日本画の作画について NO.3 作品づくりの基本


絵に対する心構え その5

 「絵の世界は美を扱った純粋の世界でいいですね。」という言葉をよく聞くが、絵を取り巻く環境は必ずしも純粋とは言えない複雑な絡み合いで成り立っていることも知っておく必要がある。創作する行為そのものは純粋で尊いものであると言えるが、その作品が一旦作者の手元から離れると社会の原理にそって評価が伴ってくる。評価には様々な要素が絡んでくる。作者の出身学校、所属団体、入選歴、受賞歴、師事する先生などの本人の経歴の他、年鑑の出版社、評論家、所属団体の役員等の力関係が大きく関係してくる。とても純粋な世界とは言えない複雑な絡みがある。その実態を知ってくるといやになってしまい途中で画家になる志を捨ててしまう作家も多い。純粋に絵が評価されるならば納得できるわけであるが、実際はそんな簡単なものではないということを認識しておく必要がある。しかし、ずば抜けてよい作品はその限りではない。誰もが認めるよい作品を創れば順当な評価が得られるはずだから悲観したことはない。しかし、一発勝負の一点だけでその評価を得ようとすることは不可能なことである。今までの作品の傾向とか可能性などを見てその作品が評価されるわけであるから一点だけの作品では無理である。コンクールなどに出品して賞をねらうなら可能である。評価がどう付くかは分からないところだ。長く画家生活を送るなら一発勝負に期待をかけるよりも地道な活動を選んだほうが得策と思われる。どちらにしろ選ぶのは自分自身であるわけだから自由だ。ただ、パッと咲いて散るんではさびしいことだ。継続してこそ力になるわけだから、そのへんのことをしっかり認識しておこう。世界的に権威のあるビエンナーレやアンデパンダン展等でいい賞をとれば問題なく高い評価がつきスターになることも夢ではないので挑戦する価値はある。日本画の千住博氏や版画の池田満寿夫氏や現代美術の岡本太郎氏などはそのいい例だ。ずば抜けた才能と幸運の備わった人だけに与えられるものかも知れない。羨ましい反面、その才能を継続しなければならないというプレッシャーと大衆の期待に応えていかなければならないことなど考えると大変だと思う。自己実現の可能性の高い方向に話しを戻そう。絵を取り巻く環境が一筋縄ではないことを再認識してほしい。展覧会の賞についても師弟関係の情実が絡んだり、会の功績度に関わったりして決められることがよくある。どの社会においてもあることが美術の世界にもあることを知って愕然とすることがある。せめて美術の世界だけはもっときれいであってほしいと願う気持ちを持ち続けたい。長い間、この世界に浸っているので違和感として感じなくなってきたきらいがあるので気をつけたい。私は、『よい絵はよい人間を見ること』と同じだという考えを持っている。絵は人間の手で創られるものであり、絵を人間に例えて言い表してみるとぴったりする。ただきれいだけの絵はすぐ飽いてしまうものだ。【きれいではないが何か魅力がある。その魅力は何か。言葉では表現できないが何か深いものを感じる。見ていると心が浮き浮きする。何度見ても飽きがこない。すばらしい予感を感じる。自分の手もとに置いておきたい。その絵を見ていると心が安まる。】などの言葉を人間を見る言葉に置き換えてみると【きれいな人ではないが何か魅力のある人だ。その魅力は顔だちではない。全体から受ける感じがよい。でも言葉ではっきりと表現できないが何か不思議なものを持っている人だ。心の深い感じの人だ。一緒にいると心が浮き浮きする。何度会っても飽きがこない。この人は将来性のある人だ。結婚したくなるような人だ。】と言うようににぴったりと合う。『よい絵とは自分にとってよい人と同じである』と言うことになる。こう考えるとよい絵を創った人もよい人ということが言えるかも知れないが、しかし、これは別である。有名な画家の中で人間性もよいと評価されている画家は非常に少ないからである。ユトリロはアル中患者であったし、ロートレックは放蕩三昧をしていたし、ピカソは何度も奥さんを変えたりして家庭的ではなかったし、ゴッホは精神を病んで自殺をしてしまった男であったし、ゴーギャンは家庭崩壊をしてしまった男であったり・・・などで、とても社会の模範や規範になるような人間ではない。かえって反社会的人間だったかも知れない。しかし、彼らはいろいろな犠牲をはらいながらも初志貫徹をし、すばらしい作品を残している。彼らは自分の心に忠実に生き、そして、誰もがやらないことを成し遂げた偉業は尊敬に値する。 





