日本画の作画について NO.2 作品づくりの基本




よい絵とは NO.3

 よい絵というのは見る人に感動を与える絵のことを言う。鑑賞者はさまざまなレベルの鑑賞眼をもっているのでどこに合わせたらよいのか判断に迷うわけであるが、プロをめざすならその道の専門家が認めるレベルに合わせるべきだ。素人のレベルで満足していては進歩が望めない。そのためには、いろいろな絵に接して自分のレベルを高める勉強が必要だ。日本画だけでなく洋画にも精通して、絵画全般を研究する必要がある。日本画だけしか知らないというのは、レベルが低い段階だ。長い作家生活を続ける意志があるなら必要条件として研究したい。洋画を実際に描けというのではなく、洋画の絵ごころを理解して幅広い鑑賞眼を身につけるということである。日本画と洋画の画材の扱い方や主題の違いや表現の違いなどを知って取り組むことが次ぎのステップにつながり、レベルを高めることにもなる。この両方を知ることにより、絵画全般についての造詣を深める結果にもなる。その勉強をしないでも作品は造ることはできるが、ダイナミックな創造性のある作品は望めない。絵画全般について知ることは、今、生きている時代の絵が描けるということだ。習いはじめの頃は、明治時代や大正時代の絵を描いていてもその古さに気づきもしなかったと思うが、絵画全般の造詣が深まっていくと、知らずのうちに気づくようになってくる。今、生きている時代の絵を描かなくては駄目だ。ただ、きれいに描けているとか、写真みたいに描けているというのは、まだ、レベルが低い。きれいに描くとか写真みたいに描くは、絵画の技術としては必要な条件ではあるが、十分ではない。それを超えたダイナミック性が、絵画には必要だ。ダイナミック性というのは、発想のよさとか大胆さ、迫力、ムーブマン、活力などの情動性の高いものを指す。古典を乗り越えた、新しい創造を作品づくりに生かすことが大切である。このことは、作品を造っていれば自然と身につくというものではない。いろいろな絵を鑑賞して、鑑賞眼を養うと同時に、絵に関する書物を読んで絵画論を深める必要がある。絵から作者の思想がはっきり読み取れるような絵がハイレベルだ。絵は理屈ではないとよく言うが、必ずしもそうではない。理屈を絵には入れることはできないが、形と色で作者の思想を入れることはできる。よい絵は必ず、作者の思想が表現できている。思想のない絵は、レベルとして低い。絵は言葉を超えた表現ではあるが、自分の作品については言葉で言い表すぐらいの批評知識がないと駄目だ。自分の作品を言葉で客観的にとらえることができれば、ハイレベルのところにいると言える。作品を造って、後は、批評家や鑑賞者に任せたというのは作者の思想のない証拠だ。認めれられるか、認められないかは別問題ではあるが、自分の作品に対する考えはしっかりしたものを持っている必要がある。しかしながら、見る人にいちいち説明しないと理解してもらえないような作品では駄目だ。心の中にしっかりとした絵に対する考えを持っていることが大切だということだ。誰でも何枚か絵を描いているうちには、1枚や2枚の傑作はできるものだ。しかし、プロを目指すならこれでは駄目だ。前にも言ったが100枚描いたら99枚は、よい絵でなければプロとは言えない。そのためには、絵に対して確固たる思想が根底になければならない。ピカソの絵には確固たる思想があるから、世界のプロ達があこがれる理由だ。彼は、生まれながらの才能の他、たゆまない努力と、新しい創造の実践を終生続けてきたから、あれだけのすばらしい業績を残すことができた。彼は批評家もびっくりするくらいの批評眼を持っていたと言われている。自分の作品についての分析を常にしていて、作風を次から次へと変え、時代の先取りをした作品をいつも造っていた。ピカソに関する逸話で、「ピカソには自分の作品を見せたくない。」という話があった。これはどういうことかと言うと、ピカソは他の作家のよいところをすぐに自分のものにしてしまうところがあって、画家達にとっては自分の技術を抜きとられてしまうのではないかという心配があったようだ。この逸話にあるようにピカソは批評眼が高かった証拠でもある。日本画とピカソはあまり関わりがないように思えるかも知れないが、絵をやる者にとっては一度はピカソを通り越さねばならない。これも必要条件のレベルと考えてもよいと思う。絵の習いはじめは、写真のようにきちんと描けるようにしたい。これはレベル1、次に長く追求できる主題を見つけたい。これはレベル2、絵画全般についての知識を深めることを目指したい。これはレベル3、そして団体展で会員以上になること。これはレベル4、プロと言えるような画家になることを目指す。これはレベル5・・・・のようにレベルアップしたいものだ。     











