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1994年5月1日、私はアルゼンチンのバリローチェに滞在していた。ブエノスアイレスから南西千七百キロ。湖畔に広がった町並みは、山小屋風になっていて「南米のスイス」と、言われている。南米大陸の南緯40度から南は、パタゴニアと呼ばれる。この名前はスペイン語で「巨大な足」を意味する「パタゴン」からきていて、この町からパタゴニアは始まる。
チリから国境を越えて来たが、長距離バスの乗客のほとんどはアルゼンチンに出稼ぎに行くチリ人だった。南米でも富める国へ労働者が流れている様子を見て、日本の現実と交錯した。家族を残して働きに行くとはどういうことか考えさせられた。
中央広場の一角にパタゴニア博物館があった。パタゴニアに生息する動物の剥製が展示してあったが、私は紀元前二万年ごろの遺跡の説明に関心を持った。
博物館から戻ると、湖面に西日が反射してまぶしく、窓のカーテンを閉めた。続きの2部屋を備えた広いスペースで、すこぶる快適な気分になった。ご飯、鮭缶、味噌汁、振りかけ、梅干しで夕食をとり、時差ボケのために眠くなって、電灯をつけたまま寝入った。日本とは12時間の時差があり、現地に到着してから元に戻るには1週間ぐらいかかる。
翌朝、私は蒸気機関車に乗るツァーに参加した。40人ほどを乗せたバスは、4時間かけて始発駅を目指した。途中、停車した村は魅力的であった。朝もやのの中に煙が棚引き、私の足は村の中へ吸い込まれて行った。建物は下見板を横張りした粗末な造りで、庭先には放し飼いにされたアヒルやにわとりがのんびりと駆けずり回っていた。人影はなく、西部劇に出て来るようで、いつまでも心に残る原風景であった。
何台かの観光バスが始発駅に集結して来ていた。人々は懐かしさに心弾ませているようであった。駅といっても名前ばかりで、屋根はなく、プラットホームがあるだけであった。隅の方には朽ちた貨車が停車し、週に1回だけ使用しているようであった。試運転している機関車に近づくと、突然、蒸気を吹き上げ、私は全身に黒い水滴を浴びてしまった。
午前11時に機関車は動き出し、2時間かけて終着駅に向かった。2連の機関車が年代物の木製の客車を引っ張っていた。雄大なアルゼンチンの大平原の真ん中を、一直線に息を切らしながら走る。時おり野生馬も機関車とカケッコをしたりと、退屈するヒマもない。遠くのアンデス山脈と平行する機関車は白煙を舞い上げ、その煙跡が綿菓子のように弧を描いて、紺碧の空に消えて行った。
私は勧められて参加したツァーだったが、トンネルに入ると、黒煙が窓から入って来て往生したが、中学時代に利用した蒸気機関車を思い出した。
私の向かいには、アルゼンチン人のご老体が腰かけていた。彼は、帽子、上着、ズボンと皮製品を着込んでいて、暖かそうだった。客車にはストーブがともっていたが、私は寒さのために屈み込んでいた。彼は、始発駅で私に「こちらの席に来い」と誘ってくれた。彼は4日前に奥さんを亡くし、ひとりで参加したと言っていた。
あっと言う間に終着駅に滑り込み、待っていたバスで、午後8時ごろに町に着いた。ご老体は別れる時に、親愛の情を込めて抱きついてきた。一日だけの出会いで、お互いの名前も尋ねなかったが、気持ちが通じたようであった。気重の彼も、このツァーに参加していくらかいえたかもしれない。彼と一緒にいる時はどんな話題を話したらいいのかと迷っていた。もし、自分自身がそういう立場だったらと、反芻していた。
見知らぬ土地で、偶然に参加したツァーの満足感と、私の彼への悲しみを思う気持ちがまざりあい、パタゴニアの希有な大自然の中に溶け込んでしまった。
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