です。そうすると、人の話の内容にも興味を持てますし、内容に対する理解力も増します。

自分とは独立した人の意図

 自閉症の子は、人の意図を読み取ることが困難ですし、自分とは独立した意志を持った存在として人を見ることも難しいと言えます。

 

 人の意図の読み取りについては、以前に簡単に説明しました。初めは、あやしかけなどで相手をしてくれる、とか、おっぱいをくれるといった意図を読み取ることができます。そして、大人があやしている途中で横を向くと怒りだしたりしますから、自分の方を向いていてくれれば相手をしてくれると感じるようです。また、おっぱいをあげようとしているときにも顔と体を横に向け続けると不機嫌になります。すでに飲んでいるときには母親が横を向いていても、怒ることはないのですが。

 

 遊びとか食べ物で、今まさに自分の相手をしてくれるという人の意図を感じるのは、自閉症の子でも比較的簡単にできると思われます。もちろん「意図」として抜き出して意識することはないでしょうが。

 

 さらに生後7か月を過ぎるころには、大人が自分の方を見ていなくても、自分の食事の準備をしてくれているとわかるようです。つまり大人が離乳食の入った皿の方を向き、スプーンでかきまぜたりしていても、腹を立てずに待つことができます。目があっていなくても、自分の世話をしてくれているのだと感じられるものと思われます。「コレがあるとアレがある」を楽しめるようになるわけですから、「皿の方を向いて何かすると、食事をくれる」ということがわかるようになるからです。人が指さしをしたら、何か伝えようとしているなとわかります。そういう意図を読み取ることができます。指さしするときにも、大人は赤ちゃんを見たり、モノの方を見たりしますが、自分の方を向いていないからと言って、何かを示そうとしていることはわかります。以前にも説明しましたが、いろいろな行動の裏にまとまった意図を感じとるようになる、ということです。

 

 以上は、自分に関わることで、人は意図を持って自分に働きかけてくれることを理解していることの説明でした。さらに、人の行動には意図があるという見方ができることや「アレがあればコレがある」ことを楽しめるようになると、次第に自分に関係ないことをしている行動に対しても興味を示すようになり、自分に関係のない行動にも、何かの結果を得るという意図があることを理解するようになります。

 

 人が本を棚から取り出したら、本を見ようとしている、とか、テーブルについたら自分の食事をしようとしているのだ、とわかるようになります。このことから、自分のこととは独立した人の意図、「つもり」がわかるようになってきます。生後1歳ごろにはそのような理解ができているのではないかと思われます。そしてこのような理解はもちろん認知の発達ではありますが、「アレがあれば次にコレがある」と予期し、予期通りのことが起こって満足したり面白みを感じるという情緒の発達があることを忘れてはいけません。予期通りのことが起こったという理解があっても、それに対して面白みを感じなければ、人のやることへの興味は育ってこないのです。

 

 つまり、生後6か月ごろに現れるハハハというくつろぎ性の喜びが重要だということです。

理解の修正と補強

 自閉症の子は、何か経験するとこういうものだと固く考えがちですし、自分の思いと現実とが違った場合にも、そうだと思いこんでいることを柔軟に変化させることが難しいと言えます。

 

 例えば、何か欲しいときには「アケテ」と言うものだと思い込んでしまった自閉症の子がいます。その子が冷蔵庫に入っているジュースを欲しがったときに、大人が「アケテ」と言うように教えたのです。その子が「アケテ」と言ったら、冷蔵庫を開けてジュースをあげたものですから、何か欲しいときには、「アケテ」と言うものだと覚えてしまったようです。その後、テーブルの上にあるお菓子が欲しいときにも「アケテ」と言うようになってしまいました。他にも何か欲しいときには「アケテ」と言うのです。大人が「アケテではなく、チョウダイだよ」と教えてもなかなか変更しませんでした。「固い思い込み」だったということです。

 

 もちろん、だんだんと「チョウダイ」という言葉を覚えていきました。しかし、それまでがけっこうストレスとなる経験を繰り返したのです。「アケテ」と言っても、大人は欲しいものをくれませんし、「チョウダイ」と言えと言う、子どもにとってはわけがわからず混乱してしまいます。

 

 なぜ「固い認知」になってしまうのかと言うと、自閉症の子のように集中性の情緒が優勢な場合には、起こりがちだということです。集中性の情緒は、注意の集中と維持を促進する情緒です。そして維持というのは、姿勢の維持にも関係し、体を固くして姿勢を保つということです。つまり、固さをもたらすのが集中性の情緒です。体の固さだけでなく、知的なイメージの固さにも寄与しています。

 

 ところが、活発な活動を促す高揚性の情緒やゆったりさを促すくつろぎ性の情緒が現れてくるとこだわりは減ってきます。高揚性の情緒によって、テキパキと注意が転換することで、1つのことへのこだわりはなくなりますし、くつろぎ性の情緒によって心のゆとりが現れてくると、いろいろなものを柔軟に受け入れられるようになります。

心の重層化

ぷーぷーさんという方が書かれている楽天日記(2005.7.11)を読んで、ふとコメントを書こうと思ったのですが、長くなりそうなのと、私の日記のテーマにも沿っている話題なのでここに書きます。

 

 ぷーぷーさんは、ご自身がアスペルガーである母親ということです。図書館からリクエスト本が届いたという電話が来たので図書館へ行きました。ある戸棚に「電車男」の本を見つけ、それがキッカケで、係りの人に「電話かかってきたのですが」と言おうとして、「電車男かかってきたのですが」と言ってしまった、ということです。このようなことがよくあるそうです。子どもと会話している時も、テレビコマーシャルの音が耳に入ってきて、会話と関係ない「そうそう、じゃがりこだよね」と言ってしまったり、幼稚園で、母親同士で会話しているときに、目についた単語を言ってしまったり、

隣のグループの会話が耳に入ってきて、そこで話されている会話の一部の言葉を言ってしまったり、ということがあって恥ずかしい思いをされるそうです。

 

 そこでなぜそうなるかと言うことです。まず、基本的にこのようなことは誰にでも多かれ少なかれ起こることです。それを理解するためには、人間は、同時にいろいろなことをやっている、マルチ機能動物であることを考えなければなりません。

 

 身体が同時にいろいろなことをしていることは、おわかりでしょう。心臓はいつも動いています。そして肝臓や腎臓などの内臓が動いています、息もしています。手や足も動かしています。

 

 精神の方も、いろいろな機能が同時に働いています。ものを感じたり考えたり覚えたりする「現在の意識」に限定しても、いろいろな機能が働いていると言えます。

 

 例えば、私が人と会話するときは、話題そのものを追跡すると同時に話題に関連する思い出を思い出したり、言葉の意味を考えたり、次に何を言おうと考えたりします。そうしながら同時に相手の顔や身体の動きを見て「冴えない顔だな」と思ったり「変わった服をきているな」と思ったり、ときには、まわりの様子を見たりしてきれいな部屋だとかいい景色だと思ったりしまするさらに話題に関係のないジョークを考えたりすることもあります。

 

 それらの考えやイメージや知覚や感覚、記憶の想起は、意識している場合もありますが、一時的に意識しない場合もあります。例えば、リンゴの数を数えているとき、途中で人に話しかけられても、話が終わった後、続きで数え始めることができます。これは人と話している間も「数」を記憶していたということです。

 

 そして、自分が考えていること、話そうとしていることなど、その時の主要な問題については、特に多くのイメージや記憶や考え方が動員されます。例えば、20ぐらいのことを同時に意識しているとします。そして、「人と話している」ことがそのときの主要な目的であるならば、話す事に関連する記憶やイメージや知覚は、15ぐらいはあるということです。「今相手が話していること」「先に相手が話したこと」「今自分が感じていること」「今自分が言いたいこと」「今までの相手との関係」「相手の表情」「相手の身体の動き」「言葉の意味」などなど、会話に関する「多数の思考、記憶、イメージ」があることで、適切な対応ができることになります。後の5でジョークを考えたり、景色のことを考えていても、15もの「多数の思考、記憶、イメージ」が、行動の逸脱を防いでくれるのです。

 

 このようにたくさんのことが思い浮かび、考えられるためには「心のゆとり」、「ゆとりに基づく意識の広さ」が必要になります。

 

 心のゆとりがないときには、たくさんの思いを受け入れられません。危険が迫っている緊急事態だとか、カッカッと興奮しているときには、たくさんの「思い」を持つことはできません。特定のことだけしか頭に描けません。特定のことしか思わないことで、まっしぐらに必要なことだけができるのです。しかし、他の可能性が考えられないために、間違っても修正が効かないことになります。

 

 さて自閉的な子や人は、くつろぎ性の情緒が乏しく、心のゆとりを持ちにくいために、たくさんの「思い」を持つことが困難となります。ゆとりのある人なら20ぐらいのいろいろな思いを持ち、しかも今やっていることに関しても15ぐらいの思いを持てます。しかし、自閉的な人は、5ぐらいの思いしか持てず、そのために今やっていることに関しても3ぐらいしか思いを持てないということになるわけです。3の思いで人と話しているときに、1つの別な思いが浮かぶと、主要な活動が3しかないために混乱させられやすくなってしまうということです。ついでにジョークを考えながら、かつ、人と話をうまくするということができません。ジョークを思いついたら、今何を話していたのか、忘れてしまったり、途中でそちらの方に意識が向いてしまい、主要な活動の中に変に接続されてしまったりします。

 

 私たちは、ものを考えたり、思ったときには、そのものについて立体的に多面的に複雑に把握するものです。頭の中に多くの要素を活性化させながら、考えたり思ったりするのです。そのためには心のゆとりが大切となります。心にゆとりがあることで、物事を重層的に捉えることができるのです。これは心も重層化しているということです。

 

 それに反して、物事を少ない要素で単純にしかとらえられないと、思わぬことが起こったり、反論されたりしても、様々な可能性がないために、うまく対応できないことになります。

 

 要は、たくさんの情報を同時に処理できるようになることが大切だということです。そして、そのためには、練習によって情報の処理速度を上げるというやり方と、ゆったりと活性化した心の状態を作って、たくさんの情報も受け入れられるようにするというやり方があるのです。

第5節 信頼と共感の発達

安心感と落ち着き

自閉症の子は、人のもとでゆったりすることが難しいと言えます。

 

 くつろぎ性の情緒が現れてくると、ゆったりとした感じが現れるようになり、そのゆったり感が親しい人と結びつくことで、人のそばにいてゆったりできるようになります。このゆったり感が安心感ともなり、愛着の基になります。

 

 ここで、くつろぎ性の情緒によって現れるゆったり感について、しっかりと考える必要があります。というのは、似て非なる状態があるからです。人によっては、自閉的な子が寝転びながらミニカーで遊んでいるのを見て、「くつろいでいる」と表現します。別にこの意見に反対するつもりはありません。しかし、私が考える「くつろぎ」とは違うかもしれません。

 

 まず、くつろぎ性の情緒、特にくつろぎ性の喜びを感じてくつろいでいる場合について考えてみます。それは、喜びを感じているのにリラックスしているという状態です。自閉症の子は、リラックスしながら喜ぶことがあまりできませんので、リラックスしながら、かつ、楽しい状態にはなかなかなれません。いわば「元気で、かつ、ゆったりした状態」というのはなかなか得られません。

 

 この状態では、元気ですから、子どもが好きな遊びをしていても、人が声をかければすぐに反応してくれます。くつろぎ性の情緒による活性化ですから意識の広がりがあり、過度に自分の遊びに集中していないということです。今、注意を向けていること以外の働きかけがあっても、注意を転換させやすいのです。しかも、リラックスしていますから、やわらかい反応が見られます。やわらかい声、やわらかい笑い声が聞かれます。くすぐるなどの普通であれば緊張を高めるような刺激に対しても、ハハハとやわらかく笑う反応を示しやすい状態です。

 

 次に、このくつろぎ状態と似て非なる状態について説明しましょう。

 

 1つは、不活発な状態です。ぼんやりしたり、眠気がある状態です。リラックスしているかもしれませんが、不活発という点でくつろぎ状態ではないと判断します。この状態では、人が声をかけても反応が見られない可能性が高いですし、反応しても生返事になるでしょう。ぼんやりして、積極的に何かに注意を向けることはありませんが、日ごろ好んでいるものや、今、目の前にあるものに注意がひきつけられてしまう状態、とらわれの状態になっている場合もあります。

 

 もう1つは、集中している状態です。この状態では、頭は活性化されているでしょうが、緊張した感じであり、リラックスはしていません。時には、身体はリラックスしているかもしれませんが、精神的には、緊張して集中しています。自分の好きなことに集中していますから、人が声をかけても、返事をしてくれない可能性が高いと言えます。

 

 つまり、落ち着いた状態と言われるものには、

 

  くつろぎ状態

 

  集中状態

 

  不活発な状態

 

があります。自閉症の子は、この中のくつろぎ状態が現れるようになることが大切なのです。この状態を引き出すためには、似ているけれど違う状態を区別できるようになることが大切です。

安心感は受容性を増す

自閉症の子は、柔軟に様々なことを受け入れることが苦手と言えます。「ああ、よかった」とか「ああ、面白かった」という感じで現れるくつろぎ性の喜びが現れることで、心のゆとりができてきますが、自閉症の子は、くつろぎ性の喜びが現れにくいために、心のゆとりが現れにくいと言えます。

 