よい絵とは NO.4



 絵は自然をそのまま写すことではない。自然の美しさを自分なりの色や形に変えて表現することだ。絵はがきの写真と絵の美しさとは当然違うものでなくてはならない。そのまま写すのであれば写真を使えばよいわけで、絵に描く必要はない。初心者の絵に絵はがきのような絵がよくあるが、これは絵画についてよく知らないことが起因する結果である。また、売り絵の中にもこれに近い類のものをよく目にすることがある。絵について知らない素人の目をごまかすには、この類の作品でもいいのかも知れないが、プロを目指している者にはこれではいけない。前に述べたが、ハイレベルの鑑賞眼を養っていくことが必要かつ、絶対条件だ。鑑賞者のレベルはさまざまだが、プロの作家を目指すならこのことをしっかり頭にいれて取り組む必要がある。売り絵を意識しないで、描いた絵がそのまま売れていくことが理想だか、絵を買ってくれるお客は、そのレベルまで鑑賞眼があるわけではないので、難しいところだ。本当に有名な作家になれば、売り絵を意識しないでも、その作品がどんどん売れていくと思うが・・・・それまでは、展覧会の作品と売り絵の作品の両方を使い分けてやるしかないだろう。もっとも絵を売る必要のない者は、展覧会に全力集中すればよいわけである。絵だけで生活したいと思ったら、この使い分けが絶対に必要だ。よく売れる絵がよい絵であると勘違いしないでほしい。その辺のことをしっかり認識して制作を続けてほしい。絵で生活をしたいがためにレベルを下げた作品づくりに精出すと、絵画の本質を見間違えることになるので注意したい。絵が売れればよいという狭い考えの取り組みは、ダイナミック性を失うことにもなる。商業美術と純粋美術という言葉があるが、プロの作家を目指すなら純粋美術の考えを大切にしてほしい。売り絵風の絵は、きれいで、嫌みがなく、清涼感があり、誰にも好かれ、心の癒しになるかも知れないが、それではいけないと思う。その反対の絵に近いあくの強い、個性的な、独創的な作品を目指してほしいと思う。どちらにしても、難しい技法が必要であるので、簡単には身につかない。ただ一般的には全力投球をした個性の強い作品の方が芸術性が高いと言われる。どちらの方向に行くかは本人の選択であるので自由だ。きれいに仕上がった売り絵に近い絵でも作者のオリジナリティーが出ている絵はいい絵である。岡鹿之助の絵はこれに近い。渇筆の技法を使い、点描で描いたオリジナル性の高い絵だ。なかなかこんな絵は描けない。個性が全面に出た絵は晩年に描かれたものが多い。日本画で言うと、福田平八郎の絵は単純明快で思い切りのいい作品だ。また、洋画では熊谷守一の作品も同様なことが言える。二者の作品は共に、雑念を切り捨てたところに強烈なオリジナルティーを感じる。これらの絵は、一般的には受けがよくないかも知れないが、画家としての執念を感じ取ることができる。うまく描こうとか、売れる絵を描こうといった世俗の考えのないところがいい。このような絵が描けるようになるまで現役でがんばっていきたいものだ。









