礼拝説教(2003.11.30)「神の計画」ローマ8章28節 平岡広志

 教会暦では、今日からアドベント、待降節に入ります。アドベントという言葉は「到来」という意味です。神様が私たちのために御子イエス・キリストをこの地上にお送り下さったクリスマスの到来を、祈り待ち望む時であります。暗いこの世界に神様の光が灯される主の救いの到来を待ち望む時であります。

 アドベントというのは、本来、神さまご自身が自らを私たちに示して下さった出来事が、私たちのところに到来することを意味します。ですから、私たちがクリスマスに向かうのではありません。クリスマスが私たちのところに来てくださるのであります。クリスマスは何よりも主がすべてに先立って備えて下さった救いの出来事に基づいているからです。

 神さまは天地創造の初めから、すべてに先立って私たちのために救いの業を始められ、私たちが主と共に生きるために主イエスご自身を私たちのもとに送ってくださいました。そのことをパウロは、ローマ11:36で「すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです」と言いました。

 教会暦の中で、クリスマスに先立ってアドベントが備えられているということには、実は深い意味があります。クリスマスは、神さまが私たち人間のために備えてくださった「神の時」であります。アドベントは、その「神の時」を迎えるにあたって、私たちが、自分はいったい何者として、どこから来て、どこに向かっているのかを、信仰をもって深く考え、自らの心に問いかけるための「時」であります。私たちはこの現実の世界、目に見える世界に生きていますが、もし「神の時」というものを知らないならば、私たちは、自分がどこから来て、どこに向かっているのかを知ることはできません。そして、私たちの人生で神に向かい、神のうちにある時を知ることがなければ、真の意味で魂に安らぎを得ることもできません。エレミヤ書6:16にはこうあります。「主はこう仰せられる。四つ辻に立って見渡し、昔からの通り道、幸いの道はどこにあるかを尋ね、それを歩んで、あなたがたのいこいを見いだせ」。本当に私たちは、自分たちのいこいがどこにあるのか、魂の安らぎが、救いがどこにあるのかを、このアドベントのときに、人生の四つ辻に立って、もう一度見渡し、進むべき道、救いに至る道がどの道なのかを、祈りつつ尋ねなくてはなりません。

 その意味で、アドベントはクリスマス前の一ヶ月だけではありません。私たちの全生涯がアドベントであります。なぜなら、私たちの全生涯は神から出て、神によって保たれ、神に向かっているからです。

 私たちは神さまから召され、神さまのご計画に与る者としての役目を一人一人が担っています。私たちがこうしていま教会に集っているのも、洗礼を受けてクリスチャンになったのも、究極的には、全て神さまの召しによるものです。そして神さまはローマ8:28(本日の聖書)にあるように、ご計画に従って召された人々を、神さまご自身がすべてのことを働かせて益としてくださいます。

 神さまのご計画とは何でしょうか。それは、一言でいえば私たち人間の救いであります。エレミヤ29:11に有名な御言葉があります「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。それは、わざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」。

 この箇所は、バビロンに捕囚されたユダヤの人々に語られた解放の預言の言葉です。クリスマスは、罪というバビロンに捕囚された私たち全ての人間を、そこから解放してくださる救いの到来の時であります。このように神さまは、私たちに平安と救いを与える計画を旧約の昔から今に至るまで備え、実行してくださった。その頂点がクリスマスの誕生から十字架、復活へと至る主イエス・キリストの出来事でありました。

 旧約の人々が救い主の誕生、クリスマスを待ち望んだように、私たちは今、復活の主が再びこの世界に来られて、神の国を完成される再臨のときを待ち望んでいます。その意味でも、さきほど申しましたように、私たちの人生はアドベントの時であります。私たちは今も神のご計画の中で生きているのです。

 そしてまた、私たち一人一人がそのご計画に与る者として召され、用いられています。それは決して小さなことではありません。時として、一人の人間の召しが、後々に非常に大きな出来事となって、想像もできないような影響力を与えることになる。そのことによって、多くの人々の生命が救われ、一国の存亡の危機を救う。そのようなことが実際にあるのです。今日は、その一例をお話したいと思います。

