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1997年8月18日、私はキリマンジャロから下山し、午後2時ころにタンザニアのモシにあるYMCAに戻った。
疲れをいやすために、町の中ほどにある国営のコーヒー店に出かけた。有名なキリマンジャロコーヒーを、現地で飲むのも今回の旅行目的のひとつであった。
モシはコーヒーの集散地である。その店のコーヒーは茶こしでこしてあり、たっぷりのミルクと砂糖が混じったコーヒーが、カップいっぱいに注がれて、私の前に出された。
世界のコーヒーの生産地は、赤道を境にして南北23度の緯度内、標高千メートルから五千メートルの高地で栽培されている。
店の中の客の大半は手持ちぶたさのようで、黙って腰かけていた。私はコーヒー豆が欲しかったが、店にはインスタントしかおいていなかった。
バスターミナルの一角にある床屋で頭を刈った。去年、南アフリカの床屋で見かけたのと同じ髪型の写真が、店の壁に貼ってあった。従業員はその中のどれがいいのか尋ねたが、店員の好きなように刈ってもらった。
マーケットの中をぶらついていたら、日本人が果物を買っていたので、話しかけた。稲作指導のためにJlCA(国際協力事業団)から派遣された鯉渕さんだった。
この町には4人の指導員が生活し、その家族も含めて40人の日本人がいる。彼は水戸の出身で、日本には息子さんを残し、奥さんと一緒だそうだ。
私は現地の果物をよく食べる。タンザニアには種類がないので質問すると、今年は百年来の大雨にたたられ、バナナの出荷量も少なく、値段も高いと説明した。
登山の話になったとき鯉渕さんは、日本人の若い女性が昨年、高山病で亡くなったと言った。私は何も知らなかったが、無事に下山出来て、今さらながら嬉しかった。
コーヒー豆を売っている場所を、彼は快く車で案内してくれた。最初の店は裏通りに面した、入り口の奥にある食料品店だった。彼が普段利用している店で、外部からは店があるようには見えなかった。
二番目に訪れた店は目抜き通りを外れたコーヒーショップで、隣に土産もの店もあった。ショーウインドーにはコーヒー豆もおかれ、外国人観光客が店先でお茶を飲んでいた。
私は大通りを歩いてコーヒー豆を探したが、見つからないので諦めていた。コーヒーで有名な町なのに、店がないのが不思議であった。
コーヒーはこの国の輸出額の四分の一以上を占め、外貨獲得の主要品目になっていて、そのために町では見かけないようだ。
私は鯉渕さんの好意に感謝して、店の前で別れた。彼は仕事が早く終わった時には、YMCAのプールに泳ぎに行くので、「あなたの名刺を宿屋の受付に預けておいてくれるように」と言った。
私はその通りに宿屋の受付に、鯉渕さんへの伝言をおいた。私は残っていたお汁粉、即席味噌汁も同封して、彼へのプレゼントとした。
二日後、私がコーヒーの包みを持って宿屋からバスターミナルに向かっていると、「マサキ」という現地の青年が手助けしてくれた。偶然にも彼はJlCAに勤務、鯉渕さんを知っていた。
コーヒーの名前には、国名のコロンビア、コスタリカ、グアテマラや、積み出し港の名前で呼ばれているブラジルのサントス、エチオピアのモカがある。山の名前を冠したのはジャマイカのブルーマウンテンとタンザニアのキリマンジャロだけである。
私がキリマンジャロコーヒーを飲む時は、登山時の苦労に思いをはせるだろう。タンザニアは国連最貧国だが、町には乞食も見かけず、人々の身なりもきちんとしていた。ケニアよりもフレンドリーな人が多く、また旅行したいと思う。
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