よい絵とは NO.5

 絵には、具象表現や抽象表現、構想表現などがある。日本画においても同様である。比較的、日本画の場合は具象表現の絵が多い。岩絵の具の特性から具象の表現が合っているからであろう。しかし、最近の日本画の作品も多様になり、抽象表現のものや構想表現の作品も多く見かけるようになってきた。どちらの表現がいいかは作者の考えによるもので作者自身が決めればよい。基本的な学習は、まず具象表現からスタートするのが一般的である。いきなり抽象や構想表現に進むことは考えられない。具象表現が基礎になるので、具象をマスターしてから試行していく表現と考えてよいと思う。自分が表現したいものにかなっているかどうかによって、使えるかどうか決まってくる表現である。抽象や構想の表現が具象より優っているというわけではない。ただ制作の過程でワンステップ、プラス思考しなければならない表現になる。描く内容によって必要かどうか決まってくる表現である。制作を重ねていくうちに、一度は試行しなければならない表現になると思う。具象でずうっと続けていく人は考えなくてもよい表現かも知れない。ただ、長い作家生活の制作過程で一度は考える表現でもあるので理解はしておく必要がある。。構想表現のすばらしい作品を造っている作家に、加山又造や工藤甲人がいる。加山又造の若い時の作品にはすばらしい構想表現がある。晩年、彼は古典表現にもどり琳派風の作品を造っている。私、個人の考えでは、彼の若い時のダイナミックな構想表現の作品のほうが好きだ。晩年の古典風の作品は日本画らしい整った作品ではあるが、若い時代の作品と比べてみると迫力に少し欠けるところがある。一方、工藤甲人の作品は構想表現を駆使したすばらしい幻想的な作品を造っている。好みは各自によって皆違うので、自分の判断で参考にすればよいと思う。また、抽象表現の作品を造っている作家に宇治山哲平がいる。しかし、彼は日本画の岩絵の具を油絵の具に混ぜて使っているので、日本画と言ってよいのか、洋画といってよいのかわからないが,作品は純日本画風の抽象画である。抽象表現に興味のある者にとっては、大いに参考になる作品である。具象や構想、抽象表現とはひと味違った表現をしている作家に池田遙邨がいる。彼の作品は童話風物語絵と言ってよいのか、イソップ風物語絵と言ってよいのか迷うが、ともかくも、大変ユニークな作品である。例にあげた作家はどれも独自性の強い個性を持った作家で、しかも芸術性の高い作品を造っている作家である。今後、大いに参考にしていくとよいと思われる。しかし、それらの表現を真似ただけの亜流の作品を造っていては駄目である。それを超えた自分のオリジナリティーを見つけなくてはならない。模写をして勉強するのはいいが、あくまでも習作として描いてほしい。気に入った作家がいたらとことん研究をしたり模写をしたりして、それを自分の作品に取り入れることは、初期の制作活動としては許されることである。しかし、それをいつまでもしていては、亜流の作品になるので注意したい。亜流にならないように、それを乗り越えた作品づくりに心がける必要がある。継続は力なりという言葉があるように、あきらめないで創作を続けてほしい。きっと独自のものが見つかるはずだ。   


















