北畠氏

北畠氏は村上天皇の皇子具平親王の子、師房が源姓を与えられて、それから七代目の通親の子4人が4家にわかれ、通具が堀川氏、通光が久我氏、定通が土御門氏、通方が中院氏にわかれました、その道方の子の雅家が京都上京の「北畠」に住んだことから北畠と名乗るようになったそうで、現代の京都市上京区の京都御所の北東部といわれています、そのご師親、師重、親房(ちかふさ)と代がつづき、時は鎌倉末期、親房は後醍醐天皇に厚く用いられ、建武中興の立役者となり、その後、南北朝に分かれた時には南朝側につき、北朝の足利尊氏と対決する、また「神皇正統記」の著者でもあり、南朝の正統を天下に宣言し後に深い影響を与えました、嫡子の顕家(1318〜1338)は陸奥守となり東国にでむき南朝の中心となるも、建武5年(1338)石津の戦いで戦死する(弱冠21歳)、親房の三男、顕能が伊勢国司に任命され、一志郡多気に城を構える、山城で霧山城(570)に築城して多気御所、北畠御所とも呼ばれていた、南朝護持のため戦い、後醍醐天皇、後村上天皇、長慶天皇に仕える、以後顕能の子供が代々伊勢国司を継ぎ、北畠氏の嫡流となる、その勢力は広く南伊勢、大和の宇陀郡さらに志摩、熊野の方まで広がっていたそうです、 その後伊勢国司の顕能から顕泰、満雄、教具、政郷、材親、晴具、具教の代に至る、1569年(元禄12年)、全国統一をめざした織田信長の軍の侵攻をうけることとなり、多気の霧山城から大河内城に主力を移して、織田軍の5万とも言われる大軍に50日にわたり戦う、短期決戦で知られる織田軍に対し徹底抗戦の結果、武力制圧を諦めた信長は信雄を北畠の養子に入れることで和議を結ぶ、信雄に家督を譲り隠居するも翌年、信長に従った旧臣により攻められ亡くなる、 伊勢国司として八代300年余りつづいた北畠氏が滅亡することになる、まさにこの地域は北畠氏の栄枯盛衰のなかで創られてきたと思われます。  明和九年(1772)本居宣長が吉野の桜を見ての帰り(菅笠日記)に北畠ハ幡宮に詣で家臣であった先祖のことを想い、去りしものの美しさ、ものの哀れを深く感じられたのではないかと思われます。

大河内城跡

300年余つづいた北畠時代の最後の地となった大河内城跡、木々に囲まれて静かな時が流れていますが、秋には紅葉で鮮やかな色に染まり、つわものどもを称えているようです。

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北畠氏館跡庭園

昭和11年9月に国の名勝及史跡の指定を受ける、天正4年の落城から400余年たっているも武将の製作した庭園らしく、堅牢で豪放であり野性的ななかに苔が護岸の石に生えたりして、歴史と風雪に耐えた重みが感じられます。

北畠神社横より登ること約40分、霧山城跡にたどり着きました、標高570mと高い所に築かれていたようで、緑濃き山波に建っていた天守閣はさぞかし立派な姿であったことと思われます。

霧山城跡からの眺め、山波は美しくあるも戦国時代を生き抜く、厳しさも感じられ、すぐ近くでは雉と出会うことができました。

霧山城跡

霧山城跡からの眺望

北畠神社

北畠顕家公

親房の長子、陸奥守

鳥居をくぐり橋を渡り左に行くと霧山城跡への登口があります。

大河内城への地図

住所ー 松阪市大河内字城山。

鉄道ーJR、近鉄松阪駅下車、バス飯南行にて大河内下車8分。

車 −伊勢道松阪インター下車県道59号丹生寺より国道166号線大河内小学校前の信号付近から西連寺    へ駐車場あり無料。

北畠神社、霧山城への地図

住所ー 郵便番号515−3312  一志郡美杉村上多気

鉄道ー JR名松線、伊勢ヶ原駅より村営バス、丹生俣行、40分北畠神社前下車。

車 ー 伊勢自動車道久居インターより国道165号線、県道 久居 美杉線径由60分

問い合わせ先  北畠神社 電話059−275−0615