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1946年12月19日、フランスがホーチミンを攻撃し、インドシナ戦争が始まった。
73年3月29日、南ベトナムに駐留していたアメリカ部隊が撤退、75年4月29日、ホーチミンが陥落し、ベトナム戦争は終焉した。
2002年1月5日から三日間、ホーチミンのファンダーラオ通りの安宿「ベティ」に泊まった。取り仕切っていたのは夫婦だけの居心地のよい宿屋であった。
一階入り口にはソファーがあり、フサフサした白毛の高級そうな犬がたむろしていた。私が出入りしている時、その片隅で奥さんがパソコン画面を眺めていた。
私の部屋は吹き抜けの回り階段を上った四階にあり、壁にはパリの凱旋門の写真が掛かっていた。ベッド脇の台にも高さ十センチぐらいの凱旋門のミニチュアが置いてあった。
外出する時に、年老いたフランス人がソファーに腰かけていたので、フランス語で私は挨拶をした。その光景を見ていた宿の主人は、フランス語が話せるのかというような目つきをした。
簡単な会話しか出来ないが、主人の仕草は私を優越感に浸させた。この国の人はフランスに対しての憧れのような気持ちを持ち合わせているのではないかとも、思った。
午前九時半ごろに宿を出て、ベンタン市場、統一会堂、戦争証跡博物館、サイゴン大教会、中央郵便局、コンチネンタルホテル、ホーチミン市民劇場と順番にフランス建築探訪をした。
その中で中央郵便局の建物は秀逸であった。フランス植民地時代の十九世紀末に建築され、鉄骨むき出しのアーチ状の高い天井は、パリの駅舎を連想させた。奥の正面の壁には大きなホーチミンの額入り写真が飾ってあった。
町なかの喫茶店は店前の歩道に椅子を出して、全部の椅子が車道に向けられていた。往来の車の流れを借景にしてのアイデアは滑稽であった。
パリの街角の喫茶店も道路に椅子やテーブルを出して営業している。パリで私はそこに腰かけて、一日じゅう往来する人たちを眺めていた。
日本に帰国する直前に宿屋の隣の店でコーヒーを飲んだ。カップが湯の中に浸り、一人分の漉し器に載ったまま出された。
ベトナムコーヒーの知名度はないが、ブラジルに次ぐ世界二番目の生産量を誇る。ラオス国境の山岳地帯で生産され、主にロブスタ種である。私はたっぷりの砂糖と練乳を入れて飲んだが、美味かった。
その時にその店でフランスパンを注文した。ベトナムでは街角の屋台のパン屋をよく見かけて、朝食はこれですませている人も多い。
そのパンを空港の待合室でほおばったが、パン生地はカリカリしていて、食べ甲斐があった。チキンの具の外に香菜のみじん切りも彩りを添えていた。
私は大衆食堂で魚の煮付け、厚揚げをおかずにご飯を食べていた。もう少し早くコーヒーやパンに気がついて、食べればよかったと後悔した。
フランスのパンはバターが塗られ、チーズやハムがはさまれているだけなので、ベトナムで独自に進化したものだ。
私は日本で公開されているべトナム映画はよく見る。「パパイアの香り」「夏至」といい、映像表現はフランス映画と似ていて、洗練されている。
中部の商業港ホイアンで民俗舞踊のショーを見た。それはインド、中国、タイの文化が融合されたような踊り方であった。
日本が幕末であったころの1862二年、フランスはベトナムと協定を結び、それ以後フランス文化が芽生えたのだろう。
食堂に入って代金を払う時に、最初に言った値段は無視されて余計に払わされたりして、私にとってはこの国の印象は悪い。
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