 心のゆとりが現れることで、「異質なもの」や「新奇なもの」を受け入れられるようになります。普通であれば、慣れていないもの、異質なもの、新奇なものは、不安を引き起こします。何か違う、何だろう、という形で不安を感じるものです。しかし、安心感が多ければ、不安はそれほどではなくなり、受け入れやすくなります。

 

 また、こうでなければならないと固く考えていると、そうでないものを受け入れられないことになります。しかし、安心感が増し、心のゆとりが増えてくると、「こうでなければならない」という固い考えはなくなってきます。こだわりが減ってきます。単にリラックスするだけでも、心のゆとりが増えて、こだわりが減ってきますが、満足感を感じられるようにすると、柔軟にいろいろなものを受け入れられるようになります。

 

 また、ゆったりとした安心感が増えてくると、意識が広がってきます。狭い小さいことに気持ちを集中させるのでなく、意識が広がっていろいろな可能性が見えてきます。いろいろな可能性が見えてくることで、これでなければだめというこだわりが減ってきます。

 

 くすぐり追いかけっこで活発に楽しみながら、その後で、手ブラブラをしてリラックスできるようにしていくと、「ああ、面白かったね」という満足感を十分味わえるようになり、自分のイメージしていたことが実現しなくても、それほど腹を立てなくなります。

 

 説得によって、こだわりがいかに不合理であるかを説明するよりも、ゆったりできるようにした方が、いろいろな情報が受け入れられるようになり、こだわりの不合理性を理解するようになります。

安心感は積極性のもと

 自閉症の子は、限られた興味あることには打ち込みますが、興味のないことには熱心になれないという問題があります。これは、誰でも言えることです。しかし、興味の幅が狭いので、興味を持たないことが多くなり、結局、様々なことに積極性を示さないということになります。

 

 集中性の情緒によって身体の固さが高まることで、積極性が阻害されることもあります。ある子どもは字を書くのを嫌がります。何かを書こうとすると、構えてしまって身体が固くなり、うまく字が書けないからです。こんな場合、意欲を引き出すためには、リラックスしてゆったりできることが大切です。手ブラブラをこまめにやっていると、リラックスできるようになってきて、字を書くときにも変に力が入らなくなってきました。そうしたら、字を書くことを嫌がらなくなり、自分から書くようになってきました。

 

 リラックスさせてゆったりさせるとかえって活発になることもあります。身体が固くなって動きが現れなかったのが、リラックスすることで自由に動けるようになり、活発になるのです。リラックスさせてゆったりできるようにしているのに逆に活発になるのはなぜかと言われることがありますが、「自由に動ける」ようになるからというのが正解です。さらにリラックスを深めていくと、ゆったりさがいろいろな場面で現れるようになってきます。

 

 また、ゆったりして安心感が深まると、余分な力を使わなくてよくなるので、自分がやりたいことに多くの力を使うことができるようになり、積極性が増すということもあります。何か心配事があると、そちらの方に気を使い過ぎて、集中すべきことに気を使えなくなるということです。しかし、リラックスできるようになり、安心感も深まると、エネルギーを変な方向に使わなくてもよくなり、必要な方向にエネルギーを振り向けることができるようになります。

 

 普通は、子どもを積極的にするためには、励ましたり、せかせたりしますが、ゆったりさせることで、学習や人とのつきあいに積極的になることがあるということです。

安心感は信頼感のもと

 自閉症の子は、人のもとでゆったりすることが苦手ですが、人の働きかけでゆったりと安心することも困難です。これは、「ああ、よかった」と満足して喜ぶことが乏しいからと考えられます。基本的にゆったりしにくい、そのために人の働きかけや人の存在でゆったりしにくい、安心しにくいために、人に対する信頼感も乏しくなってしまいます。

 

 そもそも信頼感とは、必ずこの人は自分のために働いてくれると思って安心することです。つまり、信頼感には、守ってくれるという理解と安心感の2つの要素が必要なのです。ですから「この人は必ず自分を守ってくれる」とか「この人は自分のために働いてくれる」と思っても、安心感を感じることが弱ければ、信頼感も育たないということです。この人は自分を助けてくれるとは十分わかっているけれど、不安が取れないとなれば、その人を信頼しているとはいえないのです。戸締りを何十回となく繰り返し、そんなにする必要はないと思っても、それをしないと不安になるのであれば、「それは必要ない」という思いは、納得にならないのと同じことです。

 

 ですから、子どもが必要としたり欲求することに、大人がきちんと応えていても、子どもに満足感や安心感が弱ければ、子どもは大人を信頼し切れないということです。親が苦労して、子どもの要求にすべて応じたとしても、情緒的に満足感が現れにくい状態であれば、子どもは、親に腹を立てたりパニックを起こしたりするということです。子どもの言いなりになれば、子どもは満足して気持ちが安定してくれるというものではないと言うことです。苦労しても報われないことになります。

 

 大切なことは、子どもが満足感や安心感を十分に感じられるように働きかけることです。リラックスしながら喜べるようにすることが、大人への信頼感を育てる近道だということです。情緒を育てずに、子どもの望むことに応じ続けるよりも、ゆったりと楽しめるようにする方が確実だということです。

共感の発達

 自閉症の子は、人の気持ちに共感することが弱いと言われています。共感するということは、人と同じ「情緒経験」をするということです。そのためには、人と同じ情緒が現れなければなりません。しかし、自閉症の子は、生後6か月頃に現れる「くつろぎ性の情緒」がないか乏しいために、必然的にその後に発達する情緒も現れにくいことになります。自分が人の感じる情緒を持っていなければ、共感のしようがありません。例えば、人が悲しいとか恥ずかしいと感じても、自分がそのような感情を持たなければ、共感のしようがないということになります。自閉症の子は、情緒発達の遅れ、停滞のために、人の気持ちに共感できないのです。

 

 共感が現れるためには、人が感じる情緒と同じ情緒を持っている事、さらに同じ情緒を感じていると思う「共有感覚」があることが大切と考えています。その点から考えて、発達的に見ると、共感は、生後8−10か月ごろに現れると、私は考えています。

 

 それ以前も、他の赤ちゃんが泣いたら泣くというように共感があるではないかと言う人がいるかもしれません。しかし、生後8−10か月以前では、人と自分が一緒に感じているという感覚はないのではないかと思われます。例えば、子どもが自分の好きな遊びで喜んでいる場合、2人が同じように喜んでいたとしても、お互いに関係なく喜んでいたとしたら共感とは言えないと思います。生後8−10か月以前では、同じように泣いていても、感情の共有感覚がないのではないかと思います。そのために、共感はないと考えるのです。

 

 さて、生後8−10か月ごろというのは、人が「アレをしたら、コレをする」とわかって面白いと感じることから、人のやることに興味を持ちまねるようになる時期です。人も自分も同じことをしていると感じるようになる時期と思われます。同じように人も自分も同じような表現をしていると感じられるようになるのではないかと思われます。

 

 生後10か月頃は、さらに社会的参照と呼ばれる現象が現れる時期でもあります。社会的参照とは、人の表情やしぐさを信号として受け取るということです。何か危険な状況を感じたときに、母親の顔を見ます。母親がにこにこしていれば安全だと考え、やっている行動を続行します。しかし、母親が不安げな表情を示せば、やはり何かよくないと感じ取り、やっていることを止めます。

 

 このように大人の示す行動への関心が高まり、大人の行動を参考にして、自分の行動を変化させるようになるわけです。ですから、確たる証拠はありませんが、この時期に「お互いにお互いを意識し合いながら共に笑う」という共感が現れると考えるのです。

 

 具体的に言うと、生後8−10か月ごろ、親子が一緒にいるとき、親が笑うと赤ちゃんがつられて笑うということがあるのです。

 

 人と感情を共有しているという感覚や同じ情緒を感じるためには、ゆったり感も重要と思われます。

ゆったりすることで意識が広がり、人の情緒にも関心を持てるようになるからです。また、ゆったりすることで、柔軟に気持ちが変化しやすくなります。ですから、人の感情に合わせて、自分の感情を変化させることもしやすいものと思われます。

 

 ですから、くつろぎ性の情緒が現れて、親とのゆったりした関係が築かれることで、共感が現れやすくなると思われます。

達成感

 自閉症の子は、目的に向かってがんばり、目的を達成して喜ぶ、ということが弱いと言えます。

 

 普通の場合、目標を目指してがんばり、目標を達成して高揚して喜ぶ「達成感」は、生後1歳ぐらいで現れてきます。赤ちゃんが床からがんばって立ち上がったときや、何とか立つ姿勢を維持しながら歩行のための一歩を踏み出したときに現れます。苦労しながらも、目標とすることができてうれしいという感じで現れます。

 

 生後6か月ごろに、くつろぎの情緒とともに「結果の意識」が生まれ、それが次第に「目的意識」へと変化していくことは前に説明しました。しかし、生後10か月ごろでは、目的を達成しても、目的を達成するための努力を解除して喜びますから、「ああ、よかった」という感じでリラックスした喜びが表れます。それが、1歳ごろになると、目的を達成したときに高揚した喜びを示すようになってきます。このころになると、目的を達成しても、それで終了とはならずにこれからさらにがんばるぞという感じになります。それは、ようやく立ち上がって達成感を感じるわけですが、ホッとして力を抜いては倒れてしまいます。ですから、立つ姿勢を保持しかつ歩行という困難な事業にさらに立ち向かうために「高揚の情緒」が必要となると考えられます。達成感を高揚した気分で感じることで「ヤッター!」と意気揚々となると考えられます。

 

 達成感を感じることで、ますます目標に向かってがんばろうという気持ちが現れてきます。ですから、達成感を感じるということは、その行動を積極的にやっていくためには、重要なことです。

 

 達成感の発達の過程を図式化すると、次のようになります。

 

 生後6か月     → 生後9−10か月   → 生後1歳

 結果を意識して喜ぶ。→ 目的意識。リラックス。→ 達成感。高揚した喜び。

 リラックス

誉められて喜ぶ

 自閉症の子は、大人に誉められてうれしいという感じが弱いと言えます。子どもが何かやったときに「よくやったね」と誉めても知らん顔だったり、それほどうれしそうではありません。子どもは、誉めて育てることが大切と言っても、誉めても喜ばなければ誉め甲斐がないというものです。ですから、自閉症の子の場合には、達成感を感じて喜べるようにして、さらに誉めても喜べるようになるように情緒を発達させることが大切となります。

 

 1歳以降の赤ちゃんの場合は、達成感を感じて喜んだときに大人が誉めると、達成感の喜びが増し、誉められて喜ぶような感じになります。「やったぞ」と達成して喜ぶときに、「よくやったね」と誉めると、今感じている喜びをさらに盛り上げることになります。初めは達成感の延長で、達成感を感じたときに誉められて喜んでいたのが、次第に、誉められることで、大人の賞賛を獲得したと言う感じになり、それほど達成感を感じていなくても、誉められることで喜ぶようになってきます。

 

 しかし、気をつけなければならないのは、「よくやったね」と手を叩いて誉めると、子どもも手を叩いて喜ぶことがあることです。それ自体は悪いことではないのですが、案外、誉められて喜んでいるのではないことがあります。手をパチパチ叩くことがうれしいということがあるからです。ですから、手を叩くことを喜んでいるのか、誉められることを喜ぶのかを確かめるためには、手をパチパチ叩いて誉めるだけでなく、言葉だけで誉めることもして、言葉だけでも喜ぶかどうかを見る必要があります。

 

 さらに普通は、1歳半ごろになると、何をすると誉められるかがわかるようになり、誉められることをしようという行動が現れてきます。お手伝いをしようとしたり、言葉を話したり、質問に答えるようになるのです。そして、よくやったねと誉められると喜びます。

 

 ここで重要なことは、誉められてうれしいという気持ちが出てくると、叱られるのは嫌だという気持ちも出てくることです。人の自分に対する反応を分けて考えるようになるということです。それ以前は、人がどんな形であれ反応してくれるのがうれしい、といった感じです。ですから、いたずらをして、人が普通に反応してもうれしいですし、叱られてもうれしいといったことが起こります。いたずらを叱ってもどんどんやるということになってしまいます。(もっとも、叱られるときの強い声や行動を止められることが嫌ということはあります)

 

 それが、人のこの反応はいい、この反応は嫌だ、という形で分化して考えられるようになるということです。すると叱られることはしなくなり、誉められることをするようになります。ただ、子どもへの大人の反応が乏しい場合には、叱られてでも大人に反応してもらった方がいいと感じて、叱られることをわざとすることもありますので気をつけなければなりません。

 

 ですから、子どもが誉められるとうれしいと十分感じ、誉められることをしよう、そして誉めてもらおうと思うようになると、子育てはかなり楽になります。

自信の発達

 自閉症の子は、達成感や誉められてうれしいという感じが弱いために、「自分にはこれぐらいのことができる」という自信が育ちにくいと言えます。

 

 達成感や誉められてうれしいという気持ちが十分育ってくると、自分が何かやって「ヤッタ!」と感じる経験が積み重なり、充実感を感じるようになり、「自分にはこれぐらいのことができる」という自信につながっていきます。

 

 生後9−10か月ごろに安心感が現れてきて、親しい人のもとで安心感を感じられるようになり、親しい人と一緒にいたいと思うようになります。それが愛着の基礎になります。安心感が現れてくると、安心できる人や場所とは違う人や場所に対して不安を感じるようになります。これが、見知らぬ人や慣れない人への人見知りとなります。また、慣れない場所に対して、場所見知りも現れるようになります。

 