 この話は私たちの教会にもゆかりがあることです。名前を出して申しわけないのですが、足立さんの御一家に関わりのあることです。

 以前、壮年会の小グループで、信仰の継承ということが話題になりました。その時に、足立兄がクリスチャンホームとしての自分の家系のルーツを話してくれました。足立家のクリスチャンホームとしての始まりは、足立さんの曽々祖父である足立元太郎という人だそうです。明治の初め、日本でキリスト教禁止が解かれたばかりの頃ですから、キリシタン時代を除けば、日本におけるクリスチャンの第一世代に属する方です。今の北海道大学の前身、クラーク博士で有名な札幌農学校の第2期生です。同級生に内村鑑三や、五千円札の肖像になっている新渡戸稲造がいます。足立元太郎氏も後に、母校の助教授を経て、当時の最重要産業であった生糸を生産し輸出するための横浜生糸検査所の所長という、今で言えば、農林水産省や経済産業省の局長クラスの要職に就かれた方でありました。

 この2期生たちが、初めて札幌農学校に到着した夜、構内は静まり返っていたそうです。当然、何かしらの出迎えがあるだろうと思っていた2期生たちは当惑します。実は、その時、1期生たちは祈祷会の最中だったのです。信徒伝道者でもあったクラーク博士の影響で、第1期生たちは熱心なクリスチャンになっていました。そして、そこへ飛び込んだ第2期生たちは、今度は第1期生によって伝道されます。そして半分強制的に2期生たちはキリストを信じる者にさせられます。足立元太郎もその一人でした。2期生のうち何人が最後まで信仰を貫いたかは分かりませんが、少なくとも足立元太郎は生涯信仰を持ち続けました。足立兄の言葉によると、晩年「キリストじいさん」と周囲から呼ばれるほど熱心なクリスチャンだったようです。

 私は足立兄からこの話を聞いて、興味がわきました。自分の身近なところに有名な内村鑑三や新渡戸稲造とゆかりのある人の子孫がいた、これはおもしろいということで、いろいろと調べてみました。そうしたら、更に興味深い事実が次々と出てきたのです。初めはただ驚くばかりでしたが、そのうちに、その背後に隠された神さまのご計画に触れて畏敬の念を持つようになりました。

 明治37年4月、東京府立女子師範学校、現在の東京学芸大学に日本で最初の幼稚園ができました。園舎は師範学校付属小学校の一部屋を借りて開設されました。園長は小学校の校長先生が兼任。保母はただ一人、その年、女子師範を卒業したばかりの21歳の初々しい娘さん。名前は足立タカさん。足立元太郎の長女です。日本で最初の保母さんは足立兄の曽祖母である、このタカさんでした。

 さて、翌年、明治38年4月、皇室に皇孫仮御殿というのができまして、そこで皇孫(明治天皇の孫、つまり後の昭和天皇のことです)を養育することになりました。それで、いったい誰がその養育係となるかということになったわけですが、当時、自分の孫を師範学校付属幼稚園に通わせていた前文部大臣の菊池大麗(だいろく)という人が、タカさんを見込んで、殿下の養育係にはこの人しかいないと強く推薦し、足立タカさんが後の昭和天皇の養育係となったのです。

 タカさんが、幼稚園でどのような教育をしたのか詳しいことは分かりませんが、菊池前文部大臣をして、この人しかいないと言わしめた以上、とても素晴らしい教育、保育をされたに違いありません。私は、その背後には父である足立元太郎から受け継いだキリスト教信仰があったのではないかと思います。

 天皇は、昭和53年12月の須崎御用邸での記者会見の席上、次のように語っています。 「タカは、本当に私の母親と同じように親しくしたのであります。彼女は北海道の出身であったので、松村松年(しょうねん)という北海道大学に奉職している昆虫学者と親しくしていて、私が調べて分からないときは、タカに相談すると、松村と文通して調べてもらい、親しく私を指導してくれたことを今なお忘れずにいます」

 昭和天皇は学者天皇という別名でも知られているように、生物学では世界的な権威であり、多くの著書もありますが、生物学に興味を持ったその最初のきっかけは足立タカさんとの出会いではなかったでしょうか、と北海道師友会理事長の上田三三という方が言っています。

 タカさんは昭和天皇が4歳から15歳まで養育係を務めました。幼少の頃は夜、添い寝をしてたくさんの物語を聞かせたり、歌を歌ってあげたそうです。おそらく、タカさんが幼い天皇に語ってあげた物語の中には、聖書の物語もたくさんあったのではないかと思われます。歌の中には賛美歌もあったかも知れません。三つ子の魂100までもと言いますが、昭和天皇の人格形成の中で、幼い頃に枕辺で聞いた聖書の物語が知らず知らずのうちに大きな影響を与えていたことは容易に想像されます。そして、そのことが後の日本に非常に重要な意味を持ってくることになります。

