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「燔祭」か「焼き尽くす献げ物」か?


             (2013/05/06  一部修正)




■      訳語の問題を問う


旧約聖書の祭儀については、はたしてどれだけ研究が進んでいるのか?私は旧約学者ではないので詳しいことは知らないのですが、新共同訳において、従来「燔祭」と訳されていた単語が「焼き尽くす献げ物」と訳されているのを見て、はなはだ疑問に感じたことを切っ掛けにレビ記の祭儀を少し真剣に学ぶようになりました。その結果、最初に感じた私の疑問は正しくて、新共同訳の訳語選定は誤まっているという結論になりました。旧約の祭儀に関心を持つ人は少ないので、訳語の善し悪しなどどうでも良いと思っている人も多いでしょうが、これは決して小さな問題ではありません。旧約全体の理解に関わる大問題ですから、多くの方々にこの問題を理解していただき、必要なら、さらなる議論をして、どちらが正しいかを後世の人々が判断できるようにしておきたいと考えています。



■      問題の始まり

文語訳、そして口語訳で「燔祭」と訳されている単語は、ヘブル語子音表示でOLH「オーラー」といいます。原意は「立ち昇る」ということです。この祭儀は旧約ではごく普通のもので、ノアの洪水が引いた後、ノアは祭壇を築いて、生き残った清い動物を屠ってOLHを捧げています。これを文語訳と口語訳では、中国語訳を参考にして「燔祭」と訳出しました。「燔」とは「肉を焼く」という意味なので妥当な訳だと言えます。

さて、これを新共同訳は「焼き尽くす献げ物」と訳しました。新共同訳が出たのは1987年ですが、その前に1973年の新改訳が「全焼のいけにえ」と訳出しています。新共同訳と新改訳は基本的には同じ理解に立って訳語を選んでいます。これらの翻訳が出た当時、おそらく訳語を巡って議論があっただろうと思うのですが、不勉強なので、それらの議論を踏まえているわけではありません。また、今日においてさえ、「焼き尽くす献げ物」という訳語の当否を議論した文献をみたことはありません。ですから、以下に述べることは、私なりの分析を元にしているのであって、誰かの支持を得ているわけではありません。ですから、いろいろ不充分なところもあるだろうと思うのですが、その点はご容赦いただいて、間違いなどは遠慮なくご指摘いただけると幸いです。

(連絡先  hirokuro303@gmail.com)



■      英訳聖書では

さて、英訳聖書のうち、歴史上最初に権威あるものと認められたのがキング・ジェームズ版聖書(1611)です。この聖書で使われているのが「the burnt offering」で、その後、ほとんどの場合、この訳語が踏襲されて今日に至っています。ただし、いくつかの例外があります。

最初に別訳にトライしたのは1966年の The Jerusalem Bible で、「a holocaust of an animal」と訳しています。holocaust はLXXの訳語をそのまま使ったもので、「焼き尽くす」というニュアンスで理解されているのでしょう。その後も the burnt offering が使われ続けていますが、1970年の New American Bible で「his holocaust offering 」となっています。1990年の New King James Version では「a burnt sacrifice」となっています。この訳は「the burnt offering」と基本的には同じです。1995年のContemporary English Version では、いくつか訳し分けられているので、説明すると複雑になりますが、「whole burnt offerings」という訳語も見られます。

しかし、最新の2006年に出版された English Standard Version では「a burnt offering」となっているし、その他の多くの訳も伝統に則っているので、「焼き尽くす」というニュアンスが訳語に含まれているのは少数派であると判定できます。



■      the burnt offering (燔祭)の一般的理解

しかし、the burnt offering (燔祭)と訳しても、その意味として「焼き尽くす献げ物」と理解している人がほとんどのようです。というのは、各種の聖書事典の解説では、ほぼ一貫して「燔祭とは焼き尽くす献げ物」のことであると書かれているからです。

