休廃統合学校の軌跡 檜山にみる、ともしび消えた学校の、栄光のあしあと 檜山校長会 昭和62年3月発行 *平成14年12月檜山校長会許可(会長 赤泊慎児氏) 掲載申請檜山教育データーベース研究会 廃校統合学校の軌跡 熊石・大成町廃校 今金町廃校
上ノ国町立神明小・中学校 ・上ノ国町立湯ノ岱小学校上ノ沢分校上ノ国町立河北小学校 大安在分校 ・上ノ国町立若葉小学校・中学校 江差町立江差小学校五勝手分校(南が丘小の前身)
上ノ国町立神明小・中学校所在地 桧山郡上ノ国町字湯ノ岱355番地(通称神明ノ沢)
校 歌
作詞 鈴木常作 作助 林 喬木
(S31・2・20 制定)
- 1
- この美しき 山や丘
- 清き流れの 天ノ川
- 学びの心 そのままに
- 磨きあげなん 身と心
- 2
- 薫りも高い.すずらんの
- やさしき心 そのままに
- ともに愛みて 豊かなる
- 高き文化を うちたてん
- 3
- その名も等し 神明の
- 至誠の道を ひとすじに
- 勤めはげみて もろともに
- 豊かに築く 理想郷
1.沿革の概要
- 昭23・ 神明ノ沢及び膳棚ノ沢、両地域における開拓戸数の増加に伴い、就学児童数が漸増し、分教場設置気運も高まり、両地区より距離的に利便な該当地を、所有者 加賀谷理書氏 の好意により土地交換が成立し、総面積100848坪≒32675平方mの校地確保を完了す。
- 23・07・05 村立湯ノ岱小学校神明ノ沢分教場新築落成。(教室・廊下・玄関・便所 総計32坪) 同日 開校式挙行(児童数20名)
- 24・10・15 分校主任住宅工事完成(17坪)
- 25・08・31 独立校となり、神明ノ沢小学校と呼称す。(児童数45名)
- 26・07・17 物置設置(開拓住宅移転転用・9坪)完成。
- 28・07・14 神明小学校に校名変更す。
- 28・09・04 校舎増築工事着工し、12月7日落成す。総坪数36.5坪となる。
- 30・04・01 湯ノ岱中学校神明分校の併置が認可され入学式を挙行す。(入学生8名)当分の期間2〜3年は本校登校措置。
- 31・04・01 小学校2学級編成認可となる。同日、湯ノ岱中学校神明分校が昇格独立し、神明中学校と呼称、併置認可される。
- 31・09・22 中学校体育館落成。(27・5坪)
- 32・12・05 教員住宅1戸竣工。(125坪)
- 33・12・05 中学校校舎増築落成。(教室・廊下・玄関・職員室・教具室計48・5坪)
- 35・10・27 物置一角に発電室を設け、校内電化を実現す。
- 36・09・27 体育館増築工事完了。(8・25坪総面積35.75坪となる)
- 37・11・25 校下全域電化により、校内自家発電を廃止す。
- 39・04・01 小学校3学級、中学校2学級編成認可となるも、示達の遅滞により実編成に至らず。
- 39・04・12 教室間仕切りにより、小学校教室増とする。(出入口部分変更増設)
- 39・10・20 3号住宅完成。(12.5坪)
- 39・11・10 水道工事完成し、通水実現す0
- 40・07・10 4号住宅完成。(14坪)
- 40・12・10 校舎増築。(付校長住宅工事)
- 44・04・01 小・中学校各2学級編成。
- 46・09・01 教具室新設。(産体非常口改造)
- 46・10 ミルク給食開始。(宮越小完全給食実施に伴う必要備品転用)
- 47・04・10 江差町ほか2町学校給食セソター発足により完全給食実現。
- 47・07・21 水道施設工事着工。(8月7日 完成、電気ポンプ)
- 49・05・13 模疑自然林造成完了。(苗木、約50本・25品種)
- 49・09・26 グラソド整地。
- 51・06・09 グラソド整地。
- 52・03・27 閉校式典行事挙行。
- 51・03・31 湯ノ岱小、中学校に統合のため廃校となる。(小学較校歴 28年9ケ月) (中学校校歴22年0ケ月)
2.歴代学校長- 初代 渡辺 久書 s25・4・1〜28・4・30
- 二代 書田弥治兵衛 28・5・1〜31・3・31
- 三代 大竹 竹継 31・4・1〜32・3・31
- 四代 町田 秀歳 32・4・1〜40・3・31
- 五代 菅谷 勝二 40・4・1〜43・3・31
- 六代 松林 信男 43・4・1〜46・3・31