 ですから、1歳から1歳半にかけて、安心感が深まり、不安も強まります。しかし、さらに安心感が深まるようになると、不安は減ってきます。また、自信が積み重なっていくと、不安は解消されるだけでなく、積極性も出てきます。その結果、他児とき交わったりしても、それほど不安を感じることなくみんなの中に入って行きます。また、何か見知らぬモノに対して不安よりも好奇心を示すようになります。見知らぬ状況に対して探索するようにもなります。しかし、探索して次第に不安が強くなると母親の方に戻って安心を補給するようなことも見られます。

 

 

 自信が増えることで、心のゆとりも増えてきます。さらに自信を持つことが、自己形成を促進します。「−ができる自分」という確固とした意識が、「自分」という意識の形成に役立つのです。ですから、自閉症の子も、くつろぎ性の情緒による結果の意識を促がし、さらに達成感を感じられるようにし、自信を深められるようにしていくことが大切なのです。

感動を共有しようとする

 自閉症の子は、人と感動を共にすることが困難です。共感は、相手が示す情緒に接して、自分も同じ情緒を感じることです。「感動を共にしようとする」とは、感動した上で、さらに人にも同じように感動することを求め、そして、共感し合うことを言います。いわば、単なる共感は、自然発生的な現象ですが、「感動を共にしようとする」ことは、意図的な行為の結果現れるものです。

 

 「感動を共にしようとする」ことは、生後1歳半ごろから現れます。例えば、母と子で散歩しているとき、近くで急にハトが群れをなして飛び上がったとします。すると、子どもは楽しそうに驚き、母親の方を見て、ハトが飛び立ったことを知らせるだけでなく、自分が感動していることも母親に伝え、母親にも感動してほしいかのような伝え方をします。また、道端にアリの列を見つけるとやはり興味深そうに見て、母親とその感動を共にしたいという雰囲気で母親に感動を伝えます。

 

 「感動を共にしようとする」は、人と一緒に共感することが、感動を増すことであることがわかっているということです。一緒に喜んで、とてもうれしいと感じる、面白いことも一緒に経験するとさらに面白く感じる、というように共感することで感動が増す、ということを経験すれば、自分が何かに感動したら、一緒に感動したいと思うようになるものです。そうすることで、2人の一体感が増すことになります。人間関係をより深める経験ということになります。

 

 残念ながら、このような「感動を共にしようとする」行為が自閉的な子では弱いのです。「感動を共にしようとする」ためには、くつろぎ性の情緒が現れてゆったりすること、そして、共感関係が深まることが大切です。そうすると、もっと意図的に感動を共にしようという感じになってきます。

情報交換を楽しむ

 自閉症の子は、人と情報交換することを楽しむことが困難です。情報交換を楽しむためには、人のやることに興味を持ち、自分のやることを人に評価してもらいたいという気持ちが育ち、一緒に楽しみたいという思いがあることが大切となります。

 

 情報交換を楽しむとは、例えば、親が絵本の読み聞かせをする時、話を聞くのを楽しんだり、質問に答えたり、知っているモノの言葉を言ったりすることです。「こうして、こうなった」「こうして、どうなるのだろう」という人間のすることに対する興味が、絵本に対しても現れてきます。もともと、手遊びや歌遊び、そして、子ども向けの絵本というのは、「これがあって、こうなった」という事柄の関連性が単純に示されています。そうすることで理解力がまだない子どもでも興味が持てるようにできているわけです。例えば、「イナイイナイ」としたら「バー」となるとか、「ブルブル」ときたら「バー」になるとか、「夜」が来たら「おやすみなさい」になるなど。そのために、子どもの興味は、手遊びや歌遊び、絵本の読み聞かせへと発展していきます。

 

 また、もっと単純ないろいろなモノ、車、動物、植物などの写真や絵を乗せているだけの絵本にしても、大人とのやりとりの中で「これは」と大人が指さしすれば、次に、絵に関する「名前を言う」という形で「こうすると、こうなる」というパターンが現れて、子どもの興味を引くことになります。「起−結」という節目があるやりとりを楽しむ中で、「これは、ゾウ」「これは、キリン」と話を聞き、言葉を覚えていくことになります。そして、「これは何?」と来て「ゾウ」と答えるというやりとりも楽しめるし、自分から「ゾウ」といって「その通り、よくわかったね」という反応を得て喜ぶということも起こります。さらには、自分から「これは?」と聞いて、大人に「ゾウだよ」と答えてもらうことも楽しみます。

 

 「こうして、こうなった」でああよかった、ああ面白かったと感じることで、子どもは、様々な形の言葉のやりとりを楽しめるようになるのです。さらにそれに加えて、誉められてうれしいと感じることも大きく影響します。言葉を言うことで、大人が誉めればうれしいのでさらに言葉を言おうという気になります。また、感動を共にして喜ぶということも、絵本を見るときの楽しさを増す要素となります。「ゾウさん大きいね」と大人が言って感動を示せば、子どもも同じような気分になってうれしいわけです。

 

 しかし、自閉症の子は、絵本に興味を示さないか、示しても特定の絵や写真をジーと見つめるといった形の興味の示し方になります。自分があると知っている絵や写真がある、あるべきものがある、のを確かめるかのような見方をします。「こうして、こうなった」をあまり楽しめませんから、大人が「これは、ゾウだね」と言っても、むしろ、自分の見方を邪魔されたと感じてしまいます。自分1人では、絵本を見ていても、大人が読み聞かせをしようとすると、サーとどこかへ行ってしまいます。絵本の楽しみ方が違うために、話を聞こうとはしないのです。

言葉の理解

 自閉症の子は、言葉の概念を獲得するのが難しいと言えます。これは、「これは、こうなった」という物事の関わりに興味を示さないことと、注意を集中させてしまうために、多くの情報を同時に統合して処理できないためと考えられます。

 

 自閉症の子は、結果を意識したくつろぎ性の情緒が乏しいために、「これは、こうなった」でやはりそうかと面白さを感じたり、「これは、どうなるのだろう」と興味を示すことが弱くなります。ですから、大人が「これは、・・」と言って注意が引き付けられ、「ゾウだね」と言って「ああ、面白い」と感じませんから、大人の読み聞かせに興味を持ちません。自分が記憶しているイメージを確認するような見方をしている自閉症の子にとっては、むしろ大人の読み聞かせは邪魔な存在となります。

 

 しかし、昨日書きましたように、興味を示さなかった大人の絵本の読み聞かせに対して、ゾウの絵は「ゾウ」という音が結びつくのだと固定的なセットとしてモノと言葉のつながりを理解するようになると、大人の読み聞かせも聞くようになります。「ゾウの音声と絵の固定的結びつき」を確認するかのように聞くようになります。さらに他の絵には他の音声が固定的に結合するねという形で新しい言葉も聞くようになります。ただ、自分が記憶していることの同一性を確認するかのような聞き方ですから、自分の好きな部分しか聞かない状態が続きます。

 

 このように、モノのイメージと言葉を固定的に結びつけてしまいますから、具体的なモノと言葉の結びつきは理解しやすいと言えます。しかし、確かにこれだと確定しにくい抽象的な概念と言葉を結びつけることは困難となります。むしろ、抽象的概念も限られた特定のイメージと結びつけて覚えてしまいますから、本当の意味(様々なイメージを含む意味)を理解をすることは難しいと言えます。

 

 例えば「仲良し」とは、「目を合わせてニコニコし合うこと」という特定のイメージと結合して覚えます。困った友達を助けるとか、楽しく話しをする、なども含めて「仲良し」を理解することは困難となります。「協力」とは、例えば「掃除を一緒にやること」と覚えたりします。すると、グループ勉強で「協力してやりましょう。」と言われても、なぜ勉強で協力なのか、勉強で協力するとは何なのか、混乱してしまうことになってしまいます。まわりの人からは、勝手な行動をすると思われてしまいます。

 

 自閉症の子の言葉の覚え方は、いうなれば「一対一的固定的イメージと音声の結合」と言うことになります。くつろいだ感じで意識を広く持つことが困難で、多くの情報を同時に統合的に処理することが難しいためにそうなってしまうのです。それでも、粘り強く教えていけば、情報の処理が容易となり、様々な情報も受け入れられるようになっていきます。掃除を一緒にやることも、勉強を教え合うことも「協力」だと理解できるようになってきます。

 

 自閉症の子は、イメージと音声を固定的に結びつけがちですから、言葉の違った使い方を受け入れることが困難となります。たとえば、「壁」を家の中の仕切りとして理解すると、何かをするときに、困難な状況にであったとき「壁に突き当たった」と言われても、実際の壁のイメージしか出てこないので、理解することが困難となります。「明るい」を光が多いというイメージと結合して覚えると、「明るい教室」はなんとかわかりますが、「明るい少年」となると、理解できないことになります。「明るい教室」も、もちろん教室の生徒が元気で陽気であることを意味する場合には、わからないことになります。

 

 それでも、いろいろな意味があるのだということは、経験を重ねるうちに次第に理解できるようになってきます。しかし、情緒が発達しないままであれば(特にくつろぎ性の情緒が弱いままであれば)、意味と言葉の固い結合という傾向は残ります。状況に柔軟に合わせて言葉の意味を決定したり修正したりすることが困難となります。ですから、言葉を聞いてテキパキと適切な意味が思い浮かばず、「これはどういう意味か」を考えて決定するまでに時間がかかる傾向があります。特に別の意味と結合させてしまった場合、修正することが困難となります。人と会話しても、すばやく人の言っていることを理解することが難しいことになり、人との会話で疲れてしまいます。

 

 自閉的な人の話ではないのですが、まじめて固い感じの人は、私がシャレを言っても、なかなか理解ができません。「日本の海岸に打ち寄せる波の音は?」となどと聞かれてもどう考えていいのかもわからない状態になります。波の音と日本はジャパーンという自由な発想と連想が困難なのです。高機能自閉症やアスペルガー症候群の子や人には、日常会話のレベルで、このような自由な発想と連想の困難が現れているものと思われます。

価値観の内面化

 自閉症の子は、人の話を受け入れて、人と同じような価値観を持つことが難しいと言えます。

 

 発達的に見ると、何か目標を持ってがんばり、その目標が達成されると達成感を感じるようになります。そして、その時に、大人に誉められるとうれしさを感じます。次第に、大人に誉められること自体がうれしいと感じられるようになります。パンツを少しでもはけたからと言って特にうれしいとは思わなくても、大人に「よくはけたね」と誉められてうれしいと感じるようになります。

 

 ちょっと復習ですが、誉められて喜べるようになるためには、当然のことながら、「誉められることを喜ぶ心」を作ることがまず大切です。これは、達成感を感じられるまで情緒を発達させることが大切だ、ということです。そして、「誉められてうれしいという関係」を作ることも大切です。これは、大人との愛着関係を築き、共感できるようにしていくことです。そしてさらに、子どもが「達成感を感じたときに誉める」ということが大切です。これらの条件が整うことで、人に誉められてうれしいと感じる心が出来てきます。

 

 何かをして誉められてうれしいと感じることで、次第に何をすると誉められるかがわかってきます。そこで1歳半頃には、誉められることをしようとするようになります。言葉を話したり、お手伝いをしたり、ちょっと粋なしぐさをしたりということが現れてきます。

 

 そのように誉められることをしようとするようになると、次には、人が誉められるからそのことはいいのだと考える見方から、誉められなくても「そのこと」はいいのだと感じられるようになっていきます。例えば、食後のおかたづけをして誉められると喜んでいたのが、誉められるとわかってかたづけをするようになります。さらに誉められなくてもかたづけをすることはいいものだと、自分の判断として考えられるようになっていきます。このような人がいいと評価していたことが、人がいなくても自分自身でいいと判断できるようになることを、価値観の内面化と呼んでいます。このような価値観の内面化は、一生に亘って続いていく過程です。この価値観の内面化によって、人は自分なりの大切なものを心の中に形成していくと言えます。

 

 そのことが自閉症の子にとっては難しいと言えます。人の評価を喜び、尊重する気持ちが育つことで、人の価値観を自分の価値観として取り入れていくことができるわけですが、自閉症の子では、人の評価を喜び、尊重する気持ちが育ちにくいと言えます。このような気持ちを育てるためには、くつろぎ性の情緒が現れるようにしていくことが大切です。

 

 価値観の内面化には、大人に誉められることをいいこととして受け入れるだけでなく、叱られることをよくないこととして受け入れることも含まれます。さらに大きくなれば、自分なりの理解と納得も大きな役割を占めるようになり、単なる大人の価値観をそのまま受け入れることから、自分で考えて作り上げる価値観も現れてきます。その場合も、達成感や誉められて喜ぶことを基礎として形成される、役割意識、誇りや恥が大きな役割を果たします。

オウム返し

 自閉症の子は、人の言葉を繰り返すだけで会話にならない場合があります。例えば、「ただいま」に対して「おかえりなさい」と言うべきところを、「ただいま」と言われて「ただいま」と答えてしまうということがあります。

 

 人の言うことをそのまま言ってしまうことを、「オウム返し」と言います。また、人の言葉をそのまま響かせているので「反響言語」と言われたりします。なぜそのようなことが起こるのかについて考えてみたいと思います。

 

