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山岸涼子の初期の作品には、1作品ごとのテーマとは別にもっと大きな流れが存在する。
それは彼女の試行錯誤の足跡であり、おそらく彼女自身が意識しない付帯脳が描かせたものであろう。なお、ここでいう彼女の作品は短編を意味し、長編は除外する。長編には制約が多く思考をストレートに反映しにくい面があるというのがその理由だ。
まず「クッキーとレモンティー」までを第一期。「アラベスク第一部」までの短編を第二期。「アラベスク第二部」までの短編を第三期。「妖精王」までを第四期。「日出処の天子」までを第六期。その後を第七期というふうに、長編を境に時代順に分類してみた。その境前後1、2作品の融通は許していただくとして、それぞれについて述べていきたいと思う。
第一期(レフトアンドライト、あした青空、あの子は天使、ハローヤング他)
―――――それは少女漫画から始まった―――――
ほとんどがスポーツものと学園ものであり、楽天的なおてんば娘と内気な女の子と、それをいじめる意地悪い女が登場する典型的な少女漫画。
第二期(貝がらの恋、ひまわり咲いた、栄光のグリーンフィールド、水の中の空、遠い讃美歌、白い部屋の二人他)
―――――役者から女の子に―――――
「貝がらの恋」においておてんば娘、初美はそのそそっかしさの為に悩み、そして自分の中に閉じこもろうとした。今までたえず笑顔を見せていた女の子、いや、そうすべき役柄の女の子が悩み始めたのである。つまり、山岸涼子は、おてんば娘と内気な女の子の区別をなくしてしまったのだ。
それはさらに、この二期の終わりに位置する「白い部屋の二人」においてエスカレートする。山岸涼子は主人公の女の子と意地悪女を恋におちいらせ優等生の中に潜む魔性を表現した。それは、おてんば、内気、意地悪という性格の融合を意味する。
その為これ以後、彼女は典型的少女漫画パターンを使えなくなってしまった。今まで単に構成上の役者として山岸漫画に出演していた女の子達は、これ以後一人の人物として描かれ始める。
第三期(ネジの叫び、だれかが風の中で、ティンカーベル、ねむれる森の・・他)
――――――コペルニクスの叫び―――――
「ネジの叫び」において、彼女の絵柄が大きく変化するのであるが、絵柄については別の機会にあらためて述べさせていただくとして、ここではストーリー面を追っていく。この作品は恐怖漫画であるが復讐という形を使って女性の悪の部分を描いている。
山岸漫画につきまとう女性=女の性、それを描くためにはどういう形式が許されるのか。その答えを見つけるために彼女の付帯脳はフル回転を始めた。
恐怖漫画である「ねむれる森の・・」、人魚に実在感を与えすぎたためファンタジーとなってしまった「わたしのネプチュナ」などいろいろな実験がおこなわれたなかで、以後の展開に重要な2つの形式が試みられている。
1つは「だれかが風の中で」、お手伝いの女の子ニコルはエミリエンヌ(幽霊)にとりつかれた少年ジュールと接する。
つまり、読者−主人公(傍観者ニコル)−実質的主人公(少年ジュール)−妖精(エミリエンヌ)という形式で、これを便宜上"間接形式"と呼んでおく。
そしてもう1つは「ティンカーベル」、主人公ダフニーはティンカーベルと絡む。
つまり、読者−主人公(ダフニー)−妖精(ティンカーベル)
という形式で、これを"直接形式"と呼ぶ。
第四期(ラプンツェル・ラプンツェル、シュリンクスパーン、パニュキス、セイレーン、セラピム他)
―――――カフェ・オ・レ―――――
一連の妖精シリーズである。山岸涼子は「だれかが風の中で」で試みた"間接形式"でこのシリーズを描く。これらの作品で描いているテーマは、もはや少女漫画の域を脱していた。
嫉妬、エゴイズム、近親相姦、マスターベーション・・・・これらの激しい内容をもった自分の作品を少女雑誌の中で発表するために、山岸涼子は"間接形式"をとったものと思われる。
