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吉田稔麿


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導入 吉田稔麿の碑 幼少時代 年少にして 松陰との出会い 江戸にて

攘夷への奔走 池田屋 無念の死 吉田稔麿とは




 導入

 吉田稔麿は吉田松陰の松下村塾において、高杉晋作、久坂玄瑞、入江九一と並び、村塾の四天王と称された人物である。松陰は稔麿の学才と気性のすがすがしさを愛し、「その識見は暢夫(高杉晋作)に似ている」とし、「どちらも頑質だが、暢夫は陽性で無逸(稔麿)は陰性のそれである。両人とも人の駕御(がぎょ)[人の言いなりになること]を受けず。高等の人物である。」と、最大級の誉め方をしている。

 しかしながら、稔麿は松陰が賞賛した人物評そのものの行動を人生の最期にとり、その短い生涯を閉じるに至るのである。

吉田稔麿の碑

 稔麿が生まれた地は松陰の生家の近所にある。萩の松陰神社正面右側に細い路地があり、この路地を辿ってゆくと松陰誕生地に着くのだが、途中、路地の横に吉田稔麿誕生地の石碑がぽつんと立っている。「麿」の字が「丸」になってはいるが、なぜかはわからない。うっかりしていると見落としてしまいそうなくらい目立たぬ石碑である。

 松陰の生家の近所に生まれた稔麿は必然的に、その荘厳な志を有する人物に出会い、感化されてゆく。これも、また彼の運命であろう。

幼少時代

 足軽の家に生まれた少年時代の稔麿は、あかるくて走り使いを機嫌よくするという印象のある子供であった。稔麿は近所にある寺子屋に百姓や町人の子供達とともに通っていたが、この寺子屋が松下村塾であった。ただし、まだ松陰がいたのではなく、久保五郎左衛門が教えていたころのことである。

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吉田稔麿誕生地の石碑


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年少にして

 稔麿十二歳の年は、ペリーが浦賀に来航し、天下が騒いでいる年であった。彼は、江戸藩邸詰の小者の職にありつき、裸足で薪を割ったり、走り使いをしたりしていた。

 無類の学問好きの稔麿であったが、「年少にして生計を立てなければならず、思うように学問が出来なかった」と、後年述懐している。しかしながら、やがて村塾の四天王と称せられる程の彼の学問、及び詩文の才をどのようにして身につけたのであろうか。独学でその境地に達したのならば、彼の努力には凄まじいものがあったに違いない。

松陰との出会い

 安政三年、飛脚として江戸藩邸の手紙をもって萩に帰った時、松陰が自宅禁固を命ぜられて、実家に戻っており、寺子屋で子弟を教えていた。稔麿は早速、松陰に入門して、翌年の九月までの十ヶ月間、松陰に就学した。

 村塾では、前述したとうり四天王の一人として、松陰から愛された稔麿であるが、師匠に似たのか人物評が好きで、次のような逸話が残っている。ある日、稔麿は絵を描いていたが、そこには、裃を付け端然と座っている坊主、鼻ぐりのない暴れ牛、木刀、そして隅にただの棒きれが、描かれていた。これを見た、山県狂介(有朋)が「この絵にはどういう意味があるのだ」と、問うた。稔麿は「この坊主は久坂だ。久坂は医者のせがれだが、廟堂に座らせておくと堂々たる政治家だ。この暴れ牛は高杉だ。高杉は中々駕御できない人物だ。この木刀は入江のことだ。入江は偉いが、まだ刀までとはいかない木刀だ。」と言った。狂介が「じゃ、この棒きれは誰だ。」と聞くと、稔麿は言った。「それは、お前のことだ」。後年、明治政府に君臨した山県有朋も稔麿に言わせれば、ただの棒きれにすぎない存在だったのだ。