新聖書辞典「犠牲と供え物」の項目では、燔祭とは「その特徴は全部神に捧げられるところにある」として、「全焼の犠牲」であるとしています。今のところ、手にとって調べられる辞典はみな同じなので、今日、燔祭という祭儀において、犠牲動物が焼き尽くされて灰になることは旧約学者の共通の見解のように見受けられます。しかし、以下に述べるように、(1)燔祭という言葉の語源に「焼き尽くす」という意味はありません。また、(2)ごく普通におこなわれる犠牲祭で肉が参加者に振る舞われないと言うことは常識的にあり得ないことです。また、(3)聖書の中には燔祭の肉が食べられている事例も見つかります。また、(4)焼き尽くす祭儀には全焼祭(KLYL)という別の単語があり、これと燔祭が区別されて用いられている例があるので、燔祭が全焼祭ではありえません。それゆえ、燔祭を「焼き尽くす献げ物」と理解するのは間違いであり、ましてや、OLHを「焼き尽くす献げ物」と意訳してはなりません。以上のことを以下のように論証してみました。



■    OLHには「焼き尽くす」という意味はない

さて、燔祭を意味するヘブル語の子音表記はOLHです。意味は「立ち昇る」ということで、おそらく、犠牲の煙が立ち昇ることから、動物犠牲を捧げる意味で使われるようになったのでしょう。ですから、もともとの意味は「犠牲を捧げる」ということです。言葉の原意にはどのように献げるかということへの言及はなく、「焼き尽くす」という意味はありません。ではどうして「焼き尽くす献げ物」という訳語が生まれたのでしょうか。おそらく、OLHのレビ記の説明を読むと捧げられた動物の肉がすべて燃やされて灰にされているかのように解釈できる箇所があるからでしょう。しかし、だからと言って、その読み方が正しいかどうかは大問題です。また、原意に無いニュアンスを訳語に反映させることは意訳であり、間違った解釈を読み込んでいるとするなら、たいへんなミスリードになります。おそらく訳者は、この解釈が正しいと思っているのでしょうが、以下に述べるように、別の解釈も可能であり、むしろ、「焼き尽くす献げ物」という理解が間違っている可能性があるのです。ゆえに、この訳語選びは非常に問題だと言えます。



■      祭儀の基本は食事である

旧約だけでなく、すべての祭儀の基本は「共に食事にあずかること」にあります。結婚式が食事の宴なしに成り立たないのと同じことです。特に、旧約の民の場合は、肉を主食とする民ですから、動物を屠ると言うことは、祭儀の中心であるだけでなく、その肉を食べてこそ初めて祭儀が完成するのです。それはちょうど、日本人が米を捧げるのと同じような神聖な行為であって、日本人が「米の一粒も無駄にしない」という精神を持っているように、イスラエル人も「肉の一切れも無駄にしない」という考え方を持っていたはずです。動物を育てると言うことは大変な労苦がいることで、いつの時代でも肉が豊富にあるわけではありません。人々は祭りのたびに肉を食べれることを期待し、喜び、感謝したのです。また、祭司たちも祭りを大事にしていました。というのは、祭司は肉体労働者ではなく、神殿に捧げられる動物の分け前を貰って一家を養っていたからです。人々が神殿に来て動物を捧げてくれないことには食べてゆけません。

古代イスラエル民族の経済力がどの程度かについては研究するまでもないことです。出エジプトの民が「肉が食べれない」と不平不満をモーセに述べたことが聖書に書かれていますが、律法の中でも貧しい人々への配慮として、「牛を捧げられない人は羊でよい、羊を捧げられない人は山バトでよい」(レビ記5:7)と記されています。つまり、誰でも肉を食べれるほど裕福ではなかったのです。その程度の経済力で、燔祭はごく普通におこなわれていました。ノアが神に捧げたのは燔祭でした。アブラハムが祭壇を築いたとき、(創世記12:7 etc )「燔祭」という単語は使われていませんが、その他の単語がないので、燔祭が捧げられたとしか解釈できません。祭儀集中はおこなわれる前の時代ですから、町や村のあちこちで燔祭が捧げられ、主なる神が礼拝されていました。そのとき、屠られた動物は、参加者に振る舞われることなく、焼き尽くして灰にされていたのでしょうか。どう考えてもあり得ないことです。人々は腹を空かして、肉に与れることを期待して集まっているのです。それが焼き尽くされてしまっては、礼拝が成り立たなくなります。もっとも、一匹は焼き尽くして、もう一匹を食べるために焼いたという解釈も可能ですが、大きな牛一匹をまるごと無駄にするほど経済的余裕はなかったはずです。日本人が神社で米1俵を礼拝のたびに焼いて灰にするということがありえるでしょうか。イスラエルの人が牛を焼いて灰にするとは、それと同程度のあり得ないことなのです。