- 七代 湯浅 和登 46・4・1〜52・3・31
5.学級数・教員数・児童・生徒数の推移(1)神明小学校
4・特記すべき学校の顔(1)学校環境整備協力
- 学校地提供昭和23年、加賀谷理吉氏 の好意により約千坪を対等交換して取得。
- 有志の材料寄贈及びPTA奉仕により 野球用バックネット設置完成。 s43.8.19
- PTA奉仕作業として、校舎正面にオンコ(いちい)移植。 s47.4.20
- 屋外遊具として古タイヤ配置。 s47.5.23
- 父母奉仕によるグランド整地。周囲除草・花壇手入れ・除雪作業等々多彩。
(2)学校教育研究会等
- 昭47・02・09〜10 桧山単複研初日会場として授業公開す。
- 昭49・12・12 南桧山単複研会場校。
- 昭50・09・18 校内学習研究会開催。
(3)昭42・7・5 開校20周年記念式典挙行。
5・廃校・統合の経過昭和50年5月。町教委より統廃合に関わる問題が出され、学校側の意見というより『この問題について、今後どのように進めたらよいか』という基本的話し合いが始められた。 以来、年の瀬も押し詰まるまで、PTA役員会、部落懇談会等での懊悩の論議が続く。
51年の新春、通常であれば新年の祝い酒に紅顔も見られたであろうが、長期にわたる討議の末の廃校決定は、極めて悲愴な酒に変る。
子どもの将来のために、断陽の思いで閉校を決意した関係者一同の落胆を背に、事務的な手続きは進み、遠足・運動会・学芸会等々神明小中学校の灯が消されていく中で、閉校式準備委員会活動が細々と続き、昭和52年3月27日、小学生3名、中学生7名が最後の在校生として着席した閉校式典−やがて永久保存書類とともに湯ノ岱小・中学校へ引き継がれるのである。
全戸数28戸、住民70余人であった。通学バス運行条件も実現して−0
(第7代湯浅和登校長談 要約)
6.思い出
”神明音頭”に想う
”神明音頭″
第6代校長 松林信男
昭和46年4月着任。在籍数が下降線をたどる地域実態に、部落会や婦人会の話題で
「この地に、何か活性的なものを創り出し、活力をよみがえらせるものが欲しい」
との声が高まり、その熱情に刺激を受け、一つの策として、校下全域に根づく、”神明音頭”の創作にとりかかったものである。もとより、詩情感に疎い小生ではあるが、切実な部落活性化への願望が、即、神明校教育向上への絆でもあろうと、無我夢中で作詞に取り組んだものである。
この道の先輩に補作を願い、さらに足を伸ばし、音楽家でもある町役場勤務の笹浪甲衛氏を訪れ、作曲を懇願して完成をみたのである。
加えて、踊りの振り付けも本決まりとなり、和気藹々の中に、唄と踊りの猛練習が繰り返えされ、あの小さな体育館を会場に、上ノ国音楽愛好クラブ面々の伴奏で、盛大なI”神明音頭’’披露発表会が催されたのであった。
往時の区長さん、婦人会長さん、そして部落の皆さんと支え合った3年間でしたが、腹を割って過ごさせていただいた神明校時代が学校経営責任者として、大きな、大きな自信に結びつき得たものと、強烈な想い出をかみしめております。ありがとうございました。
同窓の皆さんのご隆昌を祈念し、とこしえに神明魂を堅持し、懐しき神明校の思い出を語り継がれんことを願ってやみません。
(湯ノ岱小首周年記念誌抜粋)
神明校の思い出第2回卒業生 伊藤 政利
昭和23年7月。当時3年生で、開校祝いにいただいた品は白木の鉛筆だったこと、ごちそうは、母さん方手づくりのおしるこで、その味は最高のもので、今でも忘れられません。
戦後の困乱期、家族の程を求め開拓地に入植したものの、連日が飢えに迫られる窮状が続くばかり。開拓農業の重労働は子どもながら肌身に感じておりましたが、家庭や地域の将来を考え、部落挙げての学校設置運動が実を結び、神明校草創の期を迎えた両親や部落住民の勧善はひとしおであり、心から先輩や父母に、その労苦を謝するものであります。
開校という、神明校区の文化や歴史を刻み始めたとき、初担任、野菊幸雄先生との出会い。当時、先生は24〜5才であられたろうか、やさしくて力持ち、足が速く、そして何でも知ってて、何でもできる『神様みたいな先生』でした。こんなこともありました。学芸会で使うオルガンを、男子9人と先生の10人で、湯ノ岱まで荷車を引いて、ようやく運んで来たのですが、なんと、返すときは、野菊先生一人で背負って戻して来たのです。それも、鉄橋のある線路を通って・・・・・まさに『神様みたいな先生』だったのです。
