魏列伝か行

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何晏 賈く 楽進 郭憲 郭脩 夏侯威 夏侯淵 夏侯恵 夏侯玄 夏侯衡 夏侯尚 夏侯惇 夏侯覇 夏侯楙 夏侯廉 夏侯和 毋丘倹 邯鄲淳 韓浩 管寧 桓範

許允 許ちょ

厳象

孔桂 公孫淵 公孫康 公孫さん 公孫度 国淵 胡昭



何晏(カアン)?〜249

字は平叔。南陽宛の人。母の尹氏が曹操の夫人であったから魏の宮廷内で育った。 白粉を手からはなさず、歩くときその影をも気にしたという風流人であるが、服装を太子に似せるなど、他人をはばからぬところもあった。 そのため文帝に憎まれ、明帝には浮華の士として退けられ、名声ほどには重用されなかった。 曹爽司馬懿と権力を争うにおよび、累進して尚書となり、選挙に多く知人をあげた。 曹爽と結び、典農部屯田をはじめ、官有物を勝手に使って華美な生活をしたといわれるが、屯田をめぐる司馬氏との争いがその背景にあるらしい。 彼は建安文学の風潮のなかで貴族的な生活を楽しみ、富貴に溺れたと批評されているが、その人物、思想に関しては古くから論議の的となった。 彼の事績を紹介した〈魏略〉は批判的立場であるが、清朝考証学者は、それは曹爽、何ケの獄に由来するもので、正当さを欠いているという。 老荘の言を好み、夏侯玄等と交わり、万物が無なる道を根本とすることを説いた〈無為論〉、聖人観を組織化した〈無名論〉は現在に伝わっているが、思想の基調は、儒教の道や聖人を老荘的に理解したものであるから、その思想は儒教の体系の内にあるといっていいだろう。 〈論語集解〉の編集中心者。司馬懿により殺された。

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賈く(カク)147〜223

武威・姑臧の人。字は文和。若い時、彼を認める者はいなかったが、唯一漢陽の閻忠だけは彼を「張良、陳平のような奇略がある」と評価したという。 孝廉に選ばれ郎になったが、病のために役人を辞め、郷里に帰る途中に、てい族の叛民と出くわし、同行の数十人とともに捕らえられたが、当時の国境警備の指揮官の名前を借りててい族を脅し、彼一人だけ生きて帰れたということがあった。
董卓が洛陽に入り権力を確立すると、董卓の娘婿牛輔の参謀役を務めていた。 董卓が長安で呂布に殺されたとき、牛輔もまた死んでしまったので、李かく・張済・郭らは軍を解散させ涼州に帰ることを考えたが、賈くの長安攻撃の提案にのり、呂布を破り長安を攻略した。 その後荊州の張繍に仕え、曹操との戦いで追撃戦を指揮して戦術の読みの深さを見せたりもした。 官渡の戦いを前にして、袁紹から張繍に自陣営への参加を呼びかけられた時、張繍を説得してこれを断り、曹操陣営参加へと張繍を導いた。 曹操はこのことを大いに喜び、賈くを執金吾・都亭侯・冀州牧に任じた。 官渡の戦いの時、袁紹軍に包囲され、兵糧が底をついたとき、曹操に決断を促すことによって勝利への切掛けを与えた。 その後も曹操とともに従軍し功績をあげていったが、曹丕曹植を巡る後継者問題以後、賈くは曹操から疑惑を持たれることを恐れ、朝廷から退いてひっそりと暮らすようになった。 曹丕が即位すると太尉に任ぜられ、魏寿郷侯に封ぜられた。

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郭脩(カクシュウ)生没年不明

字は孝先。姜維によって捕えられ蜀へ連行された。 途中漢寿において宴会が催されたときに、の大将軍費いを斬り殺した。 その功績により、長楽郷侯を追封し、領邑千戸を与え、威侯とおくりなされた。

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楽進(ガクシン)

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夏侯淵(カコウエン)?〜219

夏侯惇の従弟。沛国の人。字は妙才。諡は愍侯。曹操と同郷で、挙兵当時から従い、官渡の戦いや黄巾の攻略に従った。 なかでも河西の諸てい羌の討伐に功があり、曹操は異民族に対する脅しに夏侯淵を利用した。 枹罕・宋建が河首平漢王と称して涼州で兵を挙げたのを平らげ、張魯を漢中に討ち、また巴郡を平定して、征西将軍に任ぜられた。 劉備との戦いで戦死した。妻は曹操の妹。 その子夏侯衡の妻は曹操の弟海陽哀侯の娘。