神殿が出来た後も同じことです。民数記では、燔祭が神殿で毎日捧げられていたとなっています。365日、毎日小羊2頭が屠られていました。これは燔祭ですが、焼き尽くされて灰になっていたのでしょうか。あり得ないことです。毎日のことですから、これは祭司の食べ物になっていたはずです。もし、焼き尽くされてしまったらその日の祭司の食べ物はどこからくるのでしょうか。また、祭りのたびに、毎日の燔祭のほかに、さらに多くの動物が燔祭として捧げられていました。「雄牛13頭、雄羊2頭、小羊14頭」(民数記29:13)を祭りの間、毎日献げるのです。全部焼き尽くして灰にしていたのでしょうか。これもあり得ないことです。

これは非常に常識的判断なのですが、旧約学者はどのような根拠で、燔祭を「焼き尽くす」と解釈したのでしょうか。おそらく、LXXの訳語であるholocaust という単語のイメージから「焼き尽くす」という誤解が生まれたのだろうと思いますが、聖書の記述そのものが、燔祭が焼き尽くす献げ物でないことを証明しています。



■      「燔祭」の使用例の分析

燔祭(OHL)という単語は旧約では250回以上も使われていますが、燔祭のやり方について記述している箇所は多くはありません。

創世記で目に付くのは、ノアの燔祭とイサクを捧げる燔祭です。ノアの場合は、清い動物を捧げているので、肉を食べたことは明白です。イサクを捧げる場合は、食べるためではないことは明らかですが、燔祭という単語は「動物を屠る儀式」と同義語で使われているのでしょう。

さて、創世記には、「燔祭」ではありませんが、それときわめて近い表現として「祭壇を築く」という言い方がなされる場合があります。アブラハムはシケムに祭壇を築いています。(12:7)この場合、祭壇を築いたからには、そこで生け贄が捧げられるわけで、別の言い方では「動物を屠る」ことになります。さて、屠った動物の肉を参加者一同が食べることによって祭儀は完成します。この犠牲祭が燔祭と呼ばれているわけではありませんが、創世記の場合、他に単語がないので、おそらく「燔祭」と理解して差し支えないだろうと思います。少なくとも、罪祭、周恩祭、ケン祭ではありません。燔祭が普通の祭儀であると言うことは、必ず食事を伴っていたと理解しなければなりません。

出エジプト記12章に過ぎ越しの祭りの規定があります。ここで使われるのは小羊ですが、この羊は家族で食べなければならないと規定されています。この犠牲は、出エジプト記では燔祭と呼ばれていませんが、民数記の並行箇所(28:16f)では「燔祭」となっています。ただ、記述の内容が一部異なるので、いろいろな解釈が可能になりますが、少なくとも、この民数記の「燔祭」を「焼き尽くす献げ物」と理解してしまうと困ったことになります。なぜなら、7日間毎日「焼き尽くす献げ物」ばかりを捧げ続けるのですが、参加者が食べる肉はどこから手に入れるというのでしょうか。この事例ひとつだけでも「焼き尽くす献げ物」という解釈がおかしいことは明らかです。

出エジプト記18:12で、モーセとエテロが燔祭と犠牲を神に捧げています。そして、それを共に神の前で食べたとあります。この燔祭は全部燃やして灰にして、犠牲の動物だけを食べたと言うことでしょうか。文脈からしてそれは不自然ではないでしょうか。