卒業の日、同級生4人に渡辺久書校長先生とキヌエ先生でお別れ会。白い紙袋の中には先生が用意してくれた塩セソペイとりんごが入っていたと記憶しているが、向かい合って座わったものの、お別れの言葉も出なく、ただ先生の手にすがって涙するばかりでした。 校長先生の
「お前達を手離したくない。中学校へ行っても負けずに頑張れ!」
との優しい一言 このことが、2里もある通学路を3年間通学できたと思います。朝は6時に家を出て、帰りはいつも6時過ぎであった。
「負けずに頑張れ」の意味は「自分に負けずに−」
の一言になりました。冬は腰までつかる雪をかきわけて
(湯ノ岱小百周年記念誌抜粋)
上ノ国町立湯ノ岱小学校上ノ沢分校 桧山郡上ノ国町字湯ノ岱(通称上ノ沢・・・かみのさわ)
校 歌 (制定 昭29・2・12) 作詞 工藤 誠作曲 林 喬木
- 一、
- 緑の夙に 夢のせて
- 七つが岳の 空はるか
- 理想は虹の 花と咲く
- 明るし楽し 学び家よ
- つとめ磨かん 知恵の目を
- 二、
- 朝霧かおる 天ノ川
- 稲田の里の 幸多く
- 歴史に映ゆる 胸の血を
- 量犬し清し 学び家よ
- きたえ励まん 鉄の身を
1.沿革の概要
- 昭32・12 敷地(沢谷富蔵氏所有地)取得にょり、校舎建築基礎工事開始するも、降 雪多量のため工事休止となる。
- 33・2 部落民の除雪作業と労力提供により工事再開す。
- 33・04・07 谷秋雄分校主任、本校において開校事務開始。
- 33・04・15 同主任、上ノ沢分校へ移転。
- 33・04・24 校舎落成・開校式典挙行。総工費137万6千円、(内国庫補助108万円) 校舎面積45.5坪(含住宅=常直室) 校舎敷地3反(900坪=2975.1平方m) 桧山支庁長鈴木書蔵氏外80余名列席。 記念学校備品として、経費より5万円を 充当す。(6割)
- 33・04・28 本日より授業開始。(1年2名、2年4名、3年4名、4年2名、5年2 名、6年3名、計17名)
- 33・05・06 桧山教育局指導主事新明謙治 氏学校訪問巡回指導のため初来校す。
- 33・05・15 桧山支庁拓殖課長横山忠光氏 部落施設視察を兼ね来訪される。
- 33・05・25 本校運動会に初参加す。
- 33・06・01 上ノ国開拓農業協同組合より落葉松苗50本の寄贈を受ける。
- 33・07・24 桧山教育局長青田市太郎氏及び随行員1名、学級編成実態調査のため来校す。(在籍数23名)
- 33・08 教員定数2名認可となる。
- 33・08・22 NHK僻地無灯地域学校向ラジオ受信機が寄贈され、函館放送局総務 部長久我喜一氏、教育局次長大島重一氏、 教育長中島勉氏等多数参列のもとに贈呈式が挙行される。
- 33・09・16 定員増認可により大浅裕章教諭(新卒)発令される。(21日着任)
- 33・11・03 本校において学芸会開催出演す。
- 34・02・03 道内僻地学校視察桧山対象校 に挙げられ、教育庁菅原茂学校教育課指導主事外、教育局新明謙治・薄木達郎両 指導主事及び中島勉教育長の訪問を受ける。
- 34・02 昭和33年10月1日付をもって、僻地2級の指定となる。
- 34・03・20 本校において、昭和33年度卒 業式並びに修業式が挙行され、職員・児童全員参列す0分校卒業生3名である。
- 34・04 分校単独のPTA組織をもたないため、湯ノ岱PTA予算小学校配分で分校充当分としての枠づけがなされた。
- 34・04・01 入学及び始業式が本校で挙行される。(分校入学生5名)
- 34・06・26 鼻外運動場整地工事始まる0予算5万円、ブルドーザー稼動25時間。
- 34・07・30 桧山管内単複研が奥尻村松江小学校において催され「生活指導の実情」 と題して谷教諭発表す。
- 34・08・04 宿願の公衆電話架設工事始まり、17日より正式使用可能となる。(湯ノ岱24番電々公社委託公衆電話)
- 34・09・03 教員住宅、僻地集会室新設にかかわる町長及び教育長への陳情活動す。
- 34・09・12 上ノ国村議会議長福原章雄氏外村会議員一行視察のため来校。これを 機会に、上記陳情事項の説明と早期実現方の強い要望を懇請する。
