ニユーマン文書   top map8  余話 

ニユーマン文書

1942年2月25日に日本軍がシンガポール要塞を攻略・占領しました。そのとき、英軍の高射砲陣地の塵芥焼却場で、陸軍の秋本中佐は偶然にも手書きの焼け残りノートを発見したのです。
電気機器に関る重大なものらしいと判断し、電気担当の塩見文作技術少佐に渡し、塩見少佐の解読により、英軍が最も秘匿する電波兵器の一部に関る内容であると判断し、そのノートを英文タイプおよび写真撮影して「ニユーマン文書」と名付け、電波兵器の開発者に配布しました。
このノートは英軍のレーダー技士であるニューマン伍長が英本国で研修を受けた時のメモ書きで、ニューマン伍長は系統的に電波技術を習得した技術者ではなかったので、記述は断片的で判読は困難でしたが、その記述内容で特に、「YAGI array」というものがあり、「Yagi」という意味不明の記号が頻繁に出現し、その記号の意味がどうしても理解できませんでした。
品川の捕虜収容所に収容されていたニューマン伍長に岡本正彦少佐が「YAGI array」や「Yagi」について質問したところ「Yagiアンテナ」で、「Yagi」とはその発明者の名前で日本人であることを聞き出しました。
「Yagi」とは東京工業大学学長八木秀次のことでした。
八木アンテナの発明は日本では評価されずに、外国で高く評価されレーダー等に使用されていたのです。詳細は八木・宇田アンテナの数奇な歴史を参照してください
日本の軍部はドイツのドップラー博士が発明した「ドップラー効果」を利用したレーダー研究が進められ、この方法は極超短波を使用し、物体からの反射波と送信波の到達時間の差や周波数の差からその物体の高度や距離、飛行速度を測定しようとするもので、使用する波長が短いほど精度が高く、ここでは極超短波の波長20cm波を使用することが決定され研究が推進されていました。
しかし、1942年2月2日、日本軍がシンガポールを占領した際、英国軍の近距離レーダーの資料が発見され、それによると日本軍が開発を進めていたドップラー方式によるレーダーではなく、英国軍は原理的に単純な実戦に『インパルス方式』(レーダーの歴史参照)のレーダー(波長150cm)を使用していることが判明し、急遽、この資料を基にしたレーダーを開発し、戦争の末期にようやく国内の防衛陣地に配備しましたが成果を挙げることなく終戦になってしまいました。

ニユーマン文書の和訳は小池勇二郎らにより行われ「SLC 理論」との標題を付けた小冊子もあったと伝えられますが、これらは終戦直後に処分され「幻のニューマン文書」として語り継がれていましたが、1988年1月26日八木の後輩である佐藤源貞によって、元塩見文作技術少佐が所蔵しているのを発見し当時話題になりました。発見の経緯は電気学会・技術史研究会などで発表され、
NHKテレビで「日本の電波開発の軌跡」とし紹介もされました。
この文書は英文タイプにして57頁ほどの小冊子で、内容は英軍のS.L.C.型レーダーに関るもので、塩見文作によって長く保存されていましたが、その後、佐藤源貞上智大学名誉教授(元東北大学助教授)に譲渡され、佐藤利三郎東北大学名誉教授を経て、東北大学史料館に寄贈されています。


佐藤源貞は米国を訪問したとき広島・長崎に投下された原子爆弾にも、爆発高度の決定のために八木アンテナが装着されていたということを知り、驚きと、複雑な思いに。

これと似たような話はアメリカの情報部員がドイツのロケット科学者にロケットの発明者は誰かと尋ねたら、米国の「Robert Goddard」と聞いて驚いた、真のロケットの発明者「Robert Goddard」の名前はほとんど知られていませんでした。 技術開発を指導する人々にとって、この話は決して忘れてはならない歴史上の事実でしょう。