 まず、人に対する関心の薄さがあります。人からの話しかけに対して、そもそもしっかり返答しようという気があまりない場合があります。「こうして、こうなった」という「起−結」の事態を楽しいと感じる「くつろぎ性の情緒」が乏しいために、人のやること「人がこうしたら、次にこうする」に興味を示しません。そしてさらに「人がこうしたら、自分はこうする」「自分がこうしたら、人がこうする」というやりとりにも興味を示しません。ですから、人が話しかけても、自分の好きなことを喋ったりします。自分の好きなアニメの中のセリフを現在の会話に関係なく喋ることもあります。たいがいセリフの一部、または全部をそのまま言います。自分なりの話をつくるというよりは、そのまま思い出して言っているという感じです。その意味では、アニメの言葉を「オウム返し」していると言っていいかもしれません。

 

 人の言葉についても、それを聞いてそのまま繰り返すことも、あまり考えていないために起こりえると思われます。たまたま聞いたからそのまま言ったという感じもあるわけです。

 

 人に対して何か答えなければならないと感じても、柔軟に応答を考えられなくて、人の言ったことを繰り返す場合もあります。ゆったりした場面では、人の質問に答えられるのに、答えを要求されて固い感じになってしまうと、人の言うことを繰り返すだけになってしまう子もいます。

 

 しっかり答えようという気がある子でも、どう答えていいのかわからなくて相手の言葉を繰り返すだけになってしまう場合もあります。人が自分と同じように独立した存在としてとらえられなくて、うまく相手の言葉から自分なりの返答を作り出せない場合もあります。「君は、どう思う?」と聞かれて、「僕は、・・」と答えることができないのです。ただ自己概念があまりなくても、繰り返し教えられれば「君は」と言われたら「僕は」と答えるというように機械的に覚えて言えるようになることもあります。「ただいま」の時には「お帰り」と答えるとそのまま覚えても言えるようになるわけです。

 

 また、知的に高いレベルにある子の場合は、オウム返しにならず、会話ができる場合もあります。こういうときにはこう答える、といったことをたくさん覚えるようになってくれば、会話は十分できます。以前も書きましたように、意味と言葉を一対一的固定的関係としてとらえるために、柔軟に対応することは難しくても、どう答えたらいいのか考えながら話をするうちに、次第に会話の仕方を学んでいくことは可能です。

 

 ただ、情緒を発達させて、自分自身にも生き生きした感情を持つようにし、自分の立場や感じ方を話したいと思ったり、人との会話を楽しめるようになることは非常に大切なことです。集中性の情緒によって相手の言葉をまじめに受け止めるだけでなく、高揚性の情緒によって、いろいろな可能性を思い浮かべ、様々な答えを軽妙に答えるのを楽しめるようになることが大切です。また、くつろぎ性の情緒によって、予想される答えが得られたり意外な答えを得て楽しんだり、広い立場から自分と相手との関係をとらえられるようになることが大切と言えます。

ふと自分の世界に入る

 自閉症の子は、人と遊んでいたり、会話をしていても、ふと自分の世界に入ってしまうことがあります。。ボーとした感じになったり、ボーとした感じで何かわけのわからないことを話したりすることがあります。

 

 情緒的に生後1−2か月頃の集中性の情緒が現れる前の段階の子は、喜びが乏しくボーとした感じでフラフラしたり、何かをジーと見たり、何かを黙々とやるといった行動を示します。新生児がそのまま幼児や児童になったらこんな感じの行動をするであろうなと思われます。

 

 新生児でも、何かをジーと見つめることがあります。これは何か興味のあるものを積極的に見ようとして見るよりは、見えたものを見てしまうという感じのものです。目をそらすことができないという感じです。目の前にモノを持っていって、見たら動かしても見続けます。追視するのです。これも、いったん見たら目を離せなくなって、見続ける現象と考えられます。このような見方は、子どもにとっては見たくなくても見てしまうということで「強制的注視」と呼ばれています。見たくて見るわけではないので「受動的注意」とも呼ばれています。

 

 このような「強制的注視」「受動的注意」は、精神的に不活発なときに現れます。積極的に何かを見ようとしたり見たくないと思うほど、精神が活発でないわけです。そしてたまたま見えたものを見続けてしまうわけです。その刺激に精神が吸収されてしまっているので「とらわれ状態」とも表現できます。

 

 これは、大人にも起こる精神状態です。大変疲れたとき、ぼんやりして、目がすわってしまい何かをジーと見つめてしまったり、積極的に何かを考えるというよりは、特定の考えやイメージが頭に浮かんでしまい、その考えやイメージにとらわれてしまうような形で現れます。何かショックなことがあって精神が不活発になったときにも現れます。自由に自分のイメージや考えを選べなくなってしまうのです。

 

 このような精神的に不活発で特定のモノをぼんやり見つめてしまったり、特定の思いに気持ちが向いてしまうことが、自閉症の子にも起きることがあります。人と遊ぶようになり、にこにこすることが増えつつある自閉症の子では、にこにこ人とつきあっているのに、ふと、自分の世界に入ってしまうので、周りの人にとっては何事だろうと思われてしまいます。

 

 くすぐりや身体を揺らしたりして、人の働きかけに対して喜べるようになりつつある子は、喜びによって精神が活性化し、人に遊びを求めたり、人に対して注意を向けたりするようになります。しかし、まだ喜ぶ力が弱い場合、ある程度喜びが続くと、喜び疲れが起こって、喜びが途切れてしまうことが起こるのです。そうすると、精神的に不活発な状態になってしまい、今までの活動と関係ない別なことに「とらわれた状態」になってしまうことがあるわけです。不活発な状態が続いて、喜ぶ力が回復してくると、また人と楽しく遊べるようになります。

 

 ふとぼんやりして自分の世界に入ってしまう行動は、まわりの状況と「活発にまじわるための精神状態」を長く維持することが困難な発達途上の自閉症の子に見られる現象ということです。そういう子どもは、喜ぶ活動をやっては休み、やっては休みしながら、喜ぶ力を増やしていくことが大切です。さらに、「集中性の喜び」だけでなく、「高揚性の喜び」や「くつろぎ性の喜び」といった喜びの質を高めることも大切なことです。

 

 なお、新生児でも、たまには能動的に興味のありそうな刺激に注意を向けることはあり、そして、そのような能動的注意が増えていきます。しかし、そのような能動的注意は「集中性の喜び」と結びついた注意へと発展していきます。乳児では、すぐにその段階も通過してしまうために、それほど気にとめられることもありませんが、自閉症の子では、「集中性の喜び」の段階に固定してしまう場合もあり、別の問題が起きてきます。つまり能動的に集中性の喜びを感じる刺激に集中してしまい、他の刺激に注意を移さなくなってしまうようになります。つまり能動的に「自分の活動」「自分の世界」に入ってしまうということが起こるわけです。

 

 もちろん、このような問題を解決するためには、情緒を発達させることが重要です。

第6節 発達の特異性

おとなしい・不機嫌になりやすい

 自閉症の子の中には、乳児期におとなしかったという子や不機嫌になりやすかったという子がいます。おとなしかったという子は、情緒そのものが弱くて、強く泣けないとか、元気に喜ぶことが出来なかったと考えられます。通常の刺激では快感を感じることが弱いために、人が日常的に行う世話では快感を感じられないために、人が世話をしているのにもかかわらず、人との関係が育ちにくいということになります。また、おとなしくて眠っていることが多かったり、起きていてもおとなしいだけだと、世話する人もあまり世話をしなくなりがちです。一方、快感を感じる力が弱いために、快感を強く感じやすい刺激に注意が向きがちとなります。残念ながら、原始的なレベルで考えると、人間の与える刺激はそれほど強烈ではないと考えられます。

 

 これは、自閉症の話ではないのですが、近頃は、学校での先生の授業での話がつまらないという生徒の話をよく聞きます。これは、先生の力量が以前と比べて低下してきたということではないと思います。先生の話よりは、ゲームでの音や光、動きの刺激の方が強烈だし、テレビにしても、効果音や大胆な映像などによって強烈な印象を与えます。先生の話す話の内容に含まれる「人間的なドラマや意味」に興味を感じるまでに子どもの興味のレベルが育っていればまだいいのですが、そのような興味も育っていないうちに、機械的な刺激に包まれそれらに興味を感じてしまうと、影響力が大きいだけに、それらに集中しがちとなります。そして、それらの強烈な刺激に比較して、先生の話はつまらないことになってしまいます。テレビも十分に進化していない昔の環境であれば、外遊びや本読み、絵描き、手伝いといった活動としか比較されませんから、先生の話は新鮮であり、深みもあり、それなりに面白みを感じられたのではないかと思います。

 

 同様におとなしい赤ちゃんも、カラカラ回るメリーゴーランドやヒラヒラ揺れるカーテンやクルクル回る扇風機などの反復性の刺激やキラキラ輝きカラフルに変化するテレビの画像に接するうちに、それらに対して、人間の生の刺激よりは魅力を感じてしまい、集中してしまうことになるのではないかと思われます。さらに人間は、自分のしていることを止めて何かをさせようとしたりして、むしろうるさい存在として感じてしまう可能性が高いわけです。そうすると、ますます自分の好きな活動に集中することになりがちです。

 

 不機嫌になりやすかった赤ちゃんの場合も、情緒の遅れによってそうなると考えられます。情緒発達を見ると、快感の表現よりは、不快表現の方が先に現れます。新生児期でも、強く泣きます。しかし、微笑はわずかしか表現されません。ですから、情緒発達が新生児期に留まっていれば、喜ぶ力が乏しいわけですから、どうしても、様々な刺激に対して不機嫌な反応が現れやすいことになります。

 

 また、何かを感じても固くなる反応が強ければ、様々な刺激を受け入れられるだけの許容性がないことになり、少しでも自分のイメージと違うことに対して受け入れられずに不機嫌になりがちとなります。また、いったん不機嫌になった場合も固い反応が強く現れれば、不快感の発散にはなかなかならず、すっきりとなりにくいという問題も起こります。さらに、いったん固くなるとリラックスできにくいために、泣きも長引きがちとなります。

 

 もちろん、情緒発達がうまく行かないと、不機嫌さ優位の状態は幼児期や児童期にまで続いてしまうこともあります。幼児期や児童期では自分で動いて、好きな刺激を求めることができますから、自閉性がますます強まる結果となりがちです。物を記憶したり学習して、言葉の力が伸びても、情緒発達が伸びなければ、人間とのかかわりを求めないで自分の好きなことだけに集中する状態が続きがちとなります。

オレ線型(キッカケのあるタイプ)

 自閉症の子の中には、乳児期までは正常に育ちながら、時にはある程度の言葉も話せるようになりながら、1歳から2歳にかけて、次第に人への関心が失われ、言葉が無くなり、模倣しなくなり、やっていた活動をやらなくなったりして、自閉的な行動が目立つようになる子らがいます。このような子らは、途中まで正常に来て、自閉症の方向へ変化したということで、オレ線型の自閉症と言われています。

 

 何かキッカケがあって、自閉的になってしまったという子もいれば、徐々にというか気がついた時には、人の関心をしめさなくなっていたという子もいます。

 

 キッカケとしては、母親が入院したり家族の看病のために家にいなくなったこと、引越し、本人が病気になったこと、予防接種を受けた事、などがあります。環境の変化がかなり大きな影響力を持つようです。予防接種に関しては、中に含まれる水銀のせいだと言われています。私が聞いた例では、2歳頃にお葬式に参加して、みんなが黒づくめの服を着ていたことに驚いたのか泣き出し、その後人への関心が失われてしまったということがあります。けっこう多いと思うのは、2−3歳頃に引越しをして、それ以後自閉的になっていったという例です。このころに自分の住んでいる世界がどのようなものであるか、というイメージができあがると言われています。それなのに、引越しすることで自分の今まで築いてきた世界ががらりと変化してしまうわけです。大人の経験とはまったく違うわけです。大人は、広い世界を知っています。ですから、引越しは、広い世界の中でのある点から別な点への移行ということになります。しかし、自分の周りの世界がようやくわかってきた幼児にとっては、全世界が変化し、別世界になってしまったとも感じられる変化であるわけです。

 

 母子分離体験は、幼い子にとっては、衝撃的な経験だろうと思います。一緒にいて安心感を感じていた人がいなくなってしまうのですから、かなり不安なことと思います。

 

 ただ似たような経験をしても、自閉的にならない子もいるのですから、自閉的になった子の持つ内的要因についても考えなければならないでしょう。ただこれは単なる想像に過ぎない話であることをお断りしておきます。

 

 生後半年以後、くつろぎ性の情緒が現れて、安心感を感じるようになり、母親のもとで安心できるようになってきます。安心感を感じるようになるとともに、不安も感じるようになります。それが、さらに安心感が深まったり、達成感や自信を積み重ねていくことで、母親から離れても「安心した状態」を続けられるようになるわけです。安心感や自信が深まることで、少々衝撃的なことがあったとしても、心の安定を維持したり、安定を回復できることになります。

 

 もし、くつろぎ感が現れても、十分には現れず、安心感や自信が深まり切れなければ、不安を感じやすい状態が続くことになります。ただ、不安を引き起こす事件がなければ、不安になりやすい状態であっても、不安は起きません。しかし、強い不安を感じる出来事が起こり、十分でなかった安心感も消えてしまったら、人と一緒にいてもくつろいだ感じになれず、人とのやりとりも楽しめなくなり、集中性の情緒や高揚性の情緒だけが残り、自閉的な行動へと進んでしまうのではないかと考えられます。

 

 もちろん、ショックを受けた初期に人のもとでくつろげるように慰めがしっかり行われれば、自閉的な行動へと進んでいかない場合もあるのではないかと考えられます。もちろん、たとえ自閉的な行動へと進んでも、もちろん、くつろぎ性の情緒を引き出して、さらにくつろぎ性の情緒を深めながら、人とのやりとりを楽しめるようにしていけば、自閉的行動は減り、社会性も発達していくことになると思われます。これは、どの自閉症の子にも言えることです。