絵に対する心構え その6

 前の頁で絵の評価にはいろいろな絡みが関係してくるということを述べたが、触れなかった部分があるので付記したい。画家が精魂こめて創った作品も手元から離れると市場原理で商品として扱われるようになる。つまり、作品の価値がお金に替わっていくわけである。作家の中には初めからこの原理へスムーズに入っていく幸運な者もいるが、ほとんどの作家はこの原理のことは別にして制作に励んでいる。言葉を換えると絵が売れる作家と売れない作家が存在するということだ。展覧会の作品の評価がそのまま市場原理の中で生きるとはかぎらない。市場の評価と一体になって絵の評価価格が決まってくる。名のある作家でも市場に作品が出ていない場合も多い。要するに売り絵を描かない作家のことである。 芸術性の高い大作は美術館所蔵という形で名誉ある寄付になることが多い。また、有名な作家になると市場原理が働いて周りから引っ張りだこになる。これを幸運と見るか、不運と見るか本人の考え次第だ。こうなると勝手気ままな作家生活は送られないことだけは確かだ。まさにプロの生活ができるわけで羨ましい限りなのだが・・・でも、私はこの方向を望まない。何故なら自分の世界に他人が入り込んで指図をされるのがいやだからだ。自分の描きたいものだけを描き、勝手気ままな作家生活を送りたいからだ。だが、絵を職業にするとなるとこんなことは言っておれなくなる。描きたくもない絵も描かないと生活できなくなるからである。私の知っている職業画家で、画商の付いている画家と画商を通さずに自分で販売している画家のふた通りいるので、知った限りで紹介をしておきたい。 画商の付いている方は細かい注文内容があり、その要求にあった絵を描かないと引き取ってくれない。絵の代金は歩合性になっており、自分の言いなりの値はつけられない。売れなければそのまま送り返されることもある。バラの花の絵を描いてくれとか、冠雪の山景色を描いてくれとかの注文がくるので好きな絵ばかりを描くことができない、商売と割り切って注文に応じた作品を描いている。自分で売り込む必要がないので制作に没頭できる。描く点数もノルマがあるので毎日がただただ忙しい。画商とコンビなので人間関係に気をつけないと仕事が回ってこない。忙しくて展覧会の作品だけに集中できない。好きな絵で生活できることに満足感を味わうことができる。 画商が付かず自分で絵を販売している方は、自分の得意なテーマで描けるので不得意なものは手がけなくてもよい。販売することを考えて新しいテーマの領域を広げている。個展をいろいろな所で行っている。PRも全て自分の考えでやっている。作家でもあり、販売員でもある。時々自分のアトリエを開放して新作を発表したり、バーティーなど開いてコミュニケーションの場にしている。作品の制作の他に案内ハガキの作成や展示、ポスターづくり、荷造り、発送、搬出・入など全てを自分で行う。売れなければこれまでの行為がただ働きになる。絵の値段は上げたり下げたりは簡単にはできない。お客の信用に関わるので安値で販売はできない。口コミが大きく関係してくるので人間関係を大切にしている。自分の仕事は自分で仕切ることになるので比較的に自由に時間が作れる。展覧会の作品は集中して取り組める。 二つの例を紹介したが、これ以外に看板屋を経営して特技を生かしながら作家生活を送っている人や画廊を経営しながら作家活動を続けている人などもいる。職業画家に近い人達だ。しかし、多くの作家は様々な職業を持って作家活動をしているのが現状だ。その中には大成したら職業画家になろうとしている作家も多いはず。また、私のように職業にするのは嫌だが作家生活は終生続けたいと願っている人など様々だ。 絵を生きる支えにして 『How to live ?』 の方法は様々あり、自分で見つけるものだ。