江戸にて

 稔麿は松陰が東送された後、脱藩して江戸へ行き、旗本妻木田宮氏の家士となり、獄中の松陰の様子と幕府の動静をうかがっていた。このことにより彼は以降、長州志士の間で幕府通と重宝がられる存在となる。しかし、この時は思ったような成果は無く、その後江戸を離れた。

 江戸を離れ京にのぼる途中、江戸遊学時の松陰を知る、越後長岡藩士河井継之助と出会い、勤皇及び、長州の立場などについて語り合ったと、司馬遼太郎氏の「峠」にあるが、事実かどうかは定かではない。河井継之助もまた立場は違えど、松陰と同じく陽明学に傾倒した行動家である。

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攘夷への奔走

 松陰処刑後、稔麿は同門の久坂玄瑞らとともに攘夷活動に奔走する。文久三年、幕府は朝廷の圧力に屈する形で、攘夷期限を五月十日と定めた。これにより帰国した久坂玄瑞は下関で光明寺党を結成し、これに稔麿も加わった。

 そして五月十日当日に、攘夷を決行したのだった。その後、諸外国からの報復攻撃を受け壊滅的打撃を受けた長州藩は馬関の地に、高杉晋作発案の奇兵隊を組織させた。これに刺激を受ける形で、多くの諸隊が各地で組織されたが、中でも稔麿は、いわゆる被差別部落の人々からなる屠勇隊(とゆうたい)を組織したのだった。この屠勇隊は、のちに幕府軍を相手に最も勇敢に戦うことになる。

池田屋

 元冶元年六月五日、京の三条小橋の旅篭、池田屋で志士達が集まり会合を行うこととなっていた。前年の文久三年八月十八日、尊攘派の天下となっていた京の街より、会津、薩摩を中心とした公武合体派は、尊攘派公家と長州藩の追い落としに成功していた。

 長州を中心とする尊攘派志士達は京での復権を目指すべく、池田屋に集結していたが、ここに稔麿の姿があった。彼は、本来集まるべく予定されていたわけではなかったが、たまたま江戸から使いに出てきて、この会合を知り出かけたのだった。

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無念の死

 池田屋で志士達との会合中、突然に新撰組に襲撃され、稔麿は応戦し、肩先に一太刀浴びた。彼は、事態を同志に知らせるべく、その場を脱出し、川原町の長州藩邸に飛びこんだ。この時、稔麿は、危機を脱出して安全な藩邸に戻って来たのだから、そのまま潜伏していればよいものを、手に槍を取り、周囲が止めるのも聞かず、修羅場と化した池田屋に舞い戻って行ったのである。そして、その二十四年の短い生涯を閉じたのであった。

 稔麿は近藤勇に斬られたのか、あるいは、沖田総司に斬られたという説もあり、その最後は定かではない。年少の頃より、生計を立てねばならず、剣術の心得などあろうはずもない稔麿は、赤子の手をひねるが如く、殺されていったのだろう。そして、幕末のこの池田屋事件がとりあげられる度、稔麿は斬られ役の尊攘派代表格として登場し続けてゆく。司馬遼太郎氏は「人間に霊があるとすれば、吉田稔麿というのは随分つらい霊である。」と、言っている。

吉田稔麿とは

 稔麿が、周囲の止める声に耳を貸すことなく、絶望の状態にある池田屋に舞い戻っていったのは、彼の仲間を思いやる情念の強さからか、次々に殺されてゆく同志達をそのまま見捨てておくには忍びなく思ったからであろう。その結果、自らの命も散らしめていった。これが、松陰の言う、稔麿の「頑質」、及び「人の駕御を受けざる」部分なのであろう。まさに、稔麿の長所たる部分そのものが、仇となってしまた彼の最期である。また、吉田松陰という師の影響を多分に受けたことが、このような行動を取らしめた、とも言えるであろう。

 ともあれ、稔麿ら俊英達が多数殺された、この事件により歴史の進行が、数年遅れたと、後に言われるようになった。

                           

                                                完

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