オレ線型(徐々に変化するタイプ)

 自閉症の子の中には、乳児期に正常に育ちながら、1歳から2歳にかけて次第に自閉的になっていく子がいます。このような場合は、どう考えたらいいでしょうか。これから述べることも、想像の話です。どうしてもこうでなければならないはずだ、とまでは強く主張するつもりはありませんが、日頃の療育の中でこうではないかと考えていることを述べてみたいと思います。

 

 赤ちゃんのときに正常に育っていると言われる場合、赤ちゃんにもいろいな個性がありますから、幅があると考えたらいいでしょう。また、運動発達のように明確に目に見えることでしたら、異常かどうかよくわかります。もっとも、ちょっと固いとかやわらかいとか見えにくい部分もあるにはあります。しかし、精神的な発達となると、正常かどうかを見極めることは難しいと言えます。

 

 自閉症は、情緒発達の遅れもしくは偏りに問題があると考える私としては、「赤ちゃんが正常に育った」という場合、情緒の現れ方は正常であったかを気にします。しかし、一般的には情緒はそれほど重視されていません。せいぜい人を見て笑ったかとか、人見知りがあったかといったことがチェックの対象となるぐらいです。後は、指さしを見るか、模倣があるかなどです。

 

 人に対する微笑は、生後1−2か月ぐらいから現れます。私が考える「集中性の情緒」の現れです。笑い声をあげて笑うことは、生後3−4か月ごろから現れます。私が考える「高揚性の情緒」の現れです。この2つの喜び表現が現れていれば、この赤ちゃんの情緒が変だとは思われないでしょう。本当は、生後6か月頃にハハハと力を抜きながら笑うことが現れることが重要です。私が考える「くつろぎ性の情緒」です。この情緒が現れ増すことで、安心感が深まり、人との親密な関係が深まっていきます。

 

 もし、くつろぎ性の喜びが乳児期に現れなくても、だれも変とは思わないでしょう。乳児期は正常だったということになります。(もっとも、くつろぎ性の情緒が、1歳過ぎてから現れても正常に育っていく子もいるでしょうから、乳児期に現れなくても異常ということにはなりません。問題なのは、くつろぎ性の情緒が乳児期に現れないだけでなく、幼児期になっても現れない場合です。)

 

 そして乳児期の特色について考えてみてください。移動がスムーズに行きません。生活のかなりの部分を大人に頼っている年代です。食べ物が欲しいとか、何か刺激が欲しいときにも、大人の手を借りなければなりません。人とのつきあいにそれほど面白さを感じなくても、大人に頼っているために大人への関心は多くなります。また、大人がそばで語りかける場合、さしあたり好きな刺激が無い場合は、話を聞くことになるでしょう。自分からはあまり移動できないので、独力で人から離れることはできません。人の語りかけを聞く機会も増えることになります。自然に言葉を覚えることになるでしょう。模倣することもあるでしょう。

 

 しかし、自分が歩けるようになると、状況が一変します。自分で好きなところに行けるのです。自分で好きな刺激を見つけたら、その刺激を求めて行けるということです。そうなると、くつろぎ性の喜びが乏しくて、人との親密な関係があまり深まっていない子は、人から離れて自分の好きなところへ行くことになります。今まで、人の語りかけを聞いていた子も、話を聞かなくなります。今まで、人に笑いかけていた子も、人よりももっと魅力のある一人遊びの方に行ってしまいます。

 

また単に自分から好きな刺激のところに行けるだけではありません。乳児期と幼児期では動き方が全く違います。幼児は自分が自由に活発に動けるために周りの刺激がまったく別なものに感じるほどに異なったものとして受け取るようになります。例えば、トコトコと走ることで、周りが素早く変化します。クルクルと回ることで、周りの景色が流れるように見えて、ダイナミックな変化を感じることができます。つまり、自分が速く動くことで、周りにある様々な刺激が静的に見ていたときとは別なものとして受け取ることになります。例えば、ゆっくり変化するビデオの画面が、早送りすることで画面が目まぐるしく変化し、面白さを感じるようになるようなものです。撮影されて画像は変化していないのに、倍速で見たり3倍速で見ると全く変わったものに見えてしまうのと同じです。ですから、感覚刺激に魅力を感じることで集中性の情緒が現れる傾向のある子が、乳児期には、感覚刺激に変に集中することがなかったのに、幼児期になって、変に特定の刺激に集中するようになることが現れたりするのです。それだけ、幼児期には自分が動くことで、強烈な刺激が得られるようになるということです。そして、魅力的な刺激に集中するようになると、自分からそれを求めるようになり、集中性の情緒がたくさん現れるようになります。そうなることで、少しながらも現れていたくつろぎ性の情緒が消えていくということも起こると思われます。つまり、人と一緒にいてくつろぐ感じが消失し、自分一人で刺激を楽しむことが多い状態になってしまうのです。

 

 しかも、自分の好きなようにフラフラしていたら、大人は危険だからとかみんなで出かけるとかの理由で、子どもの動きを制限することになります。すると、大人は、幼児にとっては、自分の動きを制限する存在となります。親密な関係が育っていないところで動きが制限されたり、行きたいところでなく別なところに連れていかされたりして、大人との対立が起こってきます。

 

 人との関係が疎遠になれば、赤ちゃんの時に覚えていた言葉も忘れていき、消えていくことになります。自分の好きな刺激に集中することが多くなることで、緊張が高まっていき、やわらかさが消えていくこともあるでしょう。

 

 つまり、乳児期の情緒の遅れと、乳児期と幼児期の生態学的変化によって、キッカケなく起こるオレ線型の自閉症の生起過程が理解できるのではないかと思います。あくまで想像ですが、「くつろぎ性の乏しさ」の程度によっても、自閉的行動へと進む過程は異なってくるのではないかと思います。

 

 なお、自閉症でなくても、臥位や座位が中心の乳児から歩行が可能になる過程で、異常な行動が現れやすいと言われています。移動が可能になることと歩行による身体の力の使い方の変化が、人間の発達にかなり大きな影響を及ぼしていると考えられます。

情緒と落ち着き

 情緒というと、喜んだり悲しんだり怒ったり、不安になったりすることを思い浮かべられるでしょう。そのような目だった情緒が現れているときには、確かに、情緒によって頭の働き、情報処理の仕方が影響を受けることは皆さんもご承知のことでしょう。感覚刺激に集中しながら、身体を固くして喜んでいるときには、確かに視野が狭くなり、様々な他のことに注意が向かないということはわかります。はしゃいだ感じで喜びいろいろなことを喋っている子は、確かに物事を筋道立てて考えられない状態であることはわかります。

 

 このように特定の情緒が強く現れているときには、確かにその情緒が頭の働き方に影響しているわけです。ですから、情緒は、知的活動を妨害する働きしかないと言われたこともありました。そして、落ち着いてくると、「情緒は消えてしまう」わけですから、そのときの知的活動は、情緒には関係ないと考えられています。落ち着いたときに知的活動がうまくいかないとしたら、それは情緒のあり方に関係したことではなく、純粋に知的問題であると、言われるわけです。

 

 そして、子どもの問題を考える場合も、「情緒が十分に発達した?大人の落ち着き」と「情緒が未発達である子どもの落ち着き」とを同じ落ち着きであると、見なしがちです。しかし情緒が偏って現れる子の場合の落ち着きの中身は、大人のそれとは違うと考えた方がいいでしょう。

 

 大人の場合、様々な情緒(3つの情緒)をすでに持っています。そして、今までに様々な情緒が混ざり合うような感じで様々な経験を重ねてきています。ですから、落ち着いたときにも、様々な情緒が混ざり合った形で意識を形成していると思われます。もう少し説明しますと、私たちは膨大な記憶を頭の中に貯蔵しています。そして、その記憶はすべてでないにしても、そして意識化されていなくても活性化された状態にあると思われます。ある程度記憶が活性化されているからこそ、何かあってもすぐにいろいろなことが思い浮かぶのです。そして、それらの記憶には、情緒的色彩が含まれています。例えば、自分の家の記憶には、くつろいだ感じや楽しく浮き浮きする感じがくっついていることでしょう。ですから、家を思い出すとくつろいだ感じになったり、楽しい感じになったりします。好きな人の顔を思い出すと、ドキドキすることもあります。このように記憶に情緒が結びついているのです。

 

 ですから、記憶とともに情緒もある程度活性化されていると考えていいでしょう。様々な情緒が記憶とともに活性化されているとどうなるでしょうか。いろいろな色の光が混ざることで無色になるように、情緒も細やかに豊かに混ざり合うことで、あたかも情緒がないような状態になると考えられます。逆説的ですが、情緒が豊かになるほど、心が平静になるのです。様々な形で活性化された心の状態になるのです。

 

 腹が立っているとか、悲しいとか、うれしいとかいう心の状態は、偏った情緒の状態だということです。ぼんやりした状態というのは、情緒が乏しいということです。心が生き生きとして明晰であるということは、情緒が偏らずに豊富に活性化された状態だということです。ですから、情緒を発達させて、情緒を豊かにするということは、情緒があたかもないように感じさせる「知的に活性化した状態」を作るということです。

 

 情緒発達が未熟で情緒が偏ってしか現われない段階、例えば、生後1−2か月の段階では、集中性の情緒が優位に現れます。集中性の情緒に偏っているとも表現できます。そこで、喜びが高まりながら人からのあやしかけや動くオモチャの刺激に集中してしまうのですが、いつも集中性の情緒を経験していますから、落ち着いたときにも、集中性の情緒的な頭の使い方になってしまうということです。

 

 情緒の表現と言えば、感覚刺激に集中して喜ぶような喜び方が主となる自閉症の子は、落ち着いているときにも、モノに集中してしまうような視野の狭い状態でいる、もちろん情緒が高まっているときほどではありませんが、同じような情報処理の仕方をしてしまう、というわけです。

 

 生後3−4か月の段階では、高揚性の情緒も現れてきますが、キャッキャッと活発に喜んでいない落ち着いた状態であっても、頭はアッチコッチに注意を分散させるようないわゆる1つのことに集中し切れないような働き方をするということです。ですから、落ち着いていても、注意をアッチコッチに転換させることが容易となります。気持ちは落ち着いたように見えても、頭は落ち着いていないようなことが起こるわけです。

 

 このように日頃どういう情緒経験をしているかによって、落ち着いたときにも、日頃の情緒が影響しているということです。

 

 普通の大人の場合で考えてみましょう。例えば、ある人に非常に不信感を持ち、その人が何か話しても疑いの念が浮かんでくる人は、落ち着いているようなときにも、その人の話を聞くと、本当だろうかと疑ってしまうということです。日頃の情緒と似た状態の頭の使い方をしてしまうということです。

 

 換気扇やタイヤの回転刺激を見て、緊張して喜ぶような子は、落ち着いていて、情緒が現われていないようなときにも、自分なりのイメージに集中してしまうような傾向があるということです。何かに熱中しているときだけ自閉的で、落ち着いているときには普通につきあえるというわけではないのです。落ち着いているようなときにも自閉的な感じになってしまうのです。落ち着いてはいるのに、何か固い印象を受けることになります。

 

 ですから、情緒の現われ方を変えることで、落ち着いたときの頭の使い方も変えられると思われます。「あーよかった」とゆったりしたくつろぎ性の情緒が現れている子は、その情緒が現われていない平静な状態のときにも、人に対してゆったりとした対応がとれるということです。

 

 ですから、様々な情緒を引き出して情緒を豊かに表現できるようにしていって、一見情緒とは関係のない落ち着いたときにバランスのよい活性化された頭の使い方ができるようにしていこう、というのが私の作戦なのです。情緒を豊かにするとは、情緒的に無色化することであり、明晰な頭の使い方ができるようにしようということです。

 

 自分は今、情緒を感じていない平静な状態であると、思っても、今までの情緒的経験に基づいて作られた活性化された状態であると、理解されるといいでしょう。

テキパキとした対応性

 自閉症の子は、自分の世界に入りがちです。また、物事を固くとらえてしまていますから、テキパキと人に応答することはできません。応答できないために、人とのやりとりを苦痛に感じてしまうこともあります。また、意識が狭いために、たくさんの情報を同時に統合的に処理するのが困難となりますから、様々な意味を含んだ人の話に適切に対処できないことになります。

 

 集中性の情緒が優位に現れ固くなってしまうわけですから、高揚性の情緒を引き出して人の出方にテキパキと対応できるようにすることが大切です。人の出方への対応と言えば、よく行われる活動は、キャッチボールです。自閉症の子は、このキャッチボールが不得意です。飛んでくるボールに合わせて体をサッサッと動かせないのです。ですから、自閉症の子から対応性を引き出す訓練としてキャッチボールがよく行われます。別にやっていいのですが、私がもっと勧めたいと思うのは、「くすぐり追いかけっこ」です。

 

 キャッチボールがうまく出来るようになるのは、4−5歳ごろです。追いかけっこを楽しめるようになるのは、1歳半から2歳ぐらいです。発達的に見ても、追いかけっこの方が基礎的活動と言えます。また、キャッチボールは、人と離れてやり合います。そのせいもあってあまり情緒を喚起することはありません。くすぐり追いかけっこは、くすぐりもあり、捕まえたといった抱き締めもあり、体に触ってもう捕まりそうという切迫感もありで、子どもはキャッキャッと笑いながら逃げます。情緒を高めながら、かつ、人に捕まらないように、人が前に出たら方向転換して後ろに逃げ、人が横から迫ったら反対側に逃げるというように、テキパキと人に対応して動かなければなりません。また、重要なことですが、人から離れて自分で進むべき方向を決めるということです。つまり、人から独立して動くということです。このことが、乳児期から続く依存的状態からの脱却を意味しています。