- 34・10・21 学校敷地実測されるも、旧所 有者との見解に相違があり境界未確認。
- 34・11・13 薄木達郎指導主事、学校巡回 訪問のため来校。
- 35・01・25 谷主任、部落有志代表とともに町長及び教育長を訪れ、住宅・集会場 新設の再陳情を行う。
- 35・03・20 34年度卒修業式本校において挙行。(分校卒業生2名)
- 35・04・01 北海道人事委員会告示第15号により、僻地級2級の指定を受ける。
- 35・04・01 本校において入学式・始業式が挙行される。(分校入学生2名)
- 35・04・18 湯ノ岱校PTA第2・3支部を統合し、上ノ沢支部の組織強化を図る。
- 35・05・08 植樹す。
- 35・05・14 植樹実施。
- 35・09・11 婦人会員により、校舎南側に(桜24本、梅5本)PTA第2支部員の校庭周囲(落葉松600本)PTA上ノ沢支部会員の協力 により、ブラソコ及び三連鉄棒施設す。
- 35・09・15 僻地指定校実態調査のため、本庁施設課長外尉係者4名乗校。
- 36・02・09 35年度指導主事学校巡回訪問のため長田雄太郎先生来校す。
- 36・03・20 35年度卒・修業式が本校で挙行される。(分校卒業生3名)
- 36・04・01 本校にて入学式挙行。(分校入学生5名)
- 36・04・09 宿直室拡張及び水飲場新設工事始まり、5月川日完成す。(宿直室3・5坪拡張・水飲場2坪新設)
- 36・11・29 村教育委員一行、視察のため 来校す。集会場及び物置新設を陳情す。
- 36・12・22 念願の職員住宅(ユ2坪)と発電室(2坪)の新設実現す。
- 36・12・29 校舎内及相宅の配線工事完了し、自家発電による点灯実現す。
- 37・02・12 分校区代鍋が、独立校昇格ならびに中学校併置を教育長に陳情す。
- 37・03・20 本校において卒・修業式挙行される。(分校卒業生4名)
- 37・04・02 本校において入学式挙式。(分校入学生なし)
- 37・04・12 斉藤実害教諭、北桧山町立若松小学校より着任す。
- 37・05・05 大津教諭、奥尻村立育苗小学校藻内分校に赴任す。
- 37・07・23 桧山南部方面単級複式教育研究集会を、当分校を会場として開催。
- 37・11・16 上ノ沢地区にも送電工事が進み、分校専朋家発電施設機具類不用となる。
- 38・02・19 就学前(5・6才児)、幼児対象の学級を、週2回開設す。
- 38・03・20 本校において卒・修業式挙行(分校卒業生4名)
- 38・04・01 本校において入学式挙行。(分校入学生4名)
- 38・04・08 斉藤東喜教諭、今金町立∧束小学校へ転軌出発。
- 38・05・02 本年度配置教員1名と決まる。
- 38・11・05 湯ノ岱PTAよりピアノ購入 基金47・200円の寄付採納を村当局に願いヤマハ堅型ピアノ(飴健)免税価格15万円で納品される。
- 39・03・21 本校において卒・修業式挙行。(分校卒業生5名)
- 39・04・01 基準改正により、教貞配置2名となる。(註在創6名以上に該当)
- 39・04・23 教室を間仕切り、2教室確保。
- 39・05・05 国庫補助による僻地校向け16インチ型テレビ受像機設置す。
- 39・08・02 宿直用風呂場及び物置各3坪新設される。
- 39・08・22 欠員中の教員配置で、山口県より内山多敏教諭着任す。
- 39・12・20 開拓地予算に付随して、学校及び職員住宅に簡易水道敷設される。
- 40・03・25 本校において卒・修業式挙行(分校卒業生5名)
- 40・04・01 内山多敏教諭、定員減により村立滝沢中学校へ転勤
- 40・04・06 本校において入学式並びに始業式挙行。(分校入学生1名)
- 41・03・25 本校において、卒・修業式挙行0(分校卒業生1名)
- 41・04・01 基準改正により、単級校は分校も2名の教員配置となる。
- 41・04・05 福島町立岩部小学校より 藤田 藤太郎教諭着任する。
- 41・04・06 本校こおいて、入学・始業式挙行。(分校入学生2名)
- 42・03・24 本校において、卒・修業式挙行。(分校卒業生2名)