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夏侯玄(カコウゲン)209〜254

夏侯淵の従子夏侯尚の子。字は太初。20才で散騎侍郎となったが、のち羽林監に左遷された。 正始(240〜249)のはじめ曹爽が政治を補佐したが、夏侯玄は曹操の姑(父の姉妹)の子であったから、再び散騎常侍、中護軍に累進し、諸制度の改易を論じた。 のち征西将軍仮節都督雍涼州諸軍事となり、曹爽とともに駱谷の役(蜀との戦)をおこした。 249〔正始10〕年曹爽が殺されたのち、夏侯玄は大鴻臚太常となったが、中書令李豊、光禄大夫張緝らと共謀して大将軍司馬懿を殺し、政権を握ろうとしたが事が発覚し、夏侯玄らは東市で斬られ三族が殺された。

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夏侯惇(カコウトン)?〜220

沛国の人。字は元譲。諡は忠侯。前漢高祖の功臣夏侯嬰の子孫だといっている。 曹操が挙兵した当時から従って各地を転戦し、呂布や孫権との戦いに功があり、郡の太守や将軍を歴任したが、戦陣においても師を招いて教えをこい、また陳留・済陰太守の時代には、みずから土を運んで太寿水をせきとめ、灌漑のための池を作って民に稲作を奨励した。 文帝が即位すると、功によって大将軍に任ぜられたが、曹操のあとを追うように数ヶ月で没した。 曹操は娘を夏侯惇の子夏侯楙に与えた。清河公主という。

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毋丘倹(カンキュウケン)?〜255

河東・聞喜の人。字は仲恭。毋丘の姓は〈晋書〉音義により「ぶきゅう」と読むのが正しい。
父の爵を継ぎ平原侯文学となった。明帝に信任され、尚書郎から洛陽典農を経て荊州刺史にすすんだ。 237(景初1)年遼東平定のため幽州刺史となり、度遼将軍使持節護烏丸校尉の官を加えられた。 毋丘倹は幽州の軍および烏丸、鮮卑の兵を率いて遼随に駐屯して、烏丸族の招撫につとめ、一方、公孫淵の軍と対したが、出水のため引き揚げた。 翌年、司馬懿を主将として再征し、蓋平を陥落せしめ公孫淵を滅ぼした。 功により安邑侯にすすめられた。正始年間(240〜249)に高句麗が侵入してきたので、244(正始5)年毋丘倹は、歩騎2万を率いて玄菟軍治を出発し、沸流川で高句麗の東川王憂位居(位宮)を破り、その王都丸都城を陥れた。 翌年再征し王は遠くへと逃げ去ったので、玄菟郡太守王きを遣わし、その軍は沃沮を縦断して、間島にいたった。 毋丘倹は帰途紀功碑を丸都の山に建てたが、その断片は1906年板石嶺で発見され、史実を裏づけた。 のち。鎮東将軍となり、呉軍と戦ったが、255(正元2)年司馬師斉王芳を廃した罪を口実に兵を挙げ、寿春に拠った。しかしこと破れて横死した。

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邯鄲淳(カンタンジュン)生没年不明

穎川の人。一名竺。 字は子叔、子淑。後漢の献帝初平(190〜193)年間に荊州へ行ったが劉表が没して(208〔建安13〕年)、荊州は曹操に帰した。 ときに曹操は、かねてから彼の名声を聞いていたので召見し、その人物に敬意をはらった。 たまたま曹植も彼を求めたので、曹操は彼を曹植のところへ紹介して仕えさせた。 魏の文帝の黄初の初め(220〔黄初元〕年)博士給事中となった。 彼は博学でもっとも古文に詳しく、各体の書に巧みであった。 曹喜に学んで篆書をよくし、隷書では王次仲の法を学んで、梁鵠に次ぐ名家として知られている。
著述には〈芸経〉1巻、〈笑林〉1巻があり、なお遺文の若干は〈全三国志〉に集録されている。

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管寧(カンネイ)162〜245

北海・朱虚の人。字は幼安。 16才で父を失い、華きんらと交遊し、他国に学んだ。 そのころ世は乱れ、公孫度が遼東に拠ると遼東に逃れ、山間に住んで多くの避難民に詩書を講じ、彼らを感化した。 曹操が広く独行の士を挙用したとき、司徒の華きんは管寧を推薦した。 文帝明帝も太中大夫として管寧を召したが彼は固辞し、のち公車をもって召されたが、たまたま没した。

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許ちょ(キョチョ)生没年不明

しょうの人。字は仲康。諡は壮侯。 後漢末の争乱にさいし、奇略によって敵を破ったため、淮水中流域地方で武名を轟かした。 のち手勢を率いて曹操に帰順したが、曹操はその勇力が前漢の樊かいのようだといって、常に側近にはべらせた。 馬超を潼関に討ったときには、身をもって曹操の危機を救い、ついに馬超を破った。 その功によって武衛中郎将に任ぜられたが、これが武衛という名の初めてである。 軍中の人々は彼の力が虎のように猛々しく、しかもおろかだというので虎癡と呼んだという。 文帝明帝の時代にも武衛将軍として重んぜられた。

