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※七代皇帝武帝の時期には漢の国力も充実し対外的に領土を拡張しました。西方においては張騫の遠征を機にシル
クロードの開拓が行われ アムール川中流域の大月氏 隣接したバクトリア(大夏)との交易のためにギリシャ文字を 使用した貨幣を発行しました。しかしあいつぐ大規模遠征 土木工事などで財政が困難となり結局シルクロードによる 国家主導の貿易は行われずインフラ整備のみに終わりました。この時期から武帝は財政の補填を国外から国内に方 向を転換いたします。その方法は郡国より貨幣という形で財源を搾り取るというもの すなわち重さ四銖に満たない半 両銭を改鋳させ重さ五銖の貨幣を製作させるというものでした。また額面の五銖に関してなのですが私は次のように推 測しております。すなわち漢書の「律暦志」では量(かさ)や長さの単位が十進法に整理されていた為、一般的な数の概 念も同様ではなかったかと思われます。しかしこの時代までの貨幣の単位は半両銭に代表される様に十二進法あるい は二進法をとった貨幣が殆どであった為(詳しくは古文銭面文解読の手引きを参照)試鋳貨的意味合いで三銖銭が製 作されましたが 度量衡の統一と言う意味で十進法に対応する「五」という額面を持つ貨幣が必要不可欠となってきた ため五銖銭が発行されたのではないかというわけです。ここいら辺は異論があると思います。また このページに限っ てかなりの私見を述べさせていただきました。ご意見お持ちしております。
※外文鉛餅に書かれている銘文に関しては諸説があります。学者(O.Maenchen-Helhen)によると、
BAΣIΛEΩΣ(王) BAΣIΛEΩN(王の) APΣAKOV(アルサスケの) EIIIΦANOVΣ(現人神の または権現、
顕現、顕赫) ΦIΛEΛΛHNΣ(ギリシャを愛す)
と解読されており、すなわちこれはパルチアのコインに書かれた銘文とほぼ同じという説ですが、私にはどう読んでも上
述の様には読めませんでした。御意見をお待ちしております。
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※五銖銭より従来の貨幣には存在しなかった背内郭が設けられるようになります。理由は盗銅の防止です。下の写真
は盗銅後の半両銭 背を鑿のような器具で削り取られた様な痕跡があります。結果として背に郭らしき模様が浮き上 がっております。この様な貨幣は単独で使用される時には見分けがつくのですが何百枚も紐に通された状態 いわゆ るサシで使用された場合選別排除が困難となるため この手の盗銅貨幣の予防には背内郭を持ち肉部が薄い貨幣の 新発行が有効であると考えられます。五銖銭の形態は前述の条件に合致しており実際の盗銅の防止には効果があっ たと思われ、以降の穴銭はこのスタイルを踏襲していくこととなります。
※かつては郡国五銖を「毛刺銭」と称しておりました。これは漢書食貨志に「郡国にて五銖銭を鋳、其の質に周郭
し、銅屑を磨手するを得可からざらしめん。」という一節がありまして、これを群国にて生産された五銖銭の外郭仕 上げを禁止したと解釈したために 未仕上げ状態で鋳バリがささくれている状態からつけられた名称ではないかと思わ れます。1968年河北満城漢墓(劉勝墓)より大量の仕上げ済み郡国五銖が発掘されたことにより 未仕上げ品を全て 郡国五銖として分類する考え方は否定されつつありますが、鋳放し状態で発掘された五銖銭の中には下の品のように 初期型五銖銭を思わせる特徴を持つ品がかなりの割合で含まれておりまして 現状においては「鋳放しの五銖銭の中 には郡国五銖が比較的多く存在する」という見解で良いのではないかと思います。
※下の品は初期型の特徴を持っている鋳放し状の五銖銭です。すなわち書体は武帝三官五銖に非常に近いが古朴な
印象をうけます。内外郭が細郭で不慣れな感じです。これは当時の銭工が背の製作に慣れていなかったからではない でしょうか?実際 中国では五銖銭から初めて背に郭がつくようになります。
外郭厚は1.8mmほどで これも一般的な赤側五銖(2.4mm前後)に比べると薄いのですが肉厚が1.1mmほどあり
これは逆に赤側五銖銭より若干ですが厚いです。仕上げ後の予想銭径は2.6cm強 重さ4g強となると思いますの で、劉勝墓から多数発掘された郡国五銖銭の平均値とほぼ近値となります。
帝三官五銖にかけて散見され 拓のみでの判定が非常に困難となっております。
