なぜ、生きてるのだろう? 
一人づつ少しづつ違うけれど人で生きられるのを喜ぼう!

                                          平野高壱

 この命題は、多くの人が正式に教えて貰ってはいないか、また別段、学ぶことではないとも思いますが、皆さんはもう、達観されておられるでしょうか?
 死ぬことは皆、全員にやって来るであろうことは分かりますが、生きるって何だろうという疑問が湧く状況に出会う人がいることも事実であると思います。そこで、誠に僭越ながら、真剣に考えてみたいと思うのです。おそらく、完璧で簡単な答えは身近には無いのかもしれません。でも少しぐらい、この問いに、近づくことが出来たならば、少しはお役に立てるのかな?と、いう気持ちです。軽く読み飛ばし召され乞う!
  
 先ごろ、若い人たちの十五歳から三十四歳迄の年齢層での自殺率は、世界の中で日本は群を抜き、一位であると知って大いに気になりました。これは日本の話ですが、先進国では事故死が一位となっているようです。

 今、日本は出生率さえ下がっている中で、社会の中には若者に何故、生から死を選ばせる動機醸成の雰囲気が出来てしまうのか、これが問題だと思います。まず、世界有数の先進国でありながら、それに見合った幸福感をつかめない、精神環境の悪化という欠陥が浮かんで参ります。
 それらを窺い知り、突き抜ける一つの生き方、考え方を書いてみたいと思います。

 そこで、若い人は何を目標に生き続けるのか、目前の不安な未来というか、私たち大人たちも、その将来をはっきり見通せない中で、自分の子供に、確固たる基盤の生きる目標や意味を教える機会を失っているのではと考えるのです。そういう方が少なくはないと思います。

 なぜ、この単純な問い;「正鵠・いかに生きるか」は、伝えにくいのでしょうか!学校で学べないのなら家庭で、いの一番(幼児期から)に、徹底的に伝えていくべきものと信じます。人の親として我が子には生まれてすぐにでも、教え込んでいく必要があります。なぜ生きるか、どう生きたらいいのかをです。厳しくも、めげずに希望を追わせるための、生命力の根本なのだと思います。
 子は生まれてすぐ、活発な細胞分裂を開始します。二兆個から六十兆個超への冒険の旅はすぐ始まります。もう目が見える前から語りかけていきましょう。
 赤ちゃん言葉で、教える余裕時間はないと思います。両親の普段の愛の言葉を聞かせ、美しい音楽やお伽話しを聞かせ、また親が好む旅に同行させましょう。自分たち以上の人になってもらうのが親の望みであれば、より早くより多く親の体験を伝えるのです。当然、失敗談さえ有効であり、子は早くから善悪さえ判断できるようになり、英知と心の鍛錬をさせ、精神を磨かせるのです。 
 三歳までに、それをしなかった他の人の子たちとは、大きな隔たりが出るのは明らかです。こうした努力を怠らなければ、この日本の子は、未来に大きく羽ばたき、国家の礎ともなれるはずです。
 さて、今からでは遅いと考えるのは早計です。いかに生きるかとは誰でも、いつでも極めることが可能です。この本文の最後に、決定的なアイデアをお話しします。それまで、もう少しだけお付き合い下さい。人の原点である乳幼児期からも少し書かせて頂いております。
 