- 42・04・04 分校主任谷秋雄教諭、江差町立日明小学校へ転勤発令となる。 藤田藤太郎教諭、分校主任に任命される。
- 42・04・10 瀬棚町立瀬棚小学校より石田敬教諭着任す。
- 43・03・31 上ノ沢分校廃校となり、本校に統合される。
- 43・04・01 分校廃校により、藤田藤太郎 教諭は、町立若葉小学校に、また、石田 敬教諭は、本校勤務となる。
- 43・04・08 本日より2日間、分校備品の一切を本校へ搬入し、分校廃校の処理を完了す。
- 43・6 校舎解体作業がなされ、分校歴10ヶ年、31名の卒業生を送り出した開拓地の小さな学校も、万感の思いを交錯させながら、その灯は完全に消える。
2.歴代分校主任- 初代 谷 秋 雄 S33・4・1〜42・3・31
- 二代 藤田藤太郎 S42・4・1〜43・3・31
湯ノ岱小学校の分校として、分校区住民の旺盛な教育熱に支えられ、単級・複式校の最 悪条件を克服しての分校経営であった。
4.学級数・教員数・児童数の推移
5.廃校・統合の経過
当地域の児童は、湯ノ岱小学校に通学していたが、最速距離の児童で約6血の行程があり、登・下校に要する時間と疲労度は、当地方特有の気象の悪条件と重複して、危険を伴う実態と、家業手伝い等のため出席率の低調 さや、学力低下の児童が増加する傾向など、憂慮される点が多くなった。
これらを解消するために、30戸の父母が立ち上がり、私塾新設の考慮もなされる一方、学校設置推進運動と敷地寄進の申し出などあり、遂に上ノ沢地区、沢谷富蔵氏所有地に、住宅一宿直室を含む45.5坪の校舎と学校敷地 3反(900坪≒2975.1のが確保された。
以来10年間、湯ノ岱小学校上ノ沢分校とし て、その磯能を果たしていたが、離農者の増 加や児童の激減により、廃校・本校統合に踏 み切らざるを得なかったものである。
廃校・統合の一つの条件として、通学用自転車の支給がなされたが、やがて通学児童皆無となり現在に至っている。
かつての分校区も、今では老人宅2戸あるだけで、校地跡の識別も困難となっているが、本誌発刊を機会に道標建立を具体化しているところである。
所在地 桧山郡上ノ国町字大安在697
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昭和
学級数 1学級
教員数(主任)1名 関根喜雄
学校長 吉田由太郎
分校は小森、滝沢桂岡より開拓のため昭和?年より入植山林を伐採、薪木炭を生産し、 昭和37年頃より酪農を併せて大安在を開拓に 当った。然し伐採後は酪農する開拓者は、わずか3戸位しかなく乳牛も10頭余、地形も山頂では海抜330mもあり、冬は早く春はおそいため飼料の草トウキビ等も思うように収獲も出来ず乳牛を熊にころされた農家もあり、加えて将来的に牛乳の澱送も年間を通して不可能なため離農する農家もふえ、昭和41年をもって全農家は離農せざるをえない状況となつた。 入植農家 8戸 分校児童数18名
入植農家は大安在に点在し遠い家は分校より2.5kmあり、分校の位置は本校より約10km、上ノ国町教育委員会より13.2kmあり、飲み水は山頂にあっても沢の水が湧き尾田宅より水道が引かれ年間を通して水には不自由したことはない。電灯は風力発電(充電式)、電話はなく無線交信、郵便・新聞は5月〜12月の間は3日おきで開拓の人がもって来てくれた。
1月から4月一杯は雪のため思うように通行出来ず不定期便になった。
昭和41年3月末までは、承知しているがその後については不明。
大安在の山は春夏秋冬と四季にわたり想い出が沢山ある。春は毎日のように吹雪いた雪も一日毎にやわらぎ近くの小川の水も雪どけ水が少しずつ増す頃、黄色い花をつけた「ブイ」が水面に鮮かに咲く山菜のはしりと言っていゝだろう。
それを取って来ておひたしにしたり味噌汁にして食べた。やがて雪も消える5月初句〜中旬にかけて筍が出はじめる根曲り竹の上にのぼって、はじきとばされキャーキャーワーワーと言った。
声がまだ耳の底に残っている。そして沢に入ると子供の背丈より大きい「フキ」をスポッ、スパッと音を立てながら切るとザーザーと「フキ」から水が出る。そして夏に近くなる頃、「きのこ狩り」シメジやポリポリが白く又赤く大地を染めている。