絵に対する心構え その1

 絵描きになるにはいつからはじめたらよいかと言う問いが大変多いのでそれについて考えてみたいと思う。まず絵描きの定義をしておきたい。絵描きには二通りあって、職業にしている絵描きと、職業にはしないで作品を造り続けている絵描きとある。これをを読んでいる多くの方々はきっと絵描きを職業にしたいと思っているにちがいないと思うが、自分自身でよく研究をして後悔のない選択をしてほしい。一般に職業画家をプロと言っているが、作品のレベルはこれとは関係ない。職業にしていない画家でもすばらしい作品を造っている作家も多い。どちらに選択しても、きびしい生活を覚悟しなければならない。絵だけで飯を食っていけることが理想ではあるが、家族を持ち生活をしていくことになると並大抵なことではない。家族の理解と協力がないと続けられるものではない。世間一般の生活をして楽しもうなどと考えないほうがよい。相当な覚悟と忍耐をもって地道な努力をしていかないと途中で挫折してしまうことになる。これに耐えて続けた者に栄光の道が待っている。しかし、一生懸命に努力しても、成功するという保証はないので、そのことをしっかり押さえておきたい。絵を職業にしないで作品を発表し続けていきたいと思っている者にとっても、大変な試練があることを肝に銘じておく必要がある。他の職業を持って作品を造っていくことは、相当な覚悟と意志の強さが求められる。定職を持つということは年齢とともに責任が付随してくる。途中できっと挫折感を一度や二度は味あわなければならない時がくると思う。その時になって、それを乗り越えたものが最後に栄光をつかむことになる。しかし、有名な画家になれるという保証はない。制作を続けられたという自分自身の満足感しかないかも知れない。それでは、その選択をいつしたらよいかということになるが、職業画家になろうとしたら、早い時期に決断をして地についた努力をする必要がある。この方向を選んだ多くの者は、きっと美術関係の大学を出ていると思われるので、できれば卒業と同時にこの道に進むのが成功の早道だと思われる。早くから自覚にめざめて、そのための勉強をしていけば、きっと幸運をつかむことができると思う。自分の作品の愛好者をたくさん開拓し、画商とのつながりを深めていけば、きっと成功の道が開けていけるものと思われる。私自身は職業画家を選択しないで、美術教師として定職を持ちながら40年余り続けてきた。今は定年退職を迎え、これからは絵一筋に集中できる環境になった。しかしながら、職業画家になるには年齢的に無理なので、今後は、作品が続けて発表できることを最上の喜びとしていきたい。最後の画家生活を現役で全うできることを一番の目標としてがんばっていきたいと考えている。さて、私事であるが、私の大学の同級生で、その後、東京芸大の大学院に進みプロの道を歩んだ者に佐原和行という画家がいる。彼は、芸大の大学院で水彩画の大家である春日部たすくに師事をし、その後、絵一筋の道に進んだ。その彼が平成18年の3月6日に亡くなってしまった。我々大学の同級で一番の出世頭だ。有名な水彩画家になることができたのにと思うと、何と言っていいのか言葉を失う。彼のご冥福をお祈りしたい。この世は、思うようにいかないものだ。進みたい道で成功して、悠々自適の生活が待っているはずなのに・・・天は非情だ。彼は命と引き替えに成功の道をつかんだのかも知れない。さて、自分に立ち返ってみると、どの道を選ぶかは本人自身の問題だ。意志を強く持って努力してほしい。  







絵に対する心構え その2

 絵に一生を賭ける価値があるかどうか。この答えは大変難しく、私自身、常に問いかけながら今日まで迎えている。私にとって絵をやめたら、いったい何が残るかという自分自身のアイデンティティーに関わる問題でもある。絵なんかなくても日常生活は送れることができるし、また、絵で飯を食っていくことなど不可能に近いわけだし、何故それまでして続ける価値があるのか。この問いの答えは、『ものを創り出すおもしろさを味わってしまったからだ。』と言うしか言葉が見あたらない。制作費でずいぶんとお金を使い、完成までたくさんの時間を使い、睡眠時間を削り、そして、絵と格闘をしながらも、最後に完成が近づいた時の充実感は言葉に言い尽くせない貴重なものだ。この経験を味わったことのある者が『絵に一生賭ける価値』があると言える。完成までのプロセスは自分の頭の中にあり、それを一つずつクリアーしながら納得のいくところまで取り組み、完成を迎える。絵は自分ひとりだけの世界を表現するが、脳裏にはいつもその絵を見てくれる鑑賞者の目を意識している。どのようにその絵を見てくれて、どのように感じてくれるかを無意識のうちに計算して取り組んでいることを自分でも感じる。それは展覧会という発表の場を意識して作品を造っていることに他ならない。人に見てもらうという意識なしに作品を造ることは、自分だけの満足に終わってしまう。人の目を意識してこそ作品に進歩が生まれる。絵はコミュニケーションの場でもある。描く本人だけが満足するものではない。絵を習いはじめの人に多いのが、自分の作品を他人に見せるのを嫌がる人がいることだ。自信がないことにもよるが、絵の本質を知らないことにもよる。絵は自分自身が楽しむためでもあるが、また、鑑賞者を楽しませるものでもあることを自覚してほしい。絵に自信がついてくれば、自然と分かってくることではあるが、絵は『コミュニケーション』の場であるということに注意してほしい。 絵が好きだという方にお会いする機会が多くなり、絵の話をしている中で気になることがある。本当に絵が好きだというよりも投資の対象で絵に興味を持った方々が結構みえることだ。あの作家は号いくらで人気があるから、その作品がほしいとか、また、作品を購入したいが誰の作品を買ったら将来的によいかなど、これに類することをよく耳にするが、このことは、本当の絵のよさを理解していないことでもある。別に悪いことではないが、もう一歩ボルテージを上げてほしい。本当の絵の価値を求めて研究してもらいたい。日本のバブル時期に企業が購入した世界の名画が、今や風前のともしびで、その当時の半値か三分の一ぐらいで海外に流失している。日本にとって大きな損失だ。絵のよさが分かって購入したなら簡単には手放せないはずなのに・・・。多くの人々が鑑賞できる美術館に展示すべきものなのに倉庫で眠っている。芸術品を商品として扱っている。その絵を簡単に手放すということは、絵のよさは二の次で投資として購入したものだからこのような扱い方をしているということだ。コレクターとしてはレベルが低い。海外で顰蹙を買っている原因でもある。投資の対象でしか絵を見ていないからだ。今や美術館でさえ例外ではない。今まで常設していた作品がどんどん手放されている。経営悪化でしかたがないという面もあるが、本当の意味の絵の価値が分かっていないことを証明している。国がもっと日本の文化遺産を大切にする政策を講じていけばこの問題は多少なりとも解消されると思う。しかし、すでに遅しの感がある。経済が上昇しつつある今、同じ過ちを繰り返してほしくない。企業はもう一度メセナを復活させ、芸術や文化に大きな投資をしてほしい。きっと活性化に役立つと思う。メセナとは企業が芸術家の支援をする活動のことを指す。『絵に一生を賭けても価値のある・・・』 社会をそして、日本を期待したい。    