※下の品は一見赤側五銖に似ておりますがやや薄手です。製作 金質は赤側五銖と酷似しておりまして同じ流れを持
つ銭工の作と推測される為、郡国五銖製作時期(前118〜113)の官鋳品でないかと思います。
ここでは 初期型五銖銭の分類を製作の違いにより初期型五銖官鋳(関譜;三銖手五銖官鋳)⇒赤側五銖⇒
武帝三官五銖と 初期型五銖郡国鋳(三銖手五銖郡国鋳)⇒前113年廃止の二系統があると仮定しております。
※下の品は製作が赤側五銖銭に代表される官鋳品とは異なっており 五字が長字で広穿です。同様の面文を持つ銭
范が陝西省澄城跡より出土しており 時代が郡国五銖鋳期であることから官鋳ではないかと推測される品ですが、
劉勝墓の後室から金餅と同時出土した五銖銭がこの面文に近いものである事より赤側五銖とする説もあります。
※以下のように銭径が2.7cm前後の品も存在しますが数は少ないです。
而して公卿請ふらく 京師をして鍾官の赤側を鋳しめ一を五に当てん。」という記述があります。おそらくこれから
「赤側五銖」の名称がつけられたのだと思います。ここに記述されている「京師」とはすなわち鍾官を指しておりますが
この職業はもともと宮廷の青銅器等の製造をしていた職業と思われるため 銭工のトップに違う職業集団を置くことに
より前時代と比べてはるかに精緻な銭貨を製造することが出来たのではないかと私は考えております。
郡国五銖五枚を赤側銭一枚と等価とし 税金とか官用の支払いを赤側銭と規定してしまった為に民衆の反感をかい鋳
造期間は短かった為現存数は少ないと考えられます。余談ですが「赤側」という語句は赤い側面を指しているのではな く 「ほのかに赤い」という色調を表現しているという説があります。この説から類推すると「赤側」とは鍾官の扱っている 各種金属のうち「ほのかに赤い品」 すなわち「銅」そのものを指しているのかもしれません。ただしこんなこと言ってい るのは私だけです。ごめんなさい。
1968年河北満城漢墓(劉勝墓)の発掘調査により 従来赤側五銖銭として店頭で販売していた品がほとんど郡国五銖
であるという研究報告(秦漢銭幣研究)もありますが、この項では従来通り外郭が極細縁で仕上げが真円に近く 厚み (2.3mm前後)及び肉と外郭との立ちあがりのシャープさ 銭径(2.5cm)を判別の基準としました。理由は旧分類 を改正するほどの資料がいまだに発見されていないこと また 当時税金とか官用などの多額の支払いをするにあた って一枚一枚バラバラな状態で収めたのではなく 紐に通された状態 いわゆるサシを使用したのではないかと推測さ れるため(これは先に記述した半両の盗銅状態からもわかります)選定にあたって重要なのは輪側と銭径であって面 文の微妙な差異は重要ではなかったのではないかと考えられるからです。
実際 現代の感覚からすると 一見平凡なこのような輪側仕上げはこの時代においてはまさに画期的で この仕上げ
は少なくとも赤側五銖が具備すべき条件である「一見して判別できる」という要素の一つに当てはまるのではないかと 思います。 ![]() あることがわかります。私見ですが時代的な流れから前者を初期型 後者を後期型と分類しました。
※史記平準書に「赤側銭賤し。民 法を巧にして之を用ふ。便ならず。又た廃す。是に於いて悉く郡国に禁じて銭を鋳
ることを無からしめ、専ら上林の三官をして鋳しむ。」というくだりがありましてこの記述より三官五銖と呼びます。
三官とは鍾官 弁銅 均輸を指しまして 鍾官とは銅器や銭の製造を掌る役所 弁銅は銅の類別整理を掌り 均輸は
地方より銅を買い入れて鍾官に輸送するのを掌る役所で共に長安の西方にあった漢の庭苑である上林苑にあったと いわれております。また郡国五銖及び銅材を三官に運んだという記録もありまして 郡国五銖の相当数が三官五銖に 改鋳されたため郡国五銖の存在数が少ないとも言えるわけで 五銖銭は発行当初からかなりの枚数が実際に流通し ていたものと考えられます。サイズは下の標本のとおり2.55×0.20cm程度で非常に安定しており 五の文字の 縦線は直線的に引かれておりまして特徴的です。なお金石文の五も直線的でこの書体は隋代の五銖銭に至るまで引 き継がれていきます。
※中期〜後期銭は薄手となり外郭に厚みが出てまいります。背内郭は含円郭の品は無くなり細郭で郡国の品と比べて
しっかりとした直線で鋳出されております。また背の形成は浅くなり特徴的です。
※武帝の即位期間に行われた大規模遠征や土木工事のため昭帝(B,C87〜74)即位時〜宣帝前期にかけて国家財