出エジプト記には、レビ記と似た動物犠牲の規定がいくつかあります。29:10fに、祭司が任職される際の儀式のやり方が書かれていますが、10fが罪祭、15fが燔祭となっています。罪祭の肉は「火で焼き捨てなければならない」となっていますが、15fの燔祭の規定にはそのような「焼き捨てる」という単語はありません。ですから、燔祭の雄羊は任職の祝いの席で振るまわれることが予想できます。しかし、これを「焼き尽くす献げ物」と理解すると、祝いの席の食事はどうなるのでしょうか。

29:31fにこう書かれています。「あなたは任職の雄羊を取り、聖なる場所でその肉を煮なければならない。・・・贖いに用いたこれらのものを食べなければならない。」この任職式の犠牲は燔祭であると29:18,25に書かれています。こういう箇所でさえ新共同訳は「焼き尽くす献げ物」としているのですが、焼き尽くしてしまったものをどうやって食べるのでしょうか。文脈を理解しない翻訳者の責任は大きいと言えます。

出エジプト記38:1に「燔祭の祭壇」という表現があります。ここは会見の幕屋(至聖所)の内部が説明されている箇所ですが、契約の箱と机と燭台と洗盤などと並んで「燔祭の祭壇」が挙げられています。祭壇はこれだけのようで、その他の祭壇はありません。ということは、罪祭も、周恩祭、ケン祭もこの祭壇で執り行われることになるのではないでしょうか。その他の犠牲もすべてこの祭壇で「焼き尽くされる」のでしょうか。そういうことはあり得ません。ですから、「焼き尽くす献げ物」と言う理解が間違っているのです。ヘブル語に無い意味を自分かってに読み込んではなりません。

レビ記は後回しにして、民数記と申命記で「燔祭」がどのように説明されているかを見てみましょう。

民数記では、燔祭と罪祭などの贖罪祭が区別されている点でレビ記と同じです。5:10で「すべて人の聖なる献げ物は祭司に帰する。」となっています。「帰する」とは所属のことで、所属の内実は食料とすると言うこと以外にありません。「聖なる献げ物」とは、燔祭も、罪祭も、周恩祭も、ケン祭も含まれるので、燔祭の献げ物も祭司に帰すると言うことです。もし、燔祭の肉が焼き尽くされて灰になってしまうと、祭司に帰することができなくなります。つまり、「祭司に帰する」とは、燔祭の肉も食べられていることを示しています。

民数記15:1では、自発、もしくは祝いの献げ物としての燔祭が規定されています。祝いと言うからには食事の席が設けられるはずです。それが燔祭として捧げられると言うことは、燔祭の犠牲は食料となることを意味しています。これを「焼き尽くす献げ物」と理解することは無意味なことです。また、ここで注目されるのでは、犠牲の動物に麦粉、油、ぶどう酒も合わせて捧げるようにと規定されていることです。なぜこのような規定がなされるのでしょうか。それは肉だけではおいしくないからです。祝いの席には主食である肉以外にも穀物と飲み物が必要であると言うことで、その考え方は今日の食事とまったく同じです。

民数記28:19で過ぎ越しの祭りの犠牲が燔祭と呼ばれていることはすでに指摘してあります。ここでは、「常燔祭」OLH TMYD(28:3)という言葉に注目してみます。この単語は民数記28章と29章以外では、歴代志上16:40,歴代志下24:14,エズラ3:5、エゼキエル46:14にしか登場しませんが、おそらく神殿建築後は毎日燔祭が捧げられていたのでしょう。その犠牲となる動物は、小羊2頭ですが、これが365日、毎日、焼き尽くされて灰になっていたのでしょうか。そんなことはあり得ないことはだれでも分かるのではないでしょうか。また、安息日にはさらに2頭、合計4頭が屠られます。また、月の初めの日にはそれに加えて雄牛2頭、雄羊1頭、雄小羊7頭を燔祭として捧げることになっています。大変な量ではないでしょうか。さらに祭りに日にはそれに相応しい数の動物が捧げられています。これらがすべて食べずに灰になるという意味で「焼き尽くす献げ物」と訳されたのでしょうか。いくら何でもそれはありえないことですから、やはりOLHは「燔祭」と訳されなければならないのです。