石油缶や段ボール箱を背おって行くとわずか一時間足らずで一杯になる。この頃山には霧が深くなり一瞬のうち立ちこめる霧、文字通り一寸先が見えなくなる。外を歩くと100mも歩かないうちに衣服がビショぬれになる。そして又一瞬のうちに晴れあがって太陽が暴く照る。
山の風は年間強く10m平均だと言われている。風車のプロペラの音がシュッ、シュッと音を立てている。20爪以上になると自動的に制動がかゝりプロペラがおそく回る。
秋になるとこれ又「きのこ狩」、ムキダケ、ナメコが山一面に顔を出す。ムキダケは口当りもよく大変美味である。月夜ダケと間違うことがあるので素人は取らない方がよい。
当時はよく故伊藤教育長や飯田先生が石油缶を背おって3・4人で取りに来た。一度奥の山へ3人でムキダケを取りに行った折、道に迷って真暗になるまでさまよい歩き開拓の人達を心配させたことがある。やがて山に雪が降る11月中旬をすぎると、すっかり寒くなり人影も殆んどなくなる。山に食べ物がなくなる9月下旬になると熊がさわぎ出しトウキビ畑を荒しはじめる。そして住宅の窓の下までやって来て、うなり声を立てる。
熊もホラ穴に入る頃、山に残る2戸は下界と交通が出来るうちに、食べ物を山に上げ、春から育てた豚一頭を2軒で分け足のエダを石炭小屋に吊り下げておくと、すっかりしばれて春先まで保存できる。尾田さんの家で畑を作っているので白菜、キャベツ、人参、いも等は自給自足である。それに大豆をつけているので植物性蛋白源と称して「トウフ」を2斗樽一杯作って冬中食べた。
正月近くになるともう積雪が2m以上にもなり、教室の窓も吹きだまりで真暗になる。1月、2月は最低気温が一25度〜30度になる。家中の壁は朝になるとキラキラ光り、手でさわるとザラザラと氷が落ちる。寝ているフトンの襟から足もとまで氷でキラキラ光っている。
次に無線交信であるが特に冬は交信状態が悪くなる。 暖かいときは校庭の丘に出るとよく交信出来るが、冬は裏山の上まで(分校から約100m)上らないと交信がうまく出来ない。それでもやっと聞える位、吹雪の日には生きた心地がしない。毎日本校と正午に交信するのであるが、たまたま呼び出しても応答がない。本校の先生が交信を忘れたのである。すると翌日、校長さんか教頭さんが出て
「オーイ生きてたか?一昨日は忘れたジャー」
である。そんな状態が12月〜3月末まで続くとやがて又春が訪ずれ、お山の大将の季節が来るのであった。
今思い出すと実に楽しいことばかりあったと思う。あの寒い冬のことや、熊が窓下まで来た危険なことは余り実感が湧いて来ない。今でも尾田さん一家と逢うと大安在の山の生活のことで何時間も花を咲かせている。想い出はまだまだ続くが、紙に限度があるので筆をおくことにする。
私の人生でよい経験であり、よい想い出でもある。
所在地 桧山郡上ノ国町字早川
国鉄上ノ国駅より日本海沿いに南下し、ほば2馳の地点に石崎漁港がある。その地から石崎川に沿って山間に入ることおよそ6kmの地に、マンガン鉱採掘を主とする中外鉱業上国鉱業所がある。この鉱業所の存在によって形成された集落が、この早川地区であり、この地に根を張る若葉小中学校の特色は、鉱業所の盛衰と運命を共にするところにある。
児童・生徒数の増減は、まさに会社栄枯の軌跡にほかならない。在学児童・生徒の親は、95%まで、上国鉱業所及びその関連企業に従事し、生活様式や文化的水準・話題等についても較差が少ない。土地は狭隘で、平担地に乏しく、耕地などほとんど見られず、野菜を含め、日常生活必需品を商店購入することは、農・漁村と趣を異にし、地域住民思考を都市型にする。また、退職後は別の利便地へ移転して、住居を構えるケースがほとんどで、老後永住する人がいないため、郷土意識は、他の町村と比べ育ち難い傾向にある。
これらのことは、若葉小中学校を大きく特色づけ、合同運動会を初め、学校の諸活動と会社との絆は、特に深いものがある。
また、児童・生徒の学習観、地域住民の学校へ寄せる要望と期待は、学校教育活動の質を向上させ、学力・運動、更に日常生活面に於ても、優れた子弟が多い。
殊に、女子バスケットボール都の戦績は、近隣を初め、多くの大会で優勝し、檜山管内代表として、二度も全道大会出場の栄誉に沿した。
PTAを中心とした地域住民の学校への協力体制は、際立つものがある。更に、家庭教育学級での学び合い、学校開放事業への意欲的な参加等、学校教育推進に大きく貢献した。