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孔桂(コウケイ)生没年不明

字は叔林、天水の人。 建安の初め、楊秋の使者として度々曹操とあっていたため、曹操は上表して孔桂を騎都尉に任命した。 孔桂はこびへつらって人の機嫌をとる性格で、賭け事や蹴鞠が上手だったので曹操に気に入られ、いつも曹操のそばにいて、外出などの供をしていた。 220〔黄初元〕年、西域からの賄賂を受取り、人事問題の便宜をはかったことが発覚し、逮捕尋問の後、殺された。

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公孫淵(コウソンエン)?〜238

公孫度の孫。 227年叔父公孫恭の位を奪い、魏の明帝が即位すると、揚烈将軍、遼東太守に任ぜられた。 公孫淵は孫権と通じ、孫権は張弥、許晏らを遣わして金玉珍宝を送り、公孫淵を燕王とした。 しかし、公孫淵は孫権が遠くて頼みにならず、また金銭によって味方に引き入れようとしたことに怒り、使者を斬ってその首を魏に送った。 明帝は、公孫淵を大司馬とし、楽浪公に封じ、従来のように遼東郡をも治めさせたが、魏の使者に対する公孫淵の態度が恭順でなかったため、237年魏は幽州刺史かん丘倹をつっかわして公孫淵を召させた。 ここで公孫淵は兵を挙げてかん丘倹の軍を遼隧に迎え撃ち、かん丘倹の軍を破った。 公孫淵は燕王を称し、百官をおき、年号を紹漢と定め、鮮卑に使者を送って単于の称号を与えた。 しかし、鮮卑は北方に侵入し、そのうえ238〔景初2〕年春、魏は太尉司馬懿をつかわして公孫淵征討の軍を起こさせ、軍は遼東に到着した。 公孫淵は将軍卑衍、楊祚らに数万騎を率いて遼隧にこれを迎撃させたが敗れ、襄平城も囲まれて公孫淵父子は首を斬られた。 祖父公孫度以来3代50年に渡って遼東に勢力をふるった公孫氏も滅びた。

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公孫康(コウソンコウ)?〜221

公孫度の子。204〔建安9〕年に父の跡を継ぐ。 207〔建安12〕年曹操が三都烏丸を征服し柳城をほふると、袁尚らは遼東に逃れたが、公孫康はこれを斬ってその首を曹操に送り、襄平侯に封ぜられ、左将軍となった。 まもなく公孫康は死んだが、その子公孫晃、公孫淵がともに幼少であったため、人々は公孫康の弟公孫恭をたてて遼東太守とした。文帝の即位後、公孫恭は車騎将軍、平郭侯となり、公孫康は大司馬を追贈された。 しかし、公孫恭は病弱で国を治めることができず、228年公孫淵のために位を奪われた。

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公孫さん(コウソンサン)?〜199

遼西・令支の人。字は伯珪。中平(184〜189)年間に張純は烏丸の乱を平定して降虜将軍となった。 幽州牧劉虞と不和で、ことごとく対立していた。191〔初平2〕年黄巾の余賊と黒山の賊の合流した軍を破って奮武将軍となった。 ついで劉虞を討って幽州を得て、北支で袁紹と公孫さんとは2大勢力として対立した。 198〔建安3〕年袁紹は軍を出して公孫さんを攻め、これを囲んだので、公孫さんは敗れることを知り、翌年妻子を殺して自害した。

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公孫度(コウソンド)?〜204

遼東・襄平の人。字は升済。 父公孫延が玄菟郡に隠棲していたため郡吏となり、太守に愛されて学問を受け、有道にあげられて尚書郎となった。 のち冀州刺史にすすみ、免ぜられたが、董卓の中郎将除栄の推薦により遼東太守となった。 前に郡の小役人であったため郡民に軽んぜられたが、属国公孫昭や大豪百余家を滅ぼし、東は高句麗、西は烏丸を討って国外にまで威勢を轟かせた。 190年支那内部の動乱に乗じ、柳毅、楊儀らと挙兵したが、たまたま襄平の延里社から大石が出たので、王となるべき祥兆であるとして、もとの河西太守李敏の一族を滅ぼし、遼東を二分して遼西、中遼郡とし、太守をおき、海を越えて東莱の諸県を手中に入れて営州刺史をおき、自立して遼東侯、平州牧と称し、また漢の祖廟を襄平城の南に建て、天地を祭り、兵力を整えた。 曹操より武威将軍に任ぜられ、永寧郷侯に封ぜられたが、まもなく没した。子の公孫康と公孫恭があとを継いだ。

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