申命記の説明も同じで、燔祭はごく普通の祭儀であり、犠牲動物を灰にしろとは教えられていません。むしろ、「みんなで食べる」と解釈できる記述さえあります。12:6,7ですが、「あなた方の燔祭と犠牲・・・をあなた方の神・主の前で食べ・・・」と書かれています。これだけ明瞭に「食べる」ことが命じられているのに、どうして燔祭が「焼き尽くす献げ物」となるのでしょうか。

12:27には翻訳上の問題があります。口語訳も新共同訳も同じなのですが、ここを「燔祭を捧げるとき・・・。犠牲を捧げるとき・・・。」とふたつに訳し分けてしまった結果、「燔祭の肉を食べる」ことが曖昧にされています。しかし、ヘブル語ではひとつに繋がっていて、「燔祭を捧げるとき・・・、その犠牲の血は注ぎ出し、肉は食べる。」と理解できます。事実、英訳(RSV)では「the blood of your sacrifices shall be poured out ..., the flesh you may eat.」となっていて、その他の主要な英訳も同じです。新共同訳では「その他のいけにえ(犠牲)は」と訳していますが、「その他」という単語は原文には無いことは指摘されなければなりません。

以上の箇所の内容からして、燔祭の肉が焼き尽くされてないことは明らかですが、これがレビ記においてどう説明されているかを見てみましょう。



レビ記1章に燔祭の規定があります。そこには「傷のない雄牛を捧げなさい」とか、「獣の頭に手を置く」とか、「その血は祭壇の周囲に注ぎなさい」などのことが書かれています。「獣の皮を剥ぎ、切り分けた後、火の上に置いて・・・」とあります。ここまでは問題ありません。その後に続く言葉として「祭司はそのすべてを祭壇の上で焼いて燔祭としなければならない」(1:9)となっています。「すべて焼く」を「灰になるまで焼く」と解釈するのが新共同訳です。しかし、文脈からして「すべて」とは「並べられた肉のすべて」ということであって、灰になるまで焼くという解釈は文脈として不自然です。また、出エジプト記や、民数記、申命記の説明とも矛盾します。

ヘブル語は、WHQTtYR HKHN AT-HhKL HMZBHhH で、直訳すると 「祭壇 (MZBHh) のすべて (KL) を煙にする」 となります。「祭壇のすべて」 とは、8節の「分割した各部」 を受けて「すべて」と解釈すべきで、「すべて燃やして灰にする」 という解釈は文脈に合いません。おそらく、「煙にする」(QTtR)のイメージから「燃やして灰にする」と思ったのでしょうが、この単語はあらゆる祭儀に使われていて、酬恩祭(和解の献げ物)についても使われています。(3:11)ですから、ですから、単なる「焼く」 ということであって、「灰にする」 という意味でないことは明らかです。

LXXは燔祭(オーラー)を「ホロコースト」と訳しましたが、「ホロ」が全部「コースト」が焼くですが、それはOLHの直訳ではなく、レビ記の解説である「全部焼く」を直訳したものです。しかし、この「全部」が「並べられた肉の全部」という意味なのですから、「ホロコースト」もその意味に解釈しなければなりません。もしくは、「丸焼きにする」というニュアンスだと解釈できます。事実、LXXの申命記12:27を確認してみても、「ホロコーストの肉を食べる」となっていて、LXXが「ホロコースト」を「焼き尽くす」とは理解していないことを示しています。

以上のことから、旧約の文脈の中で、燔祭の動物が屠られたあと食べられることが前提になっていることを理解していただけたと思います。




■      全焼祭と燔祭との区別

燔祭が全焼祭(カーリル KLYL)であるとする解釈があるようですが、このふたつは旧約では明白に区別されていることは理解しておかなければなりません。全焼祭という単語はあまり頻繁には用いられていませんが、全部で5回用いられています。