 タカさんは養育係を終えた後、天皇の侍従長であった鈴木貫太郎という人と結婚します。後に内閣総理大臣になった方です。この方も進歩的な思想の持ち主で、昭和天皇の篤い信頼を得ていた方ですが、昭和11年2月26日、有名な2.26事件が起こりますと、鈴木貫太郎もクーデターの暗殺対象となります。

 夜半に陸軍の将校たちに自宅に踏み込まれ、何発もの銃弾をあびます。最後にとどめをさすというところで、タカさんが銃を持った将校の前に立ちはだかり、とどめをさすことは止めてくれと制します。これによって鈴木貫太郎は九死に一生を得るのですが、このことが後の日本の運命に大きく関係してくると、先ほどの上田氏は述べています。

 昭和に入って、日本の政治は軍部が大きな力を持ってきます。やがて満州事変を経て、あの太平洋戦争に突入していくわけです。天皇は陸海軍の大元帥という立場でありますから、この戦争に対する全責任を負っていることは間違いのないことですが、今はそのことに触れると話がそれてしまいますので割愛します。私は天皇制については必ずしも賛成ではありませんが、ただ昭和天皇個人については、善良な方であったことを疑うことはできません。太平洋戦争のときも、天皇自身は戦争に反対のようであったことが文献を読むといろいろと出てきます。それはともかく、最初は破竹の勢いだった日本軍も次第に連合軍に押され、戦況は悪化の一途をたどります。そして昭和20年、ついに天皇はこれ以上戦争を続けることはできないと決意しますが、しかし敗戦のための責務を負う者が誰もいなかったわけです。そこで天皇は、すでに第一線を引退していた79歳の鈴木貫太郎を呼んで、その役目を依頼します。ひたすら辞退する鈴木に天皇は「もう頼みになるのはお前しかいない」と言うのです。その一言で鈴木は大役を引き受け、鈴木貫太郎内閣が誕生します。しかし事態は決して楽ではありませんでした。陸軍は最後まで徹底抗戦を主張して譲らず、海軍出身の鈴木貫太郎は生命の危険をおかしてまで、敗戦・和平の道にむけて努力を続けました。そしてようやく天皇を長とする御前会議の席で無条件降伏を受け入れることを決定することができたのです。

 このことについて、上田氏は次のように述べています。 「タカさんがいなかったら、2.26事件で鈴木貫太郎は亡くなっていたでしょう。そうであれば、今日の日本はどんな姿になっていたでしょうか。歴史の不思議を思わないではいられません」

 話はもう少し続きます。 敗戦後、連合国最高司令官としてダグラス・マッカーサーが日本にやってきます。実質的な新たな日本の支配者です。天皇よりも立場は上です。敗戦後の日本をどうするのかは、ただこのマッカーサーの思いひとつにかかっていたと言っても過言ではありませんでした。昭和20年9月27日の朝、天皇はこのマッカーサーのもとに非公式で赴きました。当初、マッカーサーはこの訪問に対して冷淡でした。天皇の車がGHQに到着したときも、出迎えたのは二人の副官だけでした。そして実際、この訪問を機会に捕えられ、裁判にかけられて、処刑されるということも十分考えられる状況だったようです。

 この日の会談の内容は公式には明らかになっていません。しかし、後の回顧録の中でマッカーサーが、会談はおおよそ次のようなものであったことを書いています。

 二人が向かい合って座ったとき、天皇の指は震えていました。最初、マッカーサーは天皇が命乞いに来たのだと思っていました。しかし、その口から出た言葉はマッカーサーの予想を越えたものでした。

 天皇は言いました。「私は、国民が戦争を遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。そして持っていた風呂敷包みを開けてマッカーサーに差し出したのです。それは皇室の財産目録一式でした。天皇は、自分はどうなってもよいから、この財産を使って国民が飢えることのないようにしてほしいと言ったのです。

 この天皇の言葉と態度はマッカーサーの心を根底からゆさぶりました。そして天皇が帰るときには、自ら天皇を抱きかかえるようにして玄関先まで見送ったということです。

 この会談によって、マッカーサーがどのように日本を統治するか、その政策の方向性が確定します。日本はアメリカの占領地になることを免れ、アメリカの援助のもとで国を復興する道を歩むことになります。

 このマッカーサーと天皇の会談の模様は有名で、天皇を賛美する人たちはこぞって天皇がいかに人格者であるか、天皇のおかげでいかに国民が救われたのかを強調します。

 私も、天皇制の是非は別として、昭和天皇がいかに善良な人格者であったかということには同意します。ただ、私が言いたいのは、その人格が形成される背後に何があったのか、ということに注目したいのです。一般には知られていませんし、もしかすると知っていても公にされないのかも知れませんが、昭和天皇の人格形成の背後には、聖書を土台とし、キリスト教の博愛精神、自己犠牲の精神を幼少のときから教え込んだ足立タカさんの働きがあったということ、私はそのことに神さまの計画を強く感じるのであります。