 今は、ネットや新聞、書籍、テレビ等で、余りにも多くの善悪混濁の生き様が眼前に示される中に、子供は、また大人に至っても、その理解を得るためには考えを巡らせ悩み、脳髄に回答を収めていくのだと思いますが、その問題用紙という大枠的命題の明示の形式と、単純に例えられませんが、その一枚の謎めいた問題用紙の提示を、どう子供に指し示すかの責任を、親たちは果たしているのかに掛かっていると思います。
 解答用紙というべき、白紙画板の話し合いの場面はいつもあるのに、つい避けてしまう自分自身への不信を払拭することができれば可能であるはずです。 
 ある程度、狭い適切な想定や現実を織り交ぜ、白画板に幾つか提示して、一つ一つの長所や面白さや辛さや、やり遂げた時の嬉しさを、自分が味わってきた全体験に通して、語って聞かせる時間を、幼少の頃から、充分に子に割いてあげるのは親たちの当然の義務だと思うのです。
 親でも悩む問題を、子供に任せっ放しというのは、余りにも重大な責任の放棄なのではないでしょうか。
 自分は難しくて判らなくても、まず相談を受ける。これは重要な親の義務ではないでしょうか。全霊をかけて問題に取り組む姿勢を、まず見せるという形から、遺伝子分裂が最大速度の、心身の成長最前線に置かれている子供は、容易に悟るはずです。

 また、全てではないですが、いずれ、子供たちはたとえ男子でも、家を出て行くのが今の時代の趨勢となってしまいました。これは親元を離れるのは良くないのではなくて、当然、放っておけば、至極当り前のことと考えられます。一旦、家を離れれば、予想に反してという事態になることも、親はいずれ受け入れねばなりません。後の祭りとは、ここに始まるのかもしれません。 
 本来、人間はそうであってはならないと思いますが、人は疑心暗鬼で人離れというか、プライバシー保護とかいう後ろ向き的な主張のし過ぎが、動物的な排他性と、手前勝手な理屈で、利己的に自分のみ、また最小単位家族として囲いこもうと、社会性を軽視する方向に向かっていくように思えてなりません。
 お互い神聖であるべき人間性を認識せず、人間を軽視また無視して、野生動物のように単種存続本能だけで意思疎通を拒否し、弱肉強食の争いの世界にでも、戻っていこうとするのでしょうか。

 当然、その個人は、孤立感を進め、社会伝統を拒否、あるいは個人主義を標榜して、子にも自由に生きろと簡単に突き放して、無責任にも野生的隔離生活を好むように仕向けているのではないかと危惧するのです。そうであれば、子は無分別に、好き勝手な生き方や無法さえ許されるものと容易に判断し、そのまま成長してしまいます。
 前述の、若い自殺者は、まず家族との深いコミュニケーションが弱まり、家庭内で孤独に陥り、外での心身両面の対外摩擦についての癒し保全がされないまま放置されることで、自分を失っていきかねません。己はいつも、人に関心をもたれていると思うからこそ、自分の責任を身の旗と立てて、誰でも生きていけるのです。
 縁の家族の繋がりをおろそかにすれば、家族同士の存在意義はそこには無く、逆に不測の絶望感や、無法状態が生み出されていくのは否定できないのではないでしょうか。

 そういう、律を確立しない家族の蔓延で、社会コミュニティが失われていく過程では、生きる場が、どこにも見つけられずに、安直な判断を下してしまう人間を生み出していくように見受けられるのです。
 決して、大部分の周りの人間たちは、そのつもりは無くても、プライバシーを守ってやろうとか、温かい目で見過ぎてしまい、そのコミュの出来ない人間たちを面倒だとして、図らずも、遠くへ追いやってしまうのでしょう。

 もっと簡単に、伝統やら生き様を教えるのには、家族の中で親が真剣に子供と共に、社会生活を送っていく姿を、そのまま見せるだけでいいのであって、決して難しくはないと私は思います。

 どんな場合でも、元々の問題の責任者は必ず居て、それは身近には親たちなのであることは間違いはないでしょう。これは遡って、またその彼らの、親たちであることも真実だと思います。
 そうすると、どんどん遡れば、責任は古代人にまで行き着き、その全責任はあのアダムとイブに行き着くかもしれません。計算的に倍々で、例えば三十代前に戻ってみれば、だれにも、実質五億人以上の親親親達が確実に存在します。計算してみてください。たった30回の倍々増しで5億人超えです。
 それはさておき、事件や過失責任はいつの日にか、始末をつけねばなりません。そしていつも、どの時代でも、その責任は正鵠で取られ続けてきています。社会と共に生きてゆく人間は当然、そのことについては知っているべきであり、その責任は、その親にもあることは絶対無謬の事実です。

