Cools Story   [バックグラウンドサウンド]シンデレラ・リバティー 

  クールスが '75年にデビューする3年前、大阪のロッ

  ク・シーンから “スウィート・ホーム大阪” という曲で「ファニー・カンパニー」がデビューし、その翌年の

  1月には “ルイジアナ” で「キャロル」が衝撃的なデビューを果たしている。この2つのバンドは日本全

  土の若いロック・ファンに支持され“西のファニカン東のキャロル”と呼ばれ、それまでアンダー・グラウ

  ンド的だった日本のロック・シーンを陽の当たる場所に押し上げた。 しかし '75年にキャロルが解散、

  ファニー・カンパニーもその後、解散。

   矢沢永吉、桑名正博はソロになったり、新たなバンドを結成したりと、それぞれ独自の活動に乗り出

  し、オールド・スタイルのロックン・ロールは時と共に消えるかに思えた−−−だが……。

 

  ★ハーレーに皮ジャン、そしてロックン・ロール!

   '75年4月、日比谷野音での“キャロル・ラスト・コンサート”に於いてバック・アップを務めた単車チーム

  クールスが、その年の9月にキング・レコードからロックン・ロール・バンド「クールス」としてデビューする。

   巷ではクールスをキャロルの延長線上にあるグループとして捉える向きもあるが、実際にはそうとも言

  えない。 メンバー間の個人的接触はあったにせよ、求める音楽的スタイルは別なところにある。

  周知のとおり、キャロルは“リバプール・サウンド”(特にビートルズ)に端を発している。 クールスはと言

  えば、オールド・アメリカン・スタイルのロックン・ロールにそのルーツを観ることができる。(勿論、抜本的

  に言えばそのルーツは双方とも同じところに行きつく、がしかしそれは全てのロック・バンドに共通してい

  る事柄である。) しかし、クールス自体が音楽面での評価を受けることは極めて少なく、評論家やマスコ

  ミ、社会、そしてファンたちの興味は彼ら、クールスのファッション的スタイル、要するにオートバイや皮ジ

  ャンそれに加え素行の悪さに注がれていった。 メジャーに押し上げられたはずのロックン・ロールはクー

  ルスによって、再び社会の端へと追いやられてしまった。 しかし考えてみればロックン・ロールとは常に

  そういったもので良いのかも知れない。 社会の批判をよそに、熱狂的な若いファンたちがまるで雑草の

  ように日本全土にはびこってゆく。そして少しずつクールスの音楽を理解し自分たちの身体の内側にロッ

  ク・スピリッツを育てて行ったクールス、そしてそのファンたちのパワーは少なくとも日本のロック・シーンを

  揺るがしたことは確かである。 ロックン・ロールは常に社会から疎外され、そしてそのたびごとに大きく成

  長している。

    クールスのレコード・デビューは '75年9月21日、シングル「紫のハイウェイ」そしてLP「黒のロックンロー

  ル」の同時リリースである。このファースト・アルバムにはスタッフとして、近田春夫、ジョニー大倉、五大洋

  光(矢沢永吉)の面々が参加している。

          だが、クールスとしての真骨頂を見るには至っておらず、言うなら

  ばクールスという新しいバンドについてメンバー自身も、またスタッフ側も把握しきれていなかったのかも知

  れない。  もし仮にだが、クールスとして本当の意味でのファースト・アルバムは?と問うならば、迷わずセ

  カンド・アルバムの「ロックン・ロール・エンジェルス」だ、と答えることができるだろう。

                          このセカンド・アルバ

  ムにはプロデューサーとして大木トオルが迎えられており、このLPを通してクールスの可能性がうかがえる。

    特に村山一海のファルセットリードの名曲「ミスター・ハーレー・ダビッドソン」やカヴァーではあるがジェー

  ムス藤木の「ロング・トール・サリー」にその端を見ることができる。 また東映映画「暴力教室」や「男組」に

  出演したのもこの頃のことだ。   「R&Rエンジェルス」の後に中野サンプラザでのライブ「クールス・ファー

  スト・ライブ」を発売。    クールスは最初のレコード会社キングから4枚のLPと3枚のシングルを発表し、

  アメリカン・オールド・スタイルのロックン・ロール・バンドとして定着してゆく。

  リーダーのたちひろしは '77年4月にリリースした2枚組「ハロー・グッドバイ」を最後にクールスを抜けてゆく。

  

 

  ★クールス・ロカビリー・クラブの新たな可能性

    キング・レコードからトリオ・レコードに移籍した彼らは「クールス・ロカビリー・クラブ」と改名した。 このトリ

  オ・レコードからの第1弾、「クールス・ロカビリー・クラブ」はトータル的に観て決して出来の良いものとは言い

  がたく、ここでもやはり2枚目の「BEA GOOD BOY」の方が遥かに優れていると言わざるを得ない。

    

    このLPでは「キューティー・スー」「あの娘はマタニティー」の2曲以外全てメンバーの作であり、ポップな乗り

  のロックン・ロールに加え「ひびわれたグラス」といった重厚なバラッドをも手がけ出している。 これはクールス

  がキング時代とは違った、より正確な方向性を示し出した証と言って良いだろう。

    そしてトリオ3枚目のLP「THE COOL」では、前作の延長線上の音づくりに、もうひとつ肉付けをし、より完成

  度の高いアルバムに仕上がっている。この「THE COOL」はセールス面でも最高の記録を残している。

   「THE COOL」「君の窓辺に」「恋のコールデン・リング」など、どの曲を取り上げても特筆に値するクールスの

  名盤である。  トリオ時代、 '78年頃のクールスが一番油の乗りきった時期と言えるかも知れない。・・・・・・・・

 「THE COOL」の後に日比谷野外音楽堂でのライブ「デッドヒート日比谷」を発売。

   そして、山下達郎をプロデューサーに迎えたシングル「センチメンタル・ニューヨーク」がリリースされる。・・・・ 

  また、同じ山下達郎のサウンド・プロデュースでのアメリカ録音盤「ニューヨーク・シティNY」が発表された。

    しかし、この年 '79年12月、渋谷公会堂のコンサートを最後に水口晴幸が脱退を表明。 クールスもトリオか

  らポリスター・レコードに移籍することになる。

 

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