当地は、古くからマンガン鉱を主とする鉱山地区で、複数の鉱業所により良質の鉱石を産出していた。鉱山に従事する子弟の教育は、早川小学校分校が、その任を担っていた。
戦後、マンガンの需要も減少し、事業縮小状況を呈したが、朝鮮動乱を機に鉄鋼業界の復興とともに再び活況を取りもどし躍進した。
鉱山は、中外鉱業上国鉱業所に統合され、昭和25年、地域住民の増加と相侯って、若葉小学校・中学校として独立した。爾来37有余年、上国鉱業所の盛衰と共に歴史を刻み今日に至った。 昭和61年5月ここ平穏な地に突如、思いもよらぬ悲観が舞い込んだ。上国鉱業閉山の知らせである。国際為替市場での円高.非鉄・貴金属市況の低迷による業績悪化によるものである。会社及びその関連企業従業員は、転職・離村と、運命の激変に遭遇し、児童・生徒の減少は、時間の問題となった。
会社盛況時は、494名の児童・生徒を誇った若葉校も、昭和62年2月、全校児童・生徒数8名と痩せ細り、昭和62年3月31日をもって学校を閉鎖するに至り、創立以来幾多の業績を刻み続けた若葉小学校・若葉中学校の輝かしい歴史に終止符を打った。
若葉中1年 布 谷 英 史
ほくの住んでいる上ノ国町字早川は、中外と呼ばれています。ここは、山々に囲まれて、 一年中良い景色が見られます。春は、木や草の黄緑色の芽がとてもきれいです。冬の間、雪景色だけ見て過ごした者にとっては、なおきれいに見えます。
夏は、山々の濃い緑、冬は、白一色の銀世界と、あきることはありません。中外は、こじんまりと整っていて、車もあまり通らない、静かなところです。中外の人は、たいてい萌みしりです。だから、親しみを持って挨拶をかわします。ぼくは、とてもすきです。
ぼくの通っている学校は、4月に、児童・生徒合わせて、34人いましたが、今は、14人しかいません。ぼくのクラスは、ぼく1人だけになりました。都会の学校では、考えられないことです。
ぼくたちの学校では、小学校1年生から、中学校3年まで、みんなでやる全校集会や、炊事遠足など、都会の学校では味わえない、楽しいことが、いっぱいあります。それだけに、この学校から転校して行かなければならないことは、とてもつらいことです。
中外という地名は、どこからきたのでしょうか。それは、中外鉱山の名前からきたのです。この鉱山は、マンガンの鉱山では日本一です。そのためでしょうか、いつからとなくこの地は、早川という地名なのに、中外・中外と呼ばれてきたのです。ぼくは、この名がとても好きです。
それなのに、ぼくたちは、この鉱山とお別れする時が来てしまったのです。それは、この中外鉱山が、急激な円高によって閉山という、ものすごく大変なことが、おこってしまったからです。
そのため、中外では、もう働く所がなくなってしまったのです。中外の人は、仕事がみっかると、この地を去って行きます。もう、中外から去って行った人も、たくさんいます。ぼくは、この地を出たくありません。いろいろな思い出があるからです。
小さい頃、広場や川で遊んだこと、幼稚園でのこと、小学生の頃のことなど、色々な思い出のある中外を出たくありません。みんなも同じだと思います。でも、運命なら仕方がありません。だから、別の所へ行っても、勉強やスポーツを一生懸命やって、早くそこの生活に慣れたいと思います。そのためには、努力が一層必要になると思っています。
所在地 江差町字柏町 五勝手分校(昭和32年)
- 明治13年 6月 五明尋常小学校(五勝手分校の前身)開校
- 明治32年 4月 茂尻尋常小学校五勝手分教場となる。
- 昭和11年 5月 江差尋常高等小学校五勝手分校となる。
- 昭和16年 4月 江差国民学校五勝手分校となる。
- 昭和22年10月 江差小学校五勝手分校となる。
- 昭和33年 6月 五勝手分校を廃止、南が丘小学校として創立
2 歴 代 校 長・ 五明小学校時代のみ
- 中 之直 M13.6〜 M13.6
- 西川 善三 M13.6〜 M15.7
- 上野 又次郎 M15.
- 得丸 迅熊 M16.
- 秋山 正三 M17.8〜 M17.10
- 須田 守業 M17.10
- 千葉 叔太郎 M18.2〜 M18.6
- 村山 彦次郎 M18.6〜 M20.5
- 桑畠 流信 M20、6〜 M44.
