加治木町の島津義弘ゆかりの史跡


加治木島津屋形跡 (加治木町)
屋形跡に建立された護国神社
欄干橋は屋形南側の濠に架けられた橋で
現在は護国神社境内へ移築されている。



精矛神社
(くわしほこ 神社)
(加治木町)
この神社は島津氏17代義弘を祀っている
明治2年、終焉の地に神社を造営し、神号の精矛厳健雄命
(クワシホコイズタケヲノミコト)から精矛神社とした。
その後、大正7年(1918)10月1日、没後300年当たり、
現在地にあらたに造営遷座した。
朝鮮出兵のおり朝鮮から持ち帰った石臼、船の重り
として積まれた


青雲舎の練習風景 (精矛神社境内にて)
島津義弘への殉教
実窓寺川原 (加治木町木田楠園)
昔、この付近は網掛川の本流が流れちかくに実窓寺という寺があったので実窓寺川原とよばれる。
かって、元和5年(1619)8月16日島津義弘公の亡骸を鹿児島の島津本家の墓所である福昌寺に
送るため、加治木を出発する時刻を期して、かねて殉死を誓った同志7名が割腹自刃した。
当時、義弘の三男家久が当主を継いでいて、殉死を固く禁じていたので、切腹した同志のお家は
取りくずされますが、13年後名誉が回復されて、義弘の位牌が安置された伊集院の妙円寺に改めて
墓が建立された。
(加治木町教育委員会の資料)
(姶良町義弘ゆかりの史跡探訪資料)
後藤塚
(加治木町湯湾岳麓)


(山路後藤兵衛種清の墓)
後藤塚は島津義弘の亡骸が加治木を出発する
元和5年(1619)8月16日の実窓寺川原で殉死
することを約束した8人の中の一人山路種清です。
その日、朝から殉死のことを聞いて近所の人々が別れの
挨拶にやってくると相手をして、少し時間があったので、
その間畑仕事をして約束の場所実窓寺川原へ向かいました。
帖佐から加治木に向かう途中、湯湾岳麓まで来たとき、
実窓寺川原ですでに殉死したと聞き、それでは自分はここで切腹しようと周りの人に傍らの石を指さして「これを
墓石にしてくれ、さきの世で主君や同志の方に追いつく
ことが出来たら、この石が三つに割れるだろう」と言い残して切腹しました。
その墓石が現在3つに割れた状態で残っています。
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じつそうじ
慶長12年(1607) 今の加治木高校、柁城小学校
一帯に屋形を造って平松城から移り住み、元和5年
(1619) 85歳で薨去するまでの12年間加治木で
仁政を施した。
息子の家久も隠居後に加治木城へ住んだため
大規模な改修が行われたとかんがえられる。
野太刃自顕流青雲舎道場
かって武道をはじめ、算術、蘭学等を講じた島津久なる公
の創設された私塾。
今の時代に即した青少年教育を目指し、美しい心 強い心
正しい心 三つの心を理念に揚げ活動し、近隣の小学生を
はじめ、多くの仲間が稽古、修練に励んでいる。
本堂
鳥居