その中で、詩篇51:19(21)にこう書かれています。「その時あなたは義の生け贄と燔祭と全き焼祭を喜ばれるでしょう。」新共同訳は燔祭と全き燔祭をひとつの単語として「焼き尽くす完全な献げ物」と訳出していますが、かなり苦しい訳だと思います。このヘブル語は「OWLH WKLYL」なので、口語訳のようにしか訳せませんし、RSVも「burnt offerings and whole burnt offerings」と訳しています。

燔祭と全焼祭が区別されているからには、燔祭が「焼き尽くす献げ物」ではないことが明白になります。

さて、以上の4つの点を踏まえるなら、OLHという単語が「焼き尽くす献げ物」でないことがご理解いただけたのではないでしょうか。これは単に聖書翻訳の問題だけではなく、旧約の祭儀をどう理解するかという問題でもあるので、今後、事実に沿った正しい解釈が広まることを期待しています。










■      その他、議論の根拠となる話題 <追加 2015・08・30>


歴代志における「燔祭」の用法を見ると、それが焼き尽くされてないことが良くわかります。歴代志下1:6では、ソロモンが一千頭の燔祭を捧げたとなっています。こんなにたくさんの動物を食べずに捨ててしまうと言うことはあり得ません。列王記上3:4にも同様の記事があります。29:31では、燔祭の動物の数が「雄牛70頭、雌羊100頭、小羊200頭」となっています。これだけの数の動物を全部灰にするということでしょうか。さらに34節に「燔祭の動物の皮をはぐ」とあります。いったい、全部灰にする動物の皮を前もってはぐ必要などあるのでしょうか。これは明らかに食べるために皮をはいでおくということなのです。30章と35章には過ぎ越しの祭りのやり方が書かれています。過ぎ越しで屠られた動物は家族総出で食べなければなりませんが、その捧げ物が燔祭と呼ばれています。(歴代志下30:15、35:16)やはり、燔祭は食べられているのです。

民数記28章の燔祭の規定はたいへん興味深いものです。屠る動物の数が多過ぎることはすでに指摘してありますが、燔祭と共に素祭が捧げられることに注目してみましょう。引用すると長いので割愛しますが、9節、10節を見ても興味深いことがわかります。ここでは、上等の小麦とオリーブ油が羊と同時に捧げられることで燔祭となります。この場合、小麦もオリーブ油も焼き尽くされてしまうのでしょうか。しかも、「上等の小麦」です。灰にするために「上等の小麦」を使うことは考えにくいことです。状況から判断して、小麦もオリーブ油も小羊の肉の添え物のように見えます。つまり、上等の小麦とオリーブ油、それにワインも添えられています。そうすると、燔祭の肉をおいしく食べることが出来るということなのです。

「主に捧げる香ばしい香り」(RYHh NYHhHh)という表現があちこちで使われています。レビ記1:9、23:13、民数記28:24,29:2、その他多数。これらの表現は燔祭にも使われています。「香ばしい」は「和らげる」という意味もありますが、「喜ばれる」という良いニュアンスで使われています。この背景には、捧げる人もまた喜ばしい気持ちになるということであって、それはこの捧げ物をあとで食べることになるからではないでしょうか。いかにも食欲をそそる表現です。

周恩祭の場合、(レビ記3:11)「主に捧げる食物」と表現していますが、これをあとで、捧げた人や祭司が食べることになることは多くの人の認めるところです。「主に捧げられた香り」もまた、あとで食べるためのものなのです。

ヨセフス「古代誌」にも燔祭の説明があります。ヨセフスは祭司の家系ですが、彼自身が祭司として仕えたことはありません。また、「古代誌」が書かれたのが90年ごろですから、すでに神殿祭儀も終わっていて、実際に見ることができない状態になっていました。ですから、ヨセフスが祭儀について正しい知識を持っていたという保証はありません。しかし、彼は今の我々よりずっと祭儀の現場に近い立場にいたわけですから、彼の発言を無視するわけにはいきません。彼は燔祭を「全部焼く祭儀」と理解していたことは間違いないでしょう。古代誌3章224節で「前者(個人的祭儀)では犠牲の動物は完全に焼かれる。」と説明しています。「これはその名前(ホロコースト)の示すとおりである。」ということです。しかし、裏から読むと「後者では完全に焼かれるわけではない」という意味になります。