 それらを果たしていなかった親たちが今、全ての悪辣非道残虐な問題の鍵を握っていると、言ってしまっても言い過ぎではないのではないでしょうか。
 人間の精神基幹部分は、この日本の社会内で、自然に培われてきているはずという前提は間違いです。律を教えない限り、人は動物と同様の精神性しか持てません。言葉も品性も羞恥心も、周りの人を真似て取り入れていきます。律を課されて、その自分の旗が出来上がってさえいれば、孤独の中で、死と隣り合せで悲しくも人が、この世から非業に去っていくことも、せっかく生まれてきても無知なるがゆえに、周囲の情けを裏切り、世の中の秩序を乱し、生まれるべきではなかった人間に落ちたなどと、烙印が押されるようなことには、まずならないと思いますが、如何でしょうか。

 今、生きている親の責任は須らく未来へ通じていて、更に続いてゆきます。その子供も、その親の子として、親が蒔いた結果でもあるけれど、子として、理を解し責任を取らざるを得ず、親の責任を減ずるという、縁の義務が生じていくと確信します。理屈ではなく細胞の連鎖です。
 ただし、この責任が果たせたとき、縁の親を救ったという感慨は直ぐには湧かないかもしれませんが、同時に、親自体が負ってきた先祖の責任も連鎖で晴れて、親は子に対し、時空を超えて、大きな感謝を伝えられずにはいられないでしょう。
 こうして全ての縁の先祖の責任を清算したことになるものと、固く信じるのです。
 なぜならば、今、ここにいる本人こそが、過去連綿と続く歴史の結果なのですから。
 現在、生きている全ての今人(地球人)は歴史結果の存在であり、縁戚最後の統括をしている最終責任者でもあります。
 今人こそ、全ての過去の問題を解決できる機会を持った人間だと信じて疑いません。
 それこそが「リセット」・・・・・正しくやり直し、生まれ代わる瞬間です。
 
 遠い昔の登場人物が善悪に関わらず、多かれ少なかれ、敬われている事実は、日本人がこの法則を心得ているからであろうと私は信じたいのです。
 それでは、「なぜ生きてるのだろう」を、ごく簡単に表現してみました。


生き物はみんな
目の前に次々と発生する問題を解いていくために生きている

お腹が減った、悔しい思いをしている、いい学校に入りたい、いい伴侶に巡り合いたい、あれが欲しい、旅に行きたい、外国語を喋れるようになりたい、出世したい、事故を起こした、嫌いな人間がいる、お化けが怖い、喧嘩した、癌になった、責任を負わされた・・・引っ切りなしに、問題は起き続け、赤ん坊でさえ、問題解決のため泣きます。諸動物でも同じ思いだと思います。これで、自動で生きていけるのだと思います。これ以上の言葉は不要と思われます。
 生きている限り毎日、問題が降りかかってきますが、これを乗り切っているとき、それで良しと思えたとき、生きていることを意識せずとも感じられる充実感が、この問いを無用としてくれるのではないでしょうか!
 年をとって、老いさらばえても、ご飯を食べれば、生き返る思いはするはず。食欲も問題解決の生きる手段です。問題解決行動→生きる意味となります。この逆も真でありましょう。
 そして最後に、問題提起が起きなくなった時は、死の訪れという命の返納期が来ているのではないでしょうか。

最後に
 前編出稿の「人間はいかに死ぬのか」二編を、改めて考えたとき、もっと大切な問題として考えねばならないことを、生死両輪で回っている主題の“生とは何か”を、ぜひ根本で表現してみたくなり書き連ねてしまいました。
 自他共に、大切な命を、生涯慈しんで、見つめ、育んで頂くことを願ってやみません。ありがとうございました。                     以上

  平成2757日 (同年8/6、緑文字追加)                   

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