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1995年11月1日午後11時ごろ、私は香港啓徳空港に降り立った。
香港へは、1980年に妹夫婦とツァーで訪れ、私の最初の海外旅行だった。それがきっかけで私は海外旅行の病みつきになった。今回は、その後の15年間の移り変わりに興味があった。自分流の旅行をやってみようと思って、出かけた。
到着時間が遅いので、日本から格安のホテルへ予約の電話を入れておいた。6日間の旅行費用は、航空運賃を除いて四万円に抑えようとした。五カ所へ尋ねた中で、一番安いホテルは一泊六千円であった。
私は、せいぜい一泊二千円ぐらいと目論んでいた。南米旅行で知り合った友達へ相談した。九竜の目抜き通りにある「重慶マンション」を教えてくれた。一階は土産もの店で、二階以上は、あまたの宿屋が寄り合い所帯の老朽化した建物だという。電話をすると「一泊三千円」と言うので、すぐさま予約をしたのだ。
空港から乗り合いバスに乗った。宿屋の前で下車すると、多くの客引きが近づいて来た。女主人が私の名前を呼んだので、その後ろについていく。エレベーターはゴトゴトと音を立てて、十三階に止まった。迷路の中をくぐり抜け、入り口でフィリピン女性が迎えてくれた。
真夜中なのに、隣家の話し声や、食器を洗う音が時おり聞こえてきた。上下階からも床を歩く音がひびいてくる。聞きしにまさる劣悪な住環境だ。
翌日、女主人は他の部屋に案内した。部屋は狭かったが、小奇麗に手入れされていて、気に入った。廊下と部屋の鍵を渡した。治安も十分なので安心する。
宿屋を出て、朝食に出かけた。裏通りの「上海一品香菜館」という大衆食堂に入った。甘い豆乳と、蒸したもち米の中に、ザーサイやでんぶなどを詰め込んだものを注文した。上海での一般的な朝食スタイルらしい。 翌々日は地下鉄に乗って、旺角にある「運通泰酒楼」に飲茶を食べに行った。午前7時なのに、にぎやかだった。丸テーブルに私を案内した給仕は、お茶の種類を尋ねた。ボーレイ茶、ウーロン茶、ロンジン茶、ジャスミン茶と迷ってしまう。
香港の町なかには、飲茶のレストランや、おかゆを提供する「粥麺専家」と呼ばれる食堂が、早朝から営業し、そこで食事をして仕事に出かける人が多い。
私は飲茶を食べながら香港人を観察した。私の相向かいの人はお茶ばかりお代わりをしていた。新聞を読んだり、携帯電話で仕事の打ち合わせをしている人もいる。仲むつまじく談笑しながら食事をしている若いカップルが気になった。
香港に滞在して、中国のシンチェン経済特区や、ポルトガル領マカオに日帰り旅行をした。97年の香港返還をにらんで、事務所やホテルの建設ラッシュの状況を見た。
最後の日に、香港島の中環の香港公園にある「旧三軍司令官邸」を見に行った。1846年に建築されて、香港の初期の近代建築である。結婚式を終えた新郎新婦が、その建物を背景に写真を撮っていた。
どうして写真を撮るのか、そこに居合わせた親子連れに私は聞いた。眼下の林立する高層建築や、旧三軍司令官邸の前で記念写真に納まるのが、流行とのことである。
夕闇の公園を去った。スタチュースクェアを通ると、すずめのさえずりのようなフィリピン女性たちの話し声が、こだましていた。休日ごとに仲間同士が集まって来て情報交換する有名な光景だ。彼女たちは出稼ぎで、住み込みのお手伝いさんとして働いていて、香港経済の底辺を支えている。
1997年7月1日、香港は中国に返還される。そうしたら、また来てみよう。最近、中国語の勉強を始めた。その時には、もっと身近な香港に接することができると思う。
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