つまり彼女の毒のある内容をあっさりと読ませる為の大量の【MILK】が"間接形式"と【妖精】であった。読者はそれゆえ、現実からかけ離れた話として山岸涼子作品を受け流すことができたのだ。
第五期(ウンディーネ、ハーピー、バンジー他)
―――――ウィンナー・コーヒー―――――
次に山岸涼子は"直接形式"をとる。それは、さらに主人公の内面へ入っていくことを意味した。傍観者を取り除かれてしまった我々読者は、主人公と【妖精】とのかかわりあいをまのあたりに見ることとなる。
そのかわり"直接形式"においては【妖精】の存在感が高まり、ファンタジー色が強くなっている。山岸涼子はここでは【妖精】というファンタジーへの逃げ道を用意した。
第四期がカフェ・オ・レならば、第五期はうすい生クリームを浮かべたウィンナー・コーヒーである。
さて、ここで我々は疑問をいだく、【妖精】とはいったい何なのかと。
山岸漫画の主人公達に架せられた宿命がある。それは【コンプレックス】である。
「ひまわり咲いた」の宮本カンナは精神薄弱児であり「遠い讃美歌」のサリーは口がきけなかった、このように第二期では肉体的欠陥として描かれているにすぎないが、第三、第四期を通して精神的コンプレックスへと成長していく。そしてこの【妖精】こそ【コンプレックス】の象徴なのだ。
第六期(天人唐草、キルケー、グール、スピンクス、メデュウサ、悪夢他)
―――――そして、狂気の中に入っていった―――――
より核心に迫るために山岸涼子は【妖精】さえも取り除いた。以後、【妖精】は単に女性の悪を象徴する言葉としてのみ使用される。
我々は彼女の作品を【MILK】なしで飲まされることになってしまった。ところが、計算高い彼女の付帯脳は我々に【SUGER】を用意してくれていた。それは【狂気】である。
ああ、これは精神病者の心理を描いているのか、と作品を素通りする読者の為の逃げ道。又は、作品にドラマ性を持たせる為の一種のオチとして【狂気】が使われた。
つまり【妖精】が【コンプレックス】を象徴していたのと同様、【狂気】もまた何かを象徴している。「天人唐草」の岡村響子も「スピンクス」のアースキンも単に狂人を演じるために山岸漫画に登場したわけではないのである。
第七期に入る前に、もう一つストーリー上の変化が見られる。今まで【妖精】に接してきた主人公は、恋をすることによって、あるいは死ぬことによって、最後には救われていた。しかし、第六期以降、主人公は脱出することも死ぬこともできずに、いや「グール」のように死後の世界でも身をむさぶり食らい、永遠に【狂気】の中で生きていかなければならなくなった。
では、その山岸涼子の描く【狂気】とは何なのか、次はその答えを見つけなければならない。
第七期(ダフネー、ストロベリーナイト他)
―――――そして、狂気の後―――――
狂気を演じる人=日常から疎外された人 という図式をあてはめると、彼女の作品は、狂気シリーズだけでなくその前の作品までも、一貫性を持ち始める。
悩みつづけた女の子達も、【妖精】を見た人達も【日常】とうまく付き合えない人達だった。【日常】とうまく付き合えないがために彼女達は【狂気】に落ちていった。
では本当に彼らは狂っていたのだろうか?その答えは「ストロベリーナイト」で明らかにされる。
【日常】の方が狂っているのだ―――山岸涼子が、とうとう主人公に言わせたセリフである。
山岸涼子は【日常】というものを狂わすことにより【狂気】を狂気でなくしようとしているのではないか?
そう、彼女はいつか【狂気】さえも取り除き我々にブラックコーヒーを突きつけてくるだろう。その時に備えて、読者を少しづつ慣らしてきたのだ。
その先、彼女はどうするのだろうか?それは誰にも予測できない。おそらく山岸涼子自身にも、なぜなら少女漫画界における彼女の存在そのものが【狂気】のなせる技なのだから。
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