絵に対する心構え その3

 平成18年に起きたW氏の盗作疑惑問題について考えてみたい。同じ仕事に携わる人間として、強烈なインパクトを受けた。 平成17年の5月、私の所属する展覧会を三重県の文化会館で開催していた時に、すぐ近くにあった三重県立美術館でW氏の個展が開催されていた。大々的にPRされており、我々の展覧会などはどこ吹く風といった感じであった。W氏の展覧会を非常に羨ましく思ったものだ。そのW氏が当の盗作疑惑問題でニュースを賑わせているとは全く信じられなかった。制作の領域は違うが、同じ画家として恵まれかたがこんなに違うものかと内心、羨望の念を抱いていた。W氏の経歴を見るとすばらしいもので、学歴、所属団体、受賞歴、海外研修、大学の教授などの肩書きも一流で、誰もが認める素地を持っている。普通に制作活動をしていれば自然と名のある画家になっていたはずである。模写の研究に力を入れすぎだために彼の歯車が狂ってしまったように感じる。模写としての技術は誰もが認めるところだ。人の作品の模写を続けると作家として大切な発想の部分と画面構成である構図についての考えが欠落してしまう。正確に写し取る技術の追求に終始してしまい、職人としての技術の積み上げだけが身についてしまう。また、言い換えて言うと、クリエイターとして一番必要な、且つ 、大切な要素である発想や構想、画面構成などは考えなくてもよいという単なるコピー(写し)の仕事が模写の世界だ。絵の研究としてはよいが、その技術を自分のオリジナリティーにしようとすると無理がある。画家として初期の段階なら模写の研究はプラスになるが、画家として一本立ちしたら模写なんかやっていたら却ってマイナスになることが多い。絵で大切なダイナミック性(発想のよさ、大胆さ、迫力、動勢、活力などの情動性)の研究がより必要になってくる。模写は過去の作家の技術を研究するためにはよいが、それをいつまでもやっていたら駄目だ。その辺がW氏の歯車の狂ったところだと推測する。色や、絵の具の厚さを変えても絵の根幹となる発想と画面構成が同じならオリジナルではない。単なる模写としての仕事しかない。重ねて言うが模写はあくまでもコピーだ。それを自分のオリジナルと主張しても通らない。W氏は長年の模写の研究で画家としての大切な部分を忘れてしまったようだ。W氏は絵の修復師としての道に進めばその技術も生かせて大成できたと思う。W氏の地道な研究は貴重ではあるが、発表の仕方を間違えてしまったとも言える。コラボレーションとかオマージュとか言って言い訳をしているが、それがいけない。そんなことは作家として通らない。W氏はパソコンを全然操作できないと言っていたが、その辺が時代遅れの損失点だ。今やインターネット全盛時代において画家でも絶対に必要なものだ。もし、W氏がホームページで作品を公開していれば、早く気づきこれほど大きな問題に展開しなかったと思う。世界の情報が瞬時にして見られるこの時代であるから遠い外国の情報も筒抜けだ。多くの人の目を通せば、隠し事は通用しない。その辺がW氏の誤算でもあったように思う。また、W氏に大きな賞を与えた評論家や文部科学省の責任も大きい。W氏にとっては、模写の仕事に評価を与えられたと勘違いをしている面も見られるからだ。ただ、作品には『オマージュとか・・・氏に捧ぐ』とかの表記が必要であった。もし、その表記があれば、これほどの問題にはならなかった筈である。もちろん、賞の対象にもならなかった筈ではあるが・・・絵を取り巻く環境が、今の日本において首を傾げる状況であることは事実である。           