絵に対する心構え その7

 美術の世界では、アカデミックな、ダイナミックな、前衛的な、古典的な、抽象的な、構想的な、具象的な、美的な・・・などの形容動詞をよく使う。それぞれの言葉にはいい意味と悪い意味の両方を含めて使うことが多い。アカデミックな作品と言うと、いい意味で伝統を踏まえた作品ということになるが、悪い意味で言うと型にはまった正気のない作品ということになる。ダイナミックな作品と言うと、いい意味で覇気のある作品、悪い意味で荒っぽい作品と言うことになる。前衛的では、いい意味で新しさ、悪い意味で伝統性の破壊・・・古典的では、いい意味で伝統を守った、悪い意味で陳腐・・・抽象的では、いい意味で深い内容、悪い意味で不明瞭・・・構想的では、いい意味で夢のある、悪い意味で非現実・・・具象的では、いい意味で分かりやすい、悪い意味で考えが狭い・・・美的では、いい意味で鋭敏な、悪い意味で浅薄な・・・と言うように対極的な意味あいを含んでいる。絵は人間が創り出すものであり、完璧はありえない。前述したが、絵は人間そのものであると言っても過言ではないという考えを持っている。言い換えるといい絵はいい人間と同じである。万人に一致するものではなく、一人一人によって違ってくるものである。絵も人間も見方が千差万別あるということを強調したい。自分にとって《感じのよい絵は、自分にとって感じのよい人》と同じである。レオナルド・ダ・ビンチの『モナリザ』は世界一級の名画であるが、完璧な作品ではない、ダ・ビンチはまだ未完成であると言っている。どの部分が未完成なのか作者であるダ・ビンチしか分からないことである。我々が見ると完璧に思えるが、見方、とらえ方にどうしてこんな差が生じてくるのか。技術の差や認識の差が歴然とあることを知らされる。ダ・ビンチのようにここまで到達しないと見えないものかも知れない。そんな『モナリザ』でも全ての人が名画と思っているわけではない。人によってはただの絵としか見ていない人もいれば、有名だからという先入観で見ている人もいるわけで万人に共通する美意識ではない。無名の作家の作品でも涙が出てくるような感動を与える場合もあるわけで、絵というものは、一筋縄では言い表せない深いものを持っている。ある人が何処かの美術雑誌に投稿した文の中に気に留めた文がある。『ふと訪れた美術展で展示されていた作品の観音像を観ているうちに涙がとどめなくあふれてきた。どうしてか自分でも分からないが、ともかく大きく心が動かされた。その作品の画家は村上華岳と言う人であった。』というようなことを書いている文を読んだことがある。多少、文章表現に違いがあると思うが、意味の内容は間違いないと思う。30数年前のこの記事を鮮明に覚えている。この中でこの文章を投稿された方が、どんな方なのか分からないが、女性であったことは確かである。また、その時の女性の境遇が大変な困窮状態であったことも記憶している。一枚の絵が、その人の人生を変えてしまうくらいの効果があったことにびっくりした。その絵は多分、村上華岳の観世音菩薩施無畏印像ではなかったかと思われる。絵というものは一人一人によって感じ方が違うものであり、底の深いものなんだなあと強烈な印象を残した。絵は画家達や関係のある一部の人達だけのものではなく、描く人と観る人が共に共有できる文化である。世間一般の原理で言うと、描く人は供給者であり、観る人は需要者の関係と考えてもよいと思う。供給者である作家はいいものを創ろうと必死で取り組み、需要者である観る人はその作家のよさを理解しようと努力する。この関係は共に勉強して進歩しなければ相互理解はできない。作家は数年先の未来に向けて作品を創るが、観る人はそれについていけない部分が生じてくる。このギャップは仕方がないであろう。前衛作家は未来に向けて、美術の領域のギリギリのところで仕事をするので一般の鑑賞者はついて行けないのではないかと思われるが、数年後にはそれが普通になっている場合もあるので、先見の明で先取りをしていくとよいのかもかも知れない。ただ、前衛作家の場合、作品を慎重に見極めないと一発勝負の作品が多いので、次につなげる作品がない場合が多い。そこで消えていく作家がずいぶん多いので注意したい。ギリギリのところで仕事をすると今言った次への発展が望めないことがあるので、作家としても考えて取り組む必要がある。アメリカの前衛作家であったポロックがそのいい例だ。アクションペインティングで一躍名を馳せたが、次に作品をつなげることができずに、行き詰まり、謎の死を迎えている。また、日本では、鴨居 玲氏もその例だ。画家は取り組む主題に余裕をもって、しかも長期的な見通しをもって取り組む必要があるように思う。また、これと同じようなことで、調子に乗って描き過ぎると、燃え尽き症候群になってしまい絵が描けなくなる危険もある。ユトリロやアンソールやレンブラントなどはそれに近い。日本では、若いうちに流行作家になった画家などにこの傾向がよく見られる。発想や気力の喪失で絵が描けなくなった作家は画家としてはみじめだ。絵を職業にしている作家にもこの傾向が顕著だ。描き過ぎてネタがなくなってしまったからだ。しっかりした絵に対する思想をもち、長期的な見通しを立てて取り組む必要がある。人生85年が平均寿命になると途中で才能が枯渇しないようにすることが大切である。これは、私自身に言い聞かせる言葉でもある。