 

 2歳ごろになると、自分からわざわざ大人に近づいて挑発しては逃げるということもあります。自分から危険な状態に入ってまた逃げるというスリルを楽しむわけです。うまく逃げられると、それこそ大喜びとなります。このように自分が人から独立した存在として、人とのかけひきを楽しみ、かつ、人との競い合いでうまくいって自信をふくらませる活動となります。さらに、大人が子どもを壁に追い詰めたとき、子どもは大人を押し返そうとします。そのときに大人がよろけて逃げると今度は子どもの方が追いかけてくるということが起きます。途中で大人が反撃すると、今度は大人が追いかけ、子どもが逃げるというように役割の交代が起こります。

 

 ですから、追いかけっこを活発に楽しめるようになると、人との関係が飛躍的に改善されていくことになります。人の出方にテキパキと応じられるようになりますし、なによりも人の出方をよく見るようになります。人がこう動けば自分はああ動こうと考えるようになります。しかも、人には負けないで競い合うほどの人に対抗するがんばりも育ち、さらに自信も育ちます。また、キャーキャーと興奮したり、相手の出方をジーと慎重に見つめたり、うまく逃げてホッとしたり、といった様々な情緒を経験することができます。

 

 ですから、私は、くすぐりでかなり喜べるようになった自閉症の子への働きかけとして、くすぐり追いかけっこを親御さんや先生方に勧めています。なお、この活動は部屋の中でやった方がいいでしょう。狭い部屋の方がすぐに子どもの前に出られるからです。

 

 しかし、もともと人に対する対応性が乏しい自閉症の子とやる追いかけっこが、始めからうまくいくわけではありません。くすぐって笑ってもなかなか逃げてくれないといった問題があります。また、子が逃げても、大人が前に出ると方向転換できずに固まってしまうといったこともあります。そこをうまく追いかけっこができるようにしていくわけです。

 

 やり方については、また将来説明したいと思います。ともあれ、移動が容易になってきた2歳以前の子が、次第に人から独立した存在として、人とかけひきを楽しめるようになってくることの重要性を理解していただければと思います。

主体性の理解

 自閉症の子は、人が自分自身の心を持って行動していることを理解することが難しいと言えます。

人間が主体性を持った存在であることを理解するためには、人のやることを総体としてとらえる必要があります。しかし、自閉症の子は、部分的に見る傾向がありますから、人が全体として何をしようとしているのか理解するのが難しいと言えます。例えば、大人がくすぐろうとすると、「手が迫ってきた」と思ったり、人が喋っていると「口が動いている」といった見方をするのです。さらに大人が両腕を広げて左右からくすぐろうとすると、一本の手しか見れないということが起こるようです。

 

 1歳半ごろには、オモチャで遊んでいて、他の子が迫ってくるとオモチャを取りに来たのかと察知します。警戒もするようになります。1歳半前だと、経験不足もあって他児が自分の遊んでいるオモチャを取りに来ても、ポカンとした感じて取られてしまいます。「どうしてこうなったのかわからない」という感じです。しかし、1歳半も過ぎると他の子がやってくると警戒し、しかもオモチャを取られようとしてもオモチャを手離さないで防ぐようにもなります。他の子とオモチャの取り合い、防ぎ合いを演じることになります。ここで、自分の意志とは反する人(意志)の存在を感じるようになります。他児とのぶつかり合いを経験します。

 

 乳児期は、人が自分を世話してくれるかどうかが最大の関心事です。始めは目が合えば相手をしてくれると理解し(1−2か月ごろ)、次第に目が合わなくても相手をしてくれていると理解するようになります(7−8か月ごろ)。この段階までは、大人はいわば自分の気持ちと一体化しているように感じているでしょう。しかし、1歳に近づくころには、自分の意志とは関係のない「独自の意図」を大人は持っていると感じるようになります。自分とは関係なく、人のやることを見れるようになるわけです。そして、さらに1歳半ごろになって、自分の意志とは反する「独立した意図」の存在について考えられるようになり、しかも自分とは反する意志を持った他児とバトルを行えるようになります。

 

 このころから楽しむようになる追いかけっこは、遊びの上で「相反する意図」を持った存在として人を意識していることを示しています。つまり、大人は「つかまえようとする意図」を持ち、自分は「つかまらないという意図」を持っていると感じてやり合うことになります。一緒に絵本を見たり、オモチャで遊ぶ関係とは違う関係がここに存在するようになります。そういう関係を重ねることで、自分はこうしたいという気持ち(主体性)を持ち、人は違った独自の主体性を持つと考えられるようになってきます。そのこともあって競い合うことを楽しめるようになります。

 

 オモチャの奪い合いでも、自分が勝って他児が泣いたら、にんまりと勝利感を味わうようになります。「相反する意図」を感じることで、勝利感や敗北感が現われてくるようになるのです。

 

 自閉症の子は、満足感や目的意識、達成感が弱いので勝利感も弱いと言っていいでしょう。やはり、自閉症の子には、くつろぎ性の情緒を表せるようにして「コレがあれば、アレがある」で楽しいと感じられることが大切と思われます。

モノの比較と競争心

 さらに情緒発達の説明を続けていきましょう。2歳ぐらいまでに簡単な形容詞がわかってきます。「大きい」とか「小さい」とか「多い」とか「少ない」などです。「おいしい」とか「うまい」といったこともわかってきます。食事をしていて人が「おいしい」と言うと自分も言うようになります。そして一緒に「おいしい」という気持ちを分かち合えたということを喜べるようになってきます。

 

 これは、「おいしい」という言葉による共感です。もちろんうれしそうにうまそうな顔をするのですが、次第に言葉を聞いて、意味を考えて共感するようになってきます。基礎には、「くつろぎ感」があり、愛着が形成されます。次に愛着を基礎として、共感が生まれ、さらに感動を共にしたいという気持ちが育ってきます。さらに言葉の意味を共感するという気持ちが2歳ごろにできてくるのです。

 

 また、モノの性質が分かってくると、比較するようになります。「ミニカー」が2台あると、どっちが大きいとか小さいとかを気にするようになります。大人が声を使い分けて話しかけるとよけい比較に対して興味を抱くようになります。例えば、「こっちは、いっぱーい。こちは、すくなーい。」と言っているとそのコントラストを楽しむようになります。

 

 そして、2歳半になると、「高い」と言って自分の手が高いところまで届くことを自慢げに言うようになります。2つを比較して、多い方、大きい方、高い方、広い方などをいいと感じるようになるのです。これは、追いかけっこなど、2人で競い合って勝利感を感じるようになることが関係しているのではないかと思います。2つを比較して、こっちが勝ちという感じです。

 

 この気持ちが3歳になると、人との競争心へと発展していきます。散歩で園に帰るとき一番になりたいと思って他の子と競争したりします。自分だけでなく人のことも同時に意識するようになったとも言えます。

自己評価

 1歳頃に、達成感を感じ誉められることを喜ぶようになりますと、1歳半ごろには、誉められることをしようという気分になります。この段階では、他者評価でやる気が出るという感じです。このように人に評価されることで、何がいいかについての価値観が次第に内面化していきます。そして、自分なりの価値判断ができるようになってきます。

 

 2歳になると、何かし遂げて(例えば、積み木を積むなどして)、「見て見て、ママ」と言って母親に見てもらおうとします。これは、何か達成したときにまず自分で「うまくできた」と評価し、その後で人にも評価してもらいたいと思って、大人を誘うのではないかと思われます。いわば、自分で自分を誉めるということです。1歳のときに、何かを達成して喜ぶときには、達成感で心がいっぱいになります。人がどう思うかとか人にどう思ってほしいかということは考えていません。もちろん、大人に誉められて、自分の喜びが増えることはあります。

 

 2歳では、自分の行為を評価するだけでなく、「これは、人も評価するであろう」と予想される人の評価も判断し、しかも、喜びを共にしたいという気持ちから、人に見てもらいたがるわけです。「自分の評価」と「他者の予想される評価」という二重の評価をしていることになります。1歳よりも視野の広がりがあるということです。共感というのは、一緒に喜んでいるとか一緒に悲しんでいるという情緒の共有感があることが大切だと以前に述べましたが、2歳になるとかなり意識的に「自分も喜んでいる、人も喜んでくれる。一緒に喜べてよけいうれしい」と感じられるようになると考えられます。

 

 もともと大人とは、自分の世話をしてくれるという一体感から始まって、次第に大人にも自分からは独立した意図があると感じ、さらに自分の動きを止める相反する意図を感じるようになります。このように次第に分離独立の方向へ発展していきます。分離独立しながらも、共感してうれしいと感じられるようになることが重要と言えます。

対立と心の通じ合い

 1歳から1歳半にかけて他児の様子をよく見るようになります。他児は、自分の意図とは関係なく動く存在であると見ている感じです。そして利害が関わるところで他児との関係が起こります。けっこうモノの取り合いや遊びを邪魔されたということでの対立が起こるのです。このようなぶつかり合いがあることで、真剣に人のことを見るようになります。しかし、大人の慰めによってホッとすることで、また同じ場で遊ぶようになります。これを繰り返します。「争っても水に流す」を繰り返すということです。この時期は、警戒心を持ちながらも、自分の感じたままで争ったり落ち着いたりします。これが重要かと思われます。争っては落ち着くことで、相手が何者であるか、大人はどんな役割を持っているのかなどの学びが起こるからです。ただし、くつろぎ性の情緒によるゆったり感が得られるまでになっていることが大切です。ゆったり感が得られることで安心感が得られ、しかも、意識が広がり、相手の様子など広く情報を得て考えられるようになるからです。

 

 2歳は、自分の今やりたいことや今やっていることをやりたいと言う気持ちから、順番が守れなかったり時間が守れなかったりします。また、周りの様子がよくわからないので、危ないこともしようとします。そのために、大人はそれをしつけようとします。子どもは自分のやりたい気持ちを簡単には引っ込めることが出来ずに、大人と対立するようになります。いわゆる反抗期の現われです。

 

 反抗期の基本は、「頑固さ」です。「やりたいことはやりたい」という心の固さです。これは、ブランコをやると楽しいといった楽しい事が見えてきて、そのイメージに集中してしまうために起こると考えられます、この固さのために、なかなかすんなりとは人の働きかけを受け入れて、自分を修正できないのです。しかし、このような固さは重要です。自分の心を守る基本が育っていることを示しているからです。さらに気持ちが落ち着くことで、学びが起きてきます。親に慰められて落ち着くことで、なかなか自分の思うようにならない、しかし、自分は大人に愛されていると感じられるのです。

 

 大人との遊びでは、ままごと遊びが発展します。料理を作って夕食にしたり、人形を赤ちゃんに見立ててご飯をあげるといったままごと遊びをします。大人が見ながら、お茶をいれるときには、茶の葉を入れて、お湯を沸かして・・と助言するとそれを受け入れ、始めは単純だったままごと遊びも内容が豊かになってきます。

 

 また、この時期重要なのは、自分が経験したことをしきりに大人に話そうとすることでしょう。1歳半では、目の前にあることで感動を共有していたものが、2歳半から3歳にかけて過去の経験を大人と共有したいという気持ちになってくるということです。「あのね、あのね」とよく喋るようになってきます。絵本の読み聞かせを楽しむことも続いています。

 

 他児との関係では、2歳ごろは、他児と一緒の場で遊ぶけれど、まだかかわりのない状態であったのが、2歳半ごろから、他児が面白そうなことをやっていれば、まねてやってみようという気持ちになってきます。自分の遊びをしながらも人のやることも意識しているということです。そして、人のやっていることもわかるようになってくると、そのことに興味を示すようになるのです。例えば、釣りをする遊びを始めたら、自分も釣りのまねを始めたりします。友達が電車ごっこを始めたら、自分も電車ごっこをしようという気持ちになります。

役割意識と誇り

 3歳ごろ、友達を意識した遊びが増えてくると友達といっしょにごっこ遊びやままごとをしようとするようになります。また、幼稚園や保育園で、先生の「みなさん」という呼びかけに対して、だんだんと自分がみんなの中に含まれるということがわかってきます。友達の名前を覚え、誰と誰が自分といっしょの組に属していることがわかってきます。みんなでイチゴを食べて「おいしいね」と友達と共感し合うようになります。また、誰かが休むと心配したりします。

 

 他児への意識が増えることで、みんなに対して役割を持つことに誇りを感じるようになります。折り紙をみんなに配ってと言われて、得意になって配ります。そして、先生に誉められて喜びますが、この喜びは、単に誉められて喜ぶというだけではないのです。みんなに何か役立つことをしたというみんなの中での自分の役割を果たしたことを喜ぶようにもなります。みんなの中で自分はたいしたことをやったという意識、集団の中での自分の行為や役割に対する「得意感」があるかと思います。そして、このような得意感は、「誇り」と呼べるものだと思います。「誇り」の気持ちが現われることで、逆の「恥ずかしさ」も現われてきます。みんなにくらべてうまく絵が書けないとか、ハシをうまく使えないとかいったことに対して、恥ずかしいと感じるようになります。

 

