カトマンズの友達
■スンダールさんが彼の生地のドウリケル村を案内してくれた。彼は友達の宿屋を訪ね、二人は写真に納まった。彼の友達から私は蜂蜜を無理やり分けてもらった。

 1995年1月6日、私はスンダールさんの好意でオートバイに揺られて、ネパール滞在の最終日を満喫した。スンダールさんは香港からの飛行機で隣り合わせになり、友達になった人だ。
 カトマンズにある彼の家は、鉄筋コンクリート構造四階建てであった。四階が入り口になっていて、そこからの眺めも格別であった。隣に台所があり、天に近い最上階に台所を設けるのが、ネパールの特徴らしい。彼が飛行機の中で、家の説明をしたので、私は「ぜひ、拝見したい」と言ったら快く承諾し、訪問が実現したのだ。
 奥さんは不在で、お手伝いさんが料理したカリフラワー入りのカレーをご馳走になり、午後1時ごろ、彼の故郷のドゥリケルを目指した。
 15世紀ごろ、カトマンズ盆地にはマツラ王朝の三つの王国が並立し、カトマンズ、パタン、バクタプルがその首都であった。カトマンズから十五キロのバクタプルに立ち寄った。壊れかけた煉瓦積みの家並みを抜けると、焼き物が並べられている広場の一角にでた。私はオートバイを止めてもらい、少女からしょく台を買った。素朴な素焼きで、ネパールをほうふつさせる。
 ドゥリケルに着くやいなや、彼は友達の宿屋を訪ねた。階下は食堂になっており、村人たちが談笑していた。そこで、卵や蜂蜜をたっぷり使ったケーキを食べた。宿屋の主人と彼は昔馴染みの、気心知れた仲のようであった。会話が一段落すると、ヒマラヤが眺望できる小高い展望台へ連れて行ってくれた。山並みは見えなかったが、彼は「毎日、この眺めを見ながら育った」と語った。
 村の中心に行く。何人かのすれ違う若者は、彼に挨拶をしたり、傍らに近づいて、電話番号を聞いたりする。彼はカトマンズで手広く商売をする成功者で、カトマンズに出た時に、彼と連絡をとるらしい。
 彼の生家は空き家だった。道端のむしろには、米や豆があった。紙飛行機が舞い下りて来た。彼は親戚の家に入って行った。私も彼の後ろについて行く。暗闇のなか、手探りで狭い階段を上ると、道路に面した部屋に突き当たる。彼は叔母さんにひざまずいて挨拶し、子供たちにあめをあげていた。
 宿屋で私は蜂蜜を無理やり分けてもらった。彼と主人は、肩を抱きあって写真に納まった。彼も久しぶりの訪問で、満足げに見えた。
 夕闇が迫り、肌寒くなった。彼のオートバイはカトマンズへ疾走した。でこぼこ道を通過する時には体が浮き上がったが、必死に彼の上着を握っていた。
 彼の家に戻ったのは、午後7時ごろだった。家族で出迎えてくれ、八歳の長男は人懐っこく、私にまとわりついていた。私はこの子に将来の夢を聞いた。彼は軍人になりたいと答えた。ポカラからチトワン国立公園に向かう時に、軍事教練のために停車させられたことを思い出した。南米を旅行中にも、軍人がレストランから出て行く時に、丁重に扱われている光景を、何度か見たことがある。
 翌朝、彼は私を空港まで見送ってくれた。彼が案内したスワヤンプナート寺院の置物を土産に持たした。旅先で世話になり、空港で別れる時ほど、辛いことはない。涙が出て、感謝の気持ちを十分に言えないで、別れてしまった。
 ネパール旅行中に、何人かの若者に私の日本の住所を尋ねられた。日本に行って、働きたいと切望している。この国を2週間しか旅行していないが、その気持ちは痛いほどわかる。多くの貧困者や失業者を見かけた。
 山岳国家で観光に依存し、文盲率が65パーセントのこの国が、彼の息子が軍人になるころにも、貧困や失業からは脱却できないだろうと思う。私のまぶたに焼きついている、笑顔の素晴らしさだけは、いつまでも変わらないでいてほしい。

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