政は困窮し これを切り抜けるために増税 貨幣の改変 塩・鉄・酒の専売 均輸法 平準法などの財政政策がとられ ました。この時期に製作されたと思われる泥範が陝西省博物館に存在しております。この銭範から推測される銭径は 2.3cm弱の小型 面文は五字の中心に1mmほどの縦線が入り特徴的です。また同時期に製作されたと思われる 銭範が他にも数点発掘されておりますが前時代の五銖銭とほとんど同じ面文でここでは省略させていただきました。
下の品は面文の五字が昭帝五銖に近いが銭径が大きすぎるため確定できない品です。参考程度にご覧ください。
下の品は五中の縦線がさらに顕著に出ている品です。上の品に比べて全体的なつくりは先述の「初期型五銖官鋳」
の品に近いです。
※下の品のような面文を持つ五銖は 郡国〜武帝三官五銖にかけてのそれぞれの出土品に散見されます。こ
のためこの様な中間品を拓本のみで分類するのは非常に困難で、サイズ 製作 金質等などを考慮に入れ総 合的な判断が必要となりますが、宣帝三官五銖後期以前の五銖銭の選別の指針となるべき資料が不足してお り確実な分類が難しいというのが現状です。専門家の方々がんばってください。応援しております。
※宣帝五銖後期に関して類推できるような資料は現在の所発見されておりません。しかし五の書体は特徴的で 以前
の三官五銖と比べて縦線が曲線状となり、横線が書体より はみ出し気味となります。五字の縦:横の比率はおおよそ 10:5です。背郭は武帝三官五銖に比べて深くなり しっかりとした直線で鋳出されております。
※元帝期以降の三官五銖は手持ちの資料で「秦漢銭幣研究」に数点の拓本があるのみで、到底論ずるに値する知識
はないのですが たまたま手持ちに拓本と近いものがありましたので掲載させていただきました。
下の品は従来 後漢五銖濶縁として紹介されていたものです。書体そのものは後漢五銖そのものですが濶縁となって
いる分だけ小字となっており、厚みが比較的あり後漢五銖と比べて重量があります。背郭が細郭で直線的に整ってお ります。通常 後漢五銖の背郭は中郭で反郭あるいは四決気味となります。
※えん環五銖はご覧の通り通常の五銖銭の中をくりぬいたものです。五銖銭の通常品との同時出土が無いという報告
もあり あるいは冥銭の一種かもしれません。
※沈朗五銖という呼び名がありましたが 中国においてこの品は東晋孝元帝時の五銖銭を指し全くの別物であります。
また王莽銭の一種であるという説もありますが、近年 前漢時代の墳墓からの出土例がありこれも否定されました。さ
らに埋葬銭の一種という説もありますが、造りの精密さ(一般的に冥器としての埋葬銭は造りが雑な物が多い) 出土 数の多さより実際流通していた物ではないかと私は考えております。重さが一銖の五銖銭が小五銖 赤側五銖一枚が 郡国五銖五枚相当であるので 仮に小五銖を官鋳とすると小五銖と郡国五銖が等価となるためこの貨幣の発行により 銅資源を節約しつつ経済の混乱を防ぎ なおかつ当時の最先端の鋳造技術を用いた極小銭を発行することにより 盗 銅による貨幣の劣化及び私鋳銭の横行を阻止する意味合いがあったのではないかと考えられます。
つまりこの手の貨幣を発行するタイミングとしては武帝三官五銖の製造前後が最も有効的なため小五銖銭の発行年
代もそのぐらいまで遡れるのでは?と私は考えております。
※読んで字のごとく後漢(東漢)時代(AD25〜220)に発行された五銖銭を指します。サイズ的には2.6×0.16cm
内外(剪輪銭を除く)で統一されていた様で、面文のバリエーションが非常に多いです。前漢五銖の後鋳との判別が難 しいですがこの場合も五字が決め手となります。五の字の縦線が曲線となるのは宣帝五銖と変わりませんがこの場合 もう少しゆったりとした曲線となり、横線は書体からほとんどはみださなくなり、五の字の縦:横の比率はおよそ10:6と なります。元帝五銖が非常に似た五字を持ちますが後漢五銖のほうがサイズが大きくなります。面決文が無くなりまた 面半星は穿上には出現しなくなりなる代わりに面には記文 背郭が広郭 反郭気味となります。またこの銭種には肉 厚が1.0mm 重さ3.0g以上の前期型と肉厚0.5mm 重さ2.5g以下の後期型の品が存在いたします。
※で 漢が滅亡して三国時代の幕開けとなります。「平當五銖」の例の様にこの時代に入ってからも 後漢五銖
タイプの五銖銭の製造はあいかわらず続けられていた様です。
※南北朝時代の五銖銭は一部の五銖銭を除いて素材 製造技術とも漢時代のものと比べて身劣りします。
また鉄銭も数多く製造されました。
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