 ただ、3歳になっても、まだまだ自分本位です。2歳では、今やっていることや目前のやりたいことに固執します。3歳児は、これからやろうとすること、やりたいことに固執します。みんなで鬼ごっこをして捕まっても、鬼になりたくないとわがままを言ったりします。自分の楽しさがまず優先されるわけです。かくれんぼしていても面白くなければ、かくれている途中から、他の遊びを始めたりします。

 

 このように自己本位でありながらも、次第に他の子となかよくやっていこうという気持ちが育ちつつあるのが3歳児と言えます。

集団とルール意識

 

3歳ごろから簡単なルールがわかってきます。散歩のときには手をつないで歩く、とか、ブランコは順番に乗る、交代で乗るなどです。ただ、ルールを守らなければいけないという意識はあまりありません。大人が注意していると守るといった感じです。しかし、ルールを守って 誉められたり、4歳児や5歳児がルールを守る様子を見て、次第にルールを守った方がいいと意識するようになります。そして、4歳や5歳になってルールを守るという意識が定着してきます。遊ぶときにも、ルールのある遊びをするようになります。鬼ごっこやかくれんぼなどです。どうしたら勝つか負けるかを決めて遊びます。

 

 ルールを守れるようになるのは、認知の発達もありますが、心のゆとりがあって、自分のやりたいことと同時にルールについても考えられるからだということです。心のゆとりがない子は、ルールを守ることはできません。もちろん心のゆとりは、「楽しかった」「よかった」というくつろぎ性の喜びによって得られます。

 

 ルールを守らなければならないという意識とともに「正義感」が現われてきます。ルールを守らない子に対して「ずるい!」と言うようになります。他の子に注意するようになります。並んでいる列に割り込む子がいると注意したり、ままごと遊びで赤ちゃん役の子が散歩に出かけようとすると、「赤ちゃんは歩かないよ」と言ったりします。

 

 しかし、遊びが面白くないと、ルールを変えて面白くしようとまでは考えないのが4歳児で、面白くなければ、遊びをやめてしまいます。大人が入って「どうしたらいいのかね」と問いかけると、考えたり相談したりできます。5歳になると、遊びが途中でうまくいかなくても、子どもたちだけで、遊びのルールをどうしたらいいか相談できるようになってきます。

 

 4歳児は、自己本位から脱却し始め、みんなのことやルールを守ることを考えられるようになります。このような自己からみんなへという意識の広がりは、みんなと一緒に遊んだ後、「ああ、面白かったね」とみんなと一緒にくつろいだ感じになれるようになったことが大きく影響していると思われます。くつろぎ感が増えることで、様々なことが受け入れられるようになるからです。

グループ意識と協力

 5−6歳ぐらいになると、みんなで協力して何かをやりとげようという意識が育ってきます。そしてみんなでする遊びのためにみんなで相談することができるようになります。例えば、「どうしてそんなことをするんだ」というように人の意図を確認します。また「最初に何つくるのかを決めよう」と遊びの前に目的を明確にしようとします。さらに相談するために「ねぇ、ちょっとみんな!」と友達全員に呼びかけたり、「まず、紙を半分ぐらいに切って・・・」などと友達にやり方を説明したりします。計画的に物事を行えるようになるとも言えます。

 

 また、自分だけが楽しければいいということはなくなり、みんなで楽しむことが大切という意識が出てきます。役割分担して遊ぶときには、自分が楽しくないことでもやろうとします。例えば、砂場遊びで、川やダムを造るとき、水道からバケツを使って水を砂場に運ぶことをします。水は重いので運ぶのは大変なのに、みんなで遊ぶために、がんばって水を運びます。水を運ぶのは大変だから嫌だとは投げ出さないのです。そして、水が川のように流れて、みんながヤッタと喜ぶと一緒に達成したことを喜びます。1歳児は、自分が苦労してできたことに達成感を感じていましたが、5歳になるとグループで成し遂げたことに対して一緒に達成感を感じられるようになるということです。

 

 ですから、バスケットボールといったグルーブ対抗の遊びもできるようになってきます。グループの勝利のためにがんばるようになります。一方、弱い子に対しても思いやりを示し、仕事を代わってあげたり手伝ってあげることができるようになります。また、気を利かせて、自分から仕事を見つけ出してやるようにもなります。たとえば、遊びをしていて廊下が水でぬれているのを見つけると、自発的に雑巾を持って来て、ふいたりします。そうしたほうがいいと自分で判断できるようになるわけです。

 

 このように5−6歳児になると、仲間のことを考えて、協力し合えるようになります。このようなことができるためには、もちろん理解力の発達が大きな役割を果たしています。しかし、さらにその根底に情緒の発達もあることを忘れてはいけません。「コレがあって、アレがある」ことを楽しめるようになることで、人のやることに面白みを感じ、人のやることに興味を持つようになります。人に興味を持つことで、人のやることを学ぶようになります。また、くつろぎ性の情緒を感じることで、人に対して安心感を感じ、人との共感関係が深まります。共感関係が深まることで、気持ちの交流だけでなく、情報の交換を楽しむようになります。人と情報交換を楽しむようになることで、さらに人から学ぶことが推進されます。また、人に対して自分の経験を伝えたくもなりますから、自分の考えをまとめる力や、新しい考えを生み出す力も育ちます。

 

 このように対人関係が育つためには、情緒が大切なのです。特に自閉症の子は、情緒の発達が遅れていますから、情緒発達を促がしながら、人とのやりとりを楽しめるようにすることが大変重要です。

これから、情緒発達の促がし方について説明していこうと思いますが、まずは、心の育ちにおける情緒の大切さをしっかり認識していただきたいと思います。

感覚障害(知覚過敏)

 自閉症の子は、特定の刺激に対して過度に強く反応したり、無反応であったりします。特によく言われるのは「触覚防衛」があるということです。このような感覚障害を思わせるような問題も、情緒から考えられるのではないかと思います。もちろん、何らかの感覚の過敏さや鈍感さがあるでしょうが、主要な問題は、刺激の感じ方を調整する情緒にあるのではないかと思います。

 

 (1)人間関係の希薄さ。例えば、触覚防衛は、人に触られるのを嫌う現象です。このようなことは、人との関係が乏しい子や人にとって当然のこととも言えます。人との関係が乏しい子の場合、人との接触に興味がありませんから、人が触れてくることは、自分の行動への侵害と受け取られるわけです。ですから、触られるのを避けると考えられます。人間に興味を持ち始めた自閉症の子では、よほど強制的に接触でもしないかぎり、接触を拒否することはありません。むしろ、人への愛着を育てるように働きかけ愛着が育ってくると、ベタベタと大人の身体にまとわりついてくるようなことも見られます。

 

 また、大人とのくつろげる関係ができていれば、強烈な刺激や不安を引き起こす状況でも、大人と一緒にいることで、気持ちを落ち着けることができます。自閉症の子は、大人と一緒にいてもくつろいだ感じになりにくいですから、刺激に対する集中や警戒心、不安が緩和されないことになります。

 

(2)緊張の高さ。集中性の情緒が現れると、身体の緊張が高まる傾向にあります。そして、筋肉の緊張が高い場合、皮膚感覚が敏感になる場合があります。身体が柔らかいところをくすぐってもあまり感じない子どもでも、筋肉を固くしている部分をくすぐるとよく笑うということも見られます。筋肉の緊張の高まり自体が筋肉部分の感覚を高めることが考えられます。

 

 また、身体が固い子や固くなりがちな子は、腕や手を握ったりすると、キュッと腕を縮めて触られるのを拒否するような反応を見せます。固くなることで、人の動きに合わせられないのです。身体が柔らかければ、人が手や腕を保持しても柔軟に合わせられます。そのような柔軟な対応が自閉症の子では困難な場合があるのです。

 

 筋肉は、強く圧迫されると弛緩する傾向があります。ですから、不安の強い子では、ギュッと抱きしめることが不安を緩和するのに役立ちます。もちろん人間関係ができている場合です。しかし、自閉症の子や人でも、ぎゅっと圧迫されることで落ち着くことがあります。また、手をブラブラ揺すって緊張を緩めることで、触られることが平気にもなります。

 

 身体の筋肉が緊張した状態というのは、警戒した状態や不安が高い状態で現われます。ですから、逆に筋肉が緊張していると、警戒するような心の状態になりやすいとも言えます。そうなると、気にかかる刺激に過剰に反応することも現われると言えます。

 

 また、緊張が高まることで心の固さも高まり、許容性が狭くなります。同一性保持のところでも説明したように、ちょっとしたイメージの違いも許せないことが起こります。すると、自分の思いとは違う「感覚刺激」にも強く反応することがあるだろうと考えられます。

 

(3)興味の極端な偏り。集中性の情緒によって、何か快感を感じる刺激に対して、注意を集中させることになります。注意が集中することで、対象に関する情報はたくさん入ってくることになります。

 つまり集中性の情緒による過度の精神の集中が、集中している刺激に対しては強い反応を示す原因となることが考えられます。

 

 逆に集中していない刺激に対しては、意識を向けることができず、反応を示さないことになると考えられます。特に、集中性の情緒が優位に現れ、くつろぎ性の情緒が乏しい場合には、注意の集中の仕方は、なだらかな集中(集中している周辺にも少し注意を向けていたり、関係ない刺激にも注意を配分できるような注意の向け方)ではなく、「全か無」型の注意の向け方(注意を向ける対象には徹底して注意を向けるが、他のことには注意を全く向けないといった極端な注意の向け方)になってしまいます。そうすると、あることには極端に反応するのに、あることにはほとんど反応しないといった極端な反応が現われてくると思われます。

 

(4)心のゆとり。心のゆとりがあることで、意識が広がりますし、柔軟な対応ができます。

 

 意識の広がり:興味の極端な偏りに関係していますが、心にゆとりがなく、特定の刺激を何らかのキッカケ(その中には過敏な感覚も入るでしょう)で、気にするようになったら、精神がその刺激に集中してしまい、その刺激をますます重大な刺激と受け取ってしまう可能性が考えられます。その逆に、他の刺激のことが気になってそれに集中してしまうと、ある刺激に対しては注意が向かなくなり、あたかも感じないかのような反応を示すことがあることも考えられます。心のゆとりがあれば、様々なことに気配りできるようになるので、特定のことを気にすることが緩和されます。また、他のことへの無関心、無反応も緩和されます。自閉症の子や人の場合には、くつろぎ性の情緒が現れにくいために、意識の広がりが現われにくいと考えられます。

 

 柔軟な受容:くつろぎ性の情緒は、刺激をソフトに受け取ることを促進します。くすぐられても、ハハハとくつろぎ性の笑いが現れれば、体を緊張させることなくくすぐり刺激を受け止めることができます。強く働きかけても、リラックスしながら受け止めることができます。そのために、極端に強い反応が現われても、心全体のバランスをくずすことなく、余裕を持って受け入れられるようになります。くつろぎ性の情緒によって安心感が深まれば、少々強い刺激が現れても平気な気持ちで受け入れられるようになります。

 

(5)固まりやすさ。様々な刺激に対して固まる反応を示す子がいます。

 

 集中性の情緒が優位の子や人は、何か不可解な刺激があっても、まず警戒状態になって受け止めたり、まず身を固めることで刺激が去るのを待つような反応を示したり、どう対応したらいいのかすぐに決定できずに思考するために固くなったりします(往々にして、考えるというよりは頭が真っ白になってしまう場合が多いのですが。なお、頭が真っ白になって思考停止状態に陥ることは、過剰な刺激を受け入れてパニックになることを避け、刺激をやり過ごすという適応行動と考えられます。)。

 

 高揚性の情緒が優位な子や人は、何か不可解な刺激があると大げさに反応したり、落ち着きがなくなります。落ち着きがなくなることで、他の様々な情報を得られるようになり、適切な反応の仕方がわかるようになる可能性が高くなります。

 

 くつろぎ性の情緒が優位な子や人は、不可解な刺激に対して、ゆったりと探索的に注意を向けることができます。このことによって、刺激に対する情報を十分に得られる可能性が高まります。しかし、のんびり注意を向けている間に敵にやられてしまう可能性もあります。慌てふためいて行動を起こした方がいい場合もあるのです。

 

 さて自閉症の子は、集中性の情緒が優位ですから、何か強い刺激があっても身を固くして、その刺激をやり過ごそうとする可能性があります。そのような場合、本人としては固くなるという形で反応しているにもかかわらず、周りの人から見れば、無反応と判断される場合があると思われます。例えば、雷が鳴っても平気な様子で反応を示さない子がいます。そのような子に逆にひそひそ声で話しかけると注意を向けることがあります。強いくすぐりには反応しないのにスーと皮膚を軽くなでるような働きかけにはくすぐったいという感じで強い反応を示すことがあります。つまり、強い刺激でかえって無反応であり、弱い刺激で反応するといった、世間の常識に反するようなことが起こるのです。

 

 もっとも、普通でも、大きくて強そうな人が文句を言ってきたらおとなしく黙って聞いているけれど、弱そうな人が文句を言ってきたら、「ガタガタ言うな」などと強気で出るようなことがあります。ですから、自閉症の子や人の反応が、世間の常識から全くはずれているということではありません。

 

 ともあれ、感覚異常もしくは知覚過敏と言われるような反応は、情緒発達を促がし、くつろぎ性の情緒が現れるようにしていって、人のもとでゆったりできるようにしていくと、かなりの部分解決されていく問題です。