 ちなみに昭和天皇は、第一次教育使節団・団長として来日した、イリノイ大学総長ジョージ・ストダートを通して、敬虔なクリスチャンであったエリザベス・グレイ・バイニング夫人を皇太子、つまり今の天皇の家庭教師として招聘しました。おそらく自分が受けたキリスト教に基づく教育を自分の息子にも受けさせたいという思いがどこかにあったのだと私は思います。

 このバイニング婦人はフレンド派、クエーカー教徒ともよばれる教派に属しています。余談になりますが、ジャーナリストの高橋紘(ひろし)氏は、このことについて次のように書いています。

 「バイニング婦人の属する教団はフレンズ派とも呼ばれ、17世紀に英国で興った。制度や信条を持たず、抑圧されている人間を解放すること、非暴力主義で戦争を避け、平和な世界を創造するために自己を犠牲にすることをいわない人たちである。バイニングの来日は1946年10月15日だが、クエーカー派のこうした教えは、その直後に公布された「新憲法」の平和主義、戦争放棄とも合致している。クエーカーの精神が憲法に入ったと断言する根拠はないが、GHQの要人や、彼らと交友のある日本人の中に、クエーカー派の人がおり、また理解を示す人が少なくなかった」

 ある意味で、足立元太郎の信仰は娘のタカさんを通して昭和天皇に伝えられ、ひいては今の平和憲法の制定にまで影響を及ぼしているとも言えるのではないでしょうか。

 長くなりましたが、こうして振り返って見ると、神さまが足立元太郎という一人の青年の魂をとらえ、神さまのご計画の中で用いられたとき、それは単なる個人的な信仰にとどまらず、現在の私たち全てに大きな影響を与えていることがわかります。

 歴史には「もしも」という言葉は当てはまらないと言われますが、もし、足立元太郎青年が札幌農学校で信仰を持たなかったら、足立タカさんも聖書やキリストのことは知らず、従って昭和天皇の人格形成も違ったものになったでしょうし、タカさんが鈴木貫太郎と結婚することもなかったかも知れない。そうなれば終戦の日時はもっと伸びて、その間に広島、長崎に次いで更に多くの都市に原爆が落とされ、犠牲者の数はもっと増していたかも知れない。そして日本はアメリカの植民地となり、今のような繁栄はなかったかも知れません。これを歴史の偶然として片付けることもできるでしょうが、私にはそのような偶然をはるかに越えた神さまの計画、摂理が脈々と流れていることを感じるのです。

 今、アドベントのときを迎えるにあたって、私たちは今一度、この世界を造り、歴史を支配され、導いておられる神さまに目を向け、深い信頼をもって神さまの約束されたご計画と救いの成就を信じながらクリスマスを待ち望み、私たちの全生涯をアドベントの時として、祈りながら日々の生活に励んでいきたいと、そう願うものであります。

 祈りましょう。

 天の父なる御神様。
 あなたによって私たちは、あなたの前に罪赦され、神の子とされ、そして、あなたの聖なるご計画に参与する者とされた光栄を感謝いたします。
私たちの世界は、あなたの前に罪に満ち、汚れに満ち、暗闇に満ちております。でも、主よ。あなたはそのような私たちの暗い現実の中に、御子イエス・キリストをお送り下さり、この世界に希望の光を灯してくださいました。そして、そのことが、決してあなたの気まぐれや思いつきで起こったことではなくて、旧約の昔からの、人間が罪に陥った時からの、ご計画であったことを覚えて深く感謝いたします。
どうぞ主よ。今、アドベントの時を迎えた私たち一人一人の魂に聖霊の力をもって働きかけ、一人一人に新たなる命と力を与え、そしてあなたの聖なるご計画に参与する自覚を与えてください。
一人一人の力は弱く見えますけれど、あなたのご計画の中で私たちの信仰が用いられるとき、まことに私たちの想像をはるかに越えた大きな働きがなされることを知らされました。どうぞ、足立元太郎さんのように、足立タカさんのように、私たちも用いてください。
クリスマスを単なるお祭りの日として待ち望むのではなく、まことに、あなたの永遠の救いのご計画が、私たちの世界に到来した日として、その深い意味を思いながら待ち望む者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。




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