- 高橋 伊之助 M44. 〜 T2. 2
学級数・教員数・児童数の推移
年 学級教 教員数 児童数 学年
「学校日誌」より
茂尻尋常小学校五勝手分教場時代
T04.11.25 橋本校長出張セラル 下記ノ訓示ヲナサル
消火訓練(分校舎に注水)昭和32年
五勝手分校の子等 旧職員 村田甚歳
私が江差小学校五勝手分校に赴任したのは、昭和30年7月1日である。その当時の職員は、猫の大好きな小笠原主任、若さと美貌を誇る渡辺先生、柔道を自慢するが柔道着を着たのを見せない加藤先生、一本のネクタイで入学式から卒業式まですべてを間に合わす、短足の村田先生の4人の構成である。
教室が3室で教室の真中を通らなければ職員室には行けない。3坪半に4つの机が置かれ、座る順番がくるえば全員が起立して定位置におさまる始末。そんな中にも人間的なふれ合いが不便さをはねとばし、学校という雰囲気をつくりだすための語らいが真剣に行われ、各教室は競うようにして、教室らしく、学校らしくと努力したことが昨日のように思えます。
恒例の学芸会は、本校である江差小学校と合同で行うが通例であった。舞台に上がれは、普段のわんぱくぶりがどこへやら、声が出てこない。苦肉の策で音楽を開いて動作をすれば、観客に理解されるといういわば無言の劇を出し物にして面目を保ったことが何年も続いていたのである。誰れのための学芸会か、子供等の心の中に残るものは何であったか、そこには生き生きとしたよろこびはなかったのである。
「子供の心の中まで僻地にするな!」
が、4人の合言葉になって始まったのが音楽教育である。オルガン1台、レコード2枚が最大の備品であったが、カスタネット、トライアングル、木琴等々。本校の物置からもらいうけ、一人一役の音楽授業がスタートした。ようやっとお母さんやお父さん方にほしいという願いが、子供等の雰囲気から伺えるようになったころに、全道僻地音楽コンクール参加への呼びかけがあった。
1、2、3年生の子供たちが土、日を返上で 一心不乱の練習が何か月も続いた。コンクールは録音審査であり、NHKと印されたマイクが 何本も据えられた。奏者以上に指揮者の鼓動の大きかったことを覚えている。しばらくして結果が知らされた。全道5校の中に入ったことを話すと、子供たちは口々に
「先生よかったね!」
と労をねぎらってくれた。まったく逆の状況になったのである。子供たちの音楽演奏につられて父兄の間にも演奏グループができ、親子演奏会が行われる一週間前ごろからは、夕食後の家庭から親子で演奏する木琴や笛の音が聞こえ、ほのぼのとしたあったかさが感じられた。
ふり仮名付の大きな楽譜から、教科書の音譜を読むようになったころには、リズム感もでき、簡易楽器は一通りこなせるようになった。こんなことからできあがったのが鼓笛隊である。PTAの絶大な支援によって、大太鼓、小太鼓、 シンバル、ベルリラを整備したが、大太鼓の奏者は、太鼓に手足をつけたような様態で前方視界ゼロ、ベルリラの重みで歩行不可能といった新しい課題を克服するためにしばしの時間を要した。
学芸会での五勝手分校の音楽演奏は定評があった。それにも増して本校の生徒と対等に学芸会に参加した満足感と、
「やればできるんだ」
という自信が、音楽を通して会得したことは何ものにも勝る大きな収穫であったと自負している。(s30〜34勤務)『しおかぜ』より転載。
学芸会器楽演奏(昭和31年)
「ノミ シラミノ 」「紛ミルク」そして「DDT」
卒業生 石塚紀雄
南小の前身その名は江差小学校五勝手分校という。教室が2つに分校長住宅づき、先生2人の小さな学校、当時は小高い丘の上といって良いと思う校庭から浜が一望に見渡すことができたし、鴎島がそして眼下に柏森神社があり、裏手を一日2回位の真黒い汽車が通る。そんな恵まれた環境(当時としては)の分校に昭和20年入学した。
分校長は江差の名物先生で五勝手の村長さん的存在だ。小さな体で小さな顔、小さな日であまり大きな声を出さない。いつもニコニコ顔でコチョコチョと歩く姿を今なつかしく思い出す。又先生は大変いたずら好きで子供たちによくヌーボーとした顔でいたずらしたものである。もう一人は女の先生で五勝手のお寺の娘であった。眼鏡をかけたやさしくて厳しい先生であった。
終戦後、進駐軍がいた時代、物資が不足していたので、今のような学校給食はあろうはずもなく、学校に入って初めて紛ミルクが与えられた。脱脂粉乳で今にして思えば大変まずい飲物であるが、当時は喜々として飲んだものである。
子どもながらいやだったのは、DDTを注入?されるときだ。上級生の当番が下級生をずらりならべて一人ずつ注入する。両手をひろげ左右の袖口から始め喉元、襟首、そしてお尻、バンドをゆるめて前から、で終り忙なり毎日続くのである。何せノミやシラミがうようよいた時代である。これも又分校3年間のなつかしい思い出である。 (『しおかぜ』より転載)
<参考文献>
南が丘小学校開校二十周年記念誌、『しおかぜ』昭和53年10月15日発行