身体的緊張

 自閉症の子は、集中性の情緒が優位に現れます。そのためにモノの見方、考え方が固くなりがちですが、身体も固くなりがちです。しかし、情緒発達のレベルによって、固さの現れ方も違います。

 

 情緒発達レベルが低く、情緒が乏しい子は、ぼんやりした感じであることが多く、身体的にも低緊張を示しがちとなります。床に寝そべっていることが多かったり、歩くときにもくねくねとした感じであったり、座る姿勢がシャキッとせずユラユラと定まらない感じになります。

 

 多少、喜びや不快感の表現がある子では、くねくねと力が入らない感じでありながらも、時には突っ張りが見られます。緊張性の反応が現われてしまうのです。寝かせて足曲げをするときにも、くねくねとやわらかい感じであるのに、時にピンと突っ張ってしまうことがあります。

 

 集中性の情緒が強く現われてくると、自分の気に入った刺激にのめりこみながら身体を変に固くするような反応が現われてきます。キャーキャーと喜びながら身体を突っ張らせたり、腕を突っ張らせたりします。そのように力が変に入っているのに、逆に手先や足、顔にしっかり力が入っていないのではないかと思われることもあります。身体の中心に力が入っているのに末端に力が入っていないということも起こります。

 

 高揚性の情緒が現れてくると、ビョンビョン飛んだり、身体を前後に揺らすような反応が見られてきます。歩行するときに、踵が上がっていることがあります。尖足歩行(つま先歩行)と言われる行動です。身体全体を上下に揺らしたり、手をひらひらと動かしたり、変わった行動をとることもあります。身体を揺らしたり、飛んだり、手をひらひらさせたり、頭をくねらせたりすることが、常日頃現われて現われやすくなり、いわゆる「クセ」の状態になると、情緒が盛り上がらなくても、現われたりします。

 

 このような行動に対しては、くつろぎ性の情緒を育てることで、特定の刺激にのめりこんで身体を緊張させるようなことを減らしていくことが大切です。また、くつろぎ性の情緒を育て、心身ともにくつろいだ感じになること、人との親密な関係を築き、次第に人の目を意識できるようにしていくことが大切です。そしてできれば、自分の変なクセに気づき、恥ずかしさを感じて自分で直していこうと思えるようにしていくことが大切です。単に変な身体の緊張をなくすというのでなく、人との親密な関係を基にして社会性を育てることが大切なのです。また、ゆったりできることで、自分の身体を微妙にコントロールできるようにしていくことも大切です。

パニック

 自閉症の子は、こうであるはずだ、とか、こうであるべきだと固定的に物事をとらえるために、自分の思い通りにならなければ強い不快感を感じることになり、怒りを爆発させることがあります。ですから、思い込みの固さというか、心の固さがパニックの主なる原因と言うことができます。解決のためには、心の固さを取ればいいことになります。

 

 どうしたらいいかと言いますと、くつろぎ性の情緒を引き出すといいのです。くつろぎ性の情緒が現れることで「ああ、よかった」という満足感が現われてきます。この感情が現われることで、心のゆとりが生まれてきます。心のゆとりが生まれてくると、「こうでなければいけない」という固い思いは減ってきます。そして、多少自分の思い通りにならなくても、「まあ、いいか」と思えるようになってきます。また、腹を立てたとしても、かなり緊張したり興奮したりして怒りを表すという表現方法から、もっとやわらかい表現方法へと変わってきます。ハーとため息をついてあきらめたり、他のことで気持ちを晴らそうと気分転換がうまくできるようになってきます。さらに集中性の情緒が優勢であるときのように、何か嫌なことがあるといつまでも恨みを抱き続けるということはなくなりますから、不機嫌になりやすい状態ではなくなってきます。

 

 くつろぎ性の情緒がどんどん増えてくればいいわけです。

 

 人間は、成長するにつれて次第にできることが増えるのであればいいのですが、成長するにつれてますます悪化することがあるので気をつけなければなりません。身体の固さや心の固さは、成長につれて増していく場合があります。適度に社会にもまれ、楽しいことも増え、くつろげることが出てくればいいのですが、おとなしくあまり感情を表現しない子の場合、周りの人が真剣に笑わせようとつきあわなければ、感情が乏しいまま成長し、大きくなっても、融通が効かないために、不快感を強く表すということが起こります。

 

 もっと人の気持ちがわかる子でも、ぐずったりパニックを起こすことで人を動かそうとする子がいて、何かあるとパニックを起こしてわがままを通そうとして、親を困らせ続けるということもあります。そんな子は、小さいときからぐずりやすいために、親も無理せず、好きにさせてきて、そのために大きくなっても好きなことをやり続けるという結果になってしまうということがあります。

 

 次第に人との楽しいつきあいが発展してくればいいのですが、発展してこないと、ぐずって要求を通す状態が続いてしまいます。小さいときのくつろぎ性の喜びを引き出すような遊びが重要なのです。ただ、大きくなってもぐずりやすい状態が続くと、もうどうしようもないかと言いますとそうではありません。落ち着いたときに身体を動かしてリラックスできるように働きかけて、次第にゆったりできるようにしていけばいいのです。

 

 ともあれ、幼いときに、人としっかり遊んで、ゆったりできるようにしていくことが大切です。しかし、情緒発達がよくわからない人は、子どもを喜ばせても、緊張や興奮を高めてしまう場合がありますので気をつけなければなりません。

睡眠障害

 自閉症の子の中には、睡眠障害と思われる兆候を示す子がいます。睡眠とは、休息を意味します。その時には、身体と精神のリラックスが起こります。その点では、情緒による活動の活発化と、精神の集中、くつろぎ感と関連した問題と言えます。

 

 ですから、緊張状態や興奮状態からうまくリラックスしたり、逆にリラックスした状態からうまく緊張や興奮を高めていくことができれば寝起きの問題は減少していきます。また、十分深くリラックスできるようになれば、深く眠れるようになり、途中で起きることは減っていきます。特に最初に深くリラックスできると、普通の眠りのように寝入りばなで深く眠れるようになり、おしっこの生産は睡眠モードへと切り替わり、おしっこの量が減り、おしっこのために途中で目が覚めることはなくなってきます。

 

 働きかけとしては、眠る前に特に、リラックスできるようにすることが大切です。小さい子であれば、仰向けに寝かせて両足の曲げ伸ばしをゆっくりやって、腰や足の力が抜けるように働きかけるといいでしょう。大きい子であれば、すわって身体のストレッチングをしてリラックスできるようにするといいでしょう。

 

 しかし、日頃からゆったりできるようにすることも大切ですから、遊びながら手をブラブラ揺らすなりして、心地よくリラックスできるようにしていくといいでしょう。

 

 また、人間関係を育てることも大切です。睡眠は、単に眠いから眠る、眠気が取れたら起きるということではありません。人といっしょにいて、人がくつろいでいれば自分も一緒にくつろげるようになることで、夜になると眠くなるようになります。また、人が眠るから一緒に眠ろうとするようになります。また、人との関係が深まり、人の指示を喜ん受け入れられるようになることも重要です。指示を聞けるようになることで、人が眠るように誘ったときに受け入れられるようになるからです。また、自分がすることで人が迷惑することを感じとり、人が迷惑することを止めようと思うようになることも重要です。そう思うことで、夜中に起きて人に迷惑をかけてはいけないという気持ちになります。

 

 しかし、残念ながら、自閉症の子は、人との親密な関係が育っていませんから、夜中に起きたり、とても早く起きたりして、自分なりの遊びを始めたりします。

 

 睡眠の場合にも、くつろぎ性の情緒を引き出して、ゆったりしやすくなること、人との親密な関係を築くことが大切だということです。

高機能自閉症とアスペルガー症候群

 自閉症の中でも、IQが70以上の人や子を高機能自閉症と呼びます。IQが70以上という規定ですから、IQの違いによって行動の現われ方はかなり違ってきます。理解力があまりなくて、自分の活動に集中することが多い子もいれば、うまく噛み合わないながらもけっこう人と話ができる子もいます。

 

 アスペルガー症候群は、人とのコミュニケーション能力に問題がない子や人のことを言います。自閉症の3つの条件(社会的関係、コミュニケーション、特異な行動)の1つが問題ないわけですから、自閉症の中には入りません。また、コミュニケーション能力に問題がありませんから、一般的に高機能自閉症の子や人よりも知的機能は高いと言われています。しかし、IQが100以上ある高機能自閉症の子や人とは、かなり似ていて、そういう場合には、同じと考えていいのではないかと言う人もいます。自閉症ではないアスペルガー症候群の子や人が、自閉症である高機能自閉症の子や人と同じと言うのは、論理的に言っておかしいわけですが、まあ、そんなものだと考えればいいかと思います。

 

 自閉症もアスペルガー症候群も、広汎性発達障害のグループには入ります。

 

 さて、高機能自閉症の子は、おおまかに言って、自分がやっていることを成功させたい、うまくできるようにしたいという気持ちは持っています。いわゆる向上心はあるということです。1歳ぐらいの達成感はあるということです。しかし、くつろぎ性の情緒が乏しくて、ゆったりと人とつきあい、人の気持ちにテキパキと応じることが困難と言えます。人とのつきあいでは、人の気持ちを理解したいというところまではあまり思いませんが、人が自分に好意を持っているのか悪意を持っているのかについては関心があります。いじめなどで悪意を示されたら、「なぜかわからないけれど、いじめられた」と考え、いじめられたくないと思います。いじめの原因までは追求しないけれど、いじめはやめてほしいと思います。

 

 アスペルガー症候群の子や人は、さらに踏み込んで、人の気持ちを理解したいと思います。人の気持ちがよくわからないけれど、何か人と自分がズレいるとやはりこれではいけないなと感じて、人の気持ちをわかりたいと思いますし、自分はなぜわからないのだろうと悩んだりします。

 

 アスペルガー症候群の子や人の中には、逆によくわからないのは自分でなく、人の方だと考える人がいます。そういう人の中には、自分なりの理論を振りかざして、人を屈服させようとする人もいます。人がわかってくれないと、わからない人の方が悪いのだと思ったりします。

 

 知的なレベルや生き方によって、人との関係は違って現われますが、どこか噛み合わないという点では共通しています。いずれにしても、くつろぎ性の情緒を感じるように心がけ、ゆったりした気持ちが深まってくれば、視野が広がり、人の立場に立って物が考えられるようになります。また、ゆったりと人のやることも受け入れられるようになります。知的には、高いレベルにあるにしても、やはり、情緒の発達が大切と言えます。

自閉症の療育で大切なこと

 今まで、情緒発達と自閉的な行動との関連について、説明してきました。自閉的な行動には、情緒の育ちが深く関係しているとご理解いただけたかと思います。まだ取り上げていない問題もありますが切りがないですので、ここらあたりで、話題を自閉症の子や人への働きかけの問題に移したいと思います。

 

 まず、情緒発達の評価について述べて、次に本格的に働きかけについて説明します。話題を変えるにあたって、大切な点について、まとめたいと思います。

 

 情緒は、脳の活性のあり方に関係しており、精神的活動全般に大きな影響力を持っています。情緒が乏しければ、脳は不活発な状態であり、情緒を伸ばすことをせずにいくら知的能力を伸ばそうとしてもうまくいきません。

 

 しかし、情緒が強く現われればいいかというとそうではなく、情緒がバランスよく現われ、かつ、日常的な経験と結びついていくことが大切です。情緒は、大きく3つのグループに分けることができます。つまり、情緒を引き出して、脳を活性化するにしても、偏った形で情緒を引き出しては、偏った脳の使い方しかできないことになってしまいます。しっかりと、3つの情緒の性質を理解することが大切です。

 

 1つは、「集中性の情緒」と言い、精神の集中と緊張を高めるのに役立ちます。しかし、この情緒が現われ過ぎると、視野が狭くなり、物事を広く見ることができなくなります。物事を部分的にしか見ることができなくなって、全体を統合して理解することができません。さらに、緊張を高め、心を固くする作用もあり、柔軟でゆとりある対応ができなくなります。そのために「こうでなければいけない」と言った融通の効かない考え方になりがちです。

 

 もう1つは、「高揚性の情緒」と言い、活発な活動を促がします。注意をアチコチに転換させたり、物事をテキパキと処理するのに役立つ情緒です。しかし、この情緒が現われ過ぎると、落ち着きのなさが目立ってきますし、1つのことに集中できないので、深く考えることができません。すぐにカッとしたりして行動のコントロールがうまく行かなくなります。

 

 最後の1つは、「くつろぎ性の情緒」と言い、ゆったりとした気持ちを促がします。期待通りのことが起こって「ああよかった」とリラックスして満足感を感じますから、物事の生起への興味を発展させます。また、満足感が安心感になり、親しい人との愛着関係を育てるのに役立ちます。さらに、ゆったりした中で、人とのやりとりを楽しみ、人からの学習を助けます。

 

 自閉症の子は、特に「くつろぎ性の情緒」が乏しいという問題がありますから、「くつろぎ性の情緒」を引き出すことが自閉症の療育で最も重要なことです。この最も重要なことが、残念ながら重視されていないのが現状です。

 

 自閉症の子は、「くつろぎ性の情緒」が乏しいということが最大の問題ですが、「集中性の情緒」も弱い、「高揚性の情緒」も弱いという子もいますから、他の情緒も育てなければいけないという場合もあります。自閉症の療育に関わる方は、情緒に焦点をあてて働きかけていただければと思います。

安藤則夫著 「スクスク子育て:情緒発達から見た自閉症」学苑社刊、定価2200円もお読みください。書店にてご注文してください。


 


 

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