1999.10
堀辰雄のページ
  (C) R.MOTOKAWA 1999

「風立ちぬ」から見る生と死


1.はじめに
この論文は、私の卒論のストーリボードである。  ただいま、これをベースに卒論を制作中である。
私が堀辰雄の「風立ちぬ」を知ったのは、18歳の大学受験勉強中、病気で倒れたとき である。  それまで抱いていた目標を諦めざるを得なかった悔しさで、病気を受け入れることができなかった。
私には婚約者・節子が言った「私、なんだか急に生きたくなったのね。あなたのお陰で・・・。」 という言葉に惹かれ、副題とも言えるような”風立ちぬ、いざ生きめやも”とはどんな意味を持つのだろうと 思い、この作品をとおして生と死について考えてみたいと思っていた。
しかし私は度重なる入院生活に疲れてしまい諦めてしまってた。わずかな経験から人間には”生きよう”という 気持ちが何よりも大切であることが分かってきた。
今改めて堀辰雄の作品から生と死(主に生きること)について考えてみたい。



2.堀辰雄について
堀辰雄は、1904年(明治37年)東京に生まれ向島で育った。堀にとって重要 な年は1923年(大正12年)で、数学者を目指していたが、萩原朔太郎の「青猫」 を読んだことがきっかけになり、文学の道へ進むことになる。夏には室生犀星を訪ね 初めて軽井沢へ行った。9月の関東大震災では母親を亡くした。以後、犀星を通じて 芥川龍之介と出会う。冬のはじめ胸を患ってから昭和28年に亡くなるまで病とつきあいながら 昭和5年「聖家族」(「改造」に発表)、昭和8年「美しい村」(同)などを書き続けた。



3.「風立ちぬ」について
「風立ちぬ」は自ら病みつつもより病状の重い婚約者に付き添ってサナトリウムに入った数ヶ月 の経験をふまえ書かれた作品である。
婚約者・節子のモデルが堀の婚約者矢野綾子である。 昭和8年堀は矢野綾子を知る。翌9年9月婚約、更に10年7月二人で富士見高原療養所に入院するが、 12月6日綾子は死去した。堀は昭和11年「風立ちぬ」の執筆を始めた。

昭和11年12月 「風立ちぬ」(のち「序曲」「風立ちぬ」)を「改造」に発表。
  「山中雑記」(のち「鎮魂曲」)を「文芸懇話会」に発表する。
  「風立ちぬ」の終章を書こうとして冬越ししたが、書けなかった。
昭和12年 1月 「冬」を「文芸春秋」に発表。
昭和12年 4月 「婚約」(のち「春日」)を「新女苑」に発表。
昭和12年年末 「死のかげの谷」を脱稿。
昭和13年 3月 「死のかげの谷」を「新潮」に発表。


以上が「風立ちぬ」が完成するまでの大きな流れであるが、これらの作品の中から生と死に関わる言動を抜き出して 読んでいく。
例えば、”皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているようなこの生の愉しさ”とある。 ”行き止まり”とは病気になって死がつきまとうようなことであろう。普通なら「ああもうダメなんだ」と思うのを逆手にとっている。 このような発想は、堀自身同じ肺結核を患い死と向き合わざるを得ない状況から生まれたものだろう。
死と向き合うと言っても、様々な葛藤との闘いであろう。闘い向き合うことも口で言うほど容易いものではないと思う。 それゆえ堀はどのような心(精神)を持ち続けていたのかを探求したい。



4.軽井沢について
堀は東京の下町で育っているが、半生を軽井沢(追分)で過ごした。作品の舞台にも 取り上げている。
現在も軽井沢といえば別荘地、観光地として有名だが遡ること明治21年に避暑のため の別荘が2戸建てられ、軽井沢駅の営業開始以来、駅の周辺に新しい集落新軽井沢ができた。これをきっかけに明治28年 信越線が開通した。
さらに明治30年軽井沢合同教会(ユニオン・チャーチ)が創立され、外国人避暑客の超教派的合同教会になる。
明治41年外国人との社交と運動の組織のちの軽井沢避暑団が設けられたりした。

堀がはじめて軽井沢に来たのは大正12年の夏。親友の神西清宛の手紙にこうある。「一日中彷徨いてゐる。みんなまるで活動写真の やうなものだ。道で出遇うものは異人さんたちと異国語ばっかりだ・・・・」 日本の中でも西洋的な場所であったに違いない。  

<写真左>軽井沢・追分けにある堀辰雄文学記念館

<写真右>昭和10年開設の聖パウロカトリック教会。『風立ちぬ』の中では「死のかげの谷」に”小さなカトリック教会”として登場している。



5.今後の研究

『風立ちぬ』の主人公の”私”が婚約者・節子との短いサナトリウムでの生活を悲しみながらも幸福だった思われがちであり、堀と綾子の実生活も物語 のように解釈していた。
死がわかっていても付き添う堀を同じ気持ちだからこそ、共有できるものがありこんなに愛された綾子はある意味で幸せだったと感じていた。
しかし昭和10年11月5日付けの立原道造宛の書簡を読み驚いた。 ”サナトリウムの生活はもう、うんざりだ。こいつが一番いけないのだ。仕事のためにはね・・・””
これを書いた時期と照らし合わせる必要があるが、この心の変化は『風立ちぬ』の中で『私』が婚約者を愛しているはずなのに夢想の中で勝手に死へと追いやったのと重なるかなと思うようになってきた。
病人にとっても看病する者にとっても、普通の生活があることが大切だ思う。しかし実際その立場に立たされるとなかなか難しい。 だから堀は立原宛の書簡の中にそのようなことを漏らしたのかもしれない。

綾子の方も堀が自分のそばにいてくれることが心の支えになっていることを思いつつ反面、自分のために縛り付けておいて時には重荷にすら感じただろう。 これが病人と看護する者の本音であることは間違いないと感じる。

この論文には「『風立ちぬ』から見る生と死」と題を与えたが堀に関しては多くの疑問を感じている。
@堀の生き方、A下町育ちの堀が西洋文化の漂う軽井沢に惹かれた理由、B軍国主義に向かう中で『風立ちぬ』 のような愛、生、死をテーマにに書いたのか・・・。Bはともかく、@、Aは堀の作品を読む上では大切なように感じる。

  • 死ぬことを考えなかった人、「それよりも早く元気になって仕事がしたい。」と言ってた堀が、自分から「苦しいから死なせてほしい」と一度だけ言っている。
  • 「人生は軽やかでなければいけない」、「身軽に生きよう」このふたつは堀が夫人によく言ってた言葉である。 これらに何かヒントが隠されているような気がする。

    今一番、みたいのは堀が昭和3年3月「山繭」に発表した「病」という詩である。
    これには病とつきあおうという堀の気持ちが込められているのではないかと思う。
    現在、堀の作品と彼の生き方的なことを両面から探している。

    <参考文献>

  • 日本地名大辞典20長野県  角川書店    1990年7月
  • 鑑賞日本現代文学第18巻  角川書店    昭和56年池輝夫
  • 新潮日本文学アルバム17  新潮社     1984年
  • やまぼうしの咲く庭で      オフィスエム  1998年堀多恵子