絵に対する心構え その4

 画家として長く活動するならば、絵に対するしっかりした考えを持つべきだということを記したが、それについて再考したいと思う。言い換えると、絵に思想を持つべきだということ。理屈を絵には入れることはできないが、思想は色や形に表現すことができる。趣味程度にやるならばこのことは気にしないでもいいが、長く活動し、そしてプロの道を夢見るならば絶対に必要だ。この思想の意味を定義しておこう。自分は何故絵を一生の仕事として選んだか、あきらめないでやる意志があるか、どのような作家になりたいと考えているか、どのような絵を描きたいと思っているか、夢を実現する自信があるかなどについてしっかりした自分の考えを持つということだ。その目的のために一つずつ勉強していく覚悟がなければならない。美術全集を見たりして作品の研究や画論を深めていく努力が必要だ。美術全集だけでなく美術館へ足を運んで本物の作品を鑑賞したり、名画の常設展示をしている各地の美術館めぐりなどをしたり、外国の美術館にある本物の名画を鑑賞して鑑賞眼を養う勉強が必要だ。また、気にいった作家は徹底的に調べ、その作家のことなら何でも知っているという自信を身につけたい。あまり好きではない作家についても、何故自分はこの作家が好きでないかを言葉で言い表せるぐらいの知識が必要だ。自分の学習度に応じて好みの作家は変わってくるので嫌いな作家こそしっかり研究したい。そのうちに自分の考えの変化に気づくはずだ。好きな作家の作品を模写したりして研究することも大切だ。初期の学習では好きな作家の亜流でも許される。そこからだんだんと自分独自の作品づくりをしていけば亜流から乗り越えることができるはずだ。絵は自分だけが楽しむものではなく、常に鑑賞者をも楽しませるものでなくてはならない。つまり、鑑賞者の目を意識して作品をつくることが大切である。多くの人に自信を持って見せてあげてほしい。自信がないということはまだ、学習が足らないということだ。自信がついてくると発表したくなるのが普通だ。作家には自己顕示欲も大事な必要条件のひとつだ。決してはずかしいことではない。少しずつの勉強の積み重ねが夢の実現に近づく。(Dream come true!)あきらめないことだ。画家や作家には誰でもなることができる。意志の強さが勝負だ。しかしながら、本当の画家や作家になれる人は非常に少ない。何十年とかかるこの仕事を続けてきた人達の中でも世に出るようになるには難しい世界だ。実力もさることながら、もろもろの運がないことには埋もれてしまう。運も実力の内かもしれないが・・・気長に好きな道を追求する心構えが大切だ。たとえ有名にならなくとも好きなことが続けられただけでも幸せだと考えれば納得できるではないか。最近、テレビやその他のタレントが個展をして本業以上に評価をされ、我々の地味な活動を脅かす傾向が見られる。彼らの作品はさすがタレント(英語の直訳で才能のある人)で小綺麗に仕上がっているけれども、作品に思想がない。短い期間なら画家として通るかも知れないが、息の長い作品づくりはできない。2~3年で息切れを起こしそうな作品ばかりだ。まだまだ、我々の驚異とはならないが、メディアがあまりにも過大評価を与え過ぎていることが気になる。今のタレント画家で20年~30年もつ画家がいるか疑わしい。いたとしたら敬服する。もっと地道な活動をしている画家や作家に光りを与えてほしい。昔から貧乏絵描きというが、今の時代は貧乏では絵は続けられない。経済的な余裕と意志の強さが求められる時代である。安心して創作に没頭できる環境、そして、作品を発表できる場が必要だ。そのための支援が求められる。                 