ヨセフスの説明には多くの問題があります。ひとつは「前者」の意味です。ヨセフスの説明では、「祭儀には2種類あって、ひとつは個人に関わるもの、もうひとつは共同体に関わるもの」となっていますが、文脈上「前者」とは「個人に関わる祭儀」となります。ところが、旧約聖書では、祭儀に個人的と共同体的の区別はありません。周恩祭も罪祭もケン祭も、すべて個人に関わることもあり、共同体に関わることもあるのです。この区別は旧約聖書にありませんから、ヨセフスが独自に導入した解釈なのでしょうか。それとも、エルサレム神殿で行われていた祭儀のやり方なのでしょうか。疑問が残ります。

ヨセフスは、燔祭の説明のあとで、周恩祭と罪祭の説明を続けていますが、周恩祭と罪祭では共同体に関わるという説明はありません。ですから、「前者と後者」という表現は燔祭だけのことのように見えます。これでは説明がアンバランスになってしまうのではないでしょうか。はたしてこれは正しい説明なのでしょうか。今後のさらなる検討が必要なところです。





■      民数記18:9の翻訳


古代文献を正しく理解することは大変ですが、この民数記18:9も多くの翻訳者が誤解して訳出しているように思うので、ここで検討課題として挙げておきます。

この箇所は、燔祭以外の捧げものが祭司に帰するとして、「食べてよい」とされています。ということは裏の意味として燔祭は食べてはならないということになりますが、はたしてそういうことでしょうか?

新共同訳は次のようになっています。
9節「神聖な捧げ物のうちで、燃やしてしまわずにあなたのものとなるのは次のとおりである。」

ヘブル語は 「 ZH-YHYH LK MQDSh HQDShYM MN-HASh 」と書かれています。ZH-YHYH は「次のとおり」、LK は「あなたに属する」で、MQDOSh HQDShyM は「神聖な捧げ物のうち」です。問題は MN-HASh の訳です。MN とは「out of」ということで、HASh とは、Hが冠詞で、AShが「fire」です。fire とは「火」のことですが、ここは「火祭」と理解すべきではないでしょうか。これを前提に翻訳すると 「火で捧げる神聖な捧げもののうち、次のものはあなたに属する。」となります。意味が反対になってしまいました。

新共同訳のように訳すると、そのあとに書かれている「穀物の捧げ物、贖罪の捧げ物・・・」が焼かれないことになり、焼かれない肉を祭司が食べなければならなくなります。かなり奇妙なことになってしまうのではないでしょうか。

状況に合わせて訳すならば、ここは、火祭、つまり、「焼かれる捧げ物のうち」と理解すべきところです。そして、この文脈の結論は、燔祭は祭司に属さないので、捧げた人、つまり民のものであるという意味になり、民は燔祭の肉は食べることが出来るという意味に解釈することになります。そう理解するなら、お祭りの中で燔祭が捧げられると、それをあとで食べることが出来るので、民にとって「香ばしい香り」となり、喜びとなり、お祝いにふさわしいことになります。何も食べるものがないお祭りほどつまらないものはなく、興ざめのことはありません。





■      エレミヤ書7:21bの解釈


エレミヤ書7:21bにこう書かれています。「お前たちの焼き尽くす捧げ物の肉を、いけにえの肉に加えて食べるがよい。」(新共同訳)これは神の裁きの言葉の一節で、皮肉として語られているので、「肉を食べることが良くない」というニュアンスになっています。ということは、燔祭の肉を食べることが良くないことになりますが、反面、それをイスラエルの民が実践していたことになります。つまり、食べていたという現実を前提にこの言葉が皮肉の意味を持つことになります。

もっとも、別の解釈も可能なので、結論は差し控えておきます。エレミヤは、そもそもレビ記の規定を神の命令とは認めていないようで、祭儀の廃止こそが神に従う道であると教えているかのように読めます。しかし、祭司の家系と思われるエレミヤがそこまで過激な発言をするかというと、それもまた考えにくいことなので、これについても判断保留となります。


















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