名倉弘雄の英語サイト








Q and A コーナー





Q:公募展とは何ですか?
字のごとく公に一般から作品を募集する団体展のことです。 大勢の人と競うことにより実力をつけることができます。その一方で、公募展には出品しないで個展だけで実力をつけている作家もいます。




Q: 公募団体にはどのようなものがありますか?
洋画はたくさんの団体がありますが、それに比べて日本画の場合は少ないのが現状です。義務教育で日本画を扱っていないことにもよると思います。また、画材が洋画と比べて高いことなどもあります。その他、技術の習得に時間がかかることもあって、日本画をやっている人の数が圧倒的に少ないのが要因だと思われます。 日展、院展、創画会などの大きな団体の他、日府展、新美術展、東方美術展、白士会展、創日展などがあります。 それぞれ独自の活動をしていますので、研究して出品するのもよいかと思います。




Q:公募展にはそれぞれどのような特性がありますか?
厳選主義の団体やアンデパンダン展のような自由出品が可能の団体など様々あります。 入選することだけに意義を傾けすぎると独創性が欠如することがよくありますので注意したいところです。 長く続けられる会を選びたいものです。 いったん会に所属するとなかなか他の会に変われないのが普通です。その会に関わったら、惚れ込んで全力投球をしてほしいと思います。




Q:公募展に出品する場合どのような観点で選んだらよいでしようか?
指導を受けている作家や自分の気に入った作家がいる公募展に出品することが将来的にプラスになるものと思います。 公募展には各県に支部をもっている会もありますので、そのメリットを生かすことも得策です。まわりに自分しかいないというのも、いい場合もありますが、経済的には負担が大きくなります。 作品の搬入や搬出は結構手間のかかるものですし、出費もかさみます。長く活動を続けていく場合には、そのことも一考する必要があります。




Q:会に所属するとなかなか他の会に変われないというのは具体的にどんなことですか?
各団体で公募規定がちがいますので一大決心をしないとなかなか他へ変われないということです。 出品作品の大きさが問題になることがあります。 展覧会の時期が違うと今までの取り組みを見直さないと制作のペースが狂ってきます。 各公募展によってそれぞれの傾向がありますので落選の憂き目を見る場合があります。




Q:公募展はまだ必要ですか?
近年、公募展無用論がまことしやかに叫ばれていますが、日本においてはまだまだ公募展の役割は大きいものがあると思われます。
反面、現代美術そのものがアメリカを中心としたポップアートの影響からマスメディアを利用した個展に変わりつつあることも事実です。公募団体展の意義が薄れてきていることも否定できません。


                    Q&Aの最終更新日 : 2009-09-06




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