Q and A コーナー





Q:よい絵とは何ですか?
趣味で絵を楽しむ程度であればよい絵を意識することはないでしょう。しかし、プロをめざすとなると大変難しい問題がたくさんあります。それを学んでほしいと思います。




Q: 絵に対する心構えについてどんなものがありますか?
さまざまな観点がありますので、書物で調べるとか、実際に名のある画家に直接聞いてみるなどいろいろの勉強方法があります。 絶対的こうだというものはありませんので、自分で取捨選択をして身につけることが大切だと思います。




Q:よい絵には日本画と洋画の違いがありますか?
明治以降の日本の独特な絵画表現として日本画が生まれました。それ以前は日本画とは言いません。大和絵とか、山水画、花鳥画、水墨画などに区分していました。日本画独特な表現として、装飾的、平面的表現、線描的、形の取り方が実在的でなく簡素的表現になっているなど洋画とはずいぶんと違った表現を取ってきました。しかし、現在では洋画とほとんど違わない表現で描かれている日本画もあります。確たる違いがなくなってきたのが現状かも知れません。ただ、絵の具の違いが大きく作画に影響してきますのでその違いが相違点になるのではないかと思います。しかし、画面の間(ま)のとりかたなどは大きな違いとして存在します。洋画では余白という意識はありませんが、日本画では大切な表現の要素になります。逆にそれを洋画に取り入れて描いている洋画家もいますから一口では区別できなくなってきています。 洋画はぎんぎらしたあくの強い表現のものが多いのに対して、日本画はあっさりした表現のものが多いように思われます。 洋画は油彩による強い艶(光沢)があるのに対して日本画は艶がないことが表現の好みの違いとして大きく存在してきます。




Q:間の取り方とは何ですか?
洋画でいう構図のことです。構図は画面の組み立てのことを言います。日本画では描かない部分を余白として金箔を貼ったり銀箔を貼ったり、または、画面の和紙をそのまま残したりしています。描く部分と描かない部分を調和してシンプルに仕上げるのが日本画の特徴です。一方、洋画では画面の隅々まで計算して描きこむのが要素としてありますので、大きな空間にはサインを入れたり、アクセントになるものを描いたりすることがよくあります。しかし、前述したようにわざと逆の効果を考えたりしますので、日本画と洋画の考え方は隣接してきています。




Q:日本画の線と洋画の線には違いがありますか?
日本画では、鉤勒 (こうろく) とか鉄線描 (てつせんびょう) とか骨がき (こつがき) といった線に関する言葉があります。鉤勒とは物と物との形を輪郭線で括ることを指します。鉄線描というのは鉄線のように細く均一に引いて描いた線のことを言います。骨がきというのは輪郭線だけを描いた線がきのことを言います。面相筆で描いていきますが、大変な根気と熟練のいる技法です。 日本画では速水御舟の繊細な線と骨太な線を使った橋本明治の作品を比べると参考になると思います。 洋画では日本の画家藤田嗣治の線とフランスの画家ルオーの線を比べると参考になると思います。 日本画の線は筆触(タッチ)を押さえた均一な線が多く見られますが、洋画では筆触を前面に出した線が多いように思われます。 線の好みは作者自身が決めるものであるので、どちらがよいとか悪いとかを問う問題ではありません。




Q:盗作疑惑となっていますが盗作とどう違いますか?
実際に表現されたもの(創作物)については、はっきりとした著作権の保護がありますが、発想やアイディアについては著作権の及ぶ範囲が曖昧模糊になっています。法廷でしっかり論争をして判決が出るまでは盗作とは断定できません。そのことからこの表現になっています。


                    Q&Aの